23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

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小田原城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

Leaflet, © OpenStreetMap contributors
赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

203.前橋城 その1

前橋市といえば群馬県の県庁所在地で人口約33万人の都市です。しかし、となりの高崎市の人口は約37万人でこちらの方が多く、且つ新幹線駅など交通の要衝となっています。なぜこれら2つの都市がこのような形で並び立っているのか、他県の人からすれば、不思議かもしれません。細かい経緯はともかく、前橋に今の地位は、前橋城とそれにまつわる自然と人々の活動がなければ、なかったものと思われます。

立地と歴史

利根川によって生まれた「厩橋城」

前橋市といえば群馬県の県庁所在地で人口約33万人の都市です。しかし、となりの高崎市の人口は約37万人でこちらの方が多く、且つ新幹線駅など交通の要衝となっています。なぜこれら2つの都市がこのような形で並び立っているのか、他県の人からすれば、不思議かもしれません。細かい経緯はともかく、前橋の今の地位は、前橋城とそれにまつわる自然と人々の活動がなければ、なかったものと思われます。

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前橋城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
前橋市の範囲と城の位置

前橋城そのものの話をする前に、その立地を説明する必要があります。前橋城は、旧利根川の流路に残された崖(東側)と、現在の利根川の流路が作った崖(西側)に挟まれた台地上に築かれたからです。中世の途中まで利根川は、前橋市街地の東側、現在の広瀬川の辺りを流れていたと言われています。そのルートは一定ではありませんでしたが、前橋台地の北から東側の崖を形成しました。その崖は、後の前橋城の境界線として活用され、現在は馬場川などの用水路のルートとして残っています。その旧利根川が1427年(応永34年)、400年に一度とされる大洪水によって、西側を流れるルートに変わりました。当初は細く浅いものでしたが、その後度重なる洪水により拡大していきました。その結果、台地の西側にも崖ができ、自然の要害として、城を築くには格好の場所となったのです。

前橋城周辺の地図(Google Mapを利用)

前橋城を最初に築いたのは、全語句時代の1500年前後に、箕輪城を本拠としていた長野氏の支族であるとされています。その際、現在も城の周辺を流れている風呂川を、用水路として開削したと言われています。城があった台地は、周りの自然の川より標高が高く(十数m程度)、そこからの取水が難しかったからです。この城は、当初は厩橋(まやばし)城と呼ばれていました。これまで、この名前は、奈良時代にこの地域にあった東山道の駅家「群馬駅」に由来すると言われてきました。「厩(うまや、駅家の意味)」にあった「橋」という組み合わせです。しかし「厩橋」という地名は戦国時代より前の記録にはなく、読み方も「まやばし」または「まえばし」でした。そこから考えられる別の説としては「むまやはし(崖地の谷の端の意味」」「前方にある端(はし)」というのがあります。これであれば、前橋城の立地と一致することになります。

長野氏の本拠地、箕輪城跡
城の北側を流れる風呂川

上杉謙信によりメジャー化

1560年(永禄3年)、城にとって画期的な出来事が起こりました。越後国(現在の新潟県)の戦国武将、上杉謙信が本格的な関東地方への侵攻(「越山」)を開始したのです。謙信はそのとき、自身の関東地方の根拠地として、厩橋(前橋)城を選んだのです。彼は都合17回の越山を行いましたが、毎回もこの城に滞在し、ときにはそこで年を越したりました。なぜこの城を選んだのか不明ですが、関東経営を行うための地理的な条件もあったのでしょうが、やはり地形的に要害堅固だったことがあったと思われます。謙信は、厩橋城を重臣の北条(きたじょう)高広に任せますが、高広は北条(ほうじょう)氏に転じ、城も北条氏の勢力下に入ってしまいます。その後、徳川家康が関東地方を領有し、天下を取ると、家康はこの城を重臣の酒井氏に任せました。酒井氏の時代に、城の名前は「厩橋」から「前橋」に定められました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が、前橋城のことを「関東の華」と呼んだという有名なエピソードがあります。しかし、少なくとも江戸時代の資料には「関東の華」という表現は見られないそうです。その代わりに、1740年代に酒井家が前橋から姫路に移ろうと画策したとき(1749年に実現)、それに反対した家臣の言い分として家康の言葉が記録されています。前橋城は「二つと無き城」であるというものです。もう少し長めに引用すると、家康は「前橋城は、江戸城と同じ曲輪の配置で築いた城なので2つとはない城である」と言ったということです。江戸城は、家康の入城以降、半世紀以上をかけて巨大城郭となりましたが、当初は半島状に突き出た崖がある台地上に築かれました。「同じ曲輪の配置」とは、どの時点のどういった視点なのかわかりませんが、同じような堅固な立地であるという意味であれば、大変興味深いことです。しかし、台地が突き出る方向が、江戸城は下流の南であるのに対し、前橋城は逆で、上流の北であったため、これがその後の困難につながることになります。

