114.唐沢山城 その3

本丸虎口の石垣はそれ程高くないですが、鏡石が使われています。この虎口は最近調査されて、櫓門があったことが判明しました。これらの構造物は、城をより強力に、また権威を誇示する効果もあったことでしょう。

特徴、見どころ

本丸の素晴らしい高石垣

この石垣は約8mの高さで、長さは約40mもあります。野面積みという手法で、自然石か粗く加工された石を使って積まれています。粗野なように見えてその実、大変すばらしい出来です。最後の城主、佐野信吉が西日本から穴太衆という優れた石工の職人集団を招いて築かせたと言われています。

城周辺の地図

本丸の高石垣
二の丸側から見た高石垣

二の丸に入っていくと、そこは本丸のすぐ下になっています。よって、ここも素晴らしい石垣で囲まれた本丸虎口が見えます。この石垣はそれ程高くない(2.5m)のですが、いくつかの鏡石が使われています。この虎口は最近調査されて、櫓門があったことが判明しました。これらの虎口の構造物は、城をより強力に、また権威を誇示する効果もあったことでしょう。

二の丸(手前)と本丸(奥)
本丸虎口
虎口の鏡石

本丸は山頂にあって、現在は神社の建物があります。過去にどのような建物があったかはわかっていません。御殿や天守のような建物があったのかもしれません。

唐沢山神社
本丸周りの石垣

城の南北の防衛拠点

本丸の南側には「南城(なんじょう)」と呼ばれる曲輪があります。山の南側の峰を防衛するために築かれたもので、石垣や堀切によって囲まれています。現在、南城には社務所があって、ここも素晴らしいビューイングスポットになっています。天気がよければ、東京スカイツリーと富士山の両方を見渡すことができます。この山城から江戸城を見下ろすことが無礼だと、最後の城主、佐野信吉が幕府から詰問されたとしても、申し開きはできなかったでしょう。

南城
南城周りの石垣
南城周りの堀「一つ目堀」
南城からの景色、この日は曇っていました

山の北峰の方にも、北の丸などの曲輪群があります。これらの曲輪は基本土造りで、堀切によって区切られています。城の中では古い部分に当たります。

長門丸
金の丸
杉曲輪
杉曲輪、北の丸間の堀切
北の丸

ハイキングコースも城跡の一部

ハイキングをするのであれば、唐沢山周遊コースの一部となりますが、城の中心部から飯守山(いいもりやま)まで、鏡岩、屏風岩、権現堂を経由して歩いてみてはいかがでしょうか。このコースは、唐沢山につながるもう一つの峰の上を進むルートです。

唐沢山周辺の地図

唐沢山周辺の起伏地図

ハイキングコース案内図
鏡岩
屏風岩と景色

城にとっては防衛拠点の一つでした。そのため、峰上を歩く途中には、人工的な堀切の上を渡る橋があったりします。峰にいくつかあるそれぞれのピーク地点では、関東地方を見渡せるようなパノラマビューを楽しむことができます。飯守山は、1570年に上杉謙信と佐野昌綱が最後に戦った時の激戦地です。

堀切を渡る橋
権現堂(見晴小屋)へ
権現堂からの景色
富士山をズームアップ
飯守山山頂

その後

徳川幕府により佐野氏が追われた後は、幕府の重臣である井伊氏が佐野地域を飛び地として、江戸時代の間領有しました。その間、城であった山に民衆が立ち入ることを禁止していました。そのため、城の遺跡はよい状態で保存されてきました。明治維新後は地元の人たちによって、1883年に唐沢山神社が創建されました。当時は神社を設立することが、城跡を維持するための常套手段だったのです。城跡は1965年には唐沢山県立自然公園の一部ともなりました。これらの経緯により、いくつもの参道やハイキングコースが設定されています。城跡そのものとしては、佐野市が2007年以来調査研究を進めていて、その結果、2014年には国の史跡に指定されました。

