8.仙台城 その2

今日は、仙台駅前に来ています。今回は、ここから仙台城に歩いて向かいます。ここ、仙台駅はかつても城下町の一部だったようですが、城と城下町は、広瀬川にかかる大橋によってつながっていました。その大橋から伸びる通りは、今でもその名前を残しながら現在も商店街として栄えています。仙台駅から近いところから、アーケードになっているのでわかりやすいと思います。それでは、仙台城踏破ツアーとして、さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今日は、仙台駅前に来ています。今回は、ここから仙台城に歩いて向かいます。ここ、仙台駅はかつても城下町の一部だったようですが、前回ご説明した通り、城と城下町は、広瀬川にかかる大橋によってつながっていました。その大橋から伸びる通りは「大町(おおまち)」「新伝馬町(しんてんままち)」「名掛丁(なかけちょう)」といって、今でもその名前を残しながら現在も商店街として栄えています。仙台駅から近いところから、アーケードになっているのでわかりやすいと思います。仙台のいろんな所に行きたい人はバスなどを使われる方がよいのですが、お城一択であれば、歩いていくのもいいかもしれません。それでは、仙台城踏破ツアーとして、さっそく出発しましょう。

仙台駅
藩政時代の仙台駅周辺、「伊達な歴史の新体験」VR画像より

仙台駅前から大橋までのルート

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

仙台城下町ルートを歩く

仙台駅から少し北側に歩くと、アーケードの入口が見えます。アーケード下は、先ほど申し上げた通り、3つの町名をまたいだ商店街になっています。現在の仙台の繁栄が目に見える場所です。ちょうど七夕まつりをやっています。すごい人出ですが、飾りが華やかです。この通り(現在名:中央通り)と交差するアーケード街(一番丁通り)が、この七夕飾りに彩られるのです。

アーケード入口
七夕まつりの笹飾り


城下町の中心だった「芭蕉の辻」は、七夕飾りを抜けた向こう側にあります。石碑が立っています。ここは、高札場になっていて、江戸時代後期には交差点四隅に城郭風の建物がありました。見るからに町の中心とわかります。奥州街道と交差していて、商家が軒をつらねていました。「芭蕉」という名称は、松尾芭蕉を連想してしまいますが、残念ながら、ここに住んでいた虚無僧の名前に由来すると言われています。

芭蕉の辻の石碑
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)
芭蕉の辻、「伊達な歴史の新体験」VR画像より

先に進んでいきます。大きな通りに合流します。有名な青葉通りです、バスで行くときにはここを通るのでしょう。橋が見えてきました。大橋です。城がある青葉山も見えてきました。何度渡っても清々しい気分です。広瀬川も見渡せるし、お城と山がだんだん迫ってきて、雰囲気が出ます。

青葉通り
大橋
大橋、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大橋を渡ります
橋から見える仙台城本丸

「仙台城跡」入口に来ました。ここからまっすぐ行くと、大手門跡ですが、その手前を左に曲がると三の丸で、当初は伊達政宗の屋敷があったところです。今は仙台市博物館、とあります。そこは帰りに寄ってみます。坂を登って行くと、左側に櫓が、右側には立派な石垣が見えます。再建された大手門脇櫓と、大手門北側石垣です。この間にどーんと大手門があったのです。その大きさがしのばれます。大手門には復元計画があります。今ここを通っている道路はどうするのでしょうか。それをどうするかも課題の一つで、迂回させる案などが検討されているます。一旦亡くなった城の建物をそのまま建てようとすると、避けて通れない問題です。知恵を絞って進めていくしかありません。

仙台城跡入口
左手は三の丸です(現・仙台市博物館)
大手門跡
大手門、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大手門脇櫓(再建)

大手門から本丸まで正面突破

これから大手門跡のところを左側に曲がって、本丸の方に行きます。右側は二の丸で、かつて御殿があったところです。現在は、公園や、東北大学のキャンパスになっています。

青葉山公園、二の丸広場
東北大学キャンパス


それでは、本丸に向かって登って行きましょう。ずーっと一本道の登りで、しかも、くねっています。これも城を守るための仕掛けだと思います。歩くと、そういうのがよくわかります。途中にも関門が設けられていて、「中門(なかのもん)」跡とあります。今は道が続いているだけですが、この門から先は「中曲輪(なかのくるわ)」と呼ばれていました。もう城の中ということです。

本丸に向かう一本道
中門跡


どこからか道が合流しています。ここは「沢門(さわのもん)」跡で、三の丸からの道がここに来ています。帰りはこちらのルートを通ろうと思います。道は大きくカーブしていきます。もうすぐこのセクションのクライマックスです。

沢門跡
カーブの先には・・・

すごい石垣です。もしかしたら、お城そのものの最大の見どころかもしれない本丸北壁の石垣(北面石垣)です。敵を防ぐためでもあるのでしょうけど、城の威厳も表しています。高さが17メートルもあるのです。ところで、現代になって修繕する際に発掘をしたところ、城があったときから何回も改修されたことがわかりました。元は中世の山城だったところに、石垣を築き、その後地震で被害を受けるたびに、改修を重ねたのです。そして、今見る頑丈な姿になりました。現在の石垣(3代目)は、東日本大震災で一部被害を受けたが、300年以上保たれています。

