20.佐倉城 その1

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。

立地と歴史

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。例えば、佐倉市西部には、臼井城があり、1566年(永禄9年)に有名な臼井城の戦いが起こりました。関東地方の制覇を狙う上杉謙信勢が、北条氏を後ろ盾とした千葉氏の家臣・原胤貞が立て籠もる臼井城を攻撃しましたが、大損害を被り撤退したことで、失敗に終わります。この戦いは謙信の数少ない敗北の一つとされ、その後の彼の関東経営は後退を余儀なくされました。その千葉氏の本拠地・本佐倉城(もとさくらじょう)は、佐倉市の東境周辺にありました。「本佐倉城」とは戦国時代末期からの呼び名(天正18年5月2日付浅野長吉・木村一連署添状が初見)なので、元来こちらの方が「佐倉城」だったのでしょう。現在の佐倉城を語るには、千葉氏の「本佐倉城」から始めた方が分かりやすいと思いますので、この記事では「佐倉城前史」の記述から始めます。

臼井城跡
本佐倉城跡

佐倉城前史

千葉氏は、平安時代後期以来、下総国(ほぼ千葉県北部)周辺を支配する豪族でした。頼朝の鎌倉幕府創業のときに貢献した千葉常胤(ちばつねたね)が有名です。千葉氏は各地に一族を送り込み反映しますが、惣領家は現在の千葉市にあった亥鼻城(いのはなじょう、別名千葉城)を長い間、本拠地としていました。1455年1月(享徳3年12月)に享徳の乱が起こると、関東地方が戦国時代に突入します。関東公方(後の古河公方)の足利氏と、関東管領の上杉氏が戦うようになり、千葉氏も巻き込まれました。その混乱の中で亥鼻城が荒廃したため、千葉氏は新たな本拠地を築きました。それが本佐倉城で、遅くとも1484年(文明16年)には存在していました(下記補足1)。この城は、下総台地が入り組んだ丘の上にあり、当時は周りを印旛沼や湿地帯に囲まれていました。以前の城よりは防御力に優れていたのです。また、城の南側に下総街道が通り、印旛沼は霞ケ浦に通じ、「香取海(かとりのうみ)とも呼ばれ、水上交通にも利用できたため、同盟関係にあった古河公方とも連絡が容易な立地でした。

(補足1)文明十六年甲辰六月三日佐倉の地を取らせらる。庚戌六月八日市の立て初め、同八月十二日御町の立て初め也。二十四世孝胤の御代とぞ。(「千学集抜粋」)

千葉常胤蔵、千葉市立郷土博物館にて展示
本佐倉城の全景(現地説明パネル)

しかし16世紀(1500年代)になると、状況が変わってきます。北条氏が、相模国(神奈川県)から関東全域に勢力を伸ばしてきたのです。千葉氏の内部でも対応を巡って争いがありましたが、重臣の原氏を中心に北条氏に傾きます。房総半島では里見氏が勢力を伸ばしていて、上杉謙信と同盟していました。そういう状況の中で、起こったのが臼井城の戦いでした。謙信は関東地方の諸将に動員をかけ、北条氏の本拠・小田原城を囲んだ時以上の軍勢だったとも言われますが、城の攻略に失敗したのです。その城の城主、原胤貞は、重臣の原氏の当主だったので、その勢力はより高まったことでしょう。千葉氏の本拠地・本佐倉城はそのおかげで無事だったのです。一方、惣領の千葉氏には本拠地を移す動きもありました。その候補地が、下総台地の西端の「鹿島台」と呼ばれた場所でした。後に佐倉城が築かれるところで、本佐倉城と臼井城の中間地点に当たりました。臼井城の戦いの10年以上前の当主・千葉親胤(ちかたね)が築城を始めたと伝わります(下記補足2)。しかし1553年(弘治3年)に家臣に殺され、頓挫しました。

(補足2)親胤或時新城を築きて之に居らんと欲し、近隣の南方に土木工事を興して、既に竣成に至 りしも、未だ果さざる事ありて、暫く鹿島大与を此所に居らしむ。即ち此の城を名づけて鹿島の新城といひ、旧城を本佐倉城と稱し、代々の菩提所海隣寺を新城の傍に移せり。(「千葉伝考記・巻四」)

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
千葉親胤肖像画、久保神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

16世紀末期になると、北条氏が下総国の支配を強めるため、千葉氏の内部に介入してきます。当主・千葉邦胤(くにたね)の正室は北条氏政の娘(芳桂院(ほうけいいん))でした。そして北条氏の意向として、鹿島城(鹿島台の城)の築城を再開しますが、1585年(天正13年)に邦胤まで家臣に殺されてしまい、また頓挫したと言われています。その後北条氏政が佐倉の直接支配に乗り出し、邦胤と芳桂院の娘(東(とう))の婿として、氏政の息子・直重(なおしげ)を千葉氏の後継者としました。そして直重夫妻の居城として、また鹿島城の築城を行ったと伝わります(下記補足3)。

