89.佐賀城 その1

佐賀藩は日本の近代化に貢献しました。

立地と歴史

鍋島氏が佐賀藩の本拠地として整備

佐賀城は、現在佐賀県の県庁所在地である佐賀市にありました。この城はもとは村中城という名前で、戦国時代の16世紀に大きな力を持っていた龍造寺氏が築きました。ところが、1584年に沖田畷(おきたなわて)の戦いで島津氏に敗れてからはその力は衰えました。その代わりに龍造寺氏の重臣であった鍋島氏が力をつけ、ついには徳川幕府により佐賀藩主となったのです。鍋島氏は村中城を強化し、その城は17世紀初期のいずれかのときには佐賀城という名前に変わりました。

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佐賀城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

佐賀藩初代藩主、鍋島直茂肖像画、鍋島報效会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この城は、佐賀平野に流れる川沿いに築かれました。この城には、主には本丸、二の丸、三の丸があり、全体が広大な外堀に囲まれていました。本丸と二の丸は、城の南東部分にあり、直接つながっており、内堀によって三の丸と隔てられていました。石垣に囲まれていたのは本丸のみであり、その他の曲輪は土塁によって囲まれていました。本丸には天守がありましたが、その詳細はわかっていません。ほとんどの城の建物が1726年の大火により焼けてしまったからです。その後、本丸にあった城の中心部は二の丸に移りました。ところが、これもまた1835年の大火により燃えてしまったのです。

「佐嘉小城 内絵図」、現地説明板に加筆
上記絵図の本丸部分を拡大、天守と御殿が描かれている

鍋島直正が藩を近代化

江戸時代末期になって、佐賀藩と佐賀城が注目される時が来ました。佐賀藩は、当時日本で唯一公に認められていた国際貿易港であった長崎の警護役の任に就いていました。ところが、1808年のフェートン号事件においてその役目を果たせず、長崎に侵入してきたイギリス船の船員の横暴を許してしまったのです。その後佐賀藩は、第10代藩主の鍋島直正の指導により近代化を進めました。彼は、1837年に再建された本丸の新しい御殿から藩を統治しました。彼のリーダーシップの下、佐賀藩は西洋から最新の大砲を輸入し、彼ら自身により大砲を製造することを始めました。そして驚くべきことに、1853年にペリー艦隊が来航する前に、日本で初めてその大砲の製造に成功したのです。徳川幕府は直正に対し、ペリーの2回目の来航に備えて江戸湾に築造した品川台場のために、その製造した大砲を提供するよう依頼しました。そして50基の大砲が供給されたのです。

佐賀城跡にある鍋島直正の銅像
復元された本丸御殿
佐賀城跡にある輸入大砲の複製品
品川台場跡

佐賀藩は、近代的な軍事力を持っているがために、明治維新のとき、徳川幕府と新政府の両方から当てにされました。そしてついには新政府に味方することにし、薩摩、長州、土佐とともに、四大雄藩の一つとなりました。新政府が幕府を倒すことができた一つの理由は、佐賀藩が輸入したか製造した強力な大砲にあると言われています。直正は1871年に亡くなるまで、明治時代初期における最も重要な政治家の一人であったのです。直正はまた、引退する前に政府の重要ポジションに、部下の江藤新平を登用していました。新平は、教育、司法、議会制の考え方など、西洋の最新の社会システムを日本に導入し、国の近代化に資するよう努めました。彼は、しばしば近代日本司法制度の父とされています。

新政府軍の戦いの様子を描いた絵画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江藤新平肖像、「江藤南白 上」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐賀の乱により城が焼亡

ところが、明治六年政変(1873年、征韓論政変とも言われています)が起こり、薩摩や長州の他の政治家たちによりその地位を奪われてしまいます。新平は、民主的選挙による議会開設を政府に要求し、佐賀に戻りました。薩摩出身で政府を主導していた大久保利通は新平の要求を認めませんでした。利通は、新平の卓越した能力に嫉妬し、それが利通を凌駕してしまうことを恐れていたとさえ言われています。利通は、新平が政府に対して反乱を企てているとの情報を流しました。また、佐賀に軍隊を派遣し、新平とその支持者たちが戦わなければならないよう仕向けました。1874年の佐賀の乱はこのようにして起こったのです。新平は政府軍に敗北し、今や独裁者と化した利通により、司法手続きなしに死に追いやられました。佐賀城はこの戦いの戦場の一つとなり、残念ながらその戦いの最中、火災によりほとんどが焼け落ちてしまいました。

大久保利通肖像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
佐賀の乱の様子を描いた浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「佐賀城その2」に続きます。

84.高知城 その3

なぜ高知城にはこんなにも建物が残っているのでしょうか。

特徴、見どころ

天守の内部

天守の一階には、石落としや狭間などの防御のための仕組みがあります。更には、この階の外側には「忍び返し」と呼ばれる鉄剣があり、天守を登ってくる敵を防げるようになっています。これは日本で唯一現存例となります。

