137.福井城 その2

城跡には、公園とオフィスビルが同居しています。

特徴、見どころ

今も現役の本丸入口

現在、福井城跡は史跡公園であると同時に、県庁を含むオフィスビルの敷地としても使用されています。城跡の範囲は、本丸を含む内堀の内側となります。

城周辺の航空写真

公務員の人たちが、福井藩の武士たちがそうしていたように、内堀にかかった御本城(ごほんじょう)橋を渡り、本丸南側の正門を通って通勤しています。過去においてはこの門は、2つの門の建物と石垣によって囲まれた防御のための四角い空間(桝形と呼ばれます)により構成されていました。今は部分的に残っている石垣に登って、門の周辺を見渡すことができます。

御本城橋を渡って正門へ
本丸正門の古写真(現地説明板より)
現在の本丸正門
石垣の上に登っていきます
石垣の上から見える本丸入口

天守台石垣は必見

本丸の中を歩き回ることはできますが、かつては御殿があった場所にあるオフィスビルの外に限られます。

本丸の遺跡がオフィスビルに近接しています

本丸の北西隅にある現存している天守台石垣は必見です。天守台は2段になっていて、上段の上に大天守と小天守が乗っていました。石垣は大変立派なのですが、所々崩れていたり、歪んだりしています。これは、1948年に発生した福井地震によるものです。

天守台石垣
大天守が乗っていた上段部分
一部崩れている石垣

下段には、「福の井」と呼ばれる井戸が復元されています。実はこの井戸の名前が、後からついた城の名前である福井の由来であるという人もいます。

復元された福の井

復元された門と橋

天守台近くでは、本丸の西側出入口に山里口御門という門の建物と、内堀にかかった御廊下橋(おろうかばし)という屋根付きの橋が、最近伝統的工法により復元されました。

復元された山里口御門と御廊下橋

城主は藩の政治を行うために、本丸外にある御座所と呼ばれる住居からこの橋と門を通って、本丸にある御殿に通っていたのです。

山里口御門と御廊下橋の古写真(現地説明板より)

私たちも同じようにこの復元された橋を渡ることができます。また、門の二階に上がると、その内装と城に関する展示を見学することができます。

御廊下橋を渡ります
山里口御門
山里口御門の二階内部

今に残る内堀と本丸石垣

また、内堀の外側を歩いて回ってみてはいかがでしょうか。

内堀の外側から見た本丸

例えば、本丸の南東角にある巽(たつみ)櫓の石垣はすばらしいものです。巽櫓は3階建てであり、天守が燃えてしまった後は天守の代用と見なされていました。もともと、本丸の四つの角には天守もしくは櫓がそびえていたのです。

巽櫓の石垣
巽櫓の古写真(現地説明板より)

「福井城その3」に続きます。
「福井城その1」に戻ります。

137.Fukui Castle Part1

The center of Echizen Province

Location and History

It starts as Kitanosho Castle

Fukui Castle was located in what is now Fukui City, the prefectural capital of Fukui Prefecture. The name of the city originates from this castle. However, the castle was originally named Kitanosho Castle (Kitanosho means like the Northern Manor). Katsuie Shibata under a great warlord, Nobunaga Oda, first built the castle in 1575 when they conquered Echizen Province (now part of Fukui Prefecture).

The location of the castle

The portrait of Katsuie Shibata, from the signboard at the site

When Hideyoshi Hashiba, who would become the ruler, Hideyoshi Toyotomi, attacked the castle in 1583, he wrote in his letter that the castle had a nine-leveled Main Tower. It’s quite uncertain if the castle really had the nine-leveled Main Tower because the word nine-leveled also means just “have many levels” in Japanese. Katsuie was unfortunately defeated by Hideyoshi, while Kitanosho Castle was burned and destroyed.

The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple, licensed under Public Domain via Wikimedia Commons
The imaginary drawing of the first Kitanosho Castle, from the signboard at the site

Hideyasu Yuki rebuilds it as Lord of large domain

In 1601, Hideyasu Yuki, the son of the final ruler, Ieyasu Tokugawa, rebuilt Kitanosho Castle as the founder of the Kitanosho Domain. Hideyasu was a big brother of Ieyasu’s successor, Hidetada Tokugawa, but he was sent to Hideyoshi, and the Yuki Clan later to be adopted. It could be because he was not loved by his father, Ieyasu. However, Hideyasu was distinguished in the Battle of Sekigahara in 1600 before his father became the founder of the Tokugawa Shogunate. Ieyasu finally accepted Hideyasu and allowed him to have a large role in the shogunate. Hideyasu became a lord who had the second largest territory excluding the shogun in Japan with 750,000 kokus of rice. He was also allowed to use the family name “Matsudaira” which means the relatives of the shogun. Echizen Province was very important spot for the shogunate to be near Kyoto, the capital of Japan, and next to the owners of the largest territory, the Maeda Clan.

The statue of Hideyasu Yuki at the ruins of Fukui Castle
The Portrait of Ieyasu Tokugawa, attributed to Tanyu Kano, owned by Osaka Castle Museum, licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

It is said that Hideyasu’s father, Ieyasu designed part of the layout of Kitanosho castle. The Main Enclosure was the center of the castle, which had the four-leveled Main Tower and the Main Hall and was surrounded by the stone walls and the Inner Moat. The Second Enclosure, the Third Enclosure, and the Outbound Enclosure were built around the center concentrically. These enclosures were divided by the water moats. As a result, the castle was surrounded by quadruple or quintuple water moats. The castle had over 10 turrets and 40 gates. The size of the castle reached about 2km square.