(補足3)氏政の末子を申受け、十二歳の姫に娶せ申し、「家督相続すべし」とて、天正十三年十一月、本佐倉は城地狭きため、神(鹿)島山今の佐倉へ、城地取立て、北条の威勢にて(中略)十一月廿二日に企て、廿三日普請始め、十二月十二日に屋形塀等大半出来、同十五日には十二歳の姫君并に母君御移し申し、其の後氏政の末子を小田原の本家へ引取られ、実子亀若丸を重胤と号し、佐倉城へ引取可申之処、俄に小田原陣始まり、小田原北条氏政の味方して籠城し給ふ。其の時亀若丸六歳なり(「妙見実録千集記」)

北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

これら一連の鹿島城伝承の検証は困難です。後の佐倉城と場所が重なってしまっているからです。中世の空堀跡が見つかっていることから、少なくともここに築城しようとしたことは確かでしょう。鹿島へ本拠地を移転しようとしていたならば、その理由にの一つには本佐倉城よりも敷地が広かったことが挙げられるでしょう。それから、北条氏の立場からは、西の方角への防御力に優れた鹿島城は、豊臣軍の西からの攻撃に備えるためとは言えないでしょうか。直重は、1590年(天正10年)の小田原合戦のとき、小田原城での籠城を命じられました。千葉氏は邦胤のもう一人の息子(側室の子)重胤(しげたね)が最後の当主となりますが、北条氏の滅亡とともに改易となってしまいました。重胤も小田原城に籠城したという記録があります(「総葉概録」など)。

現在の佐倉城跡(三の丸前の馬出し)
現在の小田原城

土井利勝による佐倉城築城

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、佐倉地域には一族(武田信吉、松平忠輝)や家臣(酒井家次など)が配置されますが、短期間で入れ替わったため、拠点整備には至りませんでした。1610年(慶長15年)家康は、土井利勝を本佐倉城に入れ、旧鹿島城の地に、新城と城下町を建設することを決めました。この新城が佐倉城です。この城には、家康が創設した江戸幕府の本拠地・江戸城の東方を守る役割を課せられました。江戸城が西から攻められたときに、東からバックアップし、将軍の避難場所とするための城だったと言われています。旧鹿島城の地はそれに相応しかったのでしょう。

土井利勝肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その任務を帯びた土井利勝は、徳川家康・秀忠・家光の3代に重臣として仕え、幕府の安定化に貢献しました。利勝は、家康が浜松城主時代の1573年(元亀4年)に生まれました。その出自にはいくつか説があります。1つ目は、幕府の系譜書(「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」)によると土居小左衛門利昌の子、2つ目は、幕府の正史「徳川実記」新井白石「藩翰譜」などによる家康の母・於大の方の兄、水野信元の子とするものです(下記補足4)。最後は土井家の「土井系図」で、そこでは何と家康のご落胤としているのです(下記補足5)。

(補足4)利勝實は水野下野守信元の子なり。さる御ゆかりを思召れての事なるべし(「徳川実記」)

(補足5)利勝公 実家康君之御子也 天正元癸酉年三月十八日於遠州浜松御城御誕生号松千代殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究(「藩祖・土井利勝」所収)によると、以下のような見解も出されています。「利勝が家康から賜った水野家の家紋(沢潟紋)入りの短刀があり、それは於大の方が実家から持参したもので、実際には家康の子であることを示すものだった。利勝の孫・利益(とします)が、当時地位が落ちていた土井家の状況を鑑み、自ら信元説(2つ目)を流した。ところが、その後幕府から利勝の生母について問合せがあり、そのときの当主・利里(としさと)が真相を回答し、幕府は公式見解は改めないものの、黙認したので、土井家の系図に残した。」というものです。利勝は7歳にして、家康の子・秀忠の傅役に任命されました。目を懸けられていたことは確かでしょう。そしてそのまま秀忠の側近(老職)となるのです。

土井利益肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関東創業時の家康には、最有力の側近として、本多正信・正純父子と大久保忠世・忠隣父子がいました。ところが、1614年(慶長19年)大久保長安の不正蓄財事件をきっかけに、大久保忠隣が失脚します。家康と正信の没後は、本多正純が抜きん出た形になりましたが、それに対抗したのが秀忠の側近、酒井忠世・土井利勝などでした。1622年(元和8年)今度は正純が失脚(改易)しますが、利勝ら側近たちが関与していたとも言われています。決断は将軍・秀忠によるものですが、そのお膳立てが、忠隣のときの意趣返しのように仕組まれていたからです。双方とも反乱を防ぐため、出張した時に言い渡されているのです。利勝は、次の将軍・家光の時代にも、自らが亡くなるまで元老として、家光の側近・松平信綱(川越藩主)、稲葉正勝(小田原藩主)、堀田正盛(後の佐倉藩主)らとともに、幕政に関わりました。やがて老中・若年寄の集団指導体制が確立され、幕府政治が安定していきます。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利勝が幕閣にいた頃は、内部抗争もあり、大物大名改易、一国一城令、参勤交代、御三家創設、鎖国政策など、幕府による統制が進んだ時代だったので、彼には冷酷な権謀術数家とのイメージもあります。しかし一方では、海外を含む情報通(「コックス日記」)であり、実直な人柄でもあったようです(下記補足6)。その利勝が7年かけて作った城が佐倉城なのです。利勝は、1633年(寛永10年)には古河藩に加増移封となり(14万2千石→16万2千石)、古河城も大拡張しました。

