183.久留米城 その3

久留米はユニークな文化を発信しています。

その後

1871年の事件(久留米藩難事件と呼ばれています)の後、久留米城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されるか売られていきました。本丸の石垣でさえ売却され、持ち出されるところでした。ところが、地元の有志たちがこの状況を憂え、その石垣を買い戻したのです。そのおかげで、われわれが今日城跡の石垣を見ることができるのです。そして、1877年には本丸に篠山神社が設立されました。1983年以来、城跡は福岡県の史跡に指定されています。

篠山神社
巽櫓跡の石垣

私の感想

久留米藩に関連して、他の場所で見られる他の見どころを紹介させてください。久留米藩の藩主は、他の大名と同じように2つの住居を持っていました。一つは久留米にあり、もう一つは江戸です。水天宮が、久留米から江戸にあった藩邸に勧請されました。そして民衆にも公開され、大変な人気となりました。当時このようなことはとても珍しかったのです。水天宮は現在の東京でも人気のある観光地になっています。

浮世絵に描かれた久留米藩上屋敷、二代歌川広重「東都名所芝赤羽根増上寺」、藩邸は右側、出典:国立国会図書館
東京にある現在の水天宮  (licensed by tak1701d via Wikimedia Commons)

有馬頼寧(よりやす)は有馬家第15代目の当主で、20世紀に競馬やプロ野球(東京セネタースを設立)などのスポーツ振興に尽くしました。日本でメジャーな競馬レースである有馬記念は、彼の功績にちなんで名づけられました。

有馬頼寧  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:九州自動車道の久留米ICから数分のところにあります。本丸の東側下に観光客向けの駐車場があります。その場所は、かつては蜜柑丸という曲輪でした。
公共交通機関を使う場合は、久留米駅から歩いて約20分かかります。
東京または大阪から久留米駅まで:山陽新幹線に乗るか飛行機で博多駅まで行き、そこから九州新幹線か特急に乗ってください。

駐車場入口
蜜柑丸にある駐車場

リンク、参考情報

久留米城跡、久留米観光コンベンション国際交流協会
・「よみがえる日本の城20」学研
・「日本の城改訂版第50号」デアゴスティーニジャパン
・「知るっぱ久留米、久留米入城400年」ドリームスFM

これで終わります。ありがとうございました。
「久留米城その1」に戻ります。
「久留米城その2」に戻ります。

183.久留米城 その2

城の石垣がいまだに健在です。

特徴、見どころ

本丸に残る素晴らしい石垣

現在、久留米城跡として本丸のみが残っています。城跡には城の建物はありませんが、その石垣がいまだにほとんど元のまま残っています。この曲輪はそれ程大きくはなく、南北約150m、東西約100mの大きさです。このような限られたスペースに、7基もの三階櫓が全て二階建ての多聞櫓によってつながっていたことを想像するだけでも驚きです。今、この曲輪には有馬氏を祀る篠山神社があります。

城周辺の地図

本丸だけ残る久留米城跡
篠山神社

南側の新しい石垣

この曲輪の正面は南を向いていて、神社の入口にもなっています。唯一残っている水堀がこの方角にあります。15mの高さがある素晴らしい高石垣を見ることができます。この南側の石垣は、四角に成形された石を整然と積んで築かれており、布積みと呼ばれる方式です。この方式は、この城の他の石垣より新しいもので、有馬氏によって築かれたと考えられます。

南側の入口
南側の高石垣

この石垣の上には、3基の三階櫓(巽(たつみ)櫓、太鼓櫓、坤(ひつじさる)櫓)が立っていました。特に、巽櫓は最も大きく、城のシンボルとして天守の代わりとなっていました。

巽櫓跡
巽櫓跡下の石垣

本丸の内部

舗装され左側に曲がる通路上にある冠木御門(かぶきごもん)跡を通ってこの曲輪に入っていきます。この通路の途中には、桝形と呼ばれる四角い防御のための空間があったのですが、この通路が舗装されたときに一部改変されてしまい、今でははっきりとは見ることはできません。

冠木御門跡
本丸に入っていきます

本丸には、篠山神社とは別に有馬記念館があり、有馬氏の事績を展示しています。この記念館は、坤櫓と西下櫓の跡地にあります。他の櫓跡の上または傍らには地元の歴史に関する記念碑があります。例えば、太鼓櫓跡には1871年藩難事件の犠牲者の追悼碑(西海忠士之碑}があり、その周辺からは素晴らしい高石垣を間近に見ることができます。

太鼓櫓跡
太鼓櫓跡にある西海忠士之碑(右側  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)
太鼓櫓跡から見た高石垣