江戸城周辺の地図(Google Mapを利用)

「前橋城」最盛期からどん底へ

酒井氏(酒井雅楽頭家)は江戸時代前期、前橋城主として前橋藩を統治し、幕府の幹部も輩出しました。特に酒井忠清は、大老として4代将軍・徳川家綱を補佐しました。前橋城は、初期の頃から西の利根川を背に、本丸・二の丸・三の丸があったと考えられています。謙信の時代までに水曲輪、金井曲輪などが加わり、酒井氏の時代に一番外側の伯耆曲輪が築かれ、最大となりました。本丸には、三層三階の天守がそびえていました。しかし、守りの要である利根川は、度々洪水を起こし、城にとって脅威ともなりました。1706年には、本丸西側の曲輪群が洪水により崩壊してしまいます。利根川の氾濫は、藩内の農業生産にも打撃を与え、藩の財政も悪化しました。そのため、酒井氏は領地替えを幕府に嘆願し、1749年に姫路藩(姫路城)に移っていきました。

酒井氏時代の前橋城絵図 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前橋城天守の想像図(現地説明板より)

代わりに前橋藩主となったのが、結城松平氏(松平大和守家)でした。しかし、前橋城崩壊の危機的状況は変わらず、ついに1767年、藩主の松平朝矩(まつだいらとものり)は、幕府の許可を得て、当時領地の一部にあった川越城に本拠を移しました。そして、1769年には前橋城は廃城となり、建物は取り壊されました。前橋には、領地を管理するための陣屋が置かれましたが、現地の状況は悪化するばかりでした。

川越城本丸御殿

地域再生と「再築前橋城」

その状況を救ったのが、前橋藩改め川越藩の郡奉行(行政官)の安井与左衛門でした。
「前橋の恩人」とも称されています。彼は、1833年に前橋に赴任し、民政や治水で大きな功績を残しました。例えば民生面では、1835年から発生した天保の大飢饉のとき、与左衛門は藩士用の備蓄米を領民に配布することを訴え、実現させました。治水という観点では、前橋は以前にも増して、危機に瀕していました。利根川が蛇行することにより、用水路の風呂川のすぐ近くまで迫っていたのです。風呂川が破壊されると、前橋の農業生産は大打撃を受けることになります。与左衛門は6年を費やして、利根川の流れをまっすぐに変える大工事を行いました。併せて川岸に護岸のための石堤も築きました。この取り組みは、目下の危機を回避させただけでなく、後の前橋の発展につながるきっかけとなりました。

安井与左衛門が着任したときの前橋の状況(Google Mapを利用)
安井与左衛門の顕彰碑
与左衛門が築いたといわれる石堤

1854年に日本が開国し、1858年に欧米諸国との通商条約が結ばれると、国際貿易が行われるようになりました。日本からの輸出品の第1位は生糸で、安くて高品質であると好評を得ました。生糸の主な産地の一つは前橋のある上野国(現在の群馬県)で、後には世界遺産になっている富岡製糸場も設立されます。前橋には有力な生糸商人たちがいて、貿易によって莫大な利益を得ていました。そのとき彼らが実現しようとしたのが「前橋城の再築」でした。彼らにとっては城というより、地元に藩庁があった方が、商売上都合がよかったからではありますが。商人たちは莫大な献金を行い、その金額は城の建設費だけでなく、窮乏していた藩財政の足しになる程でした。藩にとっても、藩庁を内陸部に移すことで、幕府から命じられていた品川台場などの沿岸警備の負担を逃れられるとの思惑がありました。幕府としても、幕末の混乱状況のなか、江戸城に危機が生じた場合の代替拠点として価値を感じたようです。そして、1863年に城の再築が許可され、1867年に城は完成、藩主の松平直克が移ることで「前橋藩」が復活します。川越城は、別途設立された「川越藩」として、松井松平家に引き継がれました。