(補足6)土井大炊殿、いよいよ御出頭にて候、拙老も節々参会申し、別して御意をえ申し候、我等旅宿へも御出候て、しみじみと放(話)申し候、ことのほかおくゆかしき御分別者に見および申し候、両御所様(家康・秀吉)御見立の仁に候あいだ、申しおよばざることに候、今は出頭一人のようにあいみえ申し候、人の申すことをも、こまごまと御聞候、寄特に存じ候ことに候。(金地院崇伝)
私はキャプテン・アダムス(三浦按針)とニールソン君を伴ってオイエン(土井利勝)殿のところへ赴いたが、運良く彼が彼の自宅の前を通りに出たところで出くわして、閣下に皇帝(秀忠)から我々のための我々の事務処理を受けて欲しいと願ったところ、彼はすぐにも処理すると約束し、我々がそんな長く滞在していることを恥ずかしく思うとの由で、しかもその上彼が私には感謝していると私に告げた。(「コックス日記」1618年11月4日)

佐倉城の特徴

広い台地上に築かれた佐倉城には、いくつも特徴がありました。まずは、その台地の自然の地形を巧みに利用したことでしょう。台地は麓から約20メートルの高さがあり、南と西を高崎川と鹿島川に囲まれ、自然の要害となっていました。加えて、台地を水堀でも囲みました。台地上の西の先端に本丸を構え、二の丸・三の丸・惣曲輪などを周りに配置しました。そして、東に向かって巨大な大手門や空堀などを作り、防衛体制を固めたのです。城下町や武家屋敷は、その更に東側の台地上に建設されました。成田街道もその城下町を通るように設定されました。つまり城と町を丸ごと、台地の上に作ってしまったわけです。

下総国佐倉城図、出展:国立国会図書館デジタルコレクション
大手門の古写真、現地説明パネルより
現存する空堀

次に挙げられるは、石垣を使わない土造りの城だったことでしょう(土塁、空堀、切岸など)。小田原合戦のとき秀吉が初めて、関東地方に本格的な総石垣造りの城を作りました(石垣山城)。それ以来、関東地方にも石垣を使った城が多く現れます(江戸城など)。しかし佐倉城は、関東地方ならではの、土造りの城のスタイルを継承していました。同様の例としては、川越城宇都宮城があります。一方で、城の防衛システムには、当時最新の仕組みが取り入れられていました。例えば、三の丸の門の前には「馬出し」と呼ばれる突出した防衛陣地が2ヶ所設けられていました。また、三の丸の周りの惣曲輪(東惣曲輪と椎木曲輪)は広大で、武家屋敷の他、練兵場に用いられ、多くの兵が駐留できるようになっていました。更には、台地の斜面には帯曲輪があって兵の移動が容易であり、その先の台地の西と東に出丸もあって、防衛の拠点になっていました。

石垣山城跡
佐倉城天守土台
現在の宇都宮城
佐倉城の帯曲輪
佐倉城の出丸

3つ目は城の建物についてです。本丸には高さ約22メートルの3層4階(+地下1階)の天守が建てられました。築城時期から考えると、佐倉城だからこそ許されたのでしょう。江戸城の三重櫓を移築したものとも言われています。江戸後期に盗賊による失火で焼失したため詳細は不明ですが、土井利勝が古河に移ってから建てた御三階櫓とほとんどサイズが一緒のため、似た外観だったと考えられています。本丸には他に、銅櫓と角櫓がありました。内部には本丸御殿(御屋形)がありましたが、徳川家康が休息して以来、通常は使われませんでした。藩主は代わりに通常は二の丸御殿(対面所)を使っていました。幕末になり老朽化すると、三の丸外に新たに御殿が建てられました。

佐倉城天守模型、佐倉城址公園センターにて展示

土井利勝が古河に移った後は、譜代大名が頻繁に入れ替わり、佐倉藩主(城主)となりました。
利勝以後の藩主または大名家を記載します。
・土井利勝(1610年〜):老中、後に大老
・石川忠総(1633年〜)
・形原松平家2代(1635年〜)
・堀田家2代(1642年〜):正盛が老中・将軍家光に殉死、正信が無断帰国で改易
・(大給)松平乗久(1661年〜)
・大久保忠朝(1678年〜):老中首座
・戸田家2代(1686年〜):忠昌が老中、忠真が寺社奉行・後に老中
・稲葉家2代(1701年〜):正往が老中
・大給松平家2代(1723年〜):乗邑が老中首座、
・堀田家6代(1746年〜):正亮(老中首座)、正順(京都所司代)、正睦(老中首座)
幕府の幹部、老中を多く輩出した藩であるため、佐倉城は「老中の城」とも呼ばれています。
江戸時代後半からは安定し、堀田家が幕末まで、藩主を務めました。
その中で、幕末に藩政改革や幕府の老中の職務を通して、開国方針を貫いた堀田正睦(まさよし)を取り上げてみたいと思います。

開国に尽力した堀田正睦と佐倉城

正睦は1810年(文化7年)生まれで、32歳のとき本丸老中となり、幕府中枢のメンバーになりましたが、ときの老中首座・水野忠邦と反りが合わず、2年余りで辞職しました。このとき将軍に直接ものが言える「溜の間」格になったことが、阿部正弘や井伊直弼とのつながりができ、後に老中に再任され、彼の開国の業績につながったという見方があります。

