196.佐土原城 その1

伊東氏の栄光と凋落を象徴する城

立地と歴史

九州に送られた伊東氏が築城

宮崎県は九州地方の東側にあり、農業県として知られています。南北に長い形をしていて、日が出る方角に向かっています。そのため、農業に向いているといえるでしょう。宮崎県のほどんどのエリアは、かつては日向国(ひゅうがのくに)とよばれていました。まさに日が向く国という意味です。古代より肥沃であったことが容易に想像できます。県の中央部には、4世紀から7世紀の間に築造された西都原(さいとばる)古墳群があります。また、この国から初代天皇となる神武天皇が東征を行い、大和朝廷を設立したいう神話もあります。

宮崎県の範囲と城の位置

西都原古墳群

佐土原城は、日向国の中央部にあった城の一つで、伊東氏の本拠地でした。伊東氏はもとは工藤氏の出で、12世紀に東日本の伊豆半島東部に定住したときに、土地の名前を苗字としました。その世紀の末に鎌倉幕府が設立されて以来、武士たちは幕府により地方に領地を与えられ、その統治のために各地に送られました。伊東氏の支族も同様に日向国に出向きました。行った土地の名前に由来した田島伊東氏が、14世紀に佐土原城を最初に築いたと言われています。

伊豆半島の範囲(青線内)と城の位置

伊東四十八城の頂点

その間、時代は南北朝時代となり、足利幕府は地方支配のために改めて、伊東氏本家から武士を送り込みました。2系統の伊東氏はやがて統合し、佐土原城を本拠として強力な戦国大名に成長しました。15世紀から16世紀の戦国時代の間、伊東氏は南から進出してきた島津氏と日向国をめぐって戦いを繰り広げました。当時の当主であった伊東義祐(よしすけ)は相当攻撃的で、1569年に南日向の主要な城である飫肥城を陥落させました(島津氏の依頼による将軍家の仲裁にも耳を貸さなかったそうです)。この時点が彼の絶頂期であり、日向国に48もの城を有していました(伊東四十八城と称されます)。そして、その頂点に佐土原城があったのです。城下町は国府のように繁栄し、九州の小京都とも言われました(義祐は高位の官位を取得し、京風の文化や町割りを導入しました)。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
飫肥城跡

佐土原城は基本的に、南九州型城郭の一つとされています。このタイプの城は、この地方で山あるは丘のように見えるシラス台地上に築かれました。シラス台地は、古代の大噴火によって噴出した火山灰によって形作られています。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用して城を築きました。自然の地形を加工すれば、容易に強固な防御システムを構築することができたからです。例えば、深い空堀、曲輪下に高く立ちはだかる壁、狭く防御に優れた門などが土を加工して作られたのです。このような城の代表例として、知覧城、飫肥城、そして佐土原城が挙げられます。

佐土原城の大手口
知覧城の空堀 (licensed by PIXTA)

伊東崩れにより城は島津氏のものに

しかし、伊東義祐の栄光は長く続きませんでした。1573年の島津氏との木崎原の戦いでの敗戦をきっかけに、義祐は伊東四十八城を一つ一つ失っていきました。島津の勢いと伊東の凋落は、次々に部将たちの離反を招きました。彼は佐土原城に籠って抗戦できないか思案しましたが、状況はそれさえも許しませんでした。彼は城を後にせざるをえず、家族とわずかな供回りとともに日向国から北の、同盟者の大友宗麟が治める豊後国に逃れていきました。この出来事は「伊東崩れ(または豊後落ち)」と呼ばれました。彼らはついには全てを失い、やがて漂泊者となりました(大友宗麟が伊東救援を名目に島津氏と戦った耳川の戦いに大敗したことで居場所を失いました)。義祐は1585年に放浪の途中で亡くなってしまいますが、息子の祐兵(すけたけ)は天下人の豊臣秀吉に仕え、1588年には日向国の飫肥城への帰還を果たします。

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐土原城は必然的に島津氏のものとなりました。島津氏の下で城が改修され、頂上に天守が作られたとされていますが、いまだ事実としては確定していません。天守があったとしたら、日本最南端の天守であったろうと言われています。1600年に、城主であった島津豊久が関ヶ原の戦いで戦死してしまった後は、城は一旦幕府直轄となり、その後は島津以久(もちひさ)とその後継者が佐土原藩として江戸時代末まで統治しました。持久の息子、忠興(ただおき)は山上の城を廃し、山麓に御殿を築き、そちらに移りました。シラス台地にある城を維持するのは大変な困難を伴い、平地にある館の方が平和な江戸時代における統治に適していたからです。