石垣が見えてきました
本丸北壁石垣

かつてはこの上に櫓がありました。しかし事は少々複雑で、最初は三重の艮櫓があったのですが、2代目の石垣のときに地震で崩れてしまい、その後は再建されなかったのです。現在の石垣は3代目ですから、その頃にはもう櫓はなかったことになります。実はこれも現代になって、櫓を再建しようという話がありましたが、今の石垣とは位置がずれた所にあったことがわかって断念されたのです。なかなか思い通りにはいきません。もうすぐ本丸の入口です。

石垣に沿って進みます
本丸入口が見えてきました

本丸跡~景色と政宗像にプラスアルファ

それでは、本丸入口、詰門(つめのもん)跡から入っていきましょう。当初は、ここの両脇にも2基の三重櫓がありました。今は立派な鳥居があります。本丸は現在、宮城県護国神社の敷地でもあります。

詰門跡
宮城県護国神社

神社の石段を登った左手に、大広間の跡があります。本丸の中心だった建物です。現在は、発掘された後に、礎石と間取りが平面表示されています。本丸入口の、西の方から大広間に入ったとすると、紅葉の間、檜の間、孔雀の間、と進んで上段の間に至ったことがわかります。政宗や藩主たちが座った所です。そして、その横には上々段の間がありました。将軍や天皇を迎えるための部屋でした。

大広間跡
大広間、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大広間の間取り、仙台市ホームページより引用
上段の間跡
上々段の間跡

大広間に興味がある方は「仙台城見聞館」に立ち寄ってはいかがでしょうか。大広間の模型や、再現上段の間の展示などがあります。

仙台城見聞館
大広間模型、仙台城見聞館にて展示
再現上段の間、仙台城見聞館にて展示

次は政宗像と思うかもしれませんが、もう少し、まわり道をしてみます。さっき下から見た石垣を、今度は上からながめてみたいのです。詰門の東脇櫓があった辺りから、石垣の天辺を辿っていきます。石垣が張り出した部分からは、石垣を見下すことができます。ということは、敵をここから攻撃できたということでしょう。しかも景色も素晴らしいです。石垣の隅の方に進みます。

詰門の東脇櫓跡か
石垣の張り出し部分からの眺め
石垣の隅の方に進みます

石垣隅に来ましたが、ここには櫓はありませんでした。隅の部分がもっと手前にあった時に櫓が建てられていました。同じ城でも、随分変化したということです。それから政宗像を見れば、お城に来た気がすると思うのです。大広間に櫓と石垣、天守がなくても十分城と言えるでしょう。

250808114030627
250808114025718
伊達政宗騎馬像

ところで、懸造はどこにあったのでしょうか?政宗像から少し離れたところにあったのですが、現在、説明パネルはありますが、その頃と同じ地形とは限らないようです。崖のところにあったのだから、仕方ないかもしれません。

懸造跡
崖に面した懸造想像図、青葉城本丸会館にて展示

それから、もう一つの三重櫓・巽櫓の跡はこんな感じです。この近くからの眺めもいいです。

巽櫓跡
付近からの眺め

本丸の裏門、埋門の跡は、駐車場の入口になっています。山の上なのに、いろんな施設から駐車場まであるのです。仙台城の本丸は、諸大名の本丸の中でも有数の広さだったからです。

埋門跡
青葉城本丸会館

それから、本丸の外側、詰門の近くに、本丸北西石垣があります。度重なる地震の被害からの修復が終わったばかりです。そのため、きれいに積み直されています。だた、石の加工の仕方や、積み方が場所によって異なっているのがわかります。城があった時代にも、修復を繰り返していたということです。それを現代も営々と続けているのです。なお、ここに行くには、細い車道を歩いて通らなければいけないので、十分気を付けてください

本丸北西石垣

帰りは政宗が通った道へ

往路で申し上げた通り、帰りは三の丸を通って行きます。当初は政宗の屋敷があったところです。沢門(さわのもん)跡から入っていきます。実は、最初はこのルートが大手道だったと考えられています。ということは、政宗が本丸に通った道だと言えるのです。道が随分くねっています。この辺りに沢曲輪(さわのくるわ)というのもあって、防衛体制を整えていました。当初からある道だけあって、石垣も古そうです。

沢門跡から三の丸に向かいます
曲がりくねる道と古風な石垣

更に下ったところにあるのが、清水門跡です。その向かいにはその名にふさわしい場所があります。その場所は「造酒屋敷」跡といって、お酒を造っていました。その酒造りに使われたという清水が今も流れています。

清水門跡
造酒屋敷跡
酒造りに使ったと思われる清水が沸く場所

その下にある巽門跡の中が三の丸です。政宗より後は、蔵が建てられていたそうです。そして今は「仙台市博物館」になっています。政宗のこと、お城の事がたっぶり勉強できます。

巽門跡
仙台市博物館
仙台城模型、仙台市博物館にて展示

三の丸を反対側の子門(ねのもん)跡から出ていきます。そして三の丸の外側の堀(長沼)を進んで、行きつく先が、また政宗像です!上の部分だけですが、山の上の像にそっくりです!実はこちらは戦前に作られた初代の騎馬像だったのです。それが戦争中の金属供出で撤去され、胸から上だけが残ったのです。今ある騎馬像は跡継ぎで、戦後に作られた2代目です。城のシンボルも受け継がれていたのでした。

子門跡
三の丸外側の堀、長沼
初代政宗像

関連史跡

それから、城の周辺で政宗関連と言えば、政宗の霊廟「瑞鳳殿」、政宗が仙台に造営した大崎八幡宮、などがありますが、意外なところでは、古くからあった陸奥国分寺も、政宗が再興しているのです。やはり仙台を、東北地方の中心地にしようとした意思を感じます。

