立地と歴史
道南十二館の一つ
志苔館(しのりたて)は、現在の北海道函館市において中世の日本の武士たちが築いた館です。当時、北海道は蝦夷(ヶ島)と呼ばれていて、原住民としてアイヌ民族が住んでいました。アイヌは、日本の本州に住んでいた日本人(以下「和人」と表記)とは違う言語、違う生活様式を有していました。彼らは、和人が通常農耕により生活していたのとは異なり、狩猟、漁撈、交易によって生活の資を得ていました。本州から蝦夷に渡った最初の和人は、罪人、落ち武者、商人であったろうと言われています。(和人から見て当時の蝦夷は3つの集団に分かれていましたが)その蝦夷に渡った人たちが、和人と交易を行っていた「渡党(わたりとう)」というグループになったのではないかとする歴史家もいます。本州の北端部分を支配していた安東(あんどう)氏が、13世紀以来「蝦夷管領」として渡党の人たちを監視し、コントロールしていました。
14世紀後半、渡党と和人たちが北海道の南端の渡島半島でさかんに活動しました。そして、そのリーダーたちは半島沿いに居住や交易のためにいくつもの館を築き始めました。志苔館は、道南十二館の一つであり、そのうちで最も東側にあり、恐らくは最初のものだっと思われます。歴史家は、安東氏の配下であった小林氏が志苔館を築いたのではないかとしています。
城の位置
志海苔の町とともに繁栄
館のそばにある志海苔(しのり)の町も、和人とアイヌの間で行われた交易や産業によって繁栄しました。記録によれば、そこには数百件の家屋から成る鍛冶屋町がありました。アイヌの人たちは自分たちで鉄製品を作ることができなかったからです。1968年のことですが、志苔館跡から約100m離れた海岸で大甕に入った約37万枚もの古銭が発見されました。大甕は複数あり、一部が壊れていました。もし、全部が完全な状態であれば古銭の量は50万に及んだだろうとされています。古銭の種類を調べたところ、館があったのと同じ時期に埋められたということがわかりました。この辺りには裕福な商人か領主がいたということになります。歴史家の中には、小林氏が志苔館を築くときの地鎮祭のために、これらの古銭を埋めたのではないかと推測している人もいます。
志苔館は、南側の海岸から20m以上の高さがある丘の上に築かれました。館は、東西70m、南北50mの方形の区画に建てられました。その区画の外側は、土塁、更には空堀によって囲まれていました。区画の西側が出入口となっており、空堀が二重になっていました。館は普段は居住や交易のために使われたが、緊急事態や戦いが起こったときには城のような基地としても使われたと考えられます。
城周辺の起伏地図
アイヌの反乱により2度の落城
館周辺の状況は、1432年に安東氏が南部氏との戦いに敗れ、本州から追い出されたときに劇的に変わりました。安東氏は本拠地を北海道に移さざるをえず、それ以来、和人とアイヌの間の緊張が一気に高まりました。安東氏が北海道を直接支配しようとしたからです。1456年に志海苔の鍛冶屋で事件が起こりました。アイヌの少年がその鍛冶屋に注文した小刀(マキリ)に対して不満を述べたところ、なんと鍛冶屋が少年を殺してしまったのです。この事件はアイヌの人たちを憤激させ、アイヌのリーダー、コシャマインによる反乱に至りました。
小林良景(よしかげ)が所有していた志苔館は、反乱軍により攻撃され、落城しました。良景もまた殺されました。そして、道南十二館のうち、10館までが占領されてしまったのです。翌年、和人の武将である武田信広がコシャマインを討ち取り、反乱を鎮圧しました。その後、志苔館は良景の子、小林良定(よしさだ)により再建されましたが、1512年にまたもアイヌによる反乱がおこり、館は占領されました。良定までもが殺されました。その結果、和人は渡島半島の西部に集結することとし、江戸時代には松前藩の立藩や松前城の築城につながっていきます。半島の東側にあった志苔館はやがて廃城となりました。
「志苔館その2」に続きます。