57.篠山城 その1

大坂城包囲網構築のために築かれた城

立地と歴史

天下人にとって重要だった丹波国

篠山城は現在の兵庫県丹波篠山市にありました。兵庫県は大きな県で、関西地方の西側全体をカバーしてしまっているほどです。しかし篠山城は、当時は兵庫県よりずっと小さい丹波国に属していました。それでも丹波国は日本の以前の首都、京都の北西すぐ背後にある丘陵地帯の位置にあったのです。つまり、丹波を制することは、京都を守護することと、西日本の大名たちが中央政界に影響を及ぼす何らかの行動を起こしたか監視するために、とても重要だったのです。

丹波国の範囲と城の位置

天下普請による築城

1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康が、豊臣氏を支持する石田三成を倒したことで、1603年に徳川幕府を設立し、征夷大将軍となりました。しかし、幕府の統制に従わない豊臣氏が大坂城に居座っていたことで、情勢はまだ不安定でした。更には、西日本には豊臣恩顧の大名がたくさんいて、将来幕府に反抗することも考えられました。こういった情勢に対する家康の策略は、大坂城の周辺に強力な城をいくつも築き、豊臣氏を封じ込めるとともに、豊臣氏と豊臣恩顧の大名を引き離すことでした。その城とは、名古屋城伊賀上野城彦根城、膳所城、京都の二条城、亀山城、そして篠山城です。これらの城塞群は幕府の命令に基づく天下普請により築かれ、豊臣恩顧の大名も自費によって動員されたのです。天下普請の間接的な目的としては、大名たちの財力を削ぐこと、そして強力な城のネットワークを見せつけることで、幕府に反抗しようとなどとは思わせないようにすることでした。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が築いた大坂城包囲網

篠山城の建設は1603年に始まり、姫路城主の池田輝政が総奉行を務め、15ヶ国から20もの大名が動員されました。城の縄張りは、築城の名手とされた藤堂高虎が担当しました。篠山城は、篠山盆地の篠山という名の丘陵に築かれました。城の主要部は丘上にあり、自然の地形を利用しつつ、高石垣がその丘を覆いました。それ以外には、シンプルな四角い曲輪群で構成され、二重の水堀に囲まれていました。こういった縄張りの城は、建設するのが容易である一方、城の防御が弱くなってしまうという懸念があります。

池田輝政肖像画、鳥取県立美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城の主要部、篠山城大書院展示室にある城の模型より
城は二重の堀に囲まれていました、上記模型より

藤堂高虎の縄張り

この城が敵に容易に攻撃されないよう、高虎は城の出入り口の防御を固めるため、「桝形」を採用しました。桝形とは、防御のための四角い空間で、門や石垣により囲み、敵が来てもここで足止めできるようになっていました。もう一つの高虎が採用した防御システムは「馬出し」でした。馬出しとは、城の入口から突き出した四角い曲輪で、堀に囲まれた細い通路によってのみつながっていました。その馬出し曲輪の前にも別の堀がありました。そのため、曲輪の出入り口は両側面にあり、そこから守備兵が反撃のために出撃できるようになっていました。高虎はこれらの仕掛けを、自分自身の城である今治城で確立していて、今治城も篠山城と同時期の1604年に完成しました。

篠山城の大手馬出しと大手門の桝形、上記模型より
今治城
今治城の桝形、現地説明版より

天守は築かれず

こういった先進的な防御システムの一方、篠山城の本丸頂上には天守は築かれませんでした。実は、天守台石垣は築かれたのですが、天守自体は築かれなかったのです。その理由は、幕府がそういった決定を下したためで、天守がなくてもこの城は十分強力だと判断したとされています。他の理由としては、篠山城の建設工事に従事していた大名たちが、名古屋場建設の方に移らなければならなかったという事情もありました。そのため、篠山城はわずか1年半ほどの工事期間で完成しました。本丸には天守の代わりに櫓群が築かれ、二の丸には城主のための御殿が築かれ、城の主要部として機能しました。

篠山城天守台
天守が築かれなかった本丸、上記模型より
篠山城二の丸に復元された御殿の一部、大書院

この城の最初の城主は、徳川家康の親族とされた(松井)松平康重でした。1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした後は、江戸時代末期まで城主だった青山氏など、いくつもの譜代大名が入れ替わりで城主となり、篠山藩として西日本の外様大名の監視に当たりました。