瑞鳳殿 涅槃門
瑞鳳殿 本殿
大崎八幡宮(photoAC)
陸奥国分寺仁王門
奈良時代の陸奥国分寺南大門、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
陸奥国分寺薬師堂

リンク、参考情報

仙台城跡―伊達政宗が築いた仙台城―、仙台市
仙台市博物館、仙台市
仙台城見聞館、仙台市
・「奥州の竜」伊達政宗/佐藤貴浩著」角川新書
・「伊達政宗の素顔/佐藤憲一著 」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」学
・「家からみる江戸大名 伊達家仙台藩/J・F・モリス著」吉川弘文館
・「仙台城本丸跡石垣の背面構造と変遷」我妻仁氏論文
・2016年10月17日河北新報記事(大手門復元時の迂回路案)

「仙台城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

8.仙台城 その1

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものもなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

立地と歴史

Introduction

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものはなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

伊達政宗騎馬像

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

最後の戦国大名・伊達政宗

政宗は、東北の戦国大名・伊達輝宗の嫡男として、1567年(永禄10年)に生まれました。その当時、他の有名な戦国大名(織田・豊臣・徳川など)は既に活躍していたので、「最後の戦国大名」「遅れてきた戦国大名」と言われています。生まれた時期がハンディキャップになっていたのです。政宗といえば「独眼竜」ですが、下の肖像画ではそうなっていません。これは、政宗の遺言によるものです。ただ本人は「独眼竜」を前向きにも意識していたらしく、中国で「独眼竜」と称された名将、李克用にあやかって、黒い甲冑を身に着けたと言われています。同じ境遇の元祖「独眼竜」になぞらえようとしていたのでしょう。

伊達政宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗所用具足(複製)、仙台市博物館蔵

1584年(天正12年)、政宗は18歳で家督を継ぎますが、東北地方南部は、大名や領主たちがひしめいていました。彼らは、お互いが親戚でもあったので、戦いが始まっても、他の大名が仲裁に入って均衡が保たれたのです。それ自体はいいことですが、統一は進みません。そんな中、血気盛んな政宗は、大内氏の小手森城を攻め、城内の人たちをなで斬りにし、周辺の大名たちを震撼させました(下記補足1)。しかしその反発も大きく、畠山氏は伊達氏に降伏するとみせかけて、政宗の父、照宗を拉致し、政宗は父親もろとも打ち倒すことになってしまったのです。一方、政宗は家臣たちにはかなり気を使っていて(下記補足2)、敵だった武将も役に立つなら受け入れる度量もあったので、家中の結束は固くなりました。

(補足1)これだけの戦果を得たからには、須賀川(二階堂氏本拠)まで出陣し関東までもたやすく手に入るでしょう。(天正13年8月27日付最上義光宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足2)あなたのことは、弓矢八万・摩利支尊天・愛宕山にかけて、特別だと思っている。この手紙は燃やしてくれ。もしここに書いたことが世間に広まったなら皆が怖れを抱くかもしれない。(天正13年閏8月29日 白石宗実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

伊達輝宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1589年(天正17年)、それまでに田村氏などを従属させていた政宗に、大チャンスがめぐってきます。蘆名氏の重臣、猪苗代氏が主君に反旗を翻したのです。主君の蘆名義広は、猪苗代氏を討とうとして出撃、政宗は猪苗代氏とともに決戦に及んだのです(摺上原の戦い)。結果は大勝、義広は逃亡して、政宗はそれまでいた米沢城から、蘆名氏の本拠地・黒川城に入城しました。他の大名も従えて、南奥州をほぼ統一したのです。

伊達照宗の所領の推移、青枠内が南奥州統一時点(仙台市博物館展示)

政宗はさらに関東に進撃するつもりでしたが(下記補足3)、この行為は天下統一を進める豊臣秀吉の怒りを買ったのです。そして翌年、小田原の北条氏を攻めるのに、秀吉は各大名に参陣を求めました。政宗は迷いましたが、意外と早く、合戦前に参陣を決めています。

(補足3)「鬱々トシテ久ク居玉フヘキ所ニアラス」(「治家記録」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、その矢先、大事件が起こります。自分の母親(義姫)に、毒を盛られたというのです。これは有名な事件で、政宗の代わりに弟を立てるためだったとされます。そして政宗は、泣く泣く弟を成敗したというものです。これは、政宗自身が語っていることなので(下記補足4)、事実とされてきましたが、なんと母親とはその後も親密な関係が続いています。また、弟らしい僧がいたという記録(大悲願寺・法印秀雄が「政宗舎弟」)が注目されています。そのため、政宗と母親が芝居を打って、家中の分裂を防ぐために、弟を逃がしたという説があるのです(佐藤憲一氏)。もしそうであれば、大変な役者ぶりですが、どちらを信じていいかわかりません。私たちが政宗に試されているような気もします。

(補足4)政宗に誤りがないのに、一命を奪われそうになった。 いろいろ考えたが   実の親を殺すことはできないので、何の罪もない弟を殺した。(政宗消息、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