堀田正睦 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正睦は老中になる前から、三の丸御殿に藩士を集め、藩政改革を宣言し、推進していました。その柱は「文武奨励」「兵制改革」「医学奨励」「民政改革」でした。兵制改革については、城中に西洋砲術の練習場を作り、ついには旧来の火縄銃を廃止し、いち早く西洋式の兵制に改めました。また、側近の渡辺弥一兵衛の癰(よう、腫れ物)が蘭方医の治療により完治したことから、西洋医学(蘭学)を導入し、江戸から名医・佐藤泰然を招きました。泰然は佐倉の城下町で佐倉順天堂を設立します(後の順天堂大学病院にもつながります)。佐倉はやがて長崎と並ぶ蘭学の地と称され、正睦もまた「蘭癖」というニックネームが付きます。佐倉の城と町は、正睦の改革の発信基地となったのです。

佐藤泰然 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、ペリーが来航(1853年)すると、老中首座の阿部正弘は、広く開国について諮問を行いました。正睦の回答は、当時としては思い切った開国通商論でした(下記補足7)。そのせいなのか、1855年(安政2年)彼は突然老中首座に抜擢されました(実権はまだ阿部正弘にあり)。翌年には「外国事務取扱(外交専任老中)」となり、またその翌年には阿部の死により名実ともに幕閣のトップになりました。彼の大仕事の一つが、アメリカ総領事ハリスへの対応(江戸出府問題)と通商条約の交渉でした。正睦は積極的開国派であったので(下記補足8)、ハリスの江戸城での将軍徳川家定への謁見を実現し、日米修好通商条約の交渉を進めました。交渉役には、叩き上げの優秀な官僚(岩瀬忠震・井上清直)を任命しました。内容的には、関税自主権がないなど不平等条約であったり、通貨交換規定が不備であり金が国外に大量流出することになります。しかし、神奈川(横浜)を開港場とするなど評価できる点もありました。

(補足7)彼に堅牢の軍艦これ有り、我が用船は短小軟弱、是彼に及ばざる一ツ。彼は大砲に精しく、我は器機整わず二ツ。彼が兵は強壮戦場を歴、我は治平に習い自ら武備薄く是三ツ。右三ツにて勝算これ無く候間、先ず交易御聞届け十年も相立ち、深く国益に相成らず候わば其節御断り、夫までに武備厳重に致し度候。夫とも国益に候わば其儘然るべきや。(「正睦伝」)

(補足8)怖れ乍ら神祖遠揉の御盛意在らせられ、慶長五年泉州に渡来仕り候阿蘭陀人英吉利人の船、江戸表へ廻され御城に召され、九カ年の遺留をも御許容もこれ有り。(中略)鎖国の法には戻られ難く存じ奉り候間、国初めの御旧例に依らせられ、異邦の御処置首尾全く御変革遊ばされ、其段海内へ御演達これ有り、公平に隣国和親の礼儀を以って、亜国官吏速やかに江戸表へ召され、登城御目見え仰付けられ、神祖遠揉の思召の如く、御懇篤の御処置御座候わば、礼儀は勿論道理も全備仕り候間、彼も是までの意匠を改め、自然感心悦服仕り、却って御益得もこれ有るべきやに存じ奉り候。(「外交関係文書」之十六)

阿部正弘肖像画、福山誠之館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
タウンゼント・ハリス (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約交渉は終わっても、もっと大変だったのが、幕府内での承認でした。創業時と違い、幕閣トップであっても重大案件は、同僚の老中だけでなく、御三家、溜の間格など関係有力大名に根回しをする運用になっていたのです。前任者の阿部正弘は周りに気を使い、周到に事を進めることに長けていました。一方、正睦は口下手だが意思を込めて淡々とことを進めていくタイプでした。実際、有力大名18名のうち賛成はわずか4名でした。そこで正睦が考えたのが、これまで必要なかった天皇の勅許を得ることでした。1858年(安政5年)正月、正睦は自ら京都に乗り込みますが、勅許獲得は失敗します。孝明天皇の条約拒否の意思が判明したからです(下記補足9)。正睦は将軍に一橋慶喜を推して政局を乗り切るつもりでしたが、それに反対する大老・井伊直弼に罷免されました。

(補足9)日本国中不服ニテハ実ニ大騒動ニ相成候間、夷人願通リニ相成候テハ天下の一大事の上、私の代ヨリ加様の儀ニ相成候テハ後々迄の恥の恥ニ候半ヤ。(「天皇紀」)

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約調印は井伊直弼に引き継がれ、正睦は佐倉に戻り隠居し、城の三の丸に松山御殿を建てて過ごしました。亡くなったのは1864年(元治元年)でした。明治維新後、城跡は日本陸軍第2連隊(後に第57連隊)の駐屯地となりました。その任務の一つは、城と同じく、帝都東京の東方の防衛でした。戦後は中心部分が佐倉城址公園となり、惣曲輪の一つ、椎木曲輪には、国立歴史民俗博物館が建てられてました。城の特徴(台地上の広い敷地)が、現在でも生かされていると言えるでしょう。