唐沢山神社

私の感想

「上杉謙信が唐沢山城を攻撃し、本丸に迫ったが撃退された」というフレーズをよく聞きます。一方、謙信が唐沢山城を所有していたときに北条氏に攻められたことを記した、1567年の書状には「本丸のみが残っていた」とあります。攻守を変えて同じようなことが2度起こったのか、それとも現在の人が謙信が守っていたのを攻めた側と勘違いしているのか、よくわかりません。いずれであっても、謙信と唐沢山城が深い関係にあったのは事実でしょう。つまりは、現在の人たちは今でも謙信の名前を借りて、この城の強さを説明したいのだと思います。

唐沢山城本丸

ここに行くには

車で行く場合:北関東自動車道の佐野田沼ICから約10分かかります。山麓、中腹、山頂それぞれに駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、東武佐野線の田沼駅から頂上まで、歩いて約40分かかります。
東京から佐野駅まで:東京駅か上野駅から常磐線に乗って、北千住駅で東武伊勢崎線に乗り換え、館林駅で東武佐野線に乗り換えてください。

山頂の駐車場
南登山口の駐車場
西登山口の駐車場
ハイキングコース途中の第二駐車場

リンク、参考情報

唐沢山城の紹介、佐野市
・「日本の城改訂版第57号」デアゴスティーニジャパン
・「北条氏康の子供たち/黒田基樹、朝倉直美編」宮帯出版社
・「中世東国の政治と経済/佐藤博信編」岩田書院
・「関東の名城を歩く 北関東編/峰岸純夫・齋藤慎一編」吉川弘文館

これで終わります。ありがとうございました。
「唐沢山城その1」に戻ります。
「唐沢山城その2」に戻ります。

114.唐沢山城 その2

現在、唐沢山城跡は唐沢山神社としてよく整備されています。多くの人たちが神社を訪れ、何かをお祈りしたり、ハイキングをしたり、素晴らしい景色を楽しんでいます。最近では、神社に住み着いた人懐こい猫たちを見に来る人も多いです。もちろん、ここにある史跡を見に来る人もいます。

特徴、見どころ

唐沢山神社として整備

現在、唐沢山城跡は唐沢山神社としてよく整備されています。多くの人たちが神社を訪れ、何かをお祈りしたり、ハイキングをしたり、素晴らしい景色を楽しんでいます。最近では、神社に住み着いた人懐こい猫たちを見に来る人も多いです。ここにいる猫たちは、もとは野良猫か捨て猫だったようで、ここでボランティアやビジターのよって養われています。

唐沢山神社に住む猫たち

もちろん、ここにある史跡を見に来る人もいます。山麓から山頂へは、城があったときと同じように、南側と西側の2方面から向かいます。補足すると、現在の道は車道とハイキングコースがそれぞれ設定されているので、少なくとも都合4つのルートがあります(実際にはもっと多くのハイキングコースがあります)。

唐沢山周辺の地図

南登山口
西登山口
西側のハイキングコース(一部がオリジナルの城道)

現在と過去のルート

方面は一緒でも現在の道筋は、城時代のオリジナルのものとは違っています。例えば、2方面から来る舗装された車道は、山頂の駐車場の前で合流します。しかし南側から来る道の一部は、現在も残る「鏡岩(かがみいわ)」の近くで、かつては岩によって塞がれていた場所でした。オリジナルの道はこの岩の前で合流し、ジグザグの道を伝って大手門に向かっていました。

現在の合流地点
過去の合流地点
鏡岩
かつての大手門に向かう道

大手道沿いの見どころ

駐車場から大手門跡に入っていくと、石垣によって典型的な食い違いの虎口があります(この石垣には実際には明治時代に築かれたか、修繕されたそうです)。大手道は門の内側を中心部に進みますが、その左右にも見どころがあります。右側(南側)には天狗岩という別の巨岩があって、過去には物見台だったのでしょうが現在では素晴らしい見晴台になっています。左側(北側)には避来矢山(ひらいしやま)という丘があるのですが、その名前は佐野氏が先祖の藤原秀郷から受け継いだ鎧(敵の矢を避けることができるという云われがある)から由来しています。したがって、そこも防衛拠点であったのでしょう。