ところで、結局小田原行きが遅れて、白装束(死装束)で秀吉と対面した逸話もあります。一回出発したが、北条領国を通れず、引き返して、北陸方面に迂回したので時間がかかったのです。結構単純な理由だったのです。領土についても、蘆名から奪った分(会津地方)は召上げという事前交渉が済んでいました。ただ、本番は何が起こるかわからないので、相当緊張したようです。無事に終わった心境を語った手紙が残っています(下記補足5)。実際には白装束だったという記録はないのですが(、「治家記録」によれば髪を一束に結って謁見、首を刎ねられやすくする武士の姿とされる)、別のエピソードがあります(「伊達日記」)。主君に仕えたことがない政宗が、秀吉の近くに呼ばれたとき、刀(脇差)を持っていることに気づき、慌てて他の人に投げ渡したのです。それはそれできわどい場面でした。いずれにしろ、政宗の戦国大名としての夢は終わったのです(下記補足6)。

(補足5)諸々首尾よく終わった。関白様が直々にいろいろ親しくしてくれたので、言葉がない。とてもこれほど御懇切とは(成実には)想像できないだろう。明明後日には    帰国を許してくれるようだ。奥州五十四郡も大方は調いそうである。皆々の御満足を察すばかりだ。この書状の 写を皆々へ送ってくれ。(天正18年6月9日付伊達成実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足6)「秀吉公にはやく箱根をこされ、小田原落城このかたハ、吹風に草木なびくごとく、東西南北一同に治り、一度天下にはたをあげずしてくちおしき次第なり」(「木村宇右衛門覚書」)

現在の小田原城

仙台城築城へ

小田原合戦後、秀吉は奥州仕置により、政宗や改易大名から取り上げた土地に、配下の大名を入れました(蒲生氏郷、木村吉清など)。彼らには、政宗たちを監視する役割もありました。また、よそから来て厳しい検地を行ったので、大崎・葛西一揆を招き、政宗にも大きな影響を与えました。一揆を裏で扇動していると疑われたのです。そして弁明のために、上洛しなければならなくなりました。このとき、十字架をかついだとか、本物のサインには穴が開いているとか言った逸話がありますが、どちらも本当の話ではないようです。秀吉からは歓待される代わりに、一揆の拠点を含む領地へ移動させられました。飴とムチということです。もう一つの危機は、関白秀次が謀反を疑われ、切腹したときで、秀次と親密だった政宗も疑われました。戦よりも大変だったことでしょう。大量の処分者が出る中。政宗は弁明に努め、徳川家康のとりなしもあって、無事に済んだのです。

政宗に替って会津に入った蒲生氏郷の肖像画、会津若松市立会津図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀次肖像画、瑞泉寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

移動後の政宗の領土には、元いた米沢城も、伊達の発祥地(伊達郡)も入っていませんでした。会津の若松城に入った、上杉景勝の領地になっていたのです。政宗は、豊臣大名たちがお膳立てした、岩出山城に入っていました。ところが、秀吉が亡くなると、政宗に再び大チャンスが訪れます。徳川家康の登場です。政宗は家康に接近し、娘の五郎八姫を、家康の子・忠輝に嫁がせました。戦国大名らしい処し方です。やがて、会津征伐が起こると、さっそく景勝の領土に攻め入り、白石城がある地域(苅田郡)を占領しました。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の白石城

そして関ヶ原の前、家康の味方になる条件として、重要な約束を獲得するのです。景勝の領土のうち、49万石分が手に入るというものでした。その中には、米沢や伊達発祥の地も含まれていました。政宗としては、張り切らざるを得ません(下記補足7)。伊達のそのときの領土と併せて「百万石のお墨付き」と言われています(下記補足8)。しかし、最上の応援や、関ヶ原が1日で決着したことで、それ以上の占領はできなかったのでした。政宗も、それが実力次第とわかっていたと思いますが、関ヶ原後も領土の拡大を、政治的に実現すべく活動するのです。その「100万石」の領土が実現したときのために築いたのが、仙台城だったのです。

(補足7)そのうち 必ず世の中がおもしろくなる(慶長5年8月上旬頃 伊達政景宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足8)覚
 一苅田 一伊達 一信夫 一二本松 一塩松 一田村 一長井
 右七ヶ所御本領のことに候間、御家老衆中へ 宛行わるべきため、これを進せ候。
 仍って件の如し。 
  慶長五年八月廿二日 家康(花押)
  大崎少将(政宗)殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵

「百万石」の城

もう一回政宗の領地の範囲を見ていただくと(下記所領図)北側のエンジとピンクの部分が関ケ原の戦い前の所領です。以前所領だった黄色の部分と緑の部分のうちの一部が「百万石のお墨付き」の分になります。仙台は、政宗がほしがった領地の中心くらいに位置します。政宗はそういうことを考えて新城の場所を決めたと思うのです。それに、昔の国府が近くにあり、街道も通っていて、仙台平野に面し、海にも近く、交通や産業を発展させられる場所だったのです。「百万石」の都に相応しい場所です。

伊達照宗の所領の推移(仙台市博物館展示)

政宗は、関ヶ原と同じ年に、家康の許可を取って、以前千代城いう山城があった青葉山に築城を始めました。この時期に、山に本拠地としての城を築くのは珍しいことでした。政宗は、まだ事が起こると考え、要害堅固な場所を選んだのだと思います。こういうところも戦国武将らしいです。特に本丸のあるところは、東は広瀬川と断崖、南は峡谷、西は山林に囲まれて、:大手口のある北側も、門や石垣を組み合わせて厳重に守られていました。城は2年ほどで一旦完成し、中国の古典から「仙人が住む高台」いう意味の「仙台」と名付けられたと言われています。きっと、永遠に栄えてほしいという願いがあったのでしょう。政宗の屋敷は、山麓にあって、そこから山上の城に通勤していたそうです。そこも、体力がある戦国大名らしいです。