三の丸にある堀田正睦像
佐倉城城跡の日本陸軍駐屯地模型、国立歴史民俗博物館にて展示
佐倉城址公園
国立歴史民俗博物館

リンク、参考情報

佐倉城、まちづくり支援ネットワーク佐倉
・「上総下総千葉一族/丸井敬司著」新人物往来社
・「千葉一族の歴史/鈴木佐編著」戒光祥出版
・「佐倉市史」
・「シリーズ中世関東武士の研究 第十七巻・下総千葉氏/石橋一展編著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城2」学研
・「歴史群像65号、戦国の城 下総本佐倉城」学研
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「藩祖・土井利勝/早川和見著」Kプランニング
・「徳川幕閣/藤野保著」吉川弘文館
・「評伝 堀田正睦/土居良三著」国書刊行会
・「佐倉って何?」佐倉国際交流基金ゼミ資料

「佐倉城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

50.彦根城 その1

幕府譜代筆頭、井伊氏の本拠地

立地と歴史

幕府が井伊氏を重要拠点に配置

彦根城は滋賀県の琵琶湖近くにあり、日本では最も人気のある歴史スポットの一つです。ここの天守は、現存12天守の一つであり、国宝5天守の一つでもあります。また、この城には5棟の重要文化財に指定されている建物もあります。城の主要部分も、これらの建物や石垣、その他の構造物とともにとてもよい状態で残っています。そのため、城がある区域は1956年以来、国の特別史跡に指定されています。

彦根城の現存天守(国宝)
彦根城の西の丸三重櫓(重要文化財)

徳川家康と石田三成の間で争われた1600年の関ヶ原の戦いの後、家康は天下人として日本の実権を握りました。家康は重臣の井伊直政を、三成が領していた琵琶湖沿いの地域の領主としました。直政は最初、三成が居城としてた山城の佐和山城にいたのですが、自身の居城としては不十分で、もっと強力かつ便利な城が必要と感じました。その当時は豊臣氏がまだ大坂城に健在で、更に西日本には、徳川ではなく豊臣が主君であると思っている大名が多くいました。彼らが結束して、家康が東日本に設立した徳川幕府を攻撃するかもしれなかったのです。直政の領地は、まさにその東日本への攻撃を防ぐための位置にあったのです。

城の位置

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下普請による築城

直政は1602年に亡くなってしまいますが、彼の息子、直継が新しい城の立地について家康に相談しました。そして、最終的には琵琶湖近くの約50mの高さがある低山上に城を築くことにしました。これが彦根城です。この城の建設は天下普請として行われ、10以上の他家の大名が合力しました。工事の完成を急ぐために、佐和山城など廃城となった城の廃材が活用されました。それでも城の規模が大きいため、1603年の開始以来、工事は長年に渡って続きました。

山上から山麓にかけて広がっている彦根城

城を守り易くするために、天守、御殿、櫓群がまとまって、且つそれらが石垣に囲まれ、山の峰上に築かれました。城の中心部分への敵の侵入を防ぐために、峰の両端周辺には深い堀切が掘られました。その上、5本の長い石垣(登り石垣)が山の斜面に築かれ、敵が(斜面の横方向を)スムースに動けないようにしました。

山上の城の中心部分(現地説明板より)
太鼓丸前の大堀切
大手門奥にある登り石垣

城の中心部分は三重の水堀に囲まれ、大手門はその堀を渡ったところに建てられました。大手門は、南西方向に向いており、その先には豊臣氏がいる大坂城がありました。この方角の堀の更に外側には芹川が流れており、4重目の堀ともいうべきものでした。

「彦根御城下惣絵図」(出展:彦根城博物館)
かつての大手門絵図(現地説明板より)
現在の大手門跡

平和な時代の城に転換

彦根城は、起工から約20年後の1622年に完成しました。ところが、工事期間中の1615年には状況が劇的に変わっていました。その年に徳川幕府が豊臣氏を滅ぼしたのです。その後、工事は彦根藩単独で行われ、居住や統治のための屋敷が作られました。その結果、城主のための御殿が、大手門とは反対側の山の麓に新たに築かれました。御殿に至る門は、まるで新しい大手門のごとく「表門」と呼ばれました。城の周辺には城下町も開発されました。城や町は、水上交通の便をよくするため、水路や内湖を通じて琵琶湖とつながっていました。

復元された御殿
現在の表門跡

幸いにして、平和であった江戸時代を通じて彦根城では戦さは起こりませんでした。城主であった井伊氏は、譜代大名筆頭として幕府中枢でも重要な役目を果たしました。265年間続いた江戸時代の間、10人しか任命されなかった大老の内、5人は井伊氏が輩出したのです。その中で一番有名なのは、何といっても幕末に大老となった井伊直弼でしょう。彼は、1858年に日米修好通商条約を結ぶことによって開国を推し進めました。ところが不幸にも、彼は1860年に江戸城の桜田門外において、反対派の浪人に暗殺されてしまいました。この事件により、徳川幕府の権力、権威は衰えることになり、明治維新へのきっかけとなったのです。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸城桜田門

「彦根城その2」に続きます。

21.江戸城その3~Edo Castle Part3

この城の中心部は、皇居、庭園や公園になりました。
The center of the castle has become Imperial Palace, gardens or parks.

