185.唐津城 その2

今この城は現代的な観光地となっています。

特徴、見どころ

見栄えのする模擬天守

現在、唐津城は現代的な観光施設として、一般に公開されています。城がある地に向かった場合、まず山の上に立つ五層の模擬天守が見えてくることでしょう。この天守は実際には近代的ビルであり、この城が作られた当時よく見られた天守の形式(慶長様式と呼ばれています)に似せて作られています。この城に本当に天守があったかいまだ不確かではありますが、とても見栄えがします。

山の上に再建された唐津城

城周辺の航空写真

もし車で行かれるのでしたら、松浦川の河口沿いにある駐車場を使うことができます。その駐車場から道路を渡って行くと、城の入口に着きます。左手に二の丸の素晴らしい石垣を目にすることができます。そこにはかつて藩庁と二の丸御殿がありましたが、現在は学校の敷地ととなっています。

駐車場から見える模擬天守
二の丸の石垣

天守に登り、素晴らしい景色を堪能

観光客は通常、坂口門跡から城の中心の方に行きます。長い石段を登って二の曲輪に向かいます。二の曲輪の入口は防御のため、桝形と呼ばれる石垣に囲まれた四角い空間になっています。この曲輪は本丸のとなりにあり、そこからは模擬天守が乗っている天守台石垣を見上げることができます。そして、復元された本丸櫓門を通って本丸に入ってきます。

坂口門跡から伸びる長い石段
二の曲輪入口
二の曲輪から見上げた天守台石垣と模擬天守
復元された本丸櫓門

代わりに、山の麓からエレベーターを使ってもっと簡単に本丸まで行くこともできます。この城自体が現代的な施設として整備されているからです。模擬天守は、歴史博物館と展望台として使われています。天守の中では、城のことや唐津市の文化について学ぶことができます。

本丸行きのエレベーター
本丸内部
博物館、展望台として使われている模擬天守

最上階では、唐津市域全方位の景色を堪能することができます。例えば、東の方角には松浦川の河口を越えたところの海岸沿いに美しい松林が見えます。これは、虹の松原と呼ばれ、寺沢広高が開発させたものです。実は、この展望台がある山は、城が築かれる前はその松林がある海岸につながっていました。そして、北の方角には玄界灘が、南には市街地が、西の方には海岸沿いにもと城だった区域を見渡すことができます。

虹の松原を含む東側の景色
北の玄界灘
西側に見える砂浜と二の丸
南側に見える市街地と松浦川

城らしさを求め周辺を散策

唐津城が過去どのようであったのかもっと知りたければ、現在ある城の周りを歩いてみてはいかがでしょうか。例えば、海岸に沿って山の麓部分を歩いてみることができます。この部分は腰曲輪と呼ばれていて、海の方から敵が攻撃してくるのを防ぐため、石垣の上に櫓がいくつも築かれました。現在石垣は残っており、その上には近年に漆喰塀がいくらか復元されています。その石垣は波打ち際に建てられており、城を強固に守っていたことがわかります。

山麓に位置する腰曲輪
櫓跡の一つ
波打ち際に築かれた石垣

また、山から西の方にある砂浜に沿って歩いて行くこともできます。この辺りは二の丸であり、多くの武家屋敷が建てられていました。現在では市街地となっていますが、この曲輪に沿って長く石垣が残っているのがわかります。更には、二の丸と三の丸を隔てる水堀や、二の門跡では復元された太鼓櫓を見ることができます。

長く続く二の丸の石垣
二の丸、三の丸間の堀
復元された太鼓櫓

「唐津城その3」に続きます。
「唐津城その1」に戻ります。

36.丸岡城 その1

越前国北部にあった城

立地と歴史

柴田勝豊が戦国時代に築城

丸岡城は、現在の坂井市にあたる、越前国の北部にありました。この城には日本に12基ある現存天守のうちの一つがあります。この城は、最初は戦国時代の1576年に柴田勝豊によって築かれました。彼の親族である柴田勝家が越前国を領有しているときでした。1583年に柴田氏が羽柴秀吉に倒された後は、松平氏などいくつかの氏族がこの城を所有しました。この城の初期の頃について詳細は分かっていませんが、その頃から初代の天守がそこにあったと考えられています。初代天守のために作られた現存する石垣が、現在ある天守より古いものだからです。

