147.高天神城 その2

行ってみると城の精強さがわかります。

特徴、見どころ

急坂を登って城跡へ

現在、車をお持ちなら容易に高天神城跡に行ってみることができます。南側の大手道か北側の搦手道のどちらでも、その手前に駐車場があります。この城の防御力の強さを実感したければ、搦手道の方から歩いてみてはいかがでしょう。搦手道は、山の麓まではずっと平坦なのですが、坂にさしかかるとものすごく急になります。そして、しばらく荒々しい崖の間をぬって曲がりくねって登っていきます。ところが、頂上に着いたとたんまた平坦になります。これらを見てみると、この自然の地形は山城にするにはうってつけだということが理解できるでしょう。

城周辺の地図

高天神城跡北側入口
搦手道
崖の間を進む急坂
坂を登り切れば平坦

東側の峰部分

そのたどり着いた場所は井戸曲輪という所で、山の東西の峰をつないでいます。東側の峰は城の中では古い部分で、鐘曲輪、的場曲輪、本丸、御前曲輪、三の丸があります。これらの曲輪は自然の地形に沿って配置されていて、一部は土塁や通路によって囲まれています。

井戸曲輪
一部残っている土塁
城があった当時に作られた通路

本丸は、城の中心部であり、もっとも高い位置にあります。そこから下を見下ろすとどこも急崖になっています。また、高天神六砦の一つ、火ヶ峰(ひがみね)砦跡が見えます。三の丸は城では最も東寄りの場所にあります。ここからの眺めは良く、天気に恵まれれば東の方角に素晴らしい富士山の姿を望めます。

本丸
急崖を見下ろす
火ヶ峰砦跡
三の丸
三の丸から見える富士山

東側の峰部分

西側の峰は、城の中では新しい部分であり、西の丸、馬場平、二の丸、堂の尾(どうのお)曲輪、井楼(せいろう)曲輪があります。西の丸は、この峰では最高地点にあたり、現在は高天神社が建っています。そして、南の方角には太平洋がよく見えます。馬場平は、西の丸の下に位置し、堀切によって隔てられています。馬場平の向こう側には細い山道が通じています。この道は「犬戻り」と呼ばれていて、文字通り犬さえ通れなくて戻ってくるような険しい道という意味です(高天神城が落城したとき、一人だけこの道から脱出し、武田勝頼に落城したことを知らせたそうです)。

西の丸にある高天神社
西の丸から見える太平洋
西の丸と馬場平の間の堀切
馬場平
犬戻り

二の丸、堂の尾、井楼曲輪は、西の丸のとなりから一直線に並んでおり、武田氏によって強化された場所です。井楼曲輪から先が他の山につながっており、ここから敵に攻撃される恐れがあったからです。その防止のため、武田方はこれらの曲輪に沿って長い空堀を作り、それぞれを深い堀切で区切りました。

曲輪群に沿って掘られた空堀
二の丸と堂の尾曲輪の間の堀切
井楼曲輪

「高天神城その3」に続きます。
「高天神城その1」に戻ります。

147.高天神城 その1

武田氏と徳川氏の戦いの天王山

立地と歴史

城になるための山

高天神城は、現在の静岡県西部にあたる遠江国にありました。この城は土造りのシンプルな山城だったのですが、この国をコントロールするには絶妙な位置にありました。多くの戦国大名がこの城を手に入れようとした結果、この城で起こったことが中でも武田氏と徳川氏双方の運命に決定的な影響を及ぼしました。この城が築かれた山は、標高はわずか132mで、麓からは約100mの高さでした。しかし、その山の峰は複雑に入り組んでいて、且つ切り立っていました。その上に、山の頂上周辺はそれ程広くなく、そこからの眺望は抜群でした。これらの特徴は、少ない守備兵でも大軍の攻撃から城を守り抜けることにつながります。まさに城になるために存在しているような山だったのです。

遠江国の範囲と高天神城の位置

城周辺の起伏地図

高天神城想像図、現地説明板より

今川氏、徳川氏、武田氏による争奪戦

この城が最初にいつ築かれたか定かでありませんが、遅くとも16世紀前半には今川氏の勢力下となっていました。今川氏の勢力が衰えた後は、徳川家康がこの城を手に入れることに成功しました。有力な戦国大名、武田信玄もまたこの城を手に入れようとし、1571年にこの城を攻撃しました。しかし城を落とすことはできず、その後1572年に信玄は亡くなります。信玄の息子、武田勝頼は再度高天神城を攻略するため、1573年にこの城の北に橋頭保として諏訪原城を築きます。勝頼は1574年に高天神城に猛攻を加え、ついに守備兵が降伏することでこの城を手にしました。この時点で勝頼は、武田氏にとって最大の領土と(父親の信玄が果たせなかった高天神城を落としたことによる)最高の名声を得たことで、まさにそのパワーはピークに達していました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
諏訪原城跡

ところがこの流れは、1575年に長篠城近くで起こった長篠の戦いで、勝頼が織田信長と家康の連合軍に惨敗したことで急激に変わってしまいます。家康はそして、高天神城を含む遠江国の領地の奪還のための反撃を一歩ずつ開始しました。1576年、最初に諏訪原城を勝頼より奪いました。この城はかつては、勝頼が高天神城を占領するための足固めとなったのですが、今度は家康が同じ目的のために使うことになったのです。家康は次に1578年に、自軍への補給のためと、勝家の高天神への補給を断つために、高天神城の西方に新しく横須賀城を築きました。一方武田方も高天神城の西側部分の曲輪の間に、土塁、空堀、堀切などを造成し、城を強化しました。その部分は他の山につながっていて、城の唯一のウィークポイントだったからです。最後の決戦の時が迫っていました。