仙台城模型。南側からの視点(仙台市博物館にて展示)

「城っぽくない」ことに通じるかもしれませんが、本丸には家康をはばかって天守は建てませんでした(下記補足9)。天守は最初からなかったのです。しかs、当初は本丸に三重櫓が4つもありました。それから、本丸の中心には、豪華な大広間が建てられました。秀吉が建てた京都の聚楽第を手本にしたと言われていて、儀式や対面に使われました。政宗が座った「上段の間」のほか、、天皇や将軍を迎える「上々段の間」までありました。ここまで迎えるつもりだったのか、それとも自分が将軍になるつもりだったかのかと思ってしまいますが、建物の格式を示す意味があったようです。あと面白いのが、広瀬川に向かった崖に面して、懸け造りの建物がありました。仙台城を訪問したスペイン人が、その感想を書き残しています(下記補足10)。もしかしたら、懸け造りからの景色を楽しんだかもしれません。

(補足9)合戦が終わらない中で、なかなか普請しようと思ってもうまくできません。内府様(家康)が今のように栄えているので、居城などの普請は今さらいらないと思うので、一切していません。(慶長6年4月18日付 今井宗薫宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足10)城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし(セバスティアン・ビスカイノ「金銀島探検報告」、訳は「奥州の竜 伊達政宗」などより)

仙台城本丸の想像図(青葉城本丸会館にて展示)
大広間模型(仙台城見聞館にて展示)
再現上々段の間、床の間部分(仙台城見聞館にて展示)
懸造がせり出した本丸崖部分の想像図(青葉城本丸会館にて展示)

その城の眼下には、現在の仙台市街地につながる城下町が建設されました。広瀬川には、城と城下町をつなぐ大橋がかけられたました。橋の擬宝珠には、政宗の名前で、仙台の繁栄を願う漢詩が刻まれます。橋から伸びる通りが、奥州街道と交わっていて「芭蕉の辻」と呼ばれました。ここには、人々が集まり、高札場や繁華街になっていました。現在の仙台につながっていったことがわかります。

仙台城模型のうち、手前が広瀬川にかかる大橋(仙台市博物館にて展示)
政宗名で漢詩が刻まれた擬宝珠(仙台市博物館にて展示)
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)

政宗と仙台城のその後

ところで、お墨付きの方はどうなったかというと、うまくいかなかったのです。政宗は、本多正信などの幕閣とコネを作り、上杉氏や相馬氏の、関ヶ原処分のときに働きかけたのですが、だめだったのです。極めつけは、最上氏の改易のときに、正信の子・正純に働きかけますが、なんと正純まで改易になってしまったのでした。ただ、政宗の長男(庶子)・秀宗は宇和島藩主になっているので、幕府は、借りは返したと思ったのではないのでしょうか。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それと、疑われるのは相変わらずで、一揆の扇動(和賀・岩崎一揆)や、謀反の噂には事欠かなかったのです。謀反の噂は、婿の松平忠輝からの讒言が元ネタだったのですが、その度に弁明に走り、かえって将軍家との絆を深めていきます。その辺は海千山千でしたし、将軍としても、もっとも敵に回したくない大名ということだったのでしょう。

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それから、晩年の業績としては、慶長の遣欧使節がありますし、隠居用の屋敷にしては強力そうな、若林城の築城もありました。なにをやっても目立ってしまうのです。地道な方では、寺社の再建や、江戸城普請も行っています。その普請の最中、1636年(寛永13年)、70歳で江戸で亡くなりました。

復元された遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ」号(4分の1スケール)、宮城県慶長使節船ミュージアムにて展示
若林城跡
政宗が再興した陸奥国分寺

仙台城の方ですが、政宗の跡継ぎ・忠宗は、政務の場所として山麓に二の丸御殿を築きました。山の上への通勤が、大変だったということもありますが、ワンマン経営だった政宗時代から、藩の組織を整備したという意味もありました。政宗・忠宗2代で幕府との良好な関係が確立し、次の時代に起こる藩内抗争「伊達騒動」を乗り切れたという評価もあるのです。政宗の後で目立たちませんが、隠れた功労者だっだのです。

伊達忠宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
二の丸の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本丸は、儀式のための場所になって、度重なる地震により、三重櫓は崩れて再建されませんでしたが、石垣は修復されて、大広間とともに幕末まで残りました。戊辰戦争でも戦場になることはありませんでした。

本丸北壁の石垣

明治維新後、仙台城には陸軍が置かれましたが、大広間などが解体され、二の丸御殿も火災で焼失してしまいます。そして戦前まで残っていた大手門なども空襲で焼失してしまったため、現在ではお城の建物はほとんど残っていません。それで政宗像がシンボルになっているのでしょう。現在でも地震はあるので、石垣だけでも維持するのが大変なのですが、城の建物としては、1967年に大手門脇櫓が再建されました。今後は、大手門そのものが復元される計画があるそうです。

大手門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗騎馬像
再建された大手門脇櫓

「仙台城 その2」に続きます。

23.小田原城 その1

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城となるまで成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

立地と歴史(戦国編)

