23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

105.白石城 その2

復元された三層の天守は、本丸石垣の隅部分にあり見栄えがします。城のシンボルとなっているだけでなく、白石市のシンボルともなっています。オリジナルの天守があったころには、城主の権威を示し、敵に対しては大いなる脅威となったことでしょう。

その後

明治維新後、最後の城主、片倉邦憲(くにのり)は家臣とともに北海道に移住しました。城の全ての建物と石垣は、その費用を捻出するために撤去され、売却されました。空き地となった城跡は益岡公園(蒲生氏が城主だったときに益岡城と呼ばれていたことに由来します)となり、いつしか桜の名所となりました。1987年にNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」が放送され、人気となりました。このドラマでは伊達政宗だけでなく、片倉氏も取り上げられ、多くの観光客が白石城跡を訪れました。しかし、ほとんど史跡らしいものがなく、がっかりして帰っていったそうです。当時の市長はその状況を見て、翌年の1988年に城の復元を決断しました。

その復元の大きな特徴の一つは、木材を使った伝統的工法によるということでした。しかし、それには法律の壁がありました。オリジナルの天守は高さが16.7mありました。一方、日本の建築基準法では原則として、高さ13mを超える木造建物の建築を認めていません。これによると、天守はそのままでは建築できないということになります。その後、白石市は政府と折衝を続け、ついに大臣の認可による例外の適用を獲得しました。天守はオリジナルの高さで復元できることになり、1997年に完成しました。

木造で復元された天守

特徴、見どころ

史跡が集中している本丸

現在白石市街地は、白石城とその城下町の伝統的な雰囲気を今も残しています。それは恐らく、丘の上に天守が復元されていたり、市街地には今でも古い水路が健在であるからでしょう。丘の上にはいくつもの曲輪がありましたが、復元建築物がある本丸を除き、現在までに神社や公園、グラウンドになっています。

市街地を流れる水路
二の丸にある神明社
二の丸にある益岡公園
沼の丸にある野球場

そのためほとんどのビジターは、丘の上の本丸に向かって、東側か北側の坂を登っていきます。仮に東側から登った場合、本丸の基礎部分にわずかにオリジナルの石垣が残っているのが見えます。それより上の石垣は、全て明治時代初期に撤去され売られてしまいました。次には復元された石垣が見えてきます。野面積みという手法で大きな自然石を使って積み上げられています。それらの石は丸い形をしているので、野性的というより、穏やかな印象を受けます。

本丸周辺の地図

北側の坂
東側の坂
わずかに残るオリジナルの石垣
ここからが復元された石垣
野面積みの石垣

よく復元されている天守と大手門

復元された三層の天守は、石垣の隅部分にあり見栄えがします。城のシンボルとなっているだけでなく、白石市のシンボルにもなっています。オリジナルの天守があったころには、城主の権威を示し、敵に対しては大いなる脅威となったことでしょう。発掘を行った結果、実は江戸時代の間、石垣の上には3代の天守があったことがわかっています。つまり、天守は2度建て直されたことになります。現在の天守は、2代目の天守の礎石の上に建てられています。もっともよい状態で残っていたからです。また、外観は絵画に描かれていた3代目の天守から復元されました。3代目の天守は、2代目が1819年に火事で燃えてしまった後、1823年に再建されているので、恐らくほとんど同じか、類似なものだったのでしょう。

復元された天守
「白石城之図」部分、小関雲洋作、白石市蔵、白石城天守内の展示より

本丸の大手門も、天守と同じ時期に復元されています。大手門は2つの門(一ノ門、二ノ門)と石垣により構成されていて、桝形と呼ばれる防御区域を形作っています。他の城の桝形は通常、四角い閉じられた空間となっていますが、白石城の桝形はとてもユニークです。一ノ門は扉がなく常に開いていて(これまでの発掘調査による)中は本丸の石垣により半ば占められています。その石垣に遮られて、内側がよく見えません。そのために一ノ門には扉が設けられなかったのかもしれません。

一ノ門
二ノ門とせり出している石垣
天守から見た桝形

本丸にある他の建物の跡地

本丸の内部は広場となっていて、かつてここにあった御殿に関する説明板があります。大手門側以外の本丸側面は、覆っていた石垣が取り払われた後、基礎の土塁のみが残っているように見えます。大手門の反対側には裏御門跡があります。また、本丸の他の隅には、辰巳(たつみ)櫓跡や未申(ひつじさる)櫓跡があります。

裏御門跡
辰巳櫓跡
未申櫓跡
白石城歴史探訪ミュージアム展示の白石城模型より、赤丸内が裏御門、青丸内が辰巳櫓、緑丸内が未申櫓

「白石城その3」に続きます。
「白石城その1」に戻ります。

105.白石城 その1

当時は幕府により、それぞれの独立大名はその居城以外の城の保有を禁じられていました。ところが、陪臣である片倉氏の住む白石城は、例外として存続を認められました。これは、大大名としての伊達氏の影響力の他にも、片倉氏の貢献度も考慮されたものと思われます。

立地と歴史

伊達氏の重臣、片倉氏の城

白石城は現在の宮城県南端にある白石市にあります。この城はまた、江戸時代には伊達氏の領国の南端でもありました。伊達氏の当主は江戸時代を通して、この地域の支配を信頼していた重臣、片倉氏に任せていました。この城には「大櫓」と呼ばれた三階櫓がありましたが、実際には天守と言えるようなものでした。そのため、この城は独立した大名のシンボルのように見えました。