また、艮(うしとら)櫓跡の傍らには旧日本陸軍の「菊歩兵第五十六連隊記念碑」があり、その周辺からは筑後川を眺めることができます。

菊歩兵第五十六連隊記念碑
艮櫓跡
筑後川の眺め

東側の古い石垣

本丸の東側でも、素晴らしい石垣を見ることができます。こちらの石垣は、粗く加工された石を積み、その隙間を小さい石を埋める方式で築かれました。この方式は打ち込みハギと呼ばれます。一方この石垣の角部分は、長方形に加工された石を互い違いに積む算木積みという方式で築かれています。これらの方式は、本丸の南側よりも古いものであり、これらの石垣は毛利氏か田中氏によって築かれたとも考えられます。

東側の石垣
角部分の算木積みの石垣

こちら側には月見櫓跡の傍らに、もう一つの入口が石段とともにあります。これもまた、こちら側がもともと本丸の正面だったときの正面口だったのかもしれません。櫓跡からは、かつては城の水堀であった、久留米大学のグラウンドが見えます。

月見櫓跡
月見櫓脇の東側入口
久留米大学のグラウンド

「久留米城その3」に続きます。
「久留米城その1」に戻ります。

183.久留米城 その1

築後国の重要な城

立地と歴史

有力大名の係争地

久留米城は、九州地方の現在の福岡県南部、当時は筑後国と言った場所にありました。戦国時代の16世紀後半、北部九州地方には2つの有力な戦国大名が大きな勢力を持っていました。一つは、筑後国の東にある豊後国を本拠としていた大友氏、もう一つは筑後国の西の肥前国にいた龍造寺氏です。その結果、筑後国はこの2つの戦国大名の争いの場となりました。この時代に、篠原(ささはら)城と呼ばれた砦のような城が、後の久留米城と同じ場所に築かれました。このような経緯の中で、この城の主は頻繁に入れ替わりました。

筑後国の範囲と久留米城の位置

毛利秀包、有馬氏によって城が完成

豊臣秀吉による天下統一がなされる過程で、1587年に毛利秀包(ひでかね)がこの城の城主に抜擢されました。彼は城の大改修を行い、名前を久留米城と改めました。ところが、彼は1600年の関ヶ原の戦いの敗戦(敗れた西軍に味方したため)により改易となってしまいます。その代わりに、岡崎城の城主あった田中氏が、筑後国の柳川城主として移ってきました。久留米城は、柳川城の支城となり、1615年には徳川幕府により発せられた一国一城令により廃城となってしまいました。その後、田中氏も跡継ぎがないことで改易となってしまい、今度は有馬氏が久留米藩の藩主として1621年に久留米城を再建します。有馬氏は、久留米城を完成させ、江戸時代末期まで藩を統治しました。

毛利秀包肖像画、玄済寺所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

久留米城は、城の北側から西側に流れる筑後川沿いにありました。城の東側は、筑前堀など三重の水堀によって囲まれていました。城下町は、城の南側に建設されました。四つの曲輪が水堀によって隔てられており、外郭、三の丸、二の丸、本丸が城下町のとなりから北に向かって一列に並んでいました。敵が城を占領しようとする場合、最初に城下町を攻撃し、そして曲輪を一つずつ攻略しなければなりません。本丸のみが高石垣によって作られており、その他の曲輪は土造りでした。本丸は、城の一番北側の丘の上にあり、御殿と、防御のための櫓が7つもありました。櫓は皆三階建てであり、二階建ての多聞櫓によって連結されていました。その姿は実に壮観だったことでしょう。

久留米城絵図、出典:国立国会図書館、曲輪名は当方が加筆

神道が広まり、藩と城の運命を左右

久留米藩の統治は、平和な江戸時代の間は総じて安定していました。この時代には日本の主要な宗教の一つ、神道が広まりました。神道の主な教義の一つとして、天皇を敬うということがあり、後の尊王攘夷運動につながりました。この運動はやがて幕末において討幕運動に至ります。多くの神道の信者が久留米に住んでおり、他の地域の神道信者と交流していました。例えば、有名な勤皇家の一人、高山彦九郎は久留米を3回訪れ、1793年ここで亡くなりました(幕府に目を付けられ、知人宅で自ら命を絶ちました)。久留米水天宮の神官であった真木和泉は、1864年の禁門の変に加わりました(攘夷派の長州側に参戦しましたが敗れました)。

京都にある高山彦九郎像  (taken by あじのすけ from photoAC)

しかし久留米藩は、新政府が幕府を倒した明治維新において、主導的な役割を果たせませんでした。藩の中で激しい内部抗争が行われたからです。藩は、新政府に対してもその開国方針に異議を唱えたりしました(明治になってから攘夷派が藩の実権を握ったためです)。ついには、藩主が罰せられてしまい、1871年には政府によって久留米城が占拠されました。そのときをもって、城の歴史が終わりました。

久留米城の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「久留米城その2」に続きます。