129.龍岡城 その2

五芒星の形がまだ残っています。

特徴、見どころ

学校の敷地となっている城跡

現在、龍岡城跡は田口小学校として使われていますが、五芒星の形の外周に今でも囲まれています。地元の人たちはこの城跡をよく「龍岡五稜郭」という名前で呼んでいます(五稜郭そのものが星形城郭という意味です)。城跡は桜の名所でもあります。城跡がこのような使われ方をしているため、「五稜郭であいの館」という名のインフォメーションセンターなどビジター向け施設は城跡の外側に設けられています。

城周辺の航空写真

五稜郭であいの館

ビジターは通常まず大手門跡に行くと思いますが、ここには亀甲積みや跳ね出しなどこの城では最も精密が石垣が集まっています。水堀を渡る木製の橋が復元されていて、古式ゆかしい雰囲気を感じます。城跡にはあと2つの入口があります。黒門跡と通用門です。

大手門跡
大手門跡の石垣
水堀と石垣
通用門

城の周りを歩く

この城跡自体がそんなに大きくありませんので、その外周を気軽に巡ってみることができます。城の裏側に向かって歩いているうちに、堀が尽きてしまっていたり、石垣の作りが粗くなっているのに気が付かれるでしょう。これは実のところ、城の建設が予算不足か他に優先事項があったために中途半端で終わってしまったからなのです。城跡の周辺には私有地もありますので、そちらには立ち入りしないようにしましょう。

城の裏側の石垣
ここから先は私用地です

唯一の現存建物

小学校の校舎や校庭を除いて、城跡の中にも入って行くことができます。その城跡の内側を眺めてみると、城の星形の形は基本的に土造りだということがわかると思います。城の中で唯一の現存建物が御台所(おだいどころ)です。この建物はもともと御殿の一部だったのですが、学校の建物や倉庫に転用され、最終的には史跡として現在の位置に移されました。グループで且つ事前に予約した人のみが中を見学できます。

城跡の内側
内側から見ると土塁で囲まれています
現存する御台所

展望台から城跡を眺める

龍岡城はフラットに設計されているので、今日のビジターはその形を今一つつかめないかもしれません。そこで、城跡の北約500mのところにある五稜郭展望台に行ってみることをお勧めします。実はその場所は、田口城という戦国時代にあった別の城跡でもあるのです。そこでは、いくつもの土造りの曲輪を見ることができます。

城周辺の起伏地図

五稜郭展望台
田口城跡

もちろん、そこからは素晴らしい五芒星形の城の姿をはっきりと眺めることができます。ここは恐らく以前からこの辺りの地域を見渡すには最適な場所だったのでしょう。もし、江戸時代末期にこの城を攻撃する砲手であったなら、ここから容易に照準を定めることができたでしょう。

展望台から見た龍岡城
大手門跡付近
御台所

「龍岡城その3」に続きます。
「龍岡城その1」に戻ります。

129.龍岡城 その1

二番目の五稜郭

立地と歴史

将軍家の親族、松平家

龍岡城は、現在の長野県にあたる信濃国にありました。この城は江戸時代末期に築かれ、北海道の五稜郭とともに、日本で2つしかない星形城郭の一つとなります。この城を作ったのは、龍岡藩の藩主であった松平乗謨(まつだいらのりかた)です。実はこの時代には、徳川幕府将軍家の親族である、数多くの松平家が存在していました。「徳川」という苗字は、将軍になる資格がある数少ない家系にのみ使用が許されていました(いわゆる徳川宗家、御三家、御三卿)。それ以外の徳川の親族は「松平」と苗字を名乗りましたが、この苗字は初代将軍の家康が「徳川」を名乗り始めるまで、もともと使っていたものだったのです。

松平乗謨写真、明治時代  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この松平家(氏)は大体のところ、3つに分類することができます。1つめのグループは、家康か他の将軍の子どもたちから由来するもので、例えば福井城にいた越前松平家や若松城にいた会津松平家がそれに当たります。彼らは将軍家からとても信頼されていて、多くは広大な領地や巨大な城を有していました。2つめのグループは、家康が生まれる前から存在していた家系で、十八松平とも称されます。実は家康も、このうちの一つ、安城松平家(あんじょうまつだいらけ)出身なのです。彼らも家康の親戚であることには変わらないのですが、家康にとっては競合する相手になりうる存在だったため、1つめのグループよりは信頼されていなかったようです。その結果、2つ目のグループの多くは領地が小さく、その規模の制限から城を持てないこともしばしばでした。最後のグループは、家康や他の将軍と直接の血のつながりはないが、特別な事情により松平姓の使用を許された人たちです。