品川台場跡

再築前橋城は、以前の前橋城と同じではなく、まず本丸は以前の三の丸だったところに作られました。利根川の浸食により、東側に後退した位置となったのです。近代的な砲撃戦の標的となってしまう天守は作られず、城の中心は本丸御殿でした。本丸や大手門など城の要所の土塁の上には、砲台が作られ、西洋式の要素も取り入れられました。ところが、明治維新が城の完成の翌年に起こり、1871年の廃藩置県により、完成からわずか4年で取り壊しとなってしまったのです。

新旧前橋城の範囲の比較(Google Mapを利用)
再築前橋城の本丸御殿(前橋県庁庁舎として使用されていた頃) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本丸の砲台跡

「前橋城その2」に続きます。

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201.武蔵松山城 その3

戦国時代の関東地方の3大英雄、上杉謙信・武田信玄・北条氏康が、同じ戦いで一同に会した(または会しそうになった)のは、この城でのケースだけだったのではないでしょうか。

特徴、見どころ

防御の要、三ノ曲輪

次の三ノ曲輪は幅広い曲輪で、防御の要の位置にあるように見えます。進行方向左側(南側)にはこの城には珍しい土橋を経由して馬出しが設定されています。

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三ノ曲輪
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

現地案内図に、三ノ曲輪から馬出し、腰曲輪、二ノ曲輪に向かう通路へのルートを追記(赤矢印)
三ノ曲輪
三ノ曲輪から馬出しに至る通路
馬出し

更にその先には腰曲輪があるのですが、ほぼ通路のみという細さでまるで壁のようになっています(但し曲輪の上も周りも藪に覆われていて、外観上よくわからなくなっています)。腰曲輪の端の下方には井戸があったそうです。

腰曲輪の上は藪に覆われています
腰曲輪の外側も藪です

馬出しからは細い通路も出ていて、二ノ曲輪へのバイパスになっています。いずれも、防衛用と連絡用の用途で使われたと思われます。

馬出しから二ノ曲輪に向かう通路
通路から二ノ曲輪に向かう階段

二ノ曲輪から本曲輪へ

次の二ノ曲輪とその内側の空堀は、山頂の本曲輪を囲い込むように作られています。二ノ曲輪と本曲輪との間の空堀は城では最大のもので、双方を行き来するのにかなりのアップダウンを要します。

現地案内図に、三ノ曲輪から二ノ曲輪、二ノ曲輪から本曲輪に向かうルートを追記(赤矢印)
三ノ曲輪から二ノ曲輪へ
二ノ曲輪
二ノ曲輪から本曲輪との間の空堀を見下ろしています
空堀の底

そして本曲輪に到着です。曲輪の内部にはコンクリートの基礎が残っていて、現代になって神社が建てられ、そして撤去された跡です。(現代の搦手道はその神社の参道のようです。)ここでは発掘が行われ、土塁跡、火災や再造成の痕跡が見つかりました。また、本曲輪側からは二ノ曲輪に向かって櫓台が張り出しています(この上に城址碑があるのですが、2024年2月時点では立入禁止になっています)。

本曲輪に向かって登ります
本曲輪
コンクリートの基礎は神社跡
本曲輪から張り出している櫓台
2017年時点の櫓台跡の城址碑

本曲輪からの眺めは、周りに繁茂している木々のため、それ程よくありません。中心となる曲輪だけあって、近くの根古屋道沿いには兵糧倉跡、搦手道沿いには太鼓曲輪など、籠城を想定した名前の曲輪が連なっています。

本曲輪からの眺望
本曲輪と兵糧倉跡を結ぶ土橋
兵糧倉跡
城跡の搦手口

その後

武蔵松山城が廃城となった後、城があった地域は天領(幕府の直轄領)となりました。江戸時代には、城の城下町は宿場町として繁栄します。その後は川越藩領になり、最終的に前橋藩領となったときには飛び地であることから、町中に松山陣屋が置かれました。武蔵松山城跡はそのまま放置されていたようで、私有地(耕地)となっていましたが、主要部は1926(大正14)年に県の史跡に指定されました。その一方で、周辺部の曲輪群は戦後に市街地として開発され、その一部は武蔵丘短期大学のキャンパスとなっています。史跡に指定された区域では2003(平成15)年から発掘調査が2回行われています。その結果、武蔵松山城跡は2008(平成20)年に、菅谷館(城)跡、杉山城跡、小倉城跡とともに「比企城館跡群」として国の史跡に指定されました。