城周辺の地図

大手門跡
大手道
天狗岩
天狗岩からの景色
避来矢山

大手道をまっすぐ中心部の方に進んでいくと、左側に「大炊井戸(おおいのいど)」という大きな井戸が見えてきます。直径は9mあり、深さは8m以上で、今も水が湧き出ています。城跡には他の井戸もあり、かつての長い籠城戦にも耐えられるようになっていました。次には四つ目堀という名の長大な空堀があり、ここから先が城の主要部となります。神橋(しんきょう)というコンクリート製の固定橋のみが堀を渡っています。この橋はもとは曳橋で、戦いが起こったときには外されたと言われています。上杉謙信がここまで攻めてきたが撃退されたとも言われています。

大炊井戸
本丸下にある車井戸
四つ目堀
神橋

4段の主要曲輪群

大手道は神社の参道にもなっているのですが、城の主要部の右側を通っていきます。その主要部は4段の曲輪群から構成されています。下の方から、腰曲輪、三の丸、二の丸、そして本丸です。特に、三の丸はその中では最大で、かつては接客のための応接間があったと言われています。三の丸へは脇道を通って行きます。参道にはオリジナルの大手道との分岐点があって、まっすぐ参道を行けば本丸にある神社への石段下に着きます。そこを左に曲がっていくと、二の丸の方に行きます。城巡りに来た方であれば、左の方に曲がってください。右側の方に本丸の素晴らしい石垣が見えてきます。

神社参道
三の丸への脇道(帯曲輪経由)
帯曲輪
三の丸
本丸神社下
左に曲がった場合、右側に高石垣が見えます

「唐沢山城その3」に続きます。
「唐沢山城その1」に戻ります。

114.唐沢山城 その1

最後の城主となった佐野信吉は、関東地方では稀な高石垣を城の主要部に築き上げました。これには豊臣秀吉による援助があったと考えられます。秀吉やその部下たちは、西日本で多くの似たような石垣を築いていたからです。

立地と歴史

佐野氏が戦国時代に築城

唐沢山城は、現在の栃木県佐野市にあった城です。この城は、関東平野の北端に沿った大規模な山城でした。言い伝えによれば、有名な武将であった藤原秀郷が平安時代の972年にこの城を築いたとされていますが、歴史家によれば、秀郷の子孫であり、この城を長く治めた佐野氏によって作られた話であろうとのことです。調査研究の結果、佐野氏は最初は15世紀まではこの山の西麓に館を構えていましたが、戦国時代になって関東地方で多くの戦が起こるようになって、山の上に城を築いたか拡張したと考えられています。金山城箕輪城など関東地方の他の有名な山城は、この厳しい状況を乗り切るために同じ時期に築かれています。佐野氏は最初はこの山城を緊急事態のときに使っていましたが、やがて生き残りのためそこを居城とするようになります。

佐野市の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

佐野氏が当初住んでいた山麓の館跡(現・興聖寺)
唐沢山城跡
金山城跡
箕輪城跡

上杉謙信が執着した城

一方、関東地方を支配したい有力戦国大名は、その有利な立地条件から唐沢山城を確保したいと思うようになります。上杉謙信はそのうちの一人で、その実現に執着しました。そのことを如実に示すエピソードがあります。1560年前後に謙信が最初に関東地方に侵攻したとき、北条氏の大軍が唐沢山城を包囲する中、僅かな近臣とともに城を訪れ、城主の佐野昌綱(さのまさつな)を説得し、謙信への支持を取り付けたのです。ところが、謙信が越後国の本拠地、春日山城に引き上げると、北条氏は領土奪還を始め、地元領主たちに服従を強いました。昌綱もその一人であり、北条方に寝返りせざるをえませんでした。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城跡

