101.志苔館 その2

リラックスできる場所

特徴、見どころ

函館市が館跡を一部復元

現在、志苔館跡は函館市によって整備されています。南側の志海苔港の裏手の高台にあって、とてもリラックスできる場所です。その中心部には今でも四角いスペースが残存しています。建物はありませんが、外側を土塁と空堀によって囲まれています。全体的に芝生に覆われていて見栄えがします。

高台にある志苔館跡(右側)

館跡入口の手前には、和人とアイヌ民族との戦いの事を記した慰霊碑と休憩所があります。入口は西側にあるのですが、そこは空堀が二重になっています。館跡に入るには、一番目の堀にかかった橋を渡り、更に二番目の堀は土橋で渡ります。これらは現代になって復元されましたが、城の最終段階の状態を表しています。

城周辺の航空写真

入口手前にある慰霊碑
休憩所
城跡入口、向こう側に二重空堀があります
一重目の空堀にかかる橋
二重目の空堀を渡る土橋

館跡の中心部

館跡の中心部は、土塁に四角く囲まれていますが、志苔館より後の時代に築かれた日本式城郭の曲輪一つ分といった感じに見えます。発掘によれば、そこには3世代の建物がありました。2代目または3代目の建物は、恐らく城が最初にアイヌによって占領された後に再建されたものと考えられます。初代の建物群がどのように建てられたのか地面上に平面展示されています。過去に井戸であった場所は、4面の枠によって囲まれています。発掘では、多くの中国製の陶磁器や日本製の陶器が発見されています。それに加えて館に関する2基の記念碑があり、これらは約100年前の大正時代に地元の人たちが館跡の保存を期して建てたものです。

土塁に囲まれた中心部
平面展示されている建物跡
井戸跡
記念碑

素晴らしい景色を楽しむ

ここを訪れた上には是非、南側の土塁の上に立つか座ってみてください。正面には津軽海峡の雄大な景色が、右側には函館山の遠景を望むことができます。天気が良ければ、海峡を越えて本州まで見渡すこともできます。くつろぎ、リフレッシュできること請け合いです。もしお時間があれば、土塁の外側の空堀の底にある通路を歩いてみてください。例えば、東側の堀は小川が利用されています。この館は自然の地形を利用して築かれたことがわかります。

津軽海峡と志海苔漁港の景色
函館山の遠景
南側の空堀の底
小川を利用した東側の空堀
土塁の北東角部分

「志苔館その3」に続きます。
「志苔館その1」に戻ります。

101.志苔館 その1

和人とアイヌ民族の交易の中心地

立地と歴史

道南十二館の一つ

志苔館(しのりたて)は、現在の北海道函館市において中世の日本の武士たちが築いた館です。当時、北海道は蝦夷(ヶ島)と呼ばれていて、原住民としてアイヌ民族が住んでいました。アイヌは、日本の本州に住んでいた日本人(以下「和人」と表記)とは違う言語、違う生活様式を有していました。彼らは、和人が通常農耕により生活していたのとは異なり、狩猟、漁撈、交易によって生活の資を得ていました。本州から蝦夷に渡った最初の和人は、罪人、落ち武者、商人であったろうと言われています。(和人から見て当時の蝦夷は3つの集団に分かれていましたが)その蝦夷に渡った人たちが、和人と交易を行っていた「渡党(わたりとう)」というグループになったのではないかとする歴史家もいます。本州の北端部分を支配していた安東(あんどう)氏が、13世紀以来「蝦夷管領」として渡党の人たちを監視し、コントロールしていました。

イザベラ・バードによるアイヌ男性のスケッチ、19世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

14世紀後半、渡党と和人たちが北海道の南端の渡島半島でさかんに活動しました。そして、そのリーダーたちは半島沿いに居住や交易のためにいくつもの館を築き始めました。志苔館は、道南十二館の一つであり、そのうちで最も東側にあり、恐らくは最初のものだっと思われます。歴史家は、安東氏の配下であった小林氏が志苔館を築いたのではないかとしています。

城の位置

志海苔の町とともに繁栄

館のそばにある志海苔(しのり)の町も、和人とアイヌの間で行われた交易や産業によって繁栄しました。記録によれば、そこには数百件の家屋から成る鍛冶屋町がありました。アイヌの人たちは自分たちで鉄製品を作ることができなかったからです。1968年のことですが、志苔館跡から約100m離れた海岸で大甕に入った約37万枚もの古銭が発見されました。大甕は複数あり、一部が壊れていました。もし、全部が完全な状態であれば古銭の量は50万に及んだだろうとされています。古銭の種類を調べたところ、館があったのと同じ時期に埋められたということがわかりました。この辺りには裕福な商人か領主がいたということになります。歴史家の中には、小林氏が志苔館を築くときの地鎮祭のために、これらの古銭を埋めたのではないかと推測している人もいます。

北海道志海苔中世遺構出土銭、重要文化財、函館市ホームページから引用

志苔館は、南側の海岸から20m以上の高さがある丘の上に築かれました。館は、東西70m、南北50mの方形の区画に建てられました。その区画の外側は、土塁、更には空堀によって囲まれていました。区画の西側が出入口となっており、空堀が二重になっていました。館は普段は居住や交易のために使われたが、緊急事態や戦いが起こったときには城のような基地としても使われたと考えられます。