城の位置

丸岡城の現存天守
丸岡城天守の石垣

本多成重が丸岡藩として独立

1624年、松平氏の家老であった本多成重(なりしげ)が丸岡藩の創始者として、独立した丸岡城城主となりました(彼の父、本多重次が家族に宛てた手紙が「日本一短い手紙」として有名であり、現在の丸岡城でも顕彰されています)。彼は城の大改修を始め、現在ある天守の再建築などを行いました。この改修は、成重の息子の代になって完了しました。

天守内にある本田成重のイラストレーション(左側、右側は父親の本多重次)

天守がある本丸は丘陵の上にありました。二の丸御殿がある二の丸は、本丸脇の平地にありました。これらの曲輪は、内堀に囲まれていましたが、その内堀は五角形のような形をしていました。この堀の形は、敵が攻めてきたときに、その敵を混乱させるためにこのようになったと言われています。また、武家屋敷があった三の丸と外堀が、内堀の更に外側にありました。

天守内にある城の模型(左側が本丸、右側が二の丸)
越前国丸岡城之絵図、江戸時代(出展:国立公文書館)

有馬氏が幕末まで統治

1695年、本多氏はお家騒動のために徳川幕府により改易となってしまいます。その後、有馬氏が丸岡城と丸岡藩の領主となりました。有馬氏は、江戸時代末期まで城を維持し、藩を統治しました。(キリシタン大名として有名な有馬晴信の家系に当たります。)

有馬氏の家紋、有馬瓜  (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

「丸岡城その2」に続きます。

138.越前大野城 その2

城と城下町両方に行ってみましょう。

特徴、見どころ

4つの登山道

現在、越前大野城は山上にある亀山公園の一部となっています。山頂にいくには4つの登山道があります。4つのうち、1つだけが元からあった道で、百閒坂と呼ばれ、急で曲がりくねっています。

城周辺の地図

百閒坂

緩やかな道を登っていきたければ、南登り口など他の登山道を選ぶこともできます。15分から20分くらいの登りになります。もし、南登り口から登ったとすると、登山道を歩いた後石段を上がっていくと頂上の本丸に到着します。

南登り口からの登山道
本丸に至る石段
本丸に到着します

古い石垣と復興天守

本丸は全体を古い石垣に囲まれていて、これはもとは金森長近が築いたものです。この石垣は、野面積みという古い方法により、自然石を使って積み上げられています。野性的で粗野にも見えますが、巧みに築かれています。一部分は、現代になって城の建物が再建されたときに積み直されているようです。

本丸を囲む石垣
復興天守と石垣

石垣の上には、1968年に建てられた復興天守が乗っています。その天守は、館が組み合わされたようなオリジナルの天守とは違う姿をしています。通常日本人がイメージしている典型的な高層の塔の姿です。このような天守が建てられたのは、おそらくこの地方の人たちがそう望んだからなのでしょう。天守の建物は、実際には現代的なビルで、歴史博物館や展望台としても使われています。その中で、この城のことをより学ぶことができます。

オリジナルとは違う形の復興天守
天守内部

最上階からは、古くからの城下町や越前大野城の前に使われていた城があった戌山など、大野市一帯の素晴らしい眺めを楽しめます。

天守からの眺め(戌山側)
天守からの眺め(城下町側)

山麓の見どころ

山麓には、他にも城に関する見どころがあります。二の丸には、「めいりん」という複合教育施設があります(藩校の「明倫館」が名前の由来とのこと)。小学校や公民館などが含まれています。その施設の前には、短いですが水堀(百閒堀)の一部分が残っています。

天守から見た二の丸
二の丸と百閒堀

近くには、大野藩の家老であった内山氏の屋敷が復元されています。また、周辺には田村氏の武家屋敷が現存しています。

内山家の復元屋敷
田村家の現存屋敷

魅力的な城下町

お時間があれば、古くからの城下町を歩いて回られたらいかがでしょう。例えば、商店街の七間通りでは、朝市が真冬期を除いて毎日開催されています。寺町の近くには、「御清水(おしょうず)」という有名な湧水池があります。ここの水は、城主ご用達だったとのことです。この町には多くの湧水池があり、城下町として最初に開発されたときから生活用水として使われてきました。

七間通り
御清水

また、いくつかの場所では道がジグザグに作られており、これは敵が城を簡単に攻撃できないように作られた仕組みです。

ジグザグに作られた町の通り

「越前大野城その3」に続きます。
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