宮城県の範囲と城の位置、仙台藩の範囲は宮城県よりも広大でした

白石城の復元天守

片倉氏の初代、片倉景綱(かたくらかげつな)は子どものときから主君の伊達政宗に仕えていました。景綱の姉、喜多(きた)が正宗の乳母となっていたからです。それ以来、景綱は多くの戦いに参戦し、また他の戦国大名との交渉窓口として活躍しました。その貢献もあり、16世紀後半に正宗は東北地方随一の戦国大名となりました。1590年に豊臣秀吉が天下統一を果たすため関東地方に侵攻したとき、正宗は秀吉に臣従すべきか否か思案していました。景綱は政宗に臣従するよう助言し、その結果、伊達氏は生き残ることができたのです。やがて、徳川幕府により伊達氏の領国が仙台藩として確定されると、正宗は1602年に重要な白石地域を景綱に与えました。

片倉景綱肖像画、仙台市博物館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗像、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

景綱の息子、重長(しげなが)は、幕府が豊臣氏を滅ぼした1615年の大坂夏の陣で活躍しました。その最中に起こったとされる、彼とその対戦相手であった真田信繁との英雄談があります。両軍が戦いを交えた後、信繁が重長の陣に矢文を放ったのです。その中には、信繁が最期を迎える前に子ども達を引き取ってほしい旨が記されていました。重長はそれに同意しました。その子どもたちは、娘の阿梅(おうめ)が後に重長の後妻となり、息子の大八(だいはち)が仙台藩士となりました。その話とは違って、重長は大坂城が落城しようとしている中、阿梅を連れ帰り、他の子どもたちは後に、白石城にいる阿梅を訪ねて行ったという説もあります。どちらが正しいとしても、重長は度量の大きい人物だったと言えます。

「太平記拾遺四十二 片倉小十郎重綱(重長より前の名乗り)」落合芳幾作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田信繫像、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一国一城令の例外として存続

重長の後継ぎ、景長(かげなが)もまた藩で重きをなしました。1671年に伊達騒動と呼ばれるお家騒動が起こったとき、藩政は一時制御不能となりました。抗争する派閥同士が江戸での評定の場で流血事件を起こしていたのです。景長は領国に残り、他の藩士たちを鎮めて藩政を正常に保ちました。こういった出来事によって、片倉氏の地位は盤石となりました。また、当時は幕府により、それぞれの独立大名はその居城以外の城の保有を禁じられていました(一国一城令)。ところが、陪臣である片倉氏の住む白石城は、例外として存続を認められました。これは、大大名としての伊達氏の影響力の他にも、片倉氏の貢献度も考慮されたものと思われます。

仙台藩の本拠地、仙台城跡

蒲生氏、片倉氏の改修によって完成

白石城そのものに関しては、最初にいつ築城されたかは定かではありません。しかし、交通の要衝を抑える戦略的な立地にある城とされてきました。豊臣秀吉による天下統一の後は、蒲生氏の重臣である蒲生郷成(がもうさとなり)がこの城の城主となり、石垣や天守を築いて近代化を行いました。彼は後に笠間城などの改修も行っていて、隠れた築城の名人と言ってもよい人物です。片倉氏は、郷成が築いた城の基本骨格の上に、更なる改修を加えたのです。

笠間城跡

この城の主要な曲輪群は丘の上にありました。頂上部分には本丸があり、そこには三層の天守、大手門、裏門、御殿、2基の二階櫓などの主要な建物がありました。これらは、他の独立大名が持っていたものと全く遜色がありません。しかし、その本丸御殿には興味深い特徴がありました。御殿には2つの玄関があり、一つは藩士用、もう一つは片倉氏の主君(藩主)である伊達の殿様専用でした。また、御殿には「御成御殿」と呼ばれる殿様専用の区域もありました。

城主要部の模型、白石城歴史探訪ミュージアムにて展示
本丸の模型、白石城歴史探訪ミュージアムにて展示
上記模型の御殿部分(青丸赤丸を付加)、青丸内が藩士用の中ノ口式台、赤丸内が藩主専用の御成式台

また、片倉氏は丘の下に、藩士と町人たちが居住するための城下町も整備しました。城の防衛と生活の便のため、町には水路が巡らされました。例えば、城下町の中にあった三の丸には武家屋敷が建てられ、沢端川(さわばたがわ)と水路に囲まれていました。これらの屋敷は、他の独立大名の家臣の屋敷より比較的小さいものでした。片倉氏に仕える家臣の収入が、独立大名の家臣より少なかったからです。

「奥州仙台領白石城絵図」部分、手前側が沢端川に沿った三の丸、出典:国立公文書館
沢端川沿いに残る武家屋敷

幕末史の舞台の一つ

1868年の明治維新のとき、重大な出来事が再び城に起こりました。新政府に反抗する東北地方の多くの藩が、この城で「白石会議」を開いたのです。仙台藩はリーダーの藩の一つであり、白石城の位置が各藩の要の位置にあったからです。この会議は、新政府とこれらの藩(奥羽越列藩同盟)との間の戊辰戦争の引き金になりました。ところが、仙台藩が政府に降伏してしまったことで、白石城も開城することになりました。

現在の白石城

「白石城その2」に続きます。