福井城跡
若松城

松平家の一人、乗謨が築城

松平乗謨は、上記のうち2つ目のグループに属しており、彼の家系は大給松平氏(おぎゅうまつだいらし)とも呼ばれていました。大給は彼らの発祥の地であり、その地名が他の多くの松平氏と区別するためにも使われているのです。実は、大給松平氏自体も長い歴史のうちにいくつもの支流が生じていました。乗謨は、奥殿藩(おくとのはん)の藩主でしたが、藩の石高はわずか1万6千石であり、城を持つことは許されていませんでした。更には彼の領地は、三河国(現在の愛知県の一部)の奥殿の小さい領地と、龍岡の大きな領地に分割されていました。藩は奥殿を本拠地にしており、そのため奥殿藩と呼ばれていたのですが、藩主は奥殿陣屋と呼ばれた御殿に住んでいました。

復元された奥殿陣屋  (licensed by Bariston via Wikimedia Commons)

この状況は、日本がいくつかの西洋諸国に対して開国した1854年に変わりました。幕府はこれらの国からの脅威に対抗するため、大名たちへの規制を緩和したのです。乗謨は優れた政治家であり、多くの西洋の文物を学んでいました。彼はこの新状況を、幕府の新しい政策に従い、これまで学んだ知識を使って何かできるチャンスであると考えました。その一つが、本拠地を大きな方の領地である龍岡に移すことであり、もう一つが彼自身の城を築くことでした。それが龍岡城です。

城の位置

乗謨の試みは幕府に承認され、城の建設は1864年に始まりました(公式にはまだ陣屋ということにされました)。この城は西洋式城郭として設計され、星の形のように五つの稜堡(りょうほ)を備えていました。城の形は乗謨の構想に基いており、敵の攻撃がどの方向から来たとしても城を守れるように考えられました。この五芒星(ごぼうせい)の形をした城は、全て当時最新の石垣に囲まれており、亀甲積みや跳ね出し(一番上の列の石垣がはみ出して作られ、敵の侵入を防ぐもの)といった技術が採用されていました。また、水堀が城全体を囲んで掘られ、大砲が全ての稜堡の内側に設置される予定でした。城の内部には、領主のための御殿と練兵場がありました。城はついに1866年に完成し、これは1864年に北海道に築かれた最初の星形城郭として知られる五稜郭に次ぐものでした。乗謨は大変満足し、地元の民衆を招待し、城を見学させたりしました。そして、彼が藩主を務める藩の名前は、龍岡藩と改められました。

龍岡城の平面図、現地説明板より
龍岡城の石垣
北海道にある五稜郭

実験的要素が多い城

しかし、実際には城にはいつくもの弱点もありました。第一に、龍岡城は五稜郭よりもずっと小型でした。その全長は150m程で、約300mの五稜郭の約半分であり、面積では約4分の1でした。石垣の高さは3.5mで堀の幅は最大でも約10mでした。これでは戦国時代であっても不十分だったでしょう。堀は城の全周の3分の2しかカバーしておらず、大砲は1つの稜堡にしか設置されませんでした。その上にこの城は、城から約500m離れた山の上から大砲により容易に砲撃できる位置にあったのです。これらの事実をどう捉えればよいのでしょうか。恐らく乗謨は、この城を戦いにために使うことを想定しておらず、藩の権威を高めることや新技術を導入するための実験場として使ったものと思われます。その後すぐに明治維新を迎えたため、この城の歴史は数年で終わりました。

堀幅は大きくありません
裏側は堀なし

城周辺の起伏地図

「龍岡城その2」に続きます。

3.松前城 その1

城の時代の終末期に築かれた、独特な城

立地と歴史

幕末になって築かれた城

松前城は、江戸時代まで蝦夷と呼ばれた北海道の南端にあった城です。その江戸時代には松前藩だけが北海道全島を支配していました。そこには主に多くのアイヌ民族の人たちが住んでいたからです。この時代を通じて日本全国には200を超える藩が存在しており、米の収穫高1万石以上の領地を有する領主だけが藩を有する大名とされたのです。ところが、北海道の寒冷な気候のため、当時の松前藩では米がとれませんでした。その代わりとして藩維持のために、幕府によりアイヌ民族と独占的に貿易を行うことが認められていました。その結果、幕府は特例として松前藩を独立した藩とし見なしました。一方、松前藩は当初城を持つことは許されませんでした。城を持つにはもっと大きな石高か格式が必要とされたためです。よって、松前藩は藩主が住む御殿を持つことだけを許され、その館は幕末近くまで、松前藩の本拠地として福山館と呼ばれました。