松山陣屋跡
かつて曲輪の一つだった武蔵丘短期大学
城跡から発掘された遺物、吉見町埋蔵文化財センターにて展示

関連史跡、名物

・吉見百穴(よしみひゃくあな)
武蔵松山城跡に隣接する吉見百穴は、古墳時代後期の横穴墓群です。加工しやすい凝灰岩の岩山の斜面に多数の墓穴が掘られ、その数は219個に及ぶとされています。当初は緑泥片岩で作られた蓋で覆われていましたが現在では失われ、山に多くの穴が開いているのが見えて、とても奇抜です。墓に使われたと判明したのは大正時代のことで、江戸時代には不思議な穴として「百穴」と呼ばれていました。武蔵松山城が現役だった戦国時代にはどうだったのでしょうか。一説には、武田信玄が城を攻めたときに、百穴を見て城の岩山を掘る戦法を思い付いたとされています。吉見百穴は第二次世界大戦中に都市部の空襲が激しくなったとき、地下軍需工場として利用されました(その箇所は2024年4月現在立入禁止)。軍需工場建設の際は、武蔵松山城跡も工区に含まれ、近くまで入り組んでいた市野川の流路が変更されました。

吉見百穴
戦国時代にこれらの穴は見えたのでしょうか
地下軍需工場跡
左側が現在の市野川、右側の道路が元の流路

・石戸城跡
謙信が武蔵松山城救援のために着陣した石戸城の跡は、現在の北本市石戸宿(住所地)にあります。その名の通り、鎌倉街道の宿場町の北側にあり、西側を流れる荒川(当時は入間川)の河岸段丘上にありました。また、東側は沼沢地であり、現在では北本自然観察公園になっています。まさに、交通の便と防御力を兼ね備えた城だったのです。この城は15世紀中頃に太田氏によって築城され、本拠地の岩槻城と武蔵松山城の中継地点として使われました。謙信が武蔵松山城を救援するための拠点として相応しい場所です。現在は藪に覆われた曲輪が堤防上の道沿いに残っているだけですが、立地の良さを実感できます。また、東側の自然観策公園内に、北条氏がこの城を攻めたときに一晩で築いたと言われる「一夜堤」があります。自然の障壁に守られていた城であったことがわかります。

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石戸城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
石戸城周辺の地図

石戸城跡
堤防沿いの荒川旧流路
一夜堤

・やきとり(やきとん)
東松山市の名物の一つにやきとり(やきとん)があります。「やきとり」といっても、豚のカシラ肉を串焼きにして、みそだれをつけて食べるものです。昭和30年代に、当時は高級品だった肉としては安く手に入ったカシラ肉を、うまく活用して広まったそうです。

東松山名物「やきとん」

私の感想

岩山の上の城であるにもかかわらず、とことん土造りにこだわっているところが、いかにも東国の城らしいと思いました。しかも防御のため、ほぼ空堀や切岸の築造に特化しているのが潔く、弱点(高さがあまりない)を克服し、利点(激しいアップダウンで敵を疲弊させる)にしていることに敬意さえ覚えます。しかし1点だけお願いしたいことがあるとすれば、この城の歴史をもっとPRしていただきたいことです。戦国時代の関東地方の3大英雄、上杉謙信・武田信玄・北条氏康が、同じ戦いで一同に会した(または会しそうになった)のは、私が知る限り、この城でのケースだけだったのではないでしょうか。それ以外にも、この城には多くのエピソードがあります。それらを知ってもらうことで、この城の魅力がより広まるのではないでしょうか。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏康肖像画、小田原城所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉見百穴から見た武蔵松山城跡

ここに行くには

車で行く場合:関越自動車道東松山ICから約5kmのところです。吉見百穴の駐車場を使える他、搦手口近くに小さいですが駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、東武東上線東松山駅から「鴻巣免許センター」行きバスに乗り、「百穴入口」または「武蔵丘短大前」バス停で降りてください。

吉見百穴駐車場
搦手口近くの駐車スペース

リンク、参考情報

比企城館跡群松山城跡、吉見町
松山城跡(比企城館跡群)、東松山市観光協会
・「松山城合戦/梅沢太久夫著」まつやま書房
・「謙信越山/乃至政彦著」ワニブックス
・「歴史群像50号、戦国の堅城 武州松山城」学研
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「企画展 戦国の比企 境目の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
・「関東の名城を歩く 南関東編/峰岸純夫・齋藤慎一編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第107号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「武蔵松山城その1」に戻ります。
「武蔵松山城その2」に戻ります。

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