本丸御殿から天守へ
天守一階
石落とし
鉄砲狭間
天守一階外側に装備された忍び返し

二階では、城の模型など城に関する様々な展示を見ることができます。

天守二階

三階は基本的に入母屋屋根の屋根裏部屋となりますが、窓があって、屋根の内側に守備兵が入れる場所があり、攻撃側に反撃できるようになっていました。

天守三階

四階では、窓越しに屋根の上にある青銅製の鯱を間近に見ることができます。

天守四階
四階窓から見える鯱

五階はとても暗い屋根裏部屋です。

天守五階

対照的に最上階は開放的で明るく、全方向でこの城と高知市の眺めを満喫できます。ここでは、かつて城主がそうしていたように、回り縁をぐるりと歩いてみることもできます(鉄製の欄干が安全とオリジナルの欄干の保護のために取り付けられています)。

天守最上階
最上階の回り縁
最上階からの眺め

その後

明治維新後、高知城は高知公園となりました。二ノ丸と三ノ丸にあった全ての建物は撤去される一方、本丸にあったものとその他いくつかの建物は残されました。その残っている15の建物は、1950年以来、重要文化財に指定されています。この城はまた、1959年に国の史跡にもなっています。

高知城天守

私の感想

私がこの城を随分前に初めて訪れたとき、本丸にある御殿が小さい理由を誤解していました。そのときは、昔の日本人が今より背が低く、小さかったからだと思ってしまったのです。最近再び訪れることで、本当の理由がわかりました。それとともに、もし本丸御殿がとても大きかったならば、この城が公園になったときに、もしかすると二ノ丸の御殿のように取り壊されてしまったのではないかと思うようになりました。もしそれが当たっていれば、世の中何が幸いするかわからないということでしょう。

本丸御殿の内部

ここに行くには

高知自動車道の高知ICから約15分かかります。
城の周りにいくつか高知公園駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR高知駅から、とさでんバスに乗り、高知城前バス停で降りてください。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機か高速バスを使われることをお勧めします。

リンク、参考情報

高知城、公式ホームページ
・「よみがえる日本の城13」学研
・「よみがえる日本の城、天守のすべて2」学研
・「長宗我部/長宗我部友親著」文春文庫

これで終わります。ありがとうございました。
「高知城その1」に戻ります。
「高知城その2」に戻ります。

84.高知城 その2

昔のままの城を感じることができる場所です。

特徴、見どころ

天守と追手門が同時に見れる場所

今日高知城を訪れる観光客の方は、最初は現存する追手門から入って行かれるのではないでしょうか。ここからは、向こうの方に現存する天守も眺めることができます。実は、この2種類の現存する建物を一緒に見ることができるのは大変珍しいことなのです(あとは丸亀城くらいかと思います)。

高知城の天守と追手門
追手門

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追手門
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

杉ノ段から鉄門跡へ

追手門から入って石段を登っていくと杉ノ段に至ります。そこには、山内一豊の妻、千代と一頭の馬の銅像があります。この銅像は、彼女が、夫の一豊が参加する馬揃えのために持参金をはたいて良馬を購入したことで、一豊が出世するきっかけをつかんだというエピソードを示しています。ここから見上げると、三ノ丸の素晴らしい高石垣が目に入ってきます。

杉ノ段への石段
千代と一頭の馬の銅像
三ノ丸の高石垣

更に石段を登って進んでいくと、鉄門(てつもん)跡に着きます。ここは防衛上重要な地点でした。この門は、三ノ丸のとなりにあり、二ノ丸へ向かう経路の途中にあります。そのために、敵を本丸への門と勘違いさせるような詰門を使った巧妙な仕掛けがここに作られたのです。

鉄門跡
鉄門跡から見える詰門

三ノ丸と二ノ丸

三ノ丸は、この城では最も大きな曲輪であり、かつては儀式のために使われた大きな御殿がありました。発掘により、長宗我部時代の石垣がここから見つかっています。

三ノ丸
長宗我部時代の石垣
三ノ丸から見える天守

二ノ丸には、本丸以外のもう一つの領主の御殿があり、領主は通常ここに住んでいました。本丸にあった御殿は日常生活をおくるには狭すぎたからです。現在の二ノ丸は広場となっています。

鉄門跡から二の丸へ
二ノ丸

ほとんど元のままの本丸

二ノ丸から現存する詰門を渡って行くと、ついに本丸に到着します。驚くべきことに、本丸には元あった状態とほとんど変わらないまま、11もの建物が残っています。また、同じ場所にオリジナルの天守と本丸御殿が残っている日本で唯一の例でもあります。

二ノ丸から詰門に入ります
天守から見える本丸の建物群

天守に至るには、まず最初に御殿の方に入る必要があります。双方が直接つながっているからです。この御殿は、本丸の大きさが限られているため、確かにそんなに広くありません。しかし、藩にとって重要な儀式はここで行われました。

本丸御殿の入口
本丸御殿の内部

天守は四層六階です。つまり、六階のうちの二階は屋根裏部屋となっています(3階と5階)。この天守は、望楼型と呼ばれる形式です。高知城の場合は、入母屋屋根を備えた大型の二層櫓の上に、小型の二層望楼が乗っかっています。また、天守の屋根には唐破風や千鳥破風、最上階には漆塗りの欄干付きの回り縁といった装飾がされています。古い伝統と美しさ両方が見られる天守です。

高知城天守

「高知城その3」に続きます。
「高知城その1」に戻ります。

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