城の位置

1849年、藩主の松前崇広(まつまえたかひろ)は突然幕府から新しい城を築くよう命じられました。その当時としては大変珍しいことでした。これは、外国船が頻繁に日本周辺に現れるようになり、国の安全を脅かすことになりかねない状況が原因でした。松前藩の本拠地は北海道と日本本土の間の津軽海峡に面していて、これら外国船が通行することが考えられました。幕府は、松前藩に海岸防備の拠点として新しい城を築くことを期待したのです。崇広は城の立地と設計を、有名な軍学者だった市川一学(いちかわいちがく)に依頼しました。一学は、新しい城を築くのに本拠地を函館の方(庄司山周辺、後の五稜郭よりもっと山側)に移すことを提案しました。彼は、松前は緩やかな坂の途中に立地しているため、城を築くには不適格と考えたのです。ところが、費用がかかりすぎることと、愛着ある松前から離れたくないという理由から、藩はその提案を拒絶しました。最終的には城は福山館を建て替える形で1855年に築かれ、館は松前城と改名されました(別名として福山城ともいいます)。

松前崇広写真、1864年頃  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

旧来の日本式と、近代的な特徴が混在

松前城は、いくつかに分かれた曲輪上に石垣とともに天守、櫓、門などを築く日本式城郭としては最後の方に作られた城の一つです。実際にこの城には、三層の天守、門、藩主の御殿があった本丸がありました。いくつもの櫓が築かれた二の丸は、本丸の下の方に作られました。城の正門(沖ノ口門)があった三の丸は更に下方にありました。内堀と外堀がこれらの曲輪の間に掘削されました。一方、この城はいくつもの進化し且つ特徴的な点がありました。三の丸には7つの砲台が海の方に向かって設置され、海防の役割を担っていました。二の丸にあった太鼓櫓などの櫓群は、砲台の指揮所として使われました。城の石垣は、亀甲積みと呼ばれる精密な石積みの方法を用いて築かれました。しかし、天守台の石垣はあまり高くなく、3mくらいしかありませんでした。沖の船からの射撃の的になることを防ぐためです。天守の壁も砲撃に耐えられるよう厚く作られました。

現地に展示してある城のジオラマ
現在ある復元天守、右側が本丸御門
松前城の古写真、左側が太鼓櫓、右側が天守、現地説明板より
亀甲積みの石垣、搦手二ノ門周辺

明治維新での戦いで2度の落城

この城での最初の戦いは1868年の明治維新の最中に起こりました。しかし、外国船相手ではなく、日本人の軍勢との戦いでした。榎本武揚に率いられた旧幕府軍が本州から北海道に逃れてきて、函館の五稜郭を占領し、彼らの本拠地としました。そして土方歳三が率いる軍勢と艦隊を松前城に派遣してきたのです。攻撃側と守備側は、最初のうちは互いに砲撃戦を行い、城の外にある砲台からの射撃により、旧幕府軍の一隻(蟠竜丸、ばんりゅうまる)が損傷により退避したほどでした。しかし土方が、城の側面(東側の馬坂口)と背面からも攻撃を行いました。実は背面がこの城の弱点だったのです。もともと緩やかな斜面の上に作られた城であったため、攻撃側は背面から攻撃するのが容易です。それに加えて、松前藩は海に面した正面の方の築造に多額の費用をかけ、背面はほぼ放置した形になってしまっていたのです。城はついに落城してしまいました。

榎本武揚写真、1868年  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
五稜郭
土方歳三写真、田本研造撮影、1868年  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
蟠竜丸写真、1868年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
城の馬坂口、赤丸の部分

松前藩士たちは本州の青森の方に逃げていましたがその翌年、新政府軍の力を借りて松前城を奪還し、雪辱を果たそうとしていました。彼らはそのときには、旧幕府軍よりも強力な武装を備え、近代化された艦隊を伴っていたのです。そして北海道に再上陸し、戦いを重ねながら松前城に迫りました。ついに松前藩士たちは城のもう一方の側面(西側の湯殿沢口)から城に突入し、旧幕府軍の守備側は降伏することになりました。

城の湯殿沢口、赤丸の部分

「松前城その2」に続きます。