145.興国寺城 その2

土塁と空堀が際立っています。

特徴

三の丸から本丸へ向かう

現在、興国寺城周辺の沼地は市街地となっており、城跡だけが残っています。また、現在の根方街道が城跡を通っています。もし車で城跡を訪れるのでしたら、3つの主な曲輪のうち一番低い三の丸にある駐車場に停めることができます。駐車場から一番高い本丸まで緩い坂を歩いて登っていきます。真ん中の段は二の丸で、平らで何もないように見えますが、過去には半円形の堀がありました。

城周辺の航空写真

城跡の入口
駐車場になっている三の丸
かつては堀があった二の丸

本丸とその土塁

本丸は今でも大きく高い馬蹄形の土塁に囲まれています。なかなか壮観です。本丸の中には北条早雲と天野康景の記念碑があり、そして江戸時代に設立された穂見神社があります。本丸の背後にある土塁は6mの高さがあり、階段を使って頂上まで登っていくことができます。頂上下の一部には石垣が築かれています。頂上には礎石もあり、天守台跡とされていますが、実際には櫓の一種があったと考えられています。頂上からは南の方に街並みと伊豆半島の姿を見ることができます。

馬蹄形の土塁に囲まれた本丸
北条早雲と天野康景の記念碑
穂見神社
頂上下の石垣
頂上にある「天守台」の礎石
頂上からの景色

本丸空堀とその北側

本丸の背後には大きく深い空堀も残っています。頂上から堀の底まで、これも階段を使って降りていくことができます。堀は18mの深さがあり、底から頂上を見上げるような感じです。土壁にいくつか洞穴があり、なんだろうと思われるかもしれませんが、第二次世界大戦中に掘られた防空壕です。堀の端は城跡の側面に通じており、かつてはそこは沼地となっていました。

本丸背後の空堀
戦時中に掘られた防空壕
城跡の西側面

また、空堀を超えた北側には北曲輪があります。その先には半円形の堀がもう一つありましたが、その場所は東海道新幹線の線路となっています。歴史家は、半円形の堀のセットは武田氏か徳川氏によって築かれたのだろうと推測しています。彼らの別の城で類似例が見られるからです。

北曲輪から見た本丸
東海道新幹線の線路となったかつての堀

「興国寺城その3」に続きます。
「興国寺城その1」に戻ります。

145.Kokokuji Castle Part1

Is this castle a symbol of peace or of battles?

Location and History

Kokokuji Castle was located in what is now Numazu City, Shizuoka Prefecture. The area of the city was in Suruga Province (now central part of Shizuoka Pref.) which many warlords tried to take over in the 16 Century during the Sengoku Period.

The location of the castle and the range of Suruga Province

The castle was on the southern edge of the hilly terrain of Ashitaka-yama Mountain. There was a marshland to the south, east and west of the castle which was as natural hazard that helped to protect the castle. The castle was built using the natural terrain of the mountain and marshland. The castle was also an important point for transportation. A road at the foot of the mountain called the Nekata Road passed beside the castle. In addition, the Takeda Road close to the castle ran from the Nekata Road to the Tokaido Road at the seaside.

A relief map around the castle

The two roads are still connected to the castle ruins

The castle mainly consisted of three enclosures on the hill in a terraced manner. The Main Enclosure was at the highest, and there was a large deep dry moat behind the enclosure to prevent enemies’ attacks from the north. The castle even had ports on both sides for ships on the marsh.

Part of the illustration of Shinkokuji Castle in Suruga Province, exhibited by the National Diet Library (It is supposed to be Kokokuji Castle)

The castle itself might have been simple but is well known for its history. This is because some history books say that Kokokuji Castle was the first castle for a famous warlord, Soun Hojo to govern. He was one of the earliest warlords in the late 15 Century who supported the Imagawa Clan in Suruga Province. He was given the castle by the clan in 1487. His success story starts at this castle, and he went on to capture a part of the Kanto Region. His descendants followed in his footsteps to capture the other parts of the Kanto Region.

The replica of the portrait of Soun Hojo, owned by Odawara Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

However, there is no other evidence of the castle existing at the same time as Soun. The first appearance of the castle in a public document can only be traced back to 1549. At that time, Yoshimoto Imagawa ordered that the Kokoku-ji Temple be moved to another location to make space for building a new castle there. What is the truth about the matter? A historian gives us an interesting hypothesis that the castle was a temple called Kokoku-ji when Soun owned it. Kokoku-ji is originally a name of temple (“ji” means temple in Japanese). Kokokuji Castle is thought to be named after the Kokoku-ji Temple.

