178.能島城 その2

現在、能島は無人島になってしまっています。この島の状況から、個人で気ままにこの島に渡ることはできません。週末に宮窪漁港から出ているツアー船を予約する必要があります。

特徴、見どころ

不沈艦のように見える島

現在、能島は残念ながら無人島になってしまっています。この能島を、大島の海岸あるいはカレイ山展望公園から眺めてみると、まるで不沈艦のように見えます。その理由の一つとして、能島城跡が国の史跡に指定されていて、遺跡の状態を維持するためによく整備されていることが挙げられるでしょう。その結果、ここには木や藪がほどんど茂っていません。そのため、城の曲輪の形がくっきりと見えるのです。

カレイ山展望公園にある展望台
展望台から見える能島城跡

ツアー船で城跡へ

このように整備されてはいるものの、この島の状況から、個人で気ままにこの島に渡ることはできません(船をチャーターすれば別ですが)。週末に宮窪漁港から出ているツアー船を予約する必要があります(最少催行人員の10人に満たない場合はキャンセルになってしまいます)。ツアー船に乗り込むと、船長はまるで村上水軍の水夫のように船を滑らかに操ります。

宮窪漁港
ツアー船に乗り込みます
能島城跡に向かいます

船は数分で能島周辺に近づきます。能島の傍らには衛星のようなもう一つの小さな島、鯛崎島(たいざきじま)があります。能島とこの鯛崎島は、かつては吊り橋でつながっていたと言われています。鯛崎島には今でも小さな祠があります。しかし現在は橋がないので、そこに行くことはできません。島の間の海はとても浅く、干潮のときにはどんな船でも通ることができずとても危険な場所です。

能島城跡が見えてきました
鯛崎島
2つの島の間の浅瀬

城周辺の航空写真

島の周りの激しい潮流

ツアー船は簡単には島に付きません。島の周りの潮流が常に激しいからです。例えば、島の北西側の岬周辺の潮流は渦を巻いています。プロの操船技術がなければ、船はグルグル回ってしまうでしょう。

能島の東側
北西側の岬
潮流が渦を巻いています

ツアー船は、船溜まりと呼ばれる北側の岸を回り込んでいきます。この岸は、階段状に整地されていて通路もあります。水軍の水夫がここで荷揚げをしていたと考えられています。また、数多くの「岩礁ピット」と呼ばれる穴が岸に開けられていて、船を係留するために使われたと言われています。しかしその用途は今でも確定していません。この島の周りには、危険な箇所も含めて400以上のピットが発見されているからです。船の上からいくつかピットが見えるかもしれませんが、その多くは保存のため再度埋められたり、潮流の下に隠れてしまっているそうです。

船溜まり
岩礁ピットがいくつか見えます

上陸して三の丸へ

ツアー船はようやく島の南西側の岸にある船着き場に到着します。ここは、島では数少ない安全な場所です。この一帯には復元された石積みによる護岸壁があり、近くには鍛冶場の跡があります。そのため、ここはメンテナンスヤードとして使われていたと考えられています。

船着き場に近づきます
岸は護岸壁に守られています

上陸した後は、ガイドの方が島にある城跡の見どころを案内してくれます。案内されるコースは、城の建物は残っていないものの、通路と木製の階段がよく整備され、ビジターは安全に見て回ることができます。

ガイドに従って城跡を周ります

城跡にはいくつもの曲輪があり、頂には本丸、二の丸がその周りを囲み、一段低いところに三の丸があります。島の岬部分にも曲輪が配置されています。まず最初は、上陸した岸から三の丸の方に行きます。発掘調査によってここで礎石群が発見され、住居か倉庫が建っていたと考えられています。陶器製の壺や、高価な中国製陶磁器も出土しています。これらは航行していた船から徴収されたか、水軍自らの交易により、収められていたのかもしれません。

三の丸
三の丸から本丸の方を見ています
カレイ山から見た三の丸

「能島城その3」に続きます。
「能島城その1」に戻ります。

178.能島城 その1

能島城は、瀬戸内海の芸予諸島のうち、宮窪瀬戸と呼ばれる狭い海峡の真ん中に位置する能島にあった城です。この城は、芸予諸島で活躍した3つの村上水軍の一つ、能島村上氏によって築かれ使われていました。

立地と歴史

瀬戸内海航路の案内役、村上水軍

能島城は、瀬戸内海の芸予諸島のうち、宮窪瀬戸と呼ばれる狭い海峡の真ん中に位置する能島にあった城です。この城は、芸予諸島で活躍した3つの村上水軍の一つ、能島村上氏によって築かれ使われていました。近代以前において、沿岸航海は主要な交通手段の一つでした。瀬戸内海は、最も重要な航路の一つであり、畿内と西日本をつないでいました。しかし、芸予諸島には数多くの島があり、その間の狭い海峡により、海流は急速かつ複雑となっています。例えば来島海峡では、海流の向きとスピードは、主に月の引力により頻繁に変わります。ここを通る船は今でも海上交通センターの指示や信号に従って航行する必要があります。

