108.鶴ヶ岡城 その2

現在、鶴ヶ岡城跡は鶴岡公園として整備されています。現地に行ってみると、他の城や城跡とは違う雰囲気を感じます。その理由の一つは、この城には元から水堀や土塁はありましたが、石垣はほとんどなく、訪れる人にのどかな印象を与えているからでしょう。

特徴、見どころ

長閑とレトロモダンな雰囲気が共存

現在、鶴ヶ岡城跡は鶴岡公園として整備されています。現地に行ってみると、他の城や城跡とは違う雰囲気を感じます。その理由の一つは、この城には元から水堀や土塁はありましたが、石垣はほとんどなく、訪れる人にのどかな印象を与えているからでしょう。

城周辺の地図

鶴岡公園

もう一つの理由は、公園の周りにモダンな歴史的建造物があるからで、そのうちのほとんどは致道博物館(ちどうはくぶつかん)にあります。この博物館は、以前城の三の丸だった所にあり、かつては領主の屋敷がありました。そのために、博物館の中には屋敷だったときから存在していたと思われる酒井氏庭園があります。この庭園は、国の名勝にも指定されています。また、現在庭園に隣接する屋敷は、9代目藩主の酒井忠発(さかいただあき)が幕末に住んでいた隠居所の一部です。他にも、明治時代に建てられた旧鶴岡警察署庁舎などの近代の歴史的建造物が、市内の各所から集められています。驚いたことに、博物館の館長は藩主酒井氏のご子孫の方で、今でも市内に住んでおられるそうです。

左側が致道博物館、右側が鶴岡公園
酒井氏庭園
現存する隠居所「御隠殿」
旧鶴岡警察署庁舎

かつてと現代の城への入口

公園の真ん中には本丸があり、二の丸が部分的にその周りを囲んでいます。公園には入口が5つありますが、その数は過去と一緒です。しかしそれぞれの外観や位置は異なっています。例えば公園の東入口は、かつては二の丸にあった大手門で、桝形によって防御されていました。しかし桝形は撤去されて、市街地になっています。その入口からは通路がまっすぐ中心部に伸びていますが、かつてはそこから回り込んで内堀を渡る中の橋を渡って、本丸南側の中の門に向かう必要がありました。

致道博物館にある城模型の大手門部分
現在の公園東入口(大手門跡)
過去には右側の大手門から手前の中の門に回り込む必要がありました、上記模型より
現在はまっすぐ中心部に入っていけます(荘内神社の参道)

一方で、現在の公園の南入口は、オリジナルの中の門に近いかもしれません。かつて中の橋を渡ったように、堀の上の橋を渡っていきます。その橋を渡ると、もう一つの美しい外観の近代歴史建造物があります。大宝館(たいほうかん)という名前で、1915年に建てられ当初は物産陳列場として使われましたが、現在ではここも歴史博物館になっています。よって、この辺りは城の時代というより、レトロモダンな雰囲気を感じるかもしれません。

上記模型の中の橋と中の門の部分
現在の公園南入口 taken by FRANK211 from photo AC
中の橋は現在の橋の近くにありました
大宝館
大宝館の場所に中の門がありました

本丸にある荘内神社と角櫓跡

公園には城の建物はありませんが、本丸には荘内神社があり、庄内藩祖の酒井忠勝など、酒井氏の4人の先祖を祀っています。神社は1877年に設立されましたが、当時は廃城となった場所に神社を建てるのが流行っていたのです。城らしいものをご覧になりたいのでしたら、本丸の北側、神社の裏手の方に行ってみて下さい。本丸を今でも囲む土塁や、天守代用となった角櫓の跡があります。

荘内神社
本丸に残る土塁
本丸角櫓跡

「鶴ヶ岡城その3」に続きます。
「鶴ヶ岡城その1」に戻ります。

108.鶴ヶ岡城 その1

庄内藩藩祖の酒井忠勝は、鶴ヶ岡城と亀ヶ岡城のどちらが本拠地として相応しいか思案しました。彼の決断は鶴ヶ岡城でした。鶴ヶ岡は政治の中心地であり、亀ヶ岡は酒田港と町を擁する商業地であると考えたのです。