ビル街を背景に桜田門と桜田濠~Sakurada-mon Gate and Sakurada-bori moat with the background of modern buildings

江戸城は内郭と外郭に分かれていました。内郭は内堀の内側にあって城の中心的機能を果たしていて、本丸、北の丸、西の丸といった主要な曲輪から成っていました。その外周は8km近くです。そこには天守、豪華な御殿があり、多くの櫓や門によって警備されていました。現在、内郭は4つの部分に区切られています。一つずつ見ていきましょう。
Edo castle was divided into Naikaku and Gaikaku. Naikaku was the inside of the inner moat, and consisted of the center portion of the castle including primary enclosures such as Honmaru, Kitanomaru, and Nishinomaru. Its perimeter was nearly 8 km. It had the Tenshu keep, luxurious halls, many turrets and gates for security. Now, Naikaku is separated into four parts. Let’s look at each part one by one.

江戸城内郭の4つの部分~The 4 parts of Edo Castle Naikaku(国土地理院航空写真に加筆)

皇居東御苑~Imperial Palace East Garden

ここは、本丸、二の丸、そして三の丸の各曲輪を由来としています。将軍は長年本丸にあった御殿に住んでいましたが、1863年の火災の後は西の丸に移り、本丸には戻りませんでした。明治維新後、明治天皇もまた西の丸に住み続けました。そのため本丸とその周辺は宮内庁によって使われてきました。そして1968年からは、その多くの部分が庭園として公開されています。
It is derived from the enclosures, Honmaru, Ninonaru and Sannomaru. The Shogun usually lived the main hall at Honmaru for many years. But after the fire in 1863, they moved to Nishinomaru, didn’t returned to Honmaru. After the Meiji Restoration, Emperor Meiji also continued to lived in Nishinomaru. So Honmaru and the area around were used for Imperial Household Agency. Many parts of them have lastly been open to the public as the garden since 1968.

皇居東御苑の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace East Garden

・三の丸巽二重櫓:江戸城に現存している4つの櫓のうちの一つです。庭園の外側からは、本丸富士見三重櫓を背景に、素晴らしい姿を眺めることができます。
・Tatsumi two-story turret at Sannomaru: It is one of four remaining turrets in Edo Castle. You can see a great view of the turret with the background of Fujimi three-story turret at Honmaru from outside the garden.

巽二重櫓と富士見三重櫓(背景)~Tatsumi two-story turret with the background of Fujimi three-story turret

・大手門:この門は、江戸城の正門でした。現存するのは一部分で、残りは復元されています。庭園の入り口の一つでもあります。皇宮警察の人たちが荷物チェックをします。この内側が三の丸となります。
・Ote-mon Gate: This gate was the main entrance of the castle. It is partly original and the rest has been restored. It is also one of the entrances of the garden. The Imperial Guards will check your baggage. The inside of the gate is Sannomaru.

大手門~Ote-mon Gate

・大手三の門跡:ここは二の丸の入り口でした。過去には大きな櫓と門の前には内堀がありました。残念なことに全て撤去されてしまいました。
・The ruins of Ote-Sannomon Gate: this was the entrance of Ninomaru enclosure. There were large turrets around and the inner moat in front of the gate in the past. Unfortunately, they have all been demolished.

大手三の門跡~The ruins of Ote-Sannomon Gate
大手三の門の古写真~An old picture of Ote-Sannomon Gate(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・中の門跡:ここは本丸の入り口でした。ここにも建物は残っていませんが、残っている巨大な石垣には驚かれるでしょう。これらの石は、瀬戸内海から運ばれてきたものです。
・The ruins of Nakanomon Gate: this was the entrance of Honmaru enclosure. They also have no buildings, but you will be surprised to see huge remaining stone walls. These stones were brought from Seto Islands Sea area.

中の門跡~The ruins of Nakanomon Gate
中の門の古写真~An old picture of Nakanomon Gate(現場説明版より)

・三つの現存している番所:これらは前述の門の周辺にあります。武士が厳しく訪問者をチェックしていました。その中には忍者もいたそうです。
・The three remaining guard stations: they are around the gates mentioned before. Warriors did security check strictly. Some of them are said to be Ninja.

大手三の門内にある同心番所~The guard station inside Ote-Sannomon Gate
中の門前にある百人番所~The station for 100 guards in front of Nakanomon Gate
中の門内にある大番所~The last guard station inside Nakanomon Gate

・中雀門跡:この門は、本丸御殿に至る最後の門でした。残っている石垣が黒ずんでいるのは1863年の火災による影響のようです。
・The ruins of Chujaku-mon Gate: this gate was the last one that led to Honmaru main hall. Their remaining stone walls look dark that might have been caused by the fire in 1863.

中雀門跡~The ruins of Chujaku-mon Gate
恐らくは火災により傷んだ石垣~The stone walls probably damaged by the fire

・本丸御殿跡:広大な土地に御殿がひしめいていました。ここは今は花と木の庭園になっています。
・The ruins of Honmaru main hall: this spacey area was packed with the hall. They are now used for a garden with flowers and trees.