The statue of Yoshimoto Imagawa at Okehazama Battlefield Park (taken by HiC from photoAC)

The historian suggests another speculation about why the castle was built. A period of peace once came to the area around Suruga Province with Imgawa, Hojo, and Takeda Clans when the castle was built. Castles were basically built for battles, but Kokokuji Castle might have been built for the meeting with the three clans or as a symbol of peace. It is said that the three clans had a conference for their alliance at the Zentokuji-Temple. The temple may have been Kokokuji Caste.

The portrait of Shingen Takeda, the lord of the Takeda Clan at that time, owned by Jimyo-in Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Unfortunately, the alliance broke in 1568, while Kokokuji Castle was involved in war. The lords of the castle were rapidly changed several times from the Imagawa Clan to the Hojo, Takeda, Toyotomi, and Tokugawa Clans. As the number of the lords increased, the range of the castle seemed to become larger. In 1601, Yasukage Amano under Tokugawa became the last lord of the castle and the founder of the Kokokuji Domain. He governed the area well, but he ran away from the castle because of trouble between his citizens and others. The castle was finally abandoned when the domain was abolished in 1607.

Yasukage Amano from the Battle of Komaki-Nagakute folding screens (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

To be continued in “Kokokuji Castle Part2”

145.興国寺城 その1

この城は、平和のシンボルか、戦いのシンボルか?

立地と歴史

興国寺城は、現在の静岡県沼津市にありました。沼津市域はかつては駿河国(現在の静岡県中心部)に属していました。戦国時代の16世紀には多くの戦国大名がこの国を手に入れようしていました。

城の位置と駿河国の範囲

この城は、愛鷹山の丘陵地の南端に位置していました。南側には沼地があり、東側と西側は自然の障壁となっていて、城を守っていました。城はこのような山や沼地の自然の地形を生かして築かれたのです。この城はまた、交通の要所でもありました。山の裾野を走る根方街道が城のすぐ脇を通っていました。更に、城のすぐ近くから竹田街道が海沿いの東海道に通じていました。

城周辺の起伏地図

現在でも2つの街道が接続しています。

この城には、主には三つの曲輪が階段状に配置されていました。本丸は最も高い所にあり、北からの敵の攻撃を防ぐために背後に大きな空堀がありました。城にの両側には沼地に船を乗り出すための船着き場さえありました。

駿州真国寺古城図部分(興国寺城の図とされている、出展:国立国会図書館)

この城自体は地味なのかもしれませんが、その歴史はよく知られています。これは歴史書に、興国寺城は有名な戦国大名、北条早雲が最初に城主になった城だと書かれているからです。早雲は15世紀後半に活躍した初期の戦国大名で、駿河国の今川氏を支援しました。そのため1487年に今川氏からこの城を与えられたのです。彼の出世物語はこの城から始まり、関東地方の一部を手に入れたのです。彼の子孫は、その足跡を継ぎ、関東地方の残りの地をも獲得しました。

北条早雲肖像画の複製、小田原城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、この城が早雲と同じ時期に存在したこと示す他の証拠は見つかっていません。公的文書にこの城のことが最初に現れるのは1549年になってからです。そのとき、今川義元が興国寺に対して、新しい城をそこに作るので他の地に移るよう命じたのです。真相はどこにあるのでしょうか。ある歴史家が面白い仮説を述べていて、早雲が主となった城というのは、興国寺という名の寺であったというものです。興国寺はそもそも寺の名前であるわけですから、興国寺城は、興国寺に由来してつけられた名前と考えられるのです。

今川義元銅像(桶狭間古戦場公園、taken by HiC from photoAC)

その歴史家はまた、なぜこの城が作られたのか、もう一つの推測を行っています。この城が作られたとき、駿河国周辺の地域では、今川氏、北条氏、武田氏の間で和平の機運が高まっていました。城は基本的には戦いのために築かれますが、興国寺城は平和のシンボルとして、3氏の会談の場として作られたのではないかというのです。3氏は善得寺で同盟のための会談を行ったとされていますが、その寺は実は興国寺のことかもしれないということです。

当時の武田氏当主、武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

残念ながらこの同盟は1568年に破られてしまい、興国寺城は戦に巻き込まれていきます。城主は、今川氏から北条、武田、豊臣、そして徳川氏というように頻繁に入れ替わりました。城主の数が増えるに従い、城の範囲は拡大していったようです。1601年、徳川配下の天野康景が最後の城主になり、興国寺藩を設立しました。彼は善政を行いましたが、彼の領民と他の領民との諍いが起きたことをきっかけに、城から出奔してしまいました。1607年に藩は取り潰しとなり、城もついには廃城になりました。

天野康景、小牧長久手合戦図屏風より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「興国寺城その2」に続きます。