127.新府城 その2

武田流築城術の集大成を見学できます。

特徴

新府城跡は一般に公開されています。観光客は通常、東側から2つの山道を通って城跡に入っていきますが、両方とも現代に作られたものです。一つは山の頂上にある神社に向かう参道の石段で、とても急です。もう一つは、山の中腹を南側に回り込む緩やかな坂の歩道です。城跡を見て回るのであれば、後者の方をお勧めします。

神社に向かう参道
観光客用の歩道

迫力ある大手門と馬出し跡

歩道は三の丸の下、大手門の上のところを進んでいきます。門跡の内側から外側に歩いて行けます。門跡はまだ土塁に囲まれています。

城周辺の地図

大手門跡

門の外側には馬出しの跡が残っています。馬出しは武田独特の防御の仕組みで、門の外側に丸い形の陣地が突き出しているものです。通常は三日月形の堀が前面にあり、より防御力を増していました。また、防御側は側面から反撃に出られるようになっていました。新府城の馬出し跡はとても大きく、陣地や堀の形をはっきりと見ることができます。

馬出し部分の想像図(現地説明板より)
馬出しの丸い陣地部分
馬出しの三日月堀部分
馬出し陣地の側面部分

武田を祀っている本丸

歩道の方に戻ると、二の丸を経由して本丸に登っていきます。本丸は一番大きな曲輪で山の頂上にあり、武田勝頼の御殿がありました。発掘により、館の門の基礎と、恐らく徳川によりそれが埋められた痕跡が見つかりました。

新府城の本丸

現在この広いスペースにあるのは、勝頼を祀る新府藤武神社と長篠の戦いの戦死者を祀る霊社だけです。

新府藤武神社
神社から見る急坂の参道
長篠の戦いの戦死者を祀る霊社

本丸からは、上方には山々の、下方には釜無川の素晴らしい景色が見えます。

本丸からの景色

搦手門跡にも注目

本丸からは、城の北側部分に下って行くことができます。井戸跡と木橋跡を過ぎると、乾門と呼ばれた搦手門跡に着きます。

城北側の地図

井戸跡
木橋跡
木橋の想像図(現地説明板より)

この門は桝形形式で作られ、二つの門の建物が、四角い空間を挟んでいて、敵の攻撃を防げるようになっていました。土塁が今もその空間を囲んで残っていて、門の基礎部分も見つかっています。

搦手門跡
土塁に囲まれた桝形

「新府城その3」に続きます。
「新府城その1」に戻ります。

127.新府城 その1

謎めいた武田最後の城

立地と歴史

武田勝頼が甲府から移転

新府城は、過去には甲斐国と呼ばれた山梨県の西部、現在の韮崎市にありました。甲斐国は、16世紀後半までの長い間、武田氏によって支配されており、その本拠地は国の中心部の甲府にあった武田氏館でした。武田氏最後の当主となった武田勝頼は、1581年に本拠地を新府城に移す決断をしました。そして1年を置かずに移転したのです。

城の位置

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田氏館

この移転にはいくつかの理由がありました。最初に武田の領土が、信濃国(現在の長野県)のような西方に広がったことが挙げられます。新府城はその広がった領土の中心に当たります。次に、領土が広がったことで武田の家臣が多くなり、武田氏館と甲府は家臣達にとって狭小になってしまったこともありました。最後に、勝頼が、織田信長や徳川家康との長篠城や高天神城などにおける戦いに敗れ、西方からの脅威に晒されるようになった事情もありました。勝頼は、信長や家康からの侵攻の可能性に備えるため、より強力な城を必要としたのです。

新府城の位置と信濃国(左)及び甲斐国(右)の範囲

長篠城跡

武田流築城術の集大成

新府城は、西方に伸びる釜無川に沿った、28kmもの長さがある七里岩と呼ばれる長大な崖の上の山上に築かれました。城の東側もまた山の急崖となっていました。城の南側には、大手門と、武田の特徴的な防御システムである大きな馬出しがありました。城の北側には、この城独特の防御システムである出構え(でがまえ)と水堀がありました。搦手門には、二重の門と内側の四角い空間があり、桝形と呼ばれました。本丸、二の丸、三の丸が階段状に設置され、城を守っていました。勝頼の御殿は頂上にあった本丸に築かれました。全般的に見て、この城は全て土造りではありますが、強い防御力を備えていました。

城周辺の起伏地図

新府城の想像図(現地説明板より)

ところが、勝頼はわずか3ヶ月の滞在の後、新府城の西にあった高遠城が信長の侵攻により落城したと聞くと、自ら城に火をかけ、そこから退去してしまいます。1582年3月のことでした。その上に、勝頼はその逃避からわずか8日後、彼の家臣の裏切りにより倒されてしまいます。なぜ勝頼は新府城から引き上げてしまったのでしょうか?