長篠合戦図屏風部分、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
長篠城跡
横須賀城跡

家康の慎重な城攻め

勝頼とは違って、家康はこの城を強攻しませんでした。彼は恐らくそんなに簡単にはこの城を落とせないとわかっていたのでしょう。長い時間をかけて、この城を包囲すべく周りに多くの砦を築きました。それらは高天神六砦として知られています。小笠山(おがさやま)砦、能ヶ坂(のがさか)砦、火ヶ峰(ひがみね)砦、獅子ヶ鼻(ししがはな)砦、中村(なかむら)砦、三井山(みついやま)砦です。しかし実際には、20もの砦が築かれたのです。それぞれの砦には明確な役割が与えられていました。例えば中村砦は補給のため、火ヶ峰砦は武田の攻撃を防ぐため、山王山砦は城の包囲のため、などです。このことにより、高天神城は完全に孤立しました。

高天神城と高天神六砦、横須賀城の位置

獅子ヶ鼻砦跡

1580年、家康は満を持して高天神城への攻撃を開始しました。一方、勝頼は城への援軍を送ることが困難になっていました。勝頼の勢力は衰え、また他の敵(北条氏など)にも備える必要がありました。飢餓に陥った守備兵は家康に降伏を申し出ました。ところが、家康との同盟でリーダー格だった織田信長が受け入れませんでした。これは多くの戦いが起こった戦国時代においても稀なことでした。1581年、守備兵は最後の抵抗を期して城から打って出ましたが、撃退され、ついに城は落城したのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康と勝頼の運命の転換点

信長は、勝頼の権威を失墜させるため、勝頼が城を最後の瞬間まで助けられなかったことを見せつけたのだと言われています。事実、その次の年に信長が勝頼の領地に攻め入ったとき、勝頼のほとんどの家臣は戦わずして降伏するか、主人を見限って逃亡したのです。高天神城の戦いは、武田氏の滅亡を導いただけでなく、その後家康がついに天下人となるきっかけになったかもしれません。

高天神城跡遠景

「高天神城その2」に続きます。

82.大洲城 その3

大洲の人たちは苦労して天守を復元しました。

その後

明治維新後、大洲城は廃城となり、一時官庁(明治初頭の大洲藩、大洲県など)として使われました。しかしやがて城の敷地は売却され、城の建物は撤去されていきました(天守は1888年に解体)。最終的には4つの櫓だけが残りました。二の丸にある苧綿(おわた)櫓、三の丸にある南隅(みなみすみ)櫓、そして本丸にある2つの櫓です。大洲の人々は城跡が失われるのを恐れ、明治時代に公園とし桃の木を植えました。

現存する二の丸苧綿櫓
現存する三の丸南隅櫓
現存する高欄櫓
桃の木が植えられた頃の本丸の古写真、城内展示より

第二次世界大戦後、大洲の人たちは天守をオリジナルと同じ工法で復元することを考えていました。一方、日本の他の天守は名古屋城のように現代の工法で再建されていました。オリジナルの工法にこだわった理由は、多くの復元のための材料が残っていたからです。図面や天守を修理したときに作った天守雛形、そして天守が解体される前に撮られた鮮明な写真などです。このような事例は日本ではとても稀なことでした。

現代の工法で復元された名古屋城天守
復元の際参考とされた大洲城天守雛形、現地説明板より

しかし、このような天守復元には大きな法律の壁がありました。日本の建築基準法は、13mを超える高さの木造建築物に対してとても厳しい内容となっているのです。大洲城のオリジナルの天守の高さは19mを超えており、そのまま復元するのは不可能でした。ところが1990年代に状況が好転し、白河小峰城掛川城白石城といった他の城の天守や櫓の木造による復元が許可されたのです。大洲城の天守はそれらの中では最も背が高いものでしたが、当局との長い交渉の結果、2004年に天守が元の高さのまま木造で復元されたのです。

木造復元された白河小峰城の御三階櫓
木造復元された掛川城天守
木造復元された白石城天守
木造復元された大洲城天守

私の感想

大洲城の天守は、日本の復元天守の中では一番だと思います。この天守とその脇にある2基の現存櫓が、完璧な調和を保っているからです。それから、この城を川の方から見てみることもお勧めしたいです。河川交通はかつては主要な交通手段の一つでした。よってこの城は、川沿いからの見栄えを意識して設計されたのです。今でも、美しく完璧に復元された天守の外観と櫓とのコラボレーションを眺めることができます。

本丸から見た肱川の流れ
肱川の川岸
川側から見た大洲城天守と高欄櫓

ここに行くには

車で行く場合は、松山自動車道の南大洲ICから約10分かかります。城の近くの市街地にある観光駐車場を利用することができます。
公共交通機関を使う場合は、JR伊予大洲駅から歩いて約25分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機か高速バスを使われることをお勧めします。

リンク、参考情報

大洲城公式サイト
・「大洲城下物語」愛媛県大洲市
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「週刊名城をゆく34/宇和島城大洲城」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
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