本丸御殿跡~The ruins of Honmaru main hall
本丸の古写真、1863年の火災後~An old picture of Honmaru enclosure after the fire in 1863(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・富士見三重櫓:江戸城で唯一現存している三重櫓です。三代目の天守が焼けた後は代用天守として使われました。本丸からはその背面を見物できます。
・Fujimi three-story turret: it is the only remaining three-story turret in Edo Castle. It was used as the alternative Tenshu keep after the third Tenshu was burned down. We can see the back side of it at Hommaru.

富士見三重櫓(背面)~Fujimi three-story turret(the back side)
富士見三重櫓の正面~The front side of Fujimi three-story turret(taken by TECHD from photoAC)

・本丸展望台:ここからは二の丸庭園越しに東京中心地の景色を楽しめます。ここには台所前三重櫓がありました。過去には武士たちが見張りをしていたはずです。
・The viewing platform at Honmaru: You can have a good view of the center of Tokyo looking over Ninomaru Garden. The Daidokoro-mae three-story turret was there. Warriors should be likely looking over for security in the past.

本丸展望台からの眺め~A scene from the viewing platform at Honmaru
展望台を二の丸から見上げる~Looking up the viewing platform from Ninomaru enclosure

・天守台石垣:この城には天守がありました。最初の三人の将軍は、先代の天守に代わる自身の天守を築きました。三代目の天守は特に史上最大と言われる程巨大でした。ところが、1657年の明暦大火で焼け落ちてしまいます。その後四代目の天守再建が始まりますが、中止となりました。現在その四代目用の天守台が残っています。
・The stone walls for Tenshu keep: the castle had the Tenshu keep. The first three Shoguns built their own Tenshu instead of using the previous one. The third Tenshu was especially big which might have been the biggest one in history. However, it was burned down by the great fire of Meireki in 1657. After the fire, the rebuilding of a fourth Tenshu was launched, but canceled. We can now see the prepared Tenshu base for it.

残っている天守台~The remaining Tenshu base
二代目または三代目天守、「江戸図屏風」より、17世紀~The second or third Tenshu, from “View of Edo”, in the 17th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

・梅林坂:この城の創始者である太田道灌が梅の木を植え、神社を作った所と言われています。梅林の合間に、より古風な石垣が残ります。
・Bairin (Plum Grove) Slope: it is said that the founder of the castle, Dokan Ota planted plum trees and built a shrine there. We can now see the trees among older looking stone walls.

梅林坂~Bairin (Plum Grove) Slope
古風な石垣~The older looking stone walls

・平川門:ここは城の裏門で、現存しています。この門は、鬼門である東北を向いています。このため、城での罪人はこの門を通して追放されたとのことです。
・Hirakawa-mon Gate: this was the back gate of the castle and remains now. The gate faces the traditional taboo direction – the northeast. For this reason, the offenders in the castle were banished through the gate.

平川門~Hirakawa-mon Gate

皇居外苑~Outer Gardens of the Imperial Palace

ここは「皇居前広場」とも呼ばれています。江戸時代には「西の丸下」と呼ばれており、多くの大名屋敷が建っていました。明治時代に皇室の園地となりましたが、市民にとって親しみのある場所でもありました。皇居がすぐ近くに見えるからです。第二次世界大戦が終わったとき、敗戦を嘆く人たちがここに集まったことで有名です。現在の人たちも似たような状況です。簡単に来れるので、いつも多くの観光客が集まっています。現在ここは一般に公開されています。
It is called “The Palace Plaza” as well. This area was called “Under Nishinomaru” where many halls for lords were in the Edo Period. In the Meiji Era, it was turned into the garden for Imperial Families, but also familiar to citizens because they could see the Imperial Palace closely. At the end of World War II, it became a well known place for people mourning the loss of the war. This idea is similar to people in the present. Many tourists always visit there due to easy access. Now, garden is open to the public.

皇居外苑~The Outer Gardens of the Imperial Palace
終戦時に皇居前広場に集まった人々、1945年8月16付毎日新聞より~The gathering people at the Palace Plaza at the end of the war, in the Argust 16th 1945 edition of the Mainichi Shinbun(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

皇居外苑の航空写真~The aerial photo of The Outer Gardens of the Imperial Palace

・皇居正門石橋と現存する伏見櫓の風景:外苑そのものは広大な広場です。なので多くの観光客は皇居と江戸城建物の景色を愛でています。この取り合わせは一番有名なものです。
・The view of the Palace Stone Bridge and the remaining Fushimi Turret: The garden itself is an extensive square. So many tourists enjoy the views of Imperial Palace and Edo Castle buildings. This is the most popular one.

皇居正門石橋と伏見櫓~The Palace Stone Bridge and Fushimi turret

・桜田門:これは最も有名な江戸城の建物の一つです。1860年に桜田門外の変が起こった所です。幕府大老であった井伊直弼が暗殺され、幕府の権威失墜を招きました。この門は現存しており、重要文化財に指定されています。
・Sakurada-mon Gate: This is one of the most popular buildings of Edo Castle. Because this is where Sakuradamon Incident in 1860 happened. The chief minster of Shogunate, Naosuke Ii was assassinated and it caused Shogunate’s the authority to decreas. The gate remains now and has been designated as a Important Cultural Property.

