50.彦根城 その1

今回は、彦根駅改札前からスタートします。以前、佐和山城跡に行ったときは右側(東口)に進みました。今回は左側(西口)の彦根城の方に行きます。彦根駅前に、井伊直政の像がありますが、本記事は歴史編なので、井伊氏を大名にした直政から始めたいと思います。

ここに行くには

今回は、彦根駅改札前からスタートします。以前、佐和山城跡に行ったときは右側(東口)に進みました。今回は左側(西口)の彦根城の方に行きます。彦根駅前に、井伊直政の像がありますが、本記事は歴史編なので、井伊氏を大名にした直政から始めたいと思います。駅前の通りがまっすぐお城に通じていて、街がお城と一体化しているのを感じます。お堀(中堀)端からもう天守を見ることができます。直政の次は、彦根城の築城、発展について説明します。中堀沿いには、幕末の大老として有名な井伊直弼が若い頃を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」があります。最後のセクションでは直弼とその後の彦根城についても触れてみます。中堀を渡ると佐和口(門跡)です(左側の建物が重要文化財)。その前に城の歴史を勉強しましょう!

彦根駅改札前
井伊直政像
中堀端
天守のズームアップ
埋木舎
佐和口
佐和口多聞櫓(重要文化財)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

井伊氏の立役者・直政

井伊氏を大名家に押し上げた井伊直政は、戦国時代の1561年(永禄4年)、遠江国(静岡県西部)の井伊谷で生まれました。当時、井伊氏は今川氏に仕えていましたが、
前年の桶狭間の戦いで、当主の井伊直盛が戦死するなど、波乱の時を迎えていました。
この地域をめぐって今川、徳川、武田が争う中、直政の父・直親も、謀反を疑われ、今川氏によって亡き者にされました(1562年)。幼少だった直政(当時は虎松、2歳)は、唯一の跡継ぎとして、親族や重臣たちによってかくまわれ、養育されたのです。そして、1575年(天正3年)、鷹狩りをしていた徳川家康に見いだされ、小姓となったのです(万千代と名乗る、15歳)。ただその裏には、井伊氏の跡継ぎとして、家康の下に出仕させようとした重臣たちの演出がありました(松下清景の養子にするなど、松下氏は今川に没落後に徳川配下になっていました)。

家康・直政出会いシーンのジオラマ、犀ヶ崖資料館にて展示

直政は家康の小姓として、高天神城の戦いなどで初陣を果たしたようですが、その能力を発揮し始めたのが、本能寺の変後の、天正壬午の乱のときです(1582年、22歳で元服し「直政」に)。武田の旧領をめぐって争っていた北条氏との講和の使者に抜擢されたのです。このときは、井伊氏の当主という格もあって、北条氏5代目・氏直と交渉をまとめ上げました(後に重臣となる木俣氏が補佐、下記補足1)。

(補足1)同年(天正十年)冬、領国堺目争いの事により、上様(家康)また氏直と甲州新府において御対陳(陣)、その後御制、この御制使直政に仰せ付けらる、副使我に仰せ付けらる、直政自筆五箇条の覚書をもって我に渡さる、我すなわち氏直の陳(陣)に至り、問答しこれを陳説す、氏直点頭し制を受け互いに証文を取り御馬を入れらる、これをもって上様御領国相定まり、北条家と御縁組相調い御輿入あり、右五箇条の覚書我が家に諸事す。(「木俣土佐守守勝武功紀年自記」)

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、甲斐・信濃の多くの武田旧臣が徳川に仕える際の仲介も務めました(井伊直政が奉者となった天正十年中の旧武田家臣の本領安堵状が67通確認されています)。彼らは、直政の下に編成され、家康の直轄軍の一部となり、武田の軍制を引き継ぐ「井伊の赤備え」と言われるようになります(下記補足2)。1584年(天正14年)の豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いでは、井伊隊は戦功を挙げ、「井伊の赤鬼」と恐れられました。

(補足2)井伊万千代とゆふ遠州先方侍の子なるが、万千代殿、近年家康の御座をなをす。此万千代を兵部少と名付、大身に取りたてらるゝ。万千代同心に山形三郎兵衛衆・土屋惣蔵衆・原隼人衆・一条右衛門大夫殿衆四衆を、兵部同心に付らるゝ。山形衆中ニまがりぶち勝左衛門をば、むかわ衆なミにして、是ハ家康へ直参なり。今福もとめハきんじゆになるなり。然者、井伊兵衛そなへ、あかぞなへなり。(本編巻二十、酒井憲二「甲陽軍鑑大成」第二巻)

