立地と歴史
武田勝頼が甲府から移転
新府城は、過去には甲斐国と呼ばれた山梨県の西部、現在の韮崎市にありました。甲斐国は、16世紀後半までの長い間、武田氏によって支配されており、その本拠地は国の中心部の甲府にあった武田氏館でした。武田氏最後の当主となった武田勝頼は、1581年に本拠地を新府城に移す決断をしました。そして1年を置かずに移転したのです。
城の位置
この移転にはいくつかの理由がありました。最初に武田の領土が、信濃国(現在の長野県)のような西方に広がったことが挙げられます。新府城はその広がった領土の中心に当たります。次に、領土が広がったことで武田の家臣が多くなり、武田氏館と甲府は家臣達にとって狭小になってしまったこともありました。最後に、勝頼が、織田信長や徳川家康との長篠城や高天神城などにおける戦いに敗れ、西方からの脅威に晒されるようになった事情もありました。勝頼は、信長や家康からの侵攻の可能性に備えるため、より強力な城を必要としたのです。
新府城の位置と信濃国(左)及び甲斐国(右)の範囲
武田流築城術の集大成
新府城は、西方に伸びる釜無川に沿った、28kmもの長さがある七里岩と呼ばれる長大な崖の上の山上に築かれました。城の東側もまた山の急崖となっていました。城の南側には、大手門と、武田の特徴的な防御システムである大きな馬出しがありました。城の北側には、この城独特の防御システムである出構え(でがまえ)と水堀がありました。搦手門には、二重の門と内側の四角い空間があり、桝形と呼ばれました。本丸、二の丸、三の丸が階段状に設置され、城を守っていました。勝頼の御殿は頂上にあった本丸に築かれました。全般的に見て、この城は全て土造りではありますが、強い防御力を備えていました。
城周辺の起伏地図
ところが、勝頼はわずか3ヶ月の滞在の後、新府城の西にあった高遠城が信長の侵攻により落城したと聞くと、自ら城に火をかけ、そこから退去してしまいます。1582年3月のことでした。その上に、勝頼はその逃避からわずか8日後、彼の家臣の裏切りにより倒されてしまいます。なぜ勝頼は新府城から引き上げてしまったのでしょうか?
新府城と高遠城の位置関係
なぜ勝頼は城を捨てたのか
これまでよく言われていた理由は、新府城は未完成だったというのものです。例えば、大手門については発掘をしても建物の跡は見つかっていません。他に指摘されていることは、退避したとき勝頼には女性子どもを含めてもわずか数百人の軍勢しかいなかったというものです。ほとんどの家臣は逃亡してしまっていたのです。踏みとどまった重臣たちは勝頼に他の城に移るよう進言していました。例えば、真田昌幸は上野国(現在の群馬県)にある真田の岩櫃城を勧めていました。勝頼は、最終的に他の家臣からの申し出を受け入れましたが、その家臣に騙されてしまったのです。他の歴史家は、新府城は城というには値せず、大きな館であったというのが妥当とまで言っています。城にしては堀が少なすぎるそうです。その答えを知っているのは勝頼のみでしょう。
1582年6月の本能寺の変により信長もまた殺されてしまった後は、徳川家康が甲斐国を手に入れるため、再び新府城を本陣として使いました。彼は甲斐国奪取に成功し、統治のために武田氏館を使用します。そして新しい本拠地として甲府城を築き、新府城はいつしか廃城となりました。
「新府城その2」に続きます。