小田原といえば、昔は北条氏五代の都、今では箱根のお膝元の観光地といったイメージでしょうか。小田原城も、宿場の押さえの城としてスタートし、戦国最大の城と言われるまでに成長し、江戸時代には関東地方を守る西の要となりました。中心部はほぼ同じ場所にあったにも関わらず、これだけカラーが変わっていた城も珍しいのではないでしょうか。本記事では、この城の戦国期までの歴史を追っていきたいと思います。

現在の小田原城、天守は江戸時代のものを復興させました

城の始まりと伊勢宗瑞の登場

古代の頃、西から関東に入る東海道は、箱根峠ではなく、足柄峠を越えるルートが主流でした。鎌倉時代になると、箱根山(箱根神社)・走湯山(伊豆山神社)の二所権現への参詣が盛んになり、箱根ルートがよく使われるようになりました。これにより、南北朝時代までには小田原に宿場町が形成されたと考えられています。「小田原城」の記録はこの後に現れますので、この町は城下町でなく、宿場として始まったことになります。一方、支配者の武士階層の中には、関所で通行税(関銭)を徴収する権利を持つ領主がいました。箱根や足柄では、大森氏がその立場にあり、徴収した関銭を、寺院の建立に使ったりもしていました。その大森氏が、宿場として成長した小田原を管理するために、15世紀中頃の戦国時代の始まりまでには、初期の小田原城を築いたと言われています。その目的からして、規模は大きくなかったと考えられます。

城の位置

また、初期の城の位置ですが、従来は現在の小田原城天守の北側の、「八幡山古郭」と呼ばれる場所ではないかと言われてきました。しかし当初の小田原宿は、江戸時代のそれより、西側にあったと考えられます。標高が高く高潮の被害を受けにくく、初期の頃もこの場所についての記録、言い伝えが残っているからです。そのため、城もその宿場に近い、現在の小田原城の天守周辺(八幡山丘陵の端)か、天神山丘陵にあったと考えられるようになってきました。

八幡山古郭東曲輪
現在の天神山

戦国時代には、「北条早雲」こと伊勢宗瑞(いせそうずい)が登場します。宗瑞はこれまで、下剋上を果たした、典型的な初期の戦国大名の一人として、捉えられたこともありました。つまり、素浪人から自らの才覚のみでのし上がり、城持ちの大名になったというサクセス・ストーリーです。しかし、最近の研究により、彼は備中国(岡山県西部)出身の、将軍に仕える幕府奉公衆・伊勢盛時(いせもりとき)であったことがわかっています。彼の姉が、駿河国(静岡県中部)の大名、今川義忠に嫁いでいましたが、家督争いが発生し、姉の子の氏親を支援するために、駿河に向かったのです。

伊勢宗瑞(北条早雲)肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、氏親を跡継ぎにすることに成功し、恩賞として、駿河の興国寺城を与えられました。その後、伊豆国(静岡県東部)の韮山城、そして相模国(神奈川県)の小田原城を手に入れるのですが、それは、一匹狼ではなく、今川氏の部将、そして南関東を治めていた扇谷上杉氏との連携によって行われました。小田原城攻めにしても、宗瑞が大森氏に贈り物を送って油断させ、「火牛の計」を使って城から追い出したという武勇伝がありました。しかし実態は、宗瑞の弟と大森氏が一緒に小田原城にいて(扇谷上杉氏方)、山内上杉氏に攻め取られたという記録があったりして、単純な話ではなかったようです。西暦1500年前後に大地震があったり、大森氏が山内上杉氏方に転じたタイミングで、宗瑞が手に入れたのではないかと考えられています。ただし、この時点では小田原城は、まだ支城という扱いでした。

興国寺城跡
「火牛の計」で攻める北条早雲像、小田原駅西口

北条氏綱・氏直による発展

初代・宗瑞(北条早雲)の跡を継いだのは、嫡子の北条氏綱(ほうじょううじつな)です(1518年、宗瑞は翌年に没)。「小田原北条五代」と言いますが、小田原を本拠地とし、「北条氏」を名乗ったのは、2代目の氏綱からです。関東地方侵攻を本格的に始め、敵となった上杉氏(山内・扇谷)から「他国之凶徒」と言われ、権威を得るため、鎌倉時代の関東支配者の名字を名乗り始めたと言われています。また、関東公方の足利晴氏と同盟を結び、「関東管領」に任命され、同じ職名を世襲していた(山内)上杉氏に対抗します。

北条氏綱肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1541年に氏綱から跡を継いだ3代目の北条氏康は、更に領土を広げ、1546年の河越城の戦いで上杉軍に大勝し、関東での覇権を確立しました。氏綱・氏直は小田原を南関東の中心地にしようとしました。それまでの宿場町を城下町として、江戸時代の小田原宿と同じくらいまで広げました。日本最初の水道と言われる「小田原用水」も町に引かれました。城についてはこの頃、城の中心となる「本丸」「御用米曲輪」「二の丸」が成立したと考えられています(曲輪の名前は江戸時代のもの)。1551年に小田原を訪れた僧が「三方に大池あり」と記録しています。この池は現在、二の丸の堀として残っています。また、氏康は民衆に善政を施したことでも知られています。年貢率(四公六民)も他の大名よりは低かったと言われています。