井伊直政所用と伝わる甲冑、彦根城博物館にて展示

秀吉との講和後のエピソードとして、秀吉の母・大政所が実質人質として徳川に送られてきたとき、世話役の本多重次は、いざというときのために、大政所の屋敷の周りに薪を積み上げた一方、直政は菓子などを持って大政所のご機嫌をとり、信任を得たというのです。そのせいか、家康が秀吉に臣従すると、家康家臣では唯一の公家身分(侍従)に抜擢されるのです。1590年(天正18年)の小田原合戦のときには、小田原城での数少ない戦いで戦功を挙げました。合戦後、家康の関東移封の際には、家臣では最高の12万石の領地とともに、上野国箕輪城主になりました。

大政所肖像画、大徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
井伊隊が攻撃した篠曲輪
箕輪城跡

そして直政が最も活躍するのが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いです。直政は、本多忠勝とともに、家康本軍の先鋒として、東軍最前線の指揮に当たりました。それだけでなく、西軍を含む全国の諸大名を味方につける工作も行いました。吉川広家などへの工作により、毛利本軍が戦いに参加しなかったことなどが挙げられます(下記補足3)。戦い当日では、福島正則との先陣争い(抜け駆け)のエピソードがありますが、戦いが終わってからも、西軍諸将との講和の窓口となって活躍しました(毛利・島津など)。直政自身は、東西日本の要にあたる、石田三成がいた佐和山城主となりました(18万石)。しかし、関ヶ原での戦傷がもとで、1602年(慶長7年)佐和山で亡くなってしまうのです(享年42歳)。既に新しい城に移ることを考えていたそうです。

(補足3)
一、輝元に対して家康は、少しも粗略に扱うことはない。
一、吉川・福原の両人が、家康に対して特段の忠節を尽くされるならば、家康は今後、両名を粗略にはしない。
一、家康への忠節が確認できたなら、家康が直筆で輝元の領地を保証する文書を出す。
(慶長5年9月14日、吉川広家・福原広俊宛井伊直政・本多忠勝起請文現代語訳、「中世武士選書39井伊直政」より)

大政所肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関ヶ原の松平忠吉・井伊直政陣跡
佐和山城跡

彦根城の築城

新城建設は、直政の後継者に引き継がれました。関ヶ原後も大坂城の豊臣氏は健在で、外様大名が多い西国に向き合う城として、備えを強化する必要があったのです。とはいっても、跡継ぎの直継が若年(13歳)だったため、実際には、家老の木俣守勝(もりかつ)が家康と相談しながら進めました。守勝は、元は家康の家臣で、家老として直政時代から送り込まれていたのです。候補として、直政が推していたという磯山、佐和山にとどまる案、そして彦根山の3つがあったといいます。(「木俣土佐武功紀年自記」による)それぞれ一長一短あったのですが、家康が彦根山に決定しました。短所だった「街道」への接続は、バイパスを整備して補うことにしました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時の彦根山は、北に松原内湖があり、南を流れる芹川が暴れ川で、周辺は湿地帯になっていたそうです。これまでの経緯から、彦根城築城は、江戸幕府の「天下普請」として行われました。幕府から奉行が派遣され、周辺の多くの大名(7ヶ国12大名と言われます)が助役として動員されたのです。工事は1603年(慶長8年)から始まりましたが、建設を急ぐため、周辺の城の資材が活用されました。井伊家の記録(「井伊年譜」)によると、天守は大津城から、天秤櫓は長浜城からの移築と伝わります。実際に、その2つの建物からは、移築された痕跡が見つかっています。また石垣の一部には、佐和山城の石材を使っていたことも判明しています。そして、1606年(慶長11)年に天守が完成し、直継が入城しました。

彦根城天守
天秤櫓
佐和山城からの移築石垣についての説明パネル(ビジターはその場には行けません)

初期の城は、内堀が彦根山を囲む「主郭」と呼ばれる範囲まででした。大手門は京都や大坂のある方向の南西側に設置されました。彦根山は城郭として大改造され、ここならではの特徴ある構造物が築かれました。例えば、山の南北に大堀切が掘られ、中心部に簡単に移動できないようにしました。また、山の斜面5ヶ所に登り石垣が築かれました。これは、敵が斜面を横に移動できないようにするためです。彦根藩主となった城主の御殿や重臣屋敷も、この範囲に集められました。まさに臨戦態勢にあったのです。