城周辺の起伏地図

志苔館跡
志苔館跡の現地案内図

アイヌの反乱により2度の落城

館周辺の状況は、1432年に安東氏が南部氏との戦いに敗れ、本州から追い出されたときに劇的に変わりました。安東氏は本拠地を北海道に移さざるをえず、それ以来、和人とアイヌの間の緊張が一気に高まりました。安東氏が北海道を直接支配しようとしたからです。1456年に志海苔の鍛冶屋で事件が起こりました。アイヌの少年がその鍛冶屋に注文した小刀(マキリ)に対して不満を述べたところ、なんと鍛冶屋が少年を殺してしまったのです。この事件はアイヌの人たちを憤激させ、アイヌのリーダー、コシャマインによる反乱に至りました。

アイヌマキリ (licensed by Haa900 via Wikimedia Commons)

小林良景(よしかげ)が所有していた志苔館は、反乱軍により攻撃され、落城しました。良景もまた殺されました。そして、道南十二館のうち、10館までが占領されてしまったのです。翌年、和人の武将である武田信広がコシャマインを討ち取り、反乱を鎮圧しました。その後、志苔館は良景の子、小林良定(よしさだ)により再建されましたが、1512年にまたもアイヌによる反乱がおこり、館は占領されました。良定までもが殺されました。その結果、和人は渡島半島の西部に集結することとし、江戸時代には松前藩の立藩や松前城の築城につながっていきます。半島の東側にあった志苔館はやがて廃城となりました。

武田信広肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松前城

「志苔館その2」に続きます。

2.五稜郭 その3

弁天岬台場が残っていたとしたら・・

特徴、見どころ

五稜郭タワー

城跡そのものとは別に、五稜郭タワーにも登っていただきたいです。このタワーは高さ107mの、ほぼ五稜郭を専門に眺めるための展望台です(もちろん函館山や函館市街地もよく見えます)。五稜郭は大砲からの標的になるのを防ぐため、平面的にデザインされていて、今日のビジターからするとその形をはっきりとつかめないかもしれません。よって、エレベーターで90mの高さの展望台に登っていただくと、星形の城の形が素晴らしい景色として目に入ってきます。

五稜郭タワー
タワー内に展示されている五稜郭の模型
展望台から見た五稜郭
函館山と市街地も見えます

四稜郭跡

五稜郭に関係するもう一つの見どころは、五稜郭の北東約5kmのところにある四稜郭跡です(五稜郭の鬼門(北東)を守護する東照宮を防衛するために築かれたとも言われています)。五稜郭よりはずっと小さいですので、そこに着いてみればそのユニークな形が見て取れると思います。

四稜郭周辺の航空写真

四稜郭跡入口
端の方に立つとその形がわかります
大砲が据えられていたと思われる場所(四隅の一つ)

その後

函館戦争が終わった後、五稜郭のほとんどの建物は撤去されました。明治時代の間は、帝国陸軍が演習場として城跡を所有していました。また、堀の水は製氷のために使われ、そこで作られた氷は「函館氷」として1870年から1953年まで販売されていました。堀の水は五稜郭設立のときから亀田川から引かれていて、清涼だったからです。大正時代の1913年には函館市が陸軍省に城跡を公園として開放するよう要請し、その翌年に五稜郭公園として実現しました。

かつて製氷に使われた水堀
稜堡の先端から外側を見ています

私の感想

五稜郭とその関連の歴史を振り返ってみると、つくづく弁天岬台場の痕跡が全く残っていないのが惜しまれます。台場は完全に解体され、その石材は1899年の函館港の改修資材として再利用されました。その場所には、かつてそこに台場があったことを示す標柱が立っているだけです。東京湾の品川台場のように、もし少しでもその遺跡が残っていたとしたら、台場と五稜郭の役割分担が今の人々にもよく理解できたのではないかと思います。いずれにせよ、五稜郭が日本の城の中でも独特なスタイルを持っていることにより、日本の歴史の中でユニークな存在として記憶され続けてほしいです。

弁天岬台場跡
函館港改良工事記念碑
このどこかに弁天岬台場の石が使われているはずです

ここに行くには

車で行く場合:函館空港または函館市の中心部から約20分のところです。新函館北斗駅からは40分くらいはかかるでしょう。公園に駐車場が隣接しています。
公共交通機関を使う場合は、函館駅から湯の川行きの函館市電に乗り、五稜郭公園前駅で降りてください。そこから歩いて15分くらいで現地に着きます。
東京または大阪から函館駅まで:東京駅で北海道新幹線に乗り、新函館北斗駅駅で函館本線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

五稜郭公園 国指定特別史跡「五稜郭跡」、函館市住宅都市施設公社
函館・五稜郭タワー
・「よみがえる日本の城9」学研
・「日本の城改訂版第4号」デアゴスティーニジャパン
・「歴史群像56号、日本初の稜堡式要塞 函館五稜郭」学研
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
「函館市史」デジタル版

これで終わります。ありがとうございました。
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