北条氏康肖像画(複製)、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原用水
現在の二の丸東堀

1561年、城は最初の大きな危機を迎えます。越後国(新潟県)の上杉謙信(その時点は長尾景虎)が、旧来の上杉氏による秩序回復を掲げ、関東地方に侵攻してきたのです。翌年(永禄4年)2月には10万を超えるとも言われる大軍で小田原城を囲みますが、短期間で引き上げました。その場の勢いに乗った寄せ集めであったため、長陣には耐えられなかったからです。そのとき、大手門であった「蓮池門」(現在の幸田口門跡周辺)に、謙信方の先鋒、太田資正が突入し戦ったと伝わっています。氏康は当時、甲斐国(山梨県)の武田信玄、及び今川氏と三国同盟を結んでいて、その力を基礎に、その後謙信の侵攻を跳ね返していきます。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし次の危機として、信玄が1568年に同盟を破り、翌年(永禄12年)10月には、小田原城に攻め込んできました。信玄は、同年8月に北条領内に侵入し、10月1日から小田原城を包囲し、5日には引き上げています(この後、退却途中に有名な三増峠の戦いが起こります)。このような経緯から、もともと小田原城を本気で落とそうとする意図はなかったようです。信玄も謙信と同じように、蓮池門から城を攻めたと言われています。城下町は悉く放火され、信玄自身が手紙で「氏政館」も放火したと言っています。氏政は、氏康の跡継ぎで、当時彼の館は、現在の「御用米曲輪」にあったと考えられていますので、これが合っていれば、本丸の麓まで攻め込まれたことになります。このとき氏政は、氏康から家督は譲られていましたが、1571年に父・氏康が亡くなると、武田との同盟を復活し、更なる城の拡張を行います。恐らく、これらの戦いでの経験が基になっていると思われます。長期の籠城に耐えられる城であれば、どんな強力な敵にも対応できると確信を持ったのかもしれません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の御用米曲輪

北条氏政・氏直による完成

北条氏政と跡継ぎの氏直の時代に、北条氏は全盛期を迎えました。武田氏との同盟が機能した他、上杉謙信が1578年に亡くなり、関東地方に強敵が見当たらなくなったからです。北条氏は関東地方の大半を支配するようになり、地域防衛のため、支城ネットワークを築き、重要な城には一族・重臣を派遣しました。小田原城は、そのネットワークの中心に位置づけられたのです。小田原城そのものも、以前の戦いの教訓に基づき、氏政主導で強化されました。まず、二の丸外側の低地に、三の丸が作られました。また、城の背後からも攻められないよう、三の丸外郭が丘陵地帯に築かれました。更には、三の丸外郭に続く防衛ラインとして、丘陵地帯の地形を利用して、小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)の建設を始まました。これらは、急斜面の堀を掘削し、堀った土を土塁として積み上げるやり方で築かれました。北条氏は石垣を積む技術も持っていましたが、このエリアの土は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が堆積してできたもので、粘土質で滑りやすく、敵を防ぐための堀には打ってつけだったのです。また、堀の底は、「障子堀」「畝堀」呼ばれる仕切りがつけてあり、堀に入った敵を閉じ込める仕組みとなっていました。

北条氏政肖像画、法雲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三の丸外郭
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)
山中城跡に残る障子堀

城の拡張は、日本全体や他の大名との外交関係にも影響されていました。織田信長が1582年に武田を滅ぼしたときには、信長に臣従せざるをえなくなりました。ところが、信長が本能寺の変で倒れると、また乱世に戻ったようになります。武田の遺領をめぐって、北条・徳川・上杉が三つ巴の戦いを始めたのです。更に、上野国で真田昌幸が独立を志向して三者を渡り歩き、不気味な存在となります。氏政は、徳川家康と手打ちをし、関東地方だけは確保しますが、今度は豊臣秀吉の天下統一が進みます。1587年までに、西日本は全て平定され、氏政の周りの大名たちも秀吉に臣従しました。北条氏は孤立し、頼りにできるのは同盟続いていた家康と、奥州の覇者・伊達政宗だけでした。氏政は翌年から、豊臣方と臣従するための条件交渉を始めます。その一つが、真田と争っていた上野国沼田の扱いで、一旦は秀吉の裁定により解決しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
真田昌幸肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽作、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信作、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その一方で、氏政は戦になることも想定し、「相府大普請」とも呼ばれた小田原城の大改修を始めました。その目玉は、小田原を囲む丘陵地帯(八幡山・天神山・谷津)、城、城下町を丸ごと土塁と堀で囲む総構でした。その延長は約9キロメートルに及び、工事には関東全域から人夫が動員されました。地域全体を囲んでしまえば、敵は入ってこれず、長期の持久戦ができると考えたのでしょう。当時はこれを「大構」と呼んでいたようで、同じ名前の遺構が、支城だった岩付城跡に残っています。

赤い線が総構土塁の推定ライン

総構の想像図、現地説明パネルより
わずかに残る岩付城大構

1589年(天正17年)10月、北条氏の家臣が、沼田で真田のものになったとされる名胡桃城を奪う事件が発生しました。秀吉は激怒し、命令違反として、北条征伐を決定します。この事件は不可解な点も多く、秀吉と真田が仕組んだ謀略という説もあります。直臣に領地を与えたい秀吉と、ただちの臣従を潔しとしない氏政の思惑も考えられ、両者の対決は必然だったのかもしれません。小田原城総構は、約2年をかけ、完成していました。