城の位置

来島海峡

中世において瀬戸内海のような海を航行する際には、優秀な水夫や水先案内人が必要とされました。更には、当時は単独で航行すること自体が危険な行為になりかねませんでした。中央政権の警察力がまだ貧弱だったからです。それぞれの地方は、その地の領主か、場合によっては海賊ような者によって治められていたのです。また、当時の人たちは、他人の領地を通り過ぎる時には通行料を払うべきという感覚も持っていました。村上水軍もその地方領主の一部であったのですが、瀬戸内海を航行する船の安全を保証する存在として台頭しました。彼らについての最も早い記録として、1349年に能島村上氏が弓削島周辺の警備を行ったというものがあります。彼らの警備システムは次のようなものでした。警護料(基本的には積荷の10%だったと言われています)を支払った船に対しては安全な航路を案内する一方、支払わない船に対しては小早船(こばやぶね)と呼ばれる高速艇で追いかけ、海賊行為を働くというものでした。

復元された小早船、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

能島村上氏の本拠地として築城

村上水軍はやがて、3つの氏族に分かれていきました。因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏です。彼らの勢力圏はそれぞれ、芸予諸島の北側、中間、南側に当たりました。能島は宮窪瀬戸にある小さな島で、北方の鵜島、南方の大島に挟まれた場所にありました。宮窪瀬戸は、瀬戸内海を通る最も最短のルートの一つの途中にあったのです。ところが、その地点の海流のスピードは最大で10ノットに及び、絶えず変化しています。また、能島周辺の海は浅瀬で渦を巻いていて、不慣れな船は制御不能に陥ってしまいます。水軍のメンバーにとっては能島は、彼らが普段暮らしていた大島から約300m沖合にあって、大声で連絡が取りあえる範囲内でした。緊急事態が発生したときにも、お互いに助け合う態勢が取りやすくなっていたのです。能島の頂部からは海峡の全体を見渡すことができ、大島にある山の上で焚かれた烽火や、大島の山あいを超えて四国までも見通すことができました。能島村上氏の本拠地としてうってつけの場所だったのです。

能島周辺のジオラマ(能島部分に赤丸を付加)、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
能島から見た対岸の大島、大声が届くかどうか
大島にある「幸賀屋敷」と呼ばれる能島村上氏が住んでいた場所

能島城は、14世紀から16世紀の間に存在していました。島は整地され、その上にはいくつもの曲輪や建物が築かれました。水軍の兵士はそこに住むか、あるいは駐屯していて、海峡を防御していただけでなく、交易や漁業にも従事していました。城を防衛する仕組みは少なく、島の側面に人工的に切岸が設けられた程度でした。島を囲む海そのものが障壁となっていたからです。代わりに、島の海岸には船着き場、荷上場、メンテナンス場などが設けられました。一方で、島には水、食料、その他必要な資材は一切なかったため、他の島から運び込む必要がありました。

能島城の想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示

「日本最大の海賊」となる

村上水軍はまた、他の戦国大名を支援して戦いに参加することもありました。能島村上氏の場合は、近くの中国地方で最大の戦国大名であった毛利氏の支族、小早川氏と友好関係を築いていました。シビアな戦国時代を生き残るためには、強力な村上水軍の力が必要とされたのです。大友氏などの他の戦国大名も、能島村上氏に味方になるよう働きかけました。そして能島村上氏が一時、大友氏側に乗り換えたことがあったのですが、小早川氏は自身の水軍によって能島城を攻撃、包囲して、城への補給を断つ作戦に出ました。そのことで能島村上氏は、小早川氏側に再び戻ってきたという事件もありました。

当時の小早川氏の当主、小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

能島村上氏の力は16世紀後半、村上武吉(むらかみたけよし)が当主のときにピークに達しました。彼の水軍が参加した中で最も有名な戦いといえば、1576年に毛利氏と織田氏との間で起きた第一次木津川口の戦いでしょう。この戦いでは、武吉の水軍(武吉の弟によって率いられていました)も加わった毛利水軍が、石山本願寺(現在の大坂城)に兵糧を運び込もうとしますが、織田水軍に妨害されていました。村上水軍は、焙烙(ほうろく)と呼ばれた爆弾を織田軍の船に投げ入れ、爆発させ沈めたのです。水軍による補給作戦は成功しました。1586年、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは瀬戸内海を航行中に能島城に立ち寄りました。フロイスは著書「日本史」の中で「彼らは日本最大の海賊である」と述べています。フロイス一行は過所船旗(かしょせんき)と呼ばれる通行許可証をもらい受け、それによって広範囲の安全な航海を保証されたのです。

第一次木津川口の戦いの想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
ルイスフロイス来訪時の想像図、今治市村上海賊ミュージアムにて展示
現存する過所船旗の一つ、山口県文書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