松平康重肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城の全体図、現地説明版より

「篠山城その2」に続きます。

79.今治城 その1

藤堂高虎の城づくりの金字塔

立地と歴史

藤堂高虎が理想の本拠地として築城

今治城は、かつて伊予国と呼ばれた愛媛県の北部に位置している今治市にあります。この城は1604年に、築城の名人として知られる藤堂高虎によって築かれました。それまでにも彼はいくつもの城を築いていました。例えば他の武将の部下として和歌山城赤木城を、伊予国の一部を領する独立した大名になってからは宇和島城大洲城が挙げられるでしょう。しかし今治城は、彼が独立後一から築き上げることができた最初の本拠地としての城でした。つまり高虎はこの城の建設に、それまでの経験や考えの全てを投入することができたのです。その結果、今治城は高虎の城の中でも記念碑的な作品となりました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊予国の範囲と城の位置

宇和島城
大洲城

この城の建設以前に、高虎は1597年の朝鮮侵攻に水軍の大将として参陣しました。この経験から高虎は、新しい城には水軍の支援と水上交通の利便性が得られる立地が必要と考えました。そのため今治城は、海城且つ平城として瀬戸内海に面していました。しかしそれまでは、そのような立地は困難且つ危険と考えられていました。海岸の地盤は軟弱であり、平地では敵に容易に攻められてしまうからです。これらを防ぐために、まず犬走りと呼ばれる段が石垣の基礎部分として築かれました。犬走りは、敵が攻めてきたときには柵を立てて攻撃を防ぐためにも使われることになっていました。またこの城は水堀によって三重に囲まれ、堀の水は海から供給されました。

犬走りの上に築かれた今治城の石垣

シンプルだが防御力を確保した縄張り

今治地域に特有な条件の他にも、高虎は今治城に新しく共通且つ簡便な建設手法を持ち込みましたが、それであっても突然の敵襲にもきちんと対応できるようになっていました。本丸と二の丸が組み合わされた城の主要部分は、シンプルな四角い形をしていて、建設が容易で且つ多くの将兵を収容できました。一方で防御面で不安がありそうですが、広い内堀、高石垣、その上に築かれた櫓群により囲まれていました。主要部への門は、桝形と呼ばれる四角い防御空間により固く守られていました。その上に大手門に入るには、内堀の手前にある出丸と呼ばれる小曲輪を通らなければならず、その出丸にも桝形がありました。そして土橋を渡って大手門に至ったのです。このような構造は、高虎が後に築城に関与することになる名古屋城二条城、篠山城などにも見ることができます。

伊予国今治城図、出典:文化遺産オンライン
名古屋城
二条城
篠山城の模型、篠山城大書院にて展示

層塔式天守を考案したか

もう一つの高虎の城づくりに関する革命は、層塔式と呼ばれる新しいタイプの天守です。それまでの天守は通常、望楼式と呼ばれる形式で建てられ、破風や華頭窓といった多くの装飾がなされていました。新しい層塔式では、単純な四角い床面が、最上階に向かって逓減していき、屋根は最低限のものでした。この形式により効率的に天守を建設でき、防御にも適していました。今治城の天守は、最初の層塔式天守と言われており、5層で本丸に築かれました。

典型的な層塔式、島原城天守
典型的な望楼式、犬山城天守

実は、その天守が本当に今治城に築かれたかどうかは発掘によって科学的には証明されていないのです。それは高虎が今治城での短い在城期間の後、1608年に伊賀上野城に移った際、その天守が撤去され、別の場所に移設されてしまったからなのです。高虎は一時、その天守を自身の伊賀上野城のために使おうと考えていたのですが、幕府の命により建設された亀山城のために、幕府に献上することにしました。亀山城の天守の古写真を見ると、確かに5層で層塔式の形をしています。この逸話は、高虎の伝記と藤堂氏の年譜にしか記録されていません。今治城の現場では、天守台石垣のような直接的な証拠はみつかっていないのです。歴史家の中には、今治城天守は天守台石垣を使わず、地面の上に直接建てられたのではないかと推測している人もいます。