新府城と高遠城の位置関係

高遠城跡

なぜ勝頼は城を捨てたのか

これまでよく言われていた理由は、新府城は未完成だったというのものです。例えば、大手門については発掘をしても建物の跡は見つかっていません。他に指摘されていることは、退避したとき勝頼には女性子どもを含めてもわずか数百人の軍勢しかいなかったというものです。ほとんどの家臣は逃亡してしまっていたのです。踏みとどまった重臣たちは勝頼に他の城に移るよう進言していました。例えば、真田昌幸は上野国(現在の群馬県)にある真田の岩櫃城を勧めていました。勝頼は、最終的に他の家臣からの申し出を受け入れましたが、その家臣に騙されてしまったのです。他の歴史家は、新府城は城というには値せず、大きな館であったというのが妥当とまで言っています。城にしては堀が少なすぎるそうです。その答えを知っているのは勝頼のみでしょう。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
岩櫃城跡

1582年6月の本能寺の変により信長もまた殺されてしまった後は、徳川家康が甲斐国を手に入れるため、再び新府城を本陣として使いました。彼は甲斐国奪取に成功し、統治のために武田氏館を使用します。そして新しい本拠地として甲府城を築き、新府城はいつしか廃城となりました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
甲府城跡

「新府城その2」に続きます。

25.甲府城 その3

もっと人気が出てよい城跡

特徴

城跡の外側の見所

復元された内松陰門と鍛冶曲輪門が丘の西麓で公道に向かって開いています。これらは城の入口のようにも見えるのですが、曲輪と曲輪をつなぐ門だったのです。それだけこの城は過去には大変大きかったのです。

城周辺の地図

復元された内松陰門
復元された鍛冶曲輪門
甲府城主要部分の模型、2つの門の位置を追記(甲府城稲荷櫓)

最後に、丘の東側面の外側を歩いて、素晴らしい高石垣をご覧になることをお勧めします。この石垣は17mの高さがあり、東日本ではもっとも高い石垣の一つです。この石の積み方は、野面積みと言われ、自然石を積み上げたものです。とても野性的に見えます。この城が築かれたときに主流だった方法でした。昔は内堀であって、石垣に沿った道路から間近に見学することができます。

東側の高石垣
高さが17mあります
道路が石垣のすぐ近くを通っています

その後

明治維新後、甲府城は廃城となり、全ての城の建物は撤去されました。城跡は勧業試験場となり、製糸場や醸造所が作られました。その後、城跡は部分的に公園になりましたが、それ以外は市街地になっていきました。城跡は最初は1968年に県の史跡に指定されました。山梨県は公園を整備し、城跡を調査し、城の建物を復元してきました。城跡は2019年についに国の史跡に指定されました。

約100年前の城跡の写真 (licensed by 江戸村のとくぞう via Wikimedia Commons)
城跡の一部は山梨県庁となりました
写真の中の塔は、1922年に建てられた謝恩碑

私の感想

甲府城は、その潜在能力に比べると有名でないかもしれません。それは人々が通常、甲府市は武田氏の遺産であると思っているからではないでしょうか。甲府城は武田の後に築かれました。しかしながら、もしこの城を訪れ、この城のことを学んだなら、この都市は明らかにこの城を基礎にして発展したことに気づくでしょう。復元された城の建物も素晴らしいですが、現存している石垣はもっと素晴らしいと思います。石垣は粗野にも見えますが、実は緻密に積まれています。そんな対比を城の至る所で見ることができます。

甲府城の石垣(中心部分)
甲府城の石垣(東側)
天守台から見た本丸

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の甲府昭和ICか甲府南ICから約15分かかります。甲府駅周辺にいくつか駐車場があります。
電車の場合は、甲府駅のすぐ近くとなります。
東京から甲府駅まで:新宿駅で特急あずさかかいじに乗り、甲府駅で降りてください。約1時間半の道のりです。

天守台から見た甲府駅
特急あずさ (licensed by MaedaAkihiko via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

甲府城、甲府市
・「よみがえる日本の城11」学研
・「日本の城改訂版第30、57号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。
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