立地と歴史

政治の鶴ヶ岡、商業の酒田を擁した庄内藩

山形県の庄内地域は、庄内平野の穀倉地帯にあり、そこで産するコメは庄内米として知られています。そこには鶴岡市と酒田市という2つの中核都市があります。江戸時代にこの地域が庄内藩によって治められていた時には、その役目を分かち合っていました。鶴岡は政治都市であり、酒田市は商業都市であったのです。鶴ヶ岡城は現在の鶴岡市にあって、藩の本拠地であり、藩主は酒井氏でした。

鶴岡市・酒田市の範囲と城の位置

この城はもともと大宝寺城と呼ばれていて、中世初期に地元領主の武藤氏によって最初に築かれたとされています。ただし、武藤氏が築いたいくつもの城の一つであり、まだ小規模な城でした。時が過ぎ戦国時代の16世紀後半になってくると、庄内地域は、上杉氏や最上氏のような地域外の有力戦国大名によって狙われるようになります。これらの大名がこの地域を巡って争う一方、武藤氏の勢力は衰えました。大宝寺城と、現在の酒田市にあった東禅寺城は、戦国大名たちによって度々改修されます。17世紀の初頭、徳川家康によって江戸幕府が設立されたとき、庄内地域は山形城を本拠とする最上義光の領地となっていました。彼は、大宝寺城を鶴ヶ岡城と、東禅寺城を亀ヶ岡城と改名しました。鶴と亀(と松)は日本人にとっておめでたい言葉であり、人間よりもずっと長生きすると信じられていました。義光は、東禅寺城近くの海岸で大亀が見つかったことを聞き、城の改名を行ったのです。しかし義光が亡くなった後、最上家ではお家騒動が起こり、1622年に幕府により改易となってしまいました。

長谷堂合戦図屏風に描かれた最上義光 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
山形城跡

最上氏の領地はいくつかの大名に宛がわれ、その一部であった庄内地域は酒井忠勝に与えられ、忠勝は庄内藩初代藩主となりました。彼は、徳川四天王の一人として知られる酒井忠次の孫でした。そのため酒井氏は代々将軍家の重臣となり、幕府に対する忠誠心も高かったのです。忠勝は、鶴ヶ岡城と亀ヶ岡城のどちらが本拠地として相応しいか思案しました。防御力の観点からは、亀ヶ岡城が優れていました。しかし、彼の決断は鶴ヶ岡城でした。鶴ヶ岡は政治の中心地であり、亀ヶ岡は酒田港と町を擁する商業地であると考えたのです。

酒井忠勝肖像画、致道博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もともと鶴ヶ岡城には、本丸と二の丸しかなく、土造りで簡素な館があるだけでした。そして平地にあって二重の水堀によって囲まれていました。それでは酒井氏の本拠地としては手狭であり、戦いが起こったときの防御も不足していました。よって、忠勝は城の改修を始め、外側に大きな三の丸を築いたり、城下町を整備しました。本丸には藩主のための御殿も建設されました。本丸と二の丸には都合5つの出入り口があり、徳川氏やその家臣たちがよく築いていた桝形や馬出しによって防御されていました。桝形とは門の中に設けられた四角い防御のためのスペースのことで、馬出しとは門から突き出た丸い形の小曲輪のことです。一方、城にはほとんど石垣は用いられずほぼ土造りのままであり、天守も築かれなかったので、徳川関係の他の城とは違う面もありました。本丸の角に二階建ての櫓が建てられ、天守の代用とされました。総じていうと、この城は、この地域の遺産と徳川方式の折衷のようなものと言えるでしょう。

現地説明板にある城の復元図(丸部分を付加)、赤丸内は馬出し、青丸内は桝形
同じ方角(東)から見た城の模型、致道博物館にて展示
西方向から見た上記模型の本丸部分、赤丸内は天守代用の角櫓