佐土原城の天守台跡
島津以久の肖像画、東京大学史料編纂所データベースより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
歴史資料館として復元された山麓の御殿

「佐土原城その2」に続きます。

198.知覧城 その1

シラス台地の特徴を生かして築かれた城

立地と歴史

知覧の名産名所

鹿児島県に属する南九州市の知覧地区には多くの名産名所があります。まず最初に挙げられるのは知覧茶でしょう。知覧茶は、南九州に分布する火山地帯からの火山灰が広範に降り積もったことで形成されたシラス台地上で栽培されています。南九州市は2017年、日本茶を最も多く産出した地方自治体となりました。

南九州市の茶畑  (licensed by Ray_go via Wikimedia Commons)

次には、知覧飛行場での神風特別攻撃隊の歴史も有名になっています。特攻隊の歴史は悲劇の一つと言えるでしょうが、この場所自体は台地上で風向きにも恵まれいて、飛行場の建設に適していました。もともとこの飛行場は通常の陸軍航空隊の練習用に使われていたのですが、第二次世界大戦の戦局の悪化のため、特攻隊基地になってしまったのです。

知覧基地で特攻隊員の宿舎となった三角兵舎

三番目としては、台地の麓に広がる平地部分にある知覧武家屋敷群が観光名所となっています。この一帯には多くの庭園といくらかの現存建物もあり、昔の雰囲気を残しています。武家屋敷通りはまるで江戸時代そのままのように見えます。この屋敷群は、知覧を含む薩摩国の領主であった島津氏の一族である佐多氏によって築かれました。島津氏による薩摩藩は知覧からは遠くにある鹿児島城を本拠地としていました。当時の他の藩は通常、藩士たちを本拠地があるところに集住させていましたが、薩摩藩は「外城(とじょう)」と呼ばれる独特の仕組みを採用していました。それは、藩士の多くを辺境の地に送り込み、自分たちで統治と防衛を担わせるというものでした。知覧武家屋敷群は外城の一つであり、知覧麓(ちらんろく)とも呼ばれました。

知覧武家屋敷通り (licensed by Naokijp via Wikimedia Commons)
鹿児島城跡
代表的な外城の一つ、出水(いずみ)外城の模型、鹿児島県歴史・美術センター黎明館にて展示

シラス台地を利用して築城

最後になってしまいましたが、知覧城は上記3つの名産名所に比べたら知られていないでしょう。しかし佐多氏はもともと、台地の麓の屋敷群に移るまではこの城を居城としていたのです。この城は一種の山城であり、戦国時代の16世紀までは武士たちが住み且つ身を守るために通常取っていた手段でした。ところが、この城は知覧という地域が有していた特殊な条件を使ったとてもユニークな方法で築かれていました。城は、まるで入り江のようにも見えるシラス台地の端に位置していました。火山灰によって成り立つ台地はもろく崩れやすく、その端の部分は崖になります。また、この台地の土は加工しやすく、そのため知覧城の築城者は高い壁や深い堀を比較的簡単に作れたのです。その結果、この城の曲輪群は台地の端にそそり立つ巨大な柱のような景観となりました。

城の位置

知覧城跡の航空写真、南九州市ホームページより引用

知覧城には、中心にある本丸等の4つの主要曲輪とその周りの補助曲輪から成り立っていました。それぞれの曲輪は独立していて、25m以上の深さの空堀に囲まれていました。もし敵が城の頂上部分と同じ高さの台地上から城を攻撃しようとしても、その深い空堀のために直接攻撃することは不可能でした。25m以上上の方から反撃を受けてしまうことになります。主要曲輪の中には、桝形と呼ばれる人工的に作った防御システムを持っているものもありました。これは、曲輪の入口のところにある四角い空間で、意図的に曲輪への通路が内部にまっすぐ入らないようにしたものです。

城周辺の起伏地図

知覧城縄張り図、南九州市ホームページより引用

城の歴史

この城は最初は14世紀に佐多氏によって築かれたと言われています。その後、伊集院氏が15世紀に城を含む知覧地域を佐多氏から奪いました。しかし、主君である島津氏が取り返し、佐多氏に返しました。1591年、佐多氏は海賊禁止令に違反したかどで罰せられ、城からも追放されてしまいました。ところが、1610年にはまたこの城に復帰します。最終的には同じ頃に失火により城が焼け、藩の方針に従う形で台地の麓に移住していきました。知覧城はやがて廃城となりますが、佐多氏は何らかの形で城跡を維持していたようなのです。発掘により、廃城の後の江戸自体の陶磁器が現地で見つかっているからです。

知覧城跡

「知覧城その2」に続きます。