水軍と城の突然の終焉

3つの村上水軍家は、基本的にはお互いに協調していましたが、やがて違う道を歩むことになります。来島村上氏は、後に天下人となる羽柴秀吉の勧誘により、織田氏側に付きました。これにより、武吉は来島村上氏の領土を占領しました。ところが、これが彼にとっての不幸につながります。やがて秀吉による天下統一が進んでいくと、武吉は秀吉から来島村上氏への領土返還を要求されました。武吉は村上一族の独立維持ということを願っていたようなのですが、それも叶わなくなります。能島村上氏のその時の主君であった小早川氏が秀吉によって九州地方に転封となったとき、武吉も能島城を含む、全て領地から離れなければならなくなったのです。

大島から見た能島城跡

「能島城その2」に続きます。

173.新高山城 その3

新高山城が廃城となった後、城跡は山伏たちの修業の場として使われました。そのため、山の頂上には彼らが作ったたくさんの仏像や石碑があります。

特徴、見どころ

ユニークな詰の丸

詰の丸は、本丸のとなり、南西方向にあります。ここは山頂に当たります。ここからは、高山城跡、沼田川、そして(天気がよければ)瀬戸内海までも見渡す素晴らしい景色を堪能できます。それにここは単に一番高いという以上に興味を惹かれる場所で、最も岩がゴツゴツしていて険しい所でもあります。更には、ここには修験道の山伏たちによって作られた数多くの仏像や題目碑があります。これらがここをとてもユニークな場所にしています。

城周辺の地図

詰の丸
新高山山頂
沼田川、瀬戸内海方面の景色
高山城跡
山上の石仏群

城の生命線、釣井の段

釣井(つりい)の段も本丸のとなり、北方向にある曲輪です。ここに行くには、もう一つの桝形を下って、本丸の搦手門跡から出ていきます。この桝形は、先ほどの大手門跡にあった方(外桝形)とはタイプが違っていて、内桝形に分類されます。内桝形の方が、より進化したタイプとなります。その四角い形が土塁によって形作られていて、今でもはっきりと確認することができます。

本丸の搦手門跡
横から見た桝形

釣井の段は、他の曲輪よりも低い位置にあり、谷間のような感じです。ここには大きな井戸跡が6つも残っています。この曲輪は、長い籠城戦に耐えるためだけではなく、日常的に城内で生活するためにもとても重要な場所でした。

釣井の段
6つの井戸跡のうちの一つ

その後

新高山城が廃城となった後、城跡は山伏たちの修業の場として使われました。そのために、山の頂上に彼らが作った仏像や石碑があったのです。山伏たちはまた、頂上に向かうための最も険しいルートに鎖場を設けました。そしてそれは、熟練の登山家が今でも利用しているそうですが、普通のビジターが通れるようなところではありません。城跡そのものに関しては、1957年に三原城、高山城とともに国の史跡に指定されました。

山頂にある題目碑
とても険しく見える山頂周辺

私の感想

三原城は、小早川隆景の終の棲家となりました。しかし、その時城がどんな姿をしていたかはわかっていません。隆景の死後、福島氏や浅野氏によって大拡張が行われたからです。そのため、新高山城から持ち込まれた大石が三原城でどのように使われたのかもわからないのです。つまり、新高山城跡というのは、隆景の時代の遺産として大変貴重なものなのです。私に関して言えば、いつか新高山城に続いて、高山城跡を訪れてみたいと思っています。

三原駅に描かれているかつての三原城の姿(福島氏、浅野氏による拡張後)
三原城天守台西側(写真)は小早川時代に作られたとのことです

ここに行くには

車で行く場合:山陽自動車道の本郷ICから約4kmのところにあります。ハイキングコースの入口近くにビジター用の駐車場があります。

ビジター用駐車場

公共交通機関を使う場合は、JR本郷駅から歩いて約25分かかります。
駅から出た後は、右に曲がって駅の前の通りに沿って進んでください。そして、最初の交差点を左に曲がります。曲がっていく道に沿っていくと、沼田川を渡る橋に至ります。この交差点には左側にしか横断歩道がないので、あらかじめ左側の歩道を歩いておいた方がいいです。

駅前の通りを進みます
左折した後は左側の歩道を進んでください
端の前の横断歩道

横断歩道を渡ると、右側に新高山と高山の景色を見ながら橋を渡ります。渡り終わったら右に曲がって再び横断歩道を渡り、山に向かって川の土手の上を通る道を進みます。道は二手に分かれますが、どちらを歩いても神社の手間で合流します。そうするうちに、ハイキングコース(大手道)の入口に到着します。

橋から見える新高山(左)と高山(右)
土手の上の左右どちらの道を進んでも大丈夫です
大手道入口に到着します

東京または大阪から本郷駅まで:山陽新幹線に乗って、三原駅で山陽本線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

本郷町観光協会(ホームページ)
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社編
・「備陽史探訪の会 早春の沼田本郷に小早川氏の夢を訪ねる」

これで終わります。ありがとうございました。
「新高山城その1」に戻ります。
「新高山城その2」に戻ります。