名胡桃城跡

運命の小田原合戦

1590年(天正18年)3月、豊臣秀吉軍総勢約22万人(本体16万、水軍2万、北陸勢3.5万)が、北条領に押し寄せました。この他に、これまでも北条と敵対していた関東勢1.8万人が攻撃してきました。迎え撃つ北条軍は、総勢約8万人と言われ、その内約5万人を小田原城に集中させました。支城ネットワーク攻略に時間をかけさせ、小田原城での長期籠城戦により、敵を消耗させ、有利な講和に持ち込むつもりだったと思われます。しかし、その大半は無理やり徴収した農民兵であり、質は劣っていました。城の改修のときから、過酷な負担を強いられていたため、当然士気も上がりません。先代のときに目指した民政の充実は、遠のいてしまっていました。3月28日に上野国松井田城、29日に伊豆国山中城・韮山城で戦いが始まりました。ところが、圧倒的な兵力差により、山中城がたった1日で落城してしまいます。その後も、有力な支城が次々に落城、開城していきました。5月末には、籠城中または未攻略の有力支城は、韮山、鉢形、津久井、八王子、忍のみとなりました。北条軍にとっては、大きな衝撃、かつ誤算でした。松井田城主で重臣の大道寺政繁や、玉縄城主・北条氏勝は、豊臣軍の道案内をし、北条方の城主に降伏するよう説得する有様でした。そのくらいの力の差があったということでしょう。

北条領国の支城ネットワーク、現地説明パネルより

豊臣軍は4月上旬には小田原城に到達し、18万の軍勢で城を包囲しました。秀吉は、5日に早雲寺に着き、ここを本陣とします。4月下旬には、新しい本陣として石垣山城の築城を始めました。しかし、このような大軍であっても、幅最大30メートル、深さ10メートル以上、勾配50度以上の総構のラインに阻まれ、城の中に打ち入ることはできませんでした。総構のラインには、柵が並び、所々に櫓が立ち、重要な出入口は2重の仕切りがあるなど厳重に警備されていました。城の中心部は、本丸には5代目当主・北条氏直がいて、先代の氏政は、北の八幡山に布陣していました。以前氏政館だったところは、「百間蔵」と呼ばれる倉庫群になり、長期籠城に備えていたようです。(戦後に、伊達政宗が小田原城の倉庫群を見聞し、その収容力に驚嘆しています。)総構の中には城下町も含まれていたので、生活・軍事物資も自己調達できることになります。また、総構の外にも、篠曲輪などの出丸があり、攻撃態勢も備えていました。一方、北条軍にとってもう一つの誤算が、豊臣軍の長期戦への備えでした。豊臣軍の多くは専門の兵士であり、大量の兵糧(秀吉が20万石と指示)を調達・輸送することで、長期滞在が可能となっていました。かつての上杉・武田軍と比べ、別次元の経済力、技術、運用ノウハウを持っていたのです。(現場レベルでは、士気の緩みや食料不足ということもあったようです。)その結果、4月、5月と城を挟んだにらみ合いが続きます。

小田原城周辺の布陣図、現地説明パネルより

5月には、東北・関東の大名たち(南部、安東、結城、佐竹、宇都宮など)が小田原に参陣してきました。6月5日には、ついに伊達政宗が到着し、9日に白装束で秀吉に謁見しました。これで、北条への援軍が来る可能性がなくなりました。この辺りから、小田原開城に向けた交渉が加速していきます。交渉の推進役は、北条氏直でした。後に、延々と結論の出ない会議のことを「小田原評定」というようになりますが、実際には水面下で動きはあったのです。支城の方は、6月14日鉢形城開城、23日八王子城落城、24日韮山城開城、25日津久井城開城となります(残りは忍城のみ)。その韮山城主・北条氏規は、豊臣方の黒田孝高(官兵衛)とともに、氏直に開城を勧めました。6月26日に、石垣山城が完成し、秀吉が移りますが、その姿が最後のダメ押しになったかもしれません。

伊達政宗肖像画、加納安信作、仙台市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鉢形城跡
八王子城跡
石垣山城跡

7月5日、氏直は降伏を申し入れ、小田原城は開城しました。開城交渉の中で、領土の縮小維持という条件もあったと言われますが、秀吉の裁定は過酷でした。氏政など主戦派と見なされた4名は切腹、氏直は高野山へ追放(後に赦されるが病死、氏規の家系が小大名として存続)となりました。戦後の領地配分を見ると、徳川家康が北条領に転封、徳川領に尾張の織田信雄を移そうとしたが断ったため改易とし、空いたところに、当時の跡取り・豊臣秀次とその家老たちを入れています。秀吉の意図が見えるのではないでしょうか。(ちなみに、沼田領(沼田城含む)も丸々真田のものとなりました。)

小田原城近くにひっそりと佇む切腹した北条氏政と氏照の墓所

戦国大名としての北条氏は滅亡しましたが、その総構の城は、参陣した大名たちに大きなインパクトを与えました。記録に残っているものでは、駿府城に入った中村一氏が、小田原城に習い総構を築いています。秀吉自身も、小田原合戦の翌年、京都を囲む御土居の建設を始めました。しかも、その堀には「障子堀」が採用されています。本拠地の大坂城でも、1594年から総構(三の丸)の建設を行っています。

現在の駿府城公園
移築復元された大坂城三の丸の石垣

小田原合戦に参陣した大名たちの城で採用された「総構」も、小田原城の影響があると考えられています。

蒲生氏郷の若松城、総構の甲賀門跡
堀秀治の春日山城、復元された総構
前田利家の金沢城、総構跡

「小田原城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

error: Content is protected !!