主郭の範囲、現地説明パネルより
大手門跡
大堀切(南側)
登り石垣(西の丸三重櫓下)

1614年(慶長19年)幕府と豊臣氏の対決のときが来ますが(大坂冬の陣)、家康は、直継の弟、直孝に出陣を命じました。その後、直継は、彦根藩主を更迭され、安中藩(3万石)に移されました(それ以後直勝と改名)。その理由として、病弱であったとも、家臣の統制ができなかったとも言われます。一方で、直継には、彦根城天守の工事が進まないので人柱を提案する家臣に対し、それを拒否した逸話が伝わっています。シビアな幕部幹部になる器ではなかったかもしれませんが、人を労わる優しい殿様だったのでしょう。

彦根城の発展

井伊直孝は、大坂冬の陣では真田丸で大苦戦しますが、夏の陣では戦功を挙げ、凱旋しました。彦根藩の藩主になってからは(第2代という扱い)、2代将軍・秀忠にも重用され、松平忠明とともに、3代・家光の後見役に指名されました。これが、大老職の始まりとも言われています。石高も30万石となり、譜代大名筆頭のポジションを確立しました。

井伊直孝肖像画、清涼寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

彦根城の方は、築城以来拡張が続けられていました。中堀・外堀が整備され、その中は内曲輪(第二郭・第三郭)と呼ばれ、重臣屋敷や城下町(内町)となりました。その外側は「郭外」でしたが、更に城下町(外町)が広がっていきました。流路を付け替えられた芹川も、防衛ラインとして機能しました。しかし大坂の陣後の平和な時代ならではの変化も見られました。主郭(彦根山)にあった家老たちの屋敷が内曲輪に移り、その跡は米蔵などになりました。

「彦根御城下惣絵図」(出展:彦根城博物館)

山上にあった藩主の御殿も、手狭だったため直孝の代に山麓に移され、「表御殿」が建築されました。その場所は本来の大手門と反対側の場所なので、実質的に城の正面が変更されたことになります。時代の変化を象徴していると言えるでしょう。御殿は大きく2つの部分に分かれていて、「表(おもて)」は政務や儀式が行われる場で、「奥向き」は藩主の生活の場となっていました。江戸時代後半には、14代藩主の井伊直中が、御殿内に能舞台を建築しました。表御殿の建物の中で、唯一現存しています。御殿全体としては、「表」に当たる部分は外観復元され、彦根城博物館の展示・管理スペースとして使われています。そして「奥向き」は博物館の奥に木造復元され、藩主たちの生活空間をそのまま追体験することができます。中にある庭園も、発掘調査や古絵図により、かなり正確に復元されています。

現存する能舞台
外観復元された「表」部分
博物館の展示スペース
木造復元された「奥向き」部分(茶室「天光室」)

また、城北側の松原内湖に面した場所に、庭園「玄宮園」が造営されました。4代藩主・井伊直興(なおおき)の時代のことと言われています。となりにある「楽々園」も同じ時代に建てられた御殿と言われていて、現在、二つを合わせた「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。

玄宮園、天守が借景になっています
楽々園

井伊氏最後の大老、井伊直弼

井伊氏は、江戸時代通算で、臨時の幕府最高職・大老を6名も輩出しました(直孝などを含める場合)。そうでないときも、定席の「溜間詰」大名として、常に幕府の政治に関与する立場にいました。その中で最も有名な人といえば、やはり井伊直弼でしょう。彼は14代藩主・直中の十四男として生まれたため、跡継ぎはもちろん、養子の行先もなく、部屋住みとして、自ら「埋木舎」と名付けた住居で暮らしていました(17歳からの15年間)。それでも、不遇の身を忘れるよう、武芸・学問・文化活動に没頭していました。特に、茶道についての自身の著書「茶湯一会集」に書かれた「一期一会」の言葉が、現在にまで知られています。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後偶然が重なり、彦根藩主、幕府大老にまで上り詰めるのですが(下記補足4)、彼については両極端の評価があります。天皇の勅許なしでの通常条約調印を決断した「開国の恩人」とするもの(ライトサイド)と、強権的な政治を行い、反対派を大弾圧した(安政の大獄)ために暗殺されてしまった(桜田門外の変)というもの(ダークサイド)です。