藩政の停滞と改革

庄内藩の初期の統治は、実は不安定でした。忠勝の年貢の取り立て方針は厳しいものでした。より多くの収益を得て、幕府に貢献しようと考えたからです。ところが、庄内地域を含む東北地方は度々冷害、干ばつ、洪水による不作に見舞われました。このような変動が起こる状況にも関わらず、藩は農民に対し、毎年同じ年貢量を納めるよう要求しました(いわゆる定免法)。その結果、多くの農民たちが逃亡したり、多額の借金を背負ったり、身売りする者も出る有り様で、地域は荒廃しました。そうした状況が18世紀後半になって、酒田の豪商、本間光丘(ほんまみつおか)によって救われました。当時は幕府の鎖国方針により、遠洋航海が禁止されていました。よって、沿岸航海が交通の主要な手段となっていたのです。酒田港は、その航路の主要な寄港地となっていて、酒田の町と商人は豊かになっていました。そのため、藩は光丘に藩の財政問題の解決を依頼したのです。光丘は莫大な運上金を納めるだけでなく、藩の財政改革の責任者にもなりました。藩も農民に対する対応を柔軟に行うようになりました。藩はまた、藩士の教育のために1805年に致道館(ちどうかん)という藩校を設立しました。状況は徐々に改善し、藩内も結束していきました。

当時の交易に使われた弁才船(千石船)の模型、致道博物館にて展示
江戸時代に使われていた「致道館」の額、致道館講堂にて展示

幕末に現れた改革の成果

改革の成果は、1840年に幕府が庄内藩に領地替えを命じ、川越藩から松平氏が転封することになった時に現れました。農民たちを含む庄内藩の人々は、幕府の決定に対する反対運動を起こしました。彼らは、酒井の殿様と一緒にいたいと幕府に訴えたのです。実際にはこの運動は、移動したくない一部の武士たちが、次に来る殿様は非常にきびしいぞとけしかけたことで始まったとも言われています。その結果、その決定は反故にされました(その代償として本間氏頼みで幕府に多額の献金を行ったという一面もあります)。江戸時代を通じても大変稀な事例です。

領地替えが撤回され民衆が祝賀のために大手門に押し寄せた場面、致道館講堂にて展示

1868年に明治維新となり、幕府が崩壊し新政府が樹立されたとき、庄内藩を含ふ東北諸藩は、新政府に対抗して同盟を結びました(奥羽越列藩同盟)。庄内藩では、重臣の酒井玄蕃(さかいげんば)によって、武士・農民・商人までをも含む強力な軍隊が組織されました。また、本間家が最新の外国製武器を輸入し、提供していました。玄蕃の軍勢は、新政府軍を撃退し、新政府側についた他の藩(新庄藩、秋田藩)にまで攻め込むほどでした。ところが、同盟していた藩は全て新政府にやられるか降伏してしまい、庄内藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)もまた降伏を決断せざると得ませんでした。藩の軍勢と鶴ヶ岡城は健在でした。

酒井玄蕃、明治初め頃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「鶴ヶ岡城その2」に続きます。

124.品川台場 その3

品川台場跡は、人々に過去にどんなことが起こったのかを知らしめるとても有機義な史跡だと思います。目に見える史跡というのは、ただ記録が残っているとか説明板があるだけよりも、明らかに優れています。

特徴、見どころ

三番台場跡を見学

台場公園、すなわち三番台場跡は、海岸とは通路によってつながっています。この道は、公園ができたときに付け加えられたと思われます。台場自体はもともと海の孤島だったわけです。台場に近づくにつれ、跳ね出しとい独特の仕組みを持った石垣が見えてきます。跳ね出しとは、最上段の石が全て張り出していて、敵がよじ登ってくるのを防ぐ仕組みです。ヨーロッパの城郭を模倣したものです。跳ね出しが見られる日本の城は稀で、他には江戸時代末に築かれたか改修された、五稜郭龍岡城人吉城のみで見ることができます。実は、この入口付近が唯一跳ね出しをすぐ近くで見ることができる場所です。他の場所では、石垣に近づくことが禁止されているからです。