桜田門~Sakurada-mon Gate

北の丸公園~Kitanomaru Park

北の丸曲輪は、本丸の搦め手を北の方角から守る任務があり、とても重要でした。将軍の親族である清水家と田安家が江戸時代の後期に住んでいました。明治維新後は、近衛師団の兵舎がありました。第二次世界大戦後は公園になり、日本武道館や科学技術館などの施設が置かれています。
Kitanomaru enclosure was very important because it had to guard the rear of Honmaru in the north. The Shogun’s relatives, the Simizu and Tayasu clans lived in the late Edo Period. After the Meiji Restoration, the barracks of the Imperial Guard division were there. After the World War II, it became the park where facilities, like Japan Budokan, Science and Technology Museum, are located.

北の丸公園の航空写真~The aerial photo of Kitanomaru Park

・清水門:清水家の屋敷の門として使われました。とても優れた構造で、重要文化財になっています。この門は、内堀が窪んでいる奥に設置されていて、誰もが長く細い土橋を渡って入らなければなりません。侵入者は堀に沿った塀から反撃されてしまいます。
・Shimizu-mon Gate: It was used as the gate for Shimizu clan’s hall. It has a excellent structure and has become an Important Cultural Property. The gate is set at the back of the curved inner moat. Everyone has to go on a long and narrow earthen bridge to enter. Invaders were countered by defenders on walls along the moat.

清水門~Shimizu Gate
門の内側から見た土橋~The earthen bridge looking from the inside of the gate

この門はまた2つの「桝形」と呼ばれる方形の区画が外と内両方にありました。守備側は背後から敵を攻撃できたのです。実に強靭な防御力です。私が思うにこの門はもっと有名になってしかるべきです。
The gate also has two square shape blocks called “Masugata” both outside and inside. Defenders were able to counter the enemy from the back. The gate is very strongly defensive. By I think it should be more well-known.

外側の「桝形」~The outside “Masugata”
内側の「桝形」~~The inside “Masugata”

・田安門:ここは田安家の門でした。地下鉄から武道館に行く人は皆、この門を通ります。この門もまた重要文化財に指定されています。
・Tayasu-mon Gate: It was the gate of Tayasu clan’s hall. Now, all people from the subway station to Budokan go through the gate. It looks just like the Budokan gate. It has also been designated as a Important Cultural Property.

田安門、向こうは武道館~Tayasu-mon Gate, Budokan is over there

皇居~Imperial Palace

この区域は元々西の丸曲輪と吹上と呼ばれる場所でした。将軍は江戸時代末期に西の丸にある御殿に住んでいました。明治維新のとき、明治天皇はこの御殿に入り、使い続けました。そのため西の丸周辺が皇居になったのです。一般の人は通常皇居には入れませんが、年始や天皇誕生日といった特別な日には一部開放されます。今回は、外側から見ることができる2つの興味ある景色をご紹介します。
This area includes the original Nishinomaru enclosure and a place called Fukiage. The Shogun lived in the hall at Nishinomaru at the end of the Edo Period. During the Meiji Restoration, Emperor Meiji got the hall and continued to use. That’s why Ninomaru around has become Imperial Palace. Visitors can’t usually enter the palace, but it is partly open to people on special days such as New Year Celebration and the Emperor’s birthday. This time, I will show you two of interesting views of the area from outside.

皇居全景、手前は皇居外苑~The overview of Imperial Palace, the front is the Outer Gardens(licensed by Chris73 via Wikimedia Commons)

皇居の航空写真~The aerial photo of Imperial Palace

・千鳥ヶ淵:ここは今は内堀の一部になっていますが、元来は川だったようです。「淵」はこの場合、水流をせき止めて作った沼を意味します。この堀は全国的に桜の名所として知られています。春になると、堀の上にはボートで花見をする人たちで溢れます。
・Chidori-ga-Fuchi moat: it is now a part of the inner moat, but seemed to be originally a river. “Fuchi” means a lake made by damming the water in this case. The moat is known around the whole country for cherry blossoms. A lot of people seeing them are on the boats in the moat in the early spring.

千鳥ヶ淵~Chidori-ga-Fuchi moat

・半蔵門~この名前は、この門を警護していた忍者の頭領、服部半蔵に由来します。外側から門に伸びる土橋はまるでダムのように見えます。実際、この橋は水位を維持するために築かれました。橋の片側の水位は反対側よりかなり高くなっています。
・Hanzo-mon Gate: its name comes from the leader of Ninja, Hanzo Hattori who kept the gate. The earthen bridge from outside to the gate looks just like a dam. Indeed, the bridge was built to hold back the water. You can see the one side of the bridge keep much higher level of the water than the other side.

半蔵門~Hanzo-mon Gate
半蔵門土橋の下流部分~The lower part of Hanzo-mon Gate earthen bridge
桜田濠、半蔵門の下流にあり、まるで大河のようです~Sakurada-bori moat, the lower section of Hanzo-mon Gate, looks just like a large liver

「江戸城その4」に続きます。~To be continued in “Edo Castle Part4”
「江戸城その2」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part2”
「江戸城その1」に戻ります。~Back to “Edo Castle Part1”