(補足4)松平越前守(慶永)へ御大老仰せ付けらる然るべき旨伺に相成り候処、上様御驚、家柄と申し、人物に候へば、彦根を指置、越前へ仰せ付けらるべき筋これなく、掃部頭へ仰せ付けらるべしとの上意にて、俄に御取り極に相成り候との事承り申し候(「公用方秘録」)

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


しかし直弼自身は天皇の許可を必要だと考えていましたし、(交渉役の岩瀬忠震らに、やむをえない場合は調印してもよいと伝えていた)安政の大獄は、将軍・家定が決めた人事に反発する一橋派の行動や、朝廷から水戸藩に出された異例の密勅(戊午の密勅)をきっかけに始まっています(下記補足5)。その密勅の返納命令に反発した水戸藩士らが起こしたのが桜田門外の変でした。直弼としては、責任を取りつつ、将軍を中心とする幕府体制の維持に身を捧げていたのではないでしょうか。現代は当時と価値観が違うので、評価が難しい人物には違いありません。

(補足5)この節柄につき、明君を立て申すべくと下より上を撰み候は全く唐風の申すもの、況や我身の為に勝手がましく御撰出申すべき訳、かつてこれなき事、不忠の至りに候(「井伊家史料」)

その後

事件後、彦根藩は不始末を問われ、石高が20万石に減俸になります(後に3万石を回復)。そのためか、明治維新が起こると、藩は真っ先に新政府に加担しました。その働きにより、2万石を拝領したほどです。彦根城は一度も戦いに巻き込まれることのないまま、明治維新を迎えました。城は陸軍の所管となり、1878年(明治11年)には城の不要な建物は壊すことになり、それには天守も含まれていました。入札が行われ(天守は800百円で払下げ)解体作業が始まろうとするとき、明治天皇の北陸巡幸がありました。随行していた大隈重信が、解体寸前の彦根城を訪れ、その保存を天皇に献言したのです。そして天皇の「思し召し」により、城は保存されることになったのです。皇室から保存のための補助金も下賜されました。大隈は維新の功労者の一人ですので、維新のときの彦根藩の態度が、影響しなかったとは言えないのではないでしょうか。

大隈重信(壮年期)

この彦根城のケースは、城郭保存の運動の先駆けとなりました。名古屋城姫路城の保存建白書には、彦根城が前例として挙げられています。彦根城は、皇室の附属地(1891年)から、井伊家へ払下げ(1894年)となり、1944年に彦根市に寄贈されました。太平洋戦争での空襲も免れ、現在に至るのです(1956年から「彦根城跡」として国の特別史跡)。

名古屋城(焼失前)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
姫路城

「彦根城 その2」に続きます。

51.安土城 その2

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

特徴、見どころ

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

大手道を登る

大手道を歩く前に、大手門跡周辺を見ておきましょう。4つも作られた門の跡です。そのうち3つがまっすぐ入れる門(平虎口)でした。東側には平虎口が一つだけありますが、西側の方には平虎口と、二度曲がって入る門(枡形虎口)の2つが並んでいます。こんな近くに、わざわざ違う形の門を作るなんて、不思議に思います。平虎口はやはり行幸用だったのかなという気もします。

大手門跡
東側にある平虎口跡
西側には、枡形虎口跡(左)と平虎口跡(右)が並んでいます

それでは、大手道を進んでいきましょう。城跡は、摠見寺の所有地なので、拝観料を支払ってから入ります。それから、まっすぐな石段を登って行きましょう。現代に訪れても特別な感じがします。昔はここから天主が見えていたのでしょう。

城跡入口
大手道の石段
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

大手道の左側には「伝・羽柴秀吉邸」跡があります。道の反対側に「伝・前田利家邸」跡もありますが、いずれも江戸時代以降に憶測で付けられた名称です。伝・羽柴秀吉邸は、2段構成の屋敷になっていたと推測されています。しかし、実は別々の建物で、改造された跡もあったため、本能寺の変後に、織田三法師と信雄が入場したときに、御殿として使われたのではないかという説もあります。

「伝・羽柴秀吉邸」跡
「伝・羽柴秀吉邸」跡の現地説明パネル
「伝・前田利家邸」跡

ずっと登っていくと、右側に摠見寺の現在の本堂(仮本堂)がありますが、ここは「伝・徳川家康邸」跡だそうです。ただし、家康が安土に来たときには、別の寺に泊まっていたという記録があります。