The imaginary drawing of the Main Enclosure of Fukui Castle, from the signboard at the site
The range of Fukui Castle in the Edo Period shown on the present map, from the signboard at the site

Echizen-Matsudaira Clan prospers

The castle was completed in 1606 after Hideyasu died in 1604. The Matsudaira Clan, renamed from the Yuki Clan governed the castle and domain until the end of the Edo Period, while the name of the castle and domain were changed from Kitanosho to Fukui by the third lord, Tadamasa. The Main Tower was unfortunately burned down by a fire in 1669 and not restored. The 14th lord, Shungaku Matsudaira was active in the central government during the end of the Edo Period and the Meiji Restoration.

The portrait of Tadamasa Matsudaira, exhibited by Fukui City History Museum, licensed under Public Domain via Wikimedia Commons
The photo of Shungaku Matsudaira, owned by Fukui City History Museum, licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

In addition, Hideyasu’s descendants prospered greatly. The branch families which started from Hideyasu’s sons became the lords of several castles by the end of the Edo Period, such as Tsuyama Castle, Matsue Castle, Maebashi Castle and Akashi Castle. They are often called the Echizen-Matsudaira Clan including the lord of Fukui Castle. We can say Hideyasu’s efforts were rewarded good enough.

Tsuyama Castle
Matsue Castle
Akashi Castle

To be continued in “Fukui Castle Part2”

137.福井城 その1

越前国の中心地

立地と歴史

北ノ庄城としてスタート

福井城は、福井県の県庁所在地である現在の福井市にありました。この都市の名前は、この城に由来しているのです。しかし、この城はもとは北ノ庄城と名付けられていました(北ノ庄とは、北にある荘園といった意味でしょうか)。有力な戦国大名、織田信長の部将であった柴田勝家が1575年に最初にこの城を築きました。現在の福井県の一部にあたる越前国を征服したときでした。

城の位置

柴田勝家像(現地説明板より)

後に天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉が1583年にこの城を攻撃したとき、彼は書状にこの城には九層の天守があると記しました。しかし、本当に九層の天守だったかどうかは全く分かりません。当時の日本語では、九層という言葉は単に「多層である」ことを意味していたからです。勝家は不幸にも秀吉により倒されてしまい、北ノ庄城は燃やされ、破壊されてしまいました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初期北ノ庄城の想像図(現地説明板より)

結城秀康が大藩の藩主として再建

1601年、最終的に天下人となった徳川家康の息子、結城秀康が北ノ庄藩の創始者として北ノ庄城を再建しました。秀康は、家康の後継者となった徳川秀忠の兄でした。ところが、彼は秀吉の元に(実質的には人質として)送られ、後には結城氏の跡継ぎ養子となりました。この理由は、彼が父親である家康から愛されていなかったからとも言われています。それでも秀康は、その父親が徳川幕府の創始者となる契機となった、1600年に起こった関ヶ原の戦いで大いに貢献したのです。家康はついに秀康を受け入れ、幕府における重要な役割を任せたのです。秀康は、幕府そのものを除いて、日本で2番目に大きな領地を治めることとなり、その石高は75万石に及びました。彼はまた、将軍の親戚であることを表す「松平」という姓を使うことも許されました。越前国は幕府にとってとても重要な地点であり、日本の首都である京都に近く、最大の領地を持つ前田氏に隣接していました。

福井城跡にある結城秀康の彫像
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀康の父親、家康が北ノ庄城の一部の縄張りを行ったと言われています。本丸は城の中心部であり4層の天守と御殿があり、石垣と内堀に囲まれていました。二の丸、三の丸、外郭がその中心から同心円状に築かれました。これらの曲輪群は水堀によって隔てられていました。その結果、この城は4重場所によっては5重の水堀に囲まれることになったのです。この城には10基の櫓、40基の門が備わっていました。城の大きさは、約2km四方に達しました。

福井城本丸の想像図(現地説明板より)
現代の地図上に示した江戸時代の城の範囲(現地説明板より)

繁栄した越前松平氏

1604年に秀康が亡くなった後の1606年に城は完成しました。結城氏から改めた松平氏は、城と藩を江戸時代の終わりまで統治しました。その間、城と藩の名前は、第3代藩主の忠昌(ただまさ)によって「北ノ庄」から「福井」に改められました。天守は不幸にも1669年の火災により焼け落ちてしまいましたが、再建はされませんでした。第14代藩主の松平春嶽は、幕末と明治維新の頃、中央政府で活躍しました(幕府の政事総裁職、新政府の議定などを歴任)。

松平忠昌肖像画、福井市立郷土歴史博物館による展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平春嶽写真、福井市立郷土歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、秀康の子孫は大いに繁栄しました。秀康の息子たちから始まる分家の当主は江戸時代末までに、津山城松江城、前橋城、明石城の城主となりました。これらの分家は、福井城の城主を含めて、しばしば越前松平氏と呼ばれています。秀康の努力は、十分報われたと言えるのではないでしょうか。

津山城
松江城
明石城

「福井城その2」に続きます。