最強の武将の一人とされていた謙信は激怒し、唐沢山城を攻撃しますが、城もまた大変強力であり、強攻策では落とせませんでした。その後、昌綱は謙信に降伏することになりますが、謙信が引き上げると、また同じ事が繰り返されました。その結果、彼らは少なくとも5回も戦いました。謙信は一時、昌綱を城から追放し、親族(虎房丸、人質として引き取った昌綱の子という説もあります)や重臣を送り、城の直接統治を行いました。ところが、謙信はなぜか昌綱に城を返してしまいます。遠くにあるこの城をコントロールする難しさを感じていたのかもしれません。

佐野昌綱肖像画、大庵寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣秀吉の援助で高石垣が築かれる

唐沢山城を含む関東地方は、1570年代から1580年代にかけて、北条氏に帰属するようになります。北条氏もまた、謙信が行ったように、この城に一族の北条氏忠を送り込みました。一方、正綱の一族、佐野房綱(さのふさつな)は関東地方から西日本に逃れ、当時天下人として君臨していた豊臣秀吉に仕えました(房綱は当時は天徳寺宝衍(てんとくじ ほうえん)と名乗っていました)。そして、秀吉が1590年に関東地方に侵攻したときには、その先導役を務めたのです。その結果、房綱は唐沢山城の城主に返り咲きました。ところが、秀吉もまたこの城を自身の影響下に置きたかったようです。秀吉は、近臣である富田信高の弟を、房綱の跡継ぎに送り込み、佐野信吉(さののぶよし)となります。そして、彼が最後の当主、最後の城主となりました。これは、秀吉によって関東地方に転封されたライバルの徳川家康を、信頼できる誰かに監視させる目的であったと思われます。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

唐沢山城は、いくつもの峰を持つ大きな山の上に築かれました。山頂と峰上には多くの曲輪が設けられ、そこには矢倉、物見、番所、射撃所(「大鉄砲」「大筒」「国崩し」などと呼ばれました)などが置かれ、敵が来ないか監視し、来た場合には反撃できるようになっていました。峰々や曲輪群は、深い堀切によって区切られ、敵の攻撃を弱らせることができました。城に向かうには南側と西側の2つの主要道があり、山頂近くの大手門の前で合流し、城兵のコントロール下にありました。山麓地区は城主と重臣たちの屋敷地となっていて、防衛のため長大な土塁によって囲まれていました。これらは、佐野、上杉、北条の各氏によって長い期間をかけて構築されてきたのです。

城があった唐沢山
山麓にある土塁跡
山麓にある重臣屋敷跡(隼人屋敷)

この城の基礎部分は基本的には土造りで、当時の東日本での築城においてはそれが一般的でした。しかし、最後の城主となった佐野信吉は、この地方では稀な高石垣を城の主要部に築き上げました。これには秀吉による援助があったと考えられます。秀吉やその部下たちは、西日本で多くの似たような石垣を築いていたからです。一方、関東の家康は、そのような高石垣を築く技術や石工集団をまだ持ち合わせていませんでした。すなわち、強力な唐沢山城にある石垣は、家康にとって大いなる脅威と映ったに違いありません。

唐沢山城の高石垣

徳川家康の命で突然の終焉

秀吉の没後、1600年前後に家康が天下を取ったとき、信吉は家康に味方することで何とか生き延びました。ところが、唐沢山城と佐野氏の没落は突然やってきます。1602年に家康は信吉に、唐沢山から近くの平地にある佐野城への移動を命じました。その理由としては、山城の上から家康の住む江戸城を見下ろすことが無礼とされたから、と言われています。そして1614年に信吉はついに、兄の富田信高の罪に連座して改易となってしまいました。総じてみると家康は、信吉のような者が、唐沢山のような強力な城に籠って反乱を起こすことを、防ぎたかったようです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
佐野城跡

「唐沢山城その2」に続きます。