「伝・徳川家康邸」跡(現・摠見寺仮本堂)

やがて直線の道から、ジグザグの道に変わります。防衛を考えた道筋ということなのでしょう。石段はオリジナルの石を使いながら、復元整備されたものですが、オリジナルでは材料として石仏も使われていました。城に使う石材は、この周辺の山から調達できたはずですが、なにか意図的なものを感じます。

大手道の石材に使われた石仏

平らなところに出ると、「伝・織田信忠邸」跡です。ここは一時お寺の施設として使われて、ほとんど城の痕跡は残っていません。大手道、通用口(百々橋口)、湖に通じる道(七曲口)と城の中心部への道が交差する場所なので、かつては石垣が積まれ、厳重に守られていたようです。

「伝・織田信忠邸」跡

城の中心部に向かう

城の中心部に向かいましょう。石段を登っていくと、立派な門の跡が見えてきます。中心部への入口「黒金門」跡です。すごく大きな石を使い、四角い枡形で防御力も高そうです。「信長公記」では「おもての御門」と表現されています。やはり、城の正門だったのでしょう。

黒金門跡

中に入ると、石垣だらけです。安土城の石垣が画期的なところは、その上に建物や塀を建てる前提で築かれたことです。集められた石のうち、大きなものが中心部に高く積まれました。荒々しいですが、巧みに積まれている感じがします。:「野面積み」といって自然石と、一部に荒く加工された石が使われているそうです。こういった積み方の技術を持つ職人集団が、後に「穴太衆」と呼ばれるようになりました。

二の丸の石垣

「二の御門」「三の御門」跡を通り過ぎると、「二の丸東溜り」と呼ばれる場所に着きます。ここから左側が二の丸、右側が本丸となります。

二の丸東溜り

二の丸には、本能寺の変の翌年に秀吉が建てた「織田信長公本廟」があります。廟への階段もそのとき作られました。ここに廟が作られたのは、信長やその家族の普段の居館があったからだという説があります。廟の一番上に石が置かれていますが、信長の化身の石とも言われる「盆山」のようにも見えます。真偽はわかりませんが、それを意識したものなのでしょう。

織田信長公本廟
廟の上に置かれた石

先ほどの「二の丸東溜り」は、「信長公記」では「御白洲」という名前で記載されています。屋外にある待機場所ということでしょう。ここから本丸に向かってもう一つ門があり、その先に「南殿」がありました。江戸時代の武家御殿の遠侍・式台・大広間にあたる建物だったようです。二条城二の丸御殿にそのセットが現存していますが、安土城はルーツの一つだったのでしょう。

この先に「南殿」があったと思われます
二条城二の丸御殿の航空写真 (Google Map)

本丸の中は、現在はところどころ木が立っているだけですが、この中のどこかに、行幸のための部屋か御殿があったはずです。向こう側には三の丸の石垣が見えます。そこには接待用の紅雲寺御殿がありました、景色が良かったそうです。今はそこには登れなくなっているのが残念です。

本丸
安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

いよいよ天主台へ!

本丸から本丸取付台を通って、いよいよ天主台に行きましょう。「取付台」といっても当時は建物があって、他の建物とは渡り廊下で連結されていたようです。進んでいくと「発掘調査中」という区画があります。2023年から滋賀県による「令和の大調査」が、この場所から始まっているのです。天主の姿や、焼失の原因が、明らかになるかもしれないと期待されています。今のところ、天主台石垣を人為的に崩した跡が見つかり、廃城のときに行われた可能性があるそうです。

発掘調査中の区画
調査が行われている天主台北側

天主台の階段を登りましょう。階段の途中の踊り場に注目です。タイルのようになっているところです。「笏谷石(しゃくだにいし)」という越前国特産の石を加工して作られたものです。北陸地方に担当していた柴田勝家から献上されたそうです。

笏谷石を加工して作られた踊り場

この階段は土蔵、つまり地下室に通じていました。中に入ると、礎石がたくさんあります。天主や城の建物がどんな姿をしていたのかは謎ですが、滋賀県によると、「高層の天主」「高石垣」「瓦葺きの建物」の3点セットが、初めて日本の城に現れた場所だったとのことです。また、金箔瓦が城の中心部で発見されています。「金箔瓦」自体も、安土城が初めてと言われています。(岐阜城でも金箔を押した跡のある瓦が発見されていますが、信長時代のものとは確定していません。)