伊賀上野城跡
亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今治城そのものは、高虎の親族の藤堂高吉(たかよし)が1635年まで、その後は久松松平(ひさまつまつだいら)氏が引き継ぎました。久松松平氏は、もとは単に久松と称していましたが、将軍の親族の家名である松平を名乗ることを許されました。徳川家康の母親が、後妻として嫁いでいたからです。久松松平氏は江戸時代末期まで、今治藩として城とその周辺地域を支配しました。

現在の今治城

「今治城その2」に続きます。

152.津城 その1

藤堂高虎最後の本拠地

立地と歴史

安濃津城の戦いの舞台

津城は、過去には伊勢国と呼ばれた三重県の、現在はその県庁所在地となっている津市にありました。津市は、自らを世界で一番短い名前の都市であると称しています。津は単に港を意味します。もともと、この辺りは安濃津(あのつ)と呼ばれ、安濃の港といった意味になります。安濃津は中世においては、三津(さんしん)の一つとして栄えました。ところが、1498年に起こった明応地震とそれに続く津波により壊滅的な打撃を受け、廃れてしまいます。

伊勢国の範囲と城の位置

この辺りの平地には、安濃津城と呼ばれる城もあり、それが津城の前身に当たります。有名な関ヶ原の戦いが起こる直前の1600年、安濃津城の戦いと呼ばれる関ヶ原の前哨戦がこの城で起こりました。西軍から派遣された大軍が、東軍に属していた富田信高の寡兵が守る城を攻撃したのです。守備側は降伏せざるを得ませんでした。その結果、この城は荒廃しました。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍が最終的に勝利を収めましたが、その中核である徳川幕府は安濃津城周辺にはもっと強力な大名と城が必要と考えました。それは、伊勢国からそれ程遠くない位置にあった大坂城には豊臣氏が健在であり、幕府と対立関係にあったからです。

富田信高を救う妻の錦絵(安濃津城の戦いのとき富田信高が妻に助けられたエピソードに基づく)月岡芳年作、1885年  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藤堂高虎の平時の居城として改装

1608年、幕府は安濃津城主を富田信高から藤堂高虎に交替させました。高虎は譜代大名ではなく、幕府の創始者である徳川家康に長く仕えていたわけではありませんでした。彼は築城の名手としてよく知られており、宇和島城大洲城、今治城などを築いていました。また、有名な江戸城名古屋城、京都の二条城などの建設では、幕府の手助けをしました。高虎はそれらにより、幕府の信頼を得ていました。幕府は高虎に、西の大坂城の豊臣氏に対抗できるだけの強力な城を築くことを期待したのです。高虎は、安濃津城を大改装することでその期待に応えました。そしてこの間、城の名前は津城と改められました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇和島城
今治城

また高虎は、伊勢国の西にあり、大坂により近い伊賀国にも伊賀上野城を所有していました。彼自身、津城は平時の居城であり、一方伊賀上野城は戦時のためのもう一つの居城であるとしていました。しかし、津城は平地にあり、高虎の平時のための本拠地であるとしても十分な防御力は備えていたのです。また、高虎の城づくりのコンセプトも反映して築かれました。

伊賀上野城

高虎の城づくりのコンセプト

本丸は、シンプルな四角形をしていて、建設しやすく且つ大軍の収容も可能でした。防御が弱いようにも感じますが、広い内堀や高い石垣に囲まれ、石垣の上には多くの櫓が築かれました。本丸の門は、桝形と呼ばれる四角い防御空間により、強固に守られていました。その上に、門に入るためには内堀の中にある出丸と呼ばれる小さな曲輪を経由する必要がありました。二の丸と外堀はその周りを取り囲んで作られました。このような構造は、今治城、名古屋城、二条城、篠山城など高虎が築いた他の城でも見ることができます。

津城本丸の石垣
江戸時代終わり頃の津城の様子、現地説明板より
名古屋城
尾張国名古屋城絵図(出展:国立国会図書館)

1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした後は、津城は江戸時代を通じて、藤堂氏が治めた津藩の本拠地となりました。津城の城下町は繁栄し、伊勢参宮街道の通り道にもなりました。

「津城その2」に続きます。