三番台場周辺の航空写真

台場公園への通路
三番台場の跳ね出し石垣
他の場所では石垣に近づくことができません
五稜郭の跳ね出し石垣

台場本体へは、船に乗るようにステップを登って入っていきます。次に見えてくるのは台場の近景です。台場は一辺が160mある大きな方形で、外周部分が中心部分より高くなっています。ただ、現存している遺物がほとんどないので、歴史の知識なしで訪れた場合には、史跡であると気が付かない人もいるかもしれません。入口から土塁で固められた外周部分を歩いていくと、周りの景色が素晴らしいです。左側にはお台場海浜公園、右側にはレインボーブリッジや6番台場、そして前方には東京湾が見えます。

階段を使って台場に上がります
台場の近景
外周の上を歩いていけます
正面の東京湾
右側の六番台場とレインボーブリッジ

砲台に関する遺跡

入口とは反対側の外周部分の土塁上には、2基の模擬砲座があります。しかし歴史家によると、これらは正確に再現されておらず、レプリカとも言えないとのことです。それに加えて、かつては大砲群の前方に、長大な土の防護壁(「胸牆(きょうしょう)」と呼ばれます)が設置されていましたが、崩れてしまったようです。また、それぞれの大砲の間には土造りの側壁もありましたが、台場が廃止となった後に撤去されました。大砲が並んでいたこの面は、敵に対峙する真正面だったのです。

2基の模擬砲座
周りにあった防護壁は残っていません

正面側土塁の下方内側に向き合うように、火薬庫の跡があります。土造りの堤によって囲まれています。堤の内側に、火薬庫がありましたが撤去され、今ではその代わりに竈のような石造りのものがあります。これは元から台場にあったものではないそうです。更には、堤は一部石垣によって支えられていますが、これは1923年の関東大震災の被害から復旧する際に、築かれたものです。

火薬庫跡
火薬庫跡の内部
土堤の石垣は後世の補修により築かれました

また、弾薬庫の跡が複数箇所にあります。弾薬は台場においては最も注意を要する危険物で、爆発事故を起こしかねないため、倉庫は厳重に作られ、外周の土塁の内部に石室と木枠が設置されました。現在は土盛りの背後に石室が見えるのですが、この土盛りは保存のためなのでしょうが、後の時代に作られたようです。

弾薬庫跡

陣屋と船着き場の跡

台場の平らな中心部分には、陣屋の礎石跡が並んでいるだけです。陣屋は簡易な木造作りで風呂もなく、武士たちが休憩、寝泊りするだけのものでした。戦いが起こったときには、燃えてしまう前にそこから避難する必要があったでしょう。

台場の中心部
陣屋跡

船着き場の跡は、現在の入口からとなりの角部分にあります。ビジターは立ち入ることができず、内側の方から見物するのみです。コンクリートで固められた部分がありますが、これも後の時代の産物で、公園にするときに使われたものでしょうか。

船着き場跡
船着き場には立ち入りできません

この船着き場の手前には、これまで紹介したものとはまた違った土塁があり、「一文字堤(いちもんじつつみ)」と呼ばれています。これは、船着き場がかつては台場の入口であったために、当時のビジターから容易に中を見られないよう、また船着き場から攻撃してくる敵を防ぐために設けられました。

船着き場前の一文字堤

私の感想

品川台場跡は、人々に過去にどんなことが起こったのかを知らしめるとても有機義な史跡だと思います。目に見える史跡というのは、ただ記録が残っているとか説明板があるだけよりも、明らかに優れています。東京のウォーターフロントエリアは、日本全国の経済にとってとても重要な地域です。全ての台場跡が撤去されても仕方がない状況でした。台場の持ち主であった東京都の決定(2つの台場を残す)は英断であったと思います。現時点において、1点だけお願いしたいのは、現地にある模擬の台座を、本物に近いレプリカに交換していただきたいです。そうすれば、ビジターが台場の過去の姿を理解するのに大いに役立つのではないでしょうか。

三番台場にある模擬砲座

リンク、参考情報

台場の歴史、お台場海浜公園&台場公園、海上公園なび、東京港埠頭株式会社
・「お台場 品川台場の設計・構造・機能/淺川道夫著」錦正社
・「歴史群像146号、図解 品川台場」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「品川台場その1」に戻ります。
「品川台場その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。