天主台内部
城中心部で発見された金箔瓦、安土城考古博物館にて展示

「令和の大調査」には、発掘だけでなく、安土城を描いた絵画の探索も含まれています。信長が安土城を描かせ、天正遣欧使節に託してローマ教皇に送った「安土山図屏風」です。その屏風はバチカン宮殿に飾られましたが、現在は行方不明になっています。:滋賀県はこれまでも探していましたが、もう一度ネジを巻きなおすそうです。その屏風が見つかったら、世紀の大発見になるでしょう。

「安土山図屏風」の想像画、安土城郭資料館にて展示

やっぱり謎の摠見寺

城の中心部から「伝・織田信忠邸」跡に戻ると、見学コースは摠見寺の方に向かいます。ルイス・フロイスによれば、「盆山」を祀っていたところです。景色が開けたところに、本堂跡があります。かつて、その本堂は二階建てで、その二階に「盆山」が置いてあったとのことです。その場所は、一階の仏像はもちろん、三重塔よりも高い位置だったと言われています。まるで、天主の宝塔と、信長の部屋のような位置関係です(これも一説によりますが)。その本堂は、改造された後、江戸時代に火事で燃えてしまいました。もし残っていたら謎の一つが解けていたかもしれません。

摠見寺本堂跡

かつて城に接していた湖は大分干拓されてしまいましたが、今でもいい眺めです。

本堂跡からの眺め

三重塔、仁王門は、火事を生き延びて現存し、重要文化財になっています。この寺は、他の寺から建物を移築して設立されたので、両方とも、なくなった城の建物より古いのです。摠見寺を通る道は、城の通用口(百々橋口)だったので、一番使われたはずです。信長最後の正月(天正10年)の年賀行事には、百々橋から摠見寺に、大名・家臣・群衆が押し寄せたとの記録があります。

現存する三重塔
現存する仁王門

現在の見学コースでは、その百々橋口には出ることができません。それなので、山の中腹を回って、「伝・羽柴秀吉邸」跡に戻ってきます。

百々橋口は塞がれています
山の中腹を通って戻ります
「伝・羽柴秀吉邸」跡に到着

私の感想

安土城の謎を考えても、ますますわからなくなるというのが正直な感想です。しかし、その謎解きを考えること自体が面白かったです。織田信長は常識を打ち破ってきた人物なので、彼の安土城を現代の常識で考えても、答えは出ないのかもしれません。よって、決定的な証拠が出てくるまでは、謎解きを楽しめばよいのだと思います。

安土山

その謎解きの助けになる博物館が、城跡の近くにいくつもあります。併せて行ってみてはいかがでしょうか。

安土城郭資料館(中に展示している安土城天主20分の1モデル)
安土城考古博物館
安土城天主 信長の館

リンク、参考情報

織田信長の安土城址と総見寺(安土城址の公式サイト)
滋賀県立安土城考古博物館
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第24回 安土城の石垣1
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「安土 信長の城と城下町」滋賀県教育委員会
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫
・「歴史群像名城シリーズ3 安土城」学研
・「復元安土城/内藤昌著」講談社学術文庫
・「逆説の日本史 9戦国野望編 10戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「よみがえる日本の城22」学研
・「新「近江八幡市」誕生までのあゆみ」近江八幡市
・「特別史跡安土城跡整備基本計画」令和5年3月 滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第20号 安土城の大手道は無かった」木戸雅寿氏論文
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第30号 安土城の空間特性」大沼芳幸氏論文
・「鳥取環境大学 紀要第8号 安土城摠見寺本堂の復元」岡垣頼和氏・浅川滋男氏論文

これで終わります。ありがとうございました。
「安土城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

186.金田城 その3

メインとなるハイキングコースの最初の折り返し点からは、小径が出ていて、城跡の他の見どころに通じています。これらの道筋は元の軍用道路ではなく、且つそれと比べれば整備はされていません。しかし訪れる価値はあります。

特徴、見どころ

3つの城戸跡

メインとなるハイキングコースの最初の折り返し点からは、小径が出ていて、城跡の他の見どころに通じています。これらの道筋は元の軍用道路ではなく、且つそれと比べれば整備はされていません。また、あまり人が歩いていないので人気もないようです。しかし訪れる価値はあります。この小径をしばらく下っていくと、分岐点に着きます。

城周辺の地図

折り返し点から出ている小径

そこからは、一ノ城戸跡及び二ノ城戸跡に行く道と、三ノ城戸に行く道とに分かれています。この分岐点の近くには、ビングシ山と呼ばれる丘があって、そこでも建物跡が発見されています。これらの建物は、防人の兵舎として使われたのではないかとされています。

金田城跡のジオラマ(対馬観光情報館にて展示)に折り返し点からの小径(赤線)、二ノ城戸(青丸内)と三ノ城戸(黄色丸内)の位置を追記
一ノ城戸跡及び二ノ城戸跡に行く道
三ノ城戸跡に向かう道
ビングシ山周辺、左側に見えるのは休憩所
上記ジオラマのビングシ山周辺

3つの城戸(きど)は、城の東側の海岸近くに、城門及び水門として石を積んで築かれました。この城で主に使われている石材は自然石ですが、一ノ城戸で使われている一部の石は長方形に加工されています。しかし、これら長方形の石は、江戸時代になって海岸防備のために対馬藩によって積まれたものではないかと言われています。これらの門跡はよく復元、または修築されていて、ビジターがかつてあった姿を見てわかるようになっています。

上記ジオラマの二ノ城戸周辺
二ノ城戸跡(上方から見ています)
二ノ城戸跡(下方から見ています)
一ノ城戸跡
一ノ城戸の下部と上部では石の加工度合いが異なっています
一旦分岐点に戻り、三ノ城戸跡に向かいます
三ノ城戸跡

海岸沿いの素晴らしい石垣

三ノ城戸跡を見た後は、来た道を戻ることもできますし、東南角石塁を経由する別の道を通ることもできます。後者を選択した場合は、右手には城の東側にそびえる素晴らしい長大な石垣を、左手には美しい浅茅湾を見ながら進みます。但し、この道は足元が不安定な箇所があるので気を付けて下さい。

東南角石塁の方に向かいます
海岸沿いに素晴らしい石垣があります
長大な石垣が続きます

その後に現れる東南角石塁もまた素晴らしいです。この石塁の角部分には、敵の来襲に備えて特別な防御の仕掛けがあり、いくつかの突起が設けられています。まるで、沖縄のグスクか、万里の長城の小型版のようです。この石塁に沿って登っていくと、元歩いたルートに戻ります。

東南角石塁
石塁の角(端)部分
石塁と海がすばらしい対比となっています
上記ジオラマの東南角石塁周辺

その後

人々は金田城があったということは常にわかっていました。日本書紀にその存在が記録されていたからです。ところが、それがどこにあったかはわからなくなっていました。記憶に残るにはあまりに早く廃城となってしまったからです。例えば、中世には一ノ城戸の近くの神社で朝鮮との交易がおこなわれました。また、対馬藩が江戸時代に一ノ城戸を再利用しましたが、いずれもそれが古代山城だとは知らなかったのです。旧日本陸軍が城をどのように扱ったのかは言うまでもないでしょう。歴史家が山上にあるものを古代山城の遺跡として「発見」したのは大正時代のことです。それが金田城ものものだと確定したのは戦後のことでした。その結果、1982年には城跡は国の特別史跡に指定されました。

対馬藩の本拠、金石城跡

私の感想

現地に行ってみて、城山が古代と近代両方の史跡になっているのに驚きました。これらの史跡が築かれたときは、対外関係がとても緊張していたということがわかります。それ以外にも、対馬にはモンゴル襲来のときや豊臣秀吉の朝鮮侵攻といった激動の歴史がありました。その一方で、朝鮮通信使との交流によって平和的関係を築いたという時代もありました。最近では、多くの韓国からの観光客が対馬を訪れています。どちらが望ましいかは言うまでもないでしょう。

朝鮮通信使一行のジオラマ、小倉城天守内展示より

ここに行くには

ここに行くには車を使われることをお勧めします。対馬空港から約20分、厳原港からは約30分のところです。ハイキングコースの出発地点の手前に小さな駐車スペースがあります。

厳原港
ハイキングコース出発地点の駐車スペース

リンク、参考情報

古代山城・金田城をあるく、対馬観光物産協会
・「よみがえる古代山城/向井一雄著」吉川弘文館

これで終わります。ありがとうございました。
「金田城その1」に戻ります。
「金田城その2」に戻ります。

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