119.杉山城 その1

先進的防御システムをもった謎の城

立地と歴史

地味なのに有名な城

杉山城は、現在の埼玉県西部にあたる比企郡に築かれた城でした。この城の城跡は、日本の歴史ファンの間で最近有名になっています。この城跡は、それほど大きくもなければ、建物も石垣もありません。基礎は全て土造りです。更には、いつ誰がこの城を築き使ったのかもわかっていません。この城に関する明確な記録がないのです。それでは、なぜこの城は有名になったのでしょうか。それは、この城が地方の小さな城としては、驚くほど巧みな防御システムを持っていたからなのです。

城の位置

「杉山城問題」

歴史家は長い間、杉山城がいつ誰によって築かれたのか解明しようとしてきました。ところが、その結論は、ますます複雑化してしまっています。城跡で発掘調査が行われたのですが、発掘された遺物から多くの研究者は、この城は16世紀初頭に築かれ、そして使われたと考えました。その当時この城の周辺地域では、関東地方を支配していた上杉氏が内紛を起こしていました(山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で起こった長享の乱など)。上杉氏がこの城を築いたとしたのです。一方、縄張り研究者たちは、杉山城に見られる複雑な防御システムは、16世紀後半くらいの、もっと後の時代に見られるものだと反論しました。こちらは、上杉氏の後に関東地方を支配した北条氏が、このような先進的な防御システムを築いたに違いないとしたのです。この議論は「杉山城問題」と言われています。この問題が、この城をより一層有名にしたのかもしれません。

上杉家の家紋、上杉笹 (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
16世紀後半の北条氏当主、北条氏康肖像画、小田原城所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「築城の教科書」

杉山城は、麓からの高さ42mの丘陵の上に築かれました。城には中心部のものを含め、10個の曲輪がありました。それらの曲輪は、南北と東の三方向に広がっていて、城の中心部の本郭を守るように作られていました。城の西側は急な崖となっていて、崖下に流れる川とともに天然の障壁となっていました。全ての曲輪は、土塁そして空堀に囲まれていて、土橋か木橋によって接続されていました。この城の防御システムの最も重要な特徴は、全ての曲輪の入口が横矢(側面攻撃)によって守られていることでしょう。この仕組みは、巧みな土塁の屈曲と曲輪への導線によって成り立っていました。この城の設計は高いレベルで洗練されていて、現在では度々「築城の教科書」とも呼ばれています。

杉山城跡の模型(嵐山町役場にて展示)

一時的な目的で築城か

発掘の結果によると、杉山城には、館、櫓、門といった常設の建物はありませんでした。恐らく、小屋や柵といった仮設の建物だけがあったと思われます。また、この城は短期間しか使われなかったことがわかっています。火をかけられて破壊されるまで、一度も改修されていないからです。これは、この城が単一の目的か戦いのために作られたからと考えられます。杉山城の周辺には、他にも多くの単一目的で作られたであろう城が存在しました。これらの城には、例えば小倉城のように、それぞれ明確な特徴があるのです。戦国時代の16世紀には、この地域には多くの戦いが起こりました。この地域の戦国大名は、自分たちが住むための城だけでなく、戦いに勝ち抜くために使い捨ての城も築きました。たとえ杉山城が後者のうちの一つであったとしても、驚くほど技巧的な防御システムを持った城であることには変わらないのです。

杉山城跡全景(嵐山町役場説明板より)
小倉城跡、その当時の関東地方の城としては珍しく石垣が築かれています

「杉山城その2」に続きます。

40.山中城 その1

北条氏の西の守りの城

立地と歴史

北条氏の西の守り

山中城は、関東地方の西側の入口である箱根関の西にあり、現在の静岡県東部に当たります。この城は最初は戦国時代の16世紀中頃に、関東地方の支配者であった北条氏によって築かれました。山中城を築くことで、箱根関の東側にあった彼らの本拠地、小田原城を守ろうとしたのです。この城は、1590年に天下人の豊臣秀吉が北条氏を攻める前にも更に増強されました。

城の位置

山中城は、日本の主要街道の一つ、東海道を取り囲んで作られました。その当時、西から坂を登ってくる人は、必ず城の中を通らなければなりませんでした。東海道は実際、三の丸の中、本丸の脇を通っていました。また、三の丸の西側には水堀があり、敵からの攻撃を防ぐためと、貯水池としての役割もありました。
三の丸の南側には、細長い防御陣地である「岱崎出丸」があり、東海道に並行して伸びていました。三の丸の西側に向かっては、二の丸、西の丸、西櫓が配置されていました。これらの曲輪は共同して敵の攻撃を防げるようになっていました。

山中城跡の案内図(現地説明板より)

北条氏独特の築城術

この城で使われていた技術は北条氏に特有のものでした。全ての曲輪は土造りであり、山の峰や谷などの自然の地形を活用していました。これらの曲輪は主に木橋で接続されていて、戦いが始まったときは落とせるようになっていました。また、深い空堀によっても隔てられており、その底は畝状または格子状になっていました。畝状の方は「畝堀」と呼ばれ、格子状の方は「障子堀」と呼ばれます。これらの空堀の作り方は北条の城に特有のものです。一旦兵士が掘に落ち込むと、全く身動きが取れませんでした。城の大きさは20万平方メートルに及びます。北条は秀吉をしばらくは釘付けにできると考えました。

山中城の畝堀
山中城の障子堀

山中城の戦いで落城

ところが、城はわずか半日で秀吉のものになってしまいます。1590年3月29日の早朝、7万人近い秀吉軍の兵士が城への攻撃を開始しました。一方守備側の人数はわずか約4千人でした。攻撃側は最初西櫓と岱崎出丸の両方を強襲しましたが、北条側の鉄砲による反撃のため大量の死傷者が発生しました。もしこれが局地戦であったなら、攻撃側はこれ以上の損害を防ぐため攻撃を一時中止したかもしれません。しかしながら、指揮官たちは無理やり攻撃を続行しました。そうでなければ、秀吉によりクビにされかねないからです。結果的には、秀吉側の指揮官の一人、一柳直末を含む多くの戦死者と引き替えに秀吉は城の確保に成功しました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この戦いはわずか数時間で終わりました。この短い戦いのもう一つの要因は、城主である北条氏勝が城から脱出したため、城兵たちが混乱したことも挙げられています。また、岱崎出丸は秀吉の攻撃までに完成していなかったことも指摘されています。いずれにせよ、どんな強力な城でも、十分な兵士と適切な指揮なしには生き残れないということでしょう。

城跡の標柱

「山中城その2」に続きます。

106.脇本城~Wakimoto Castle

安東氏が最盛期のときの城
The castle when the Ando clan was its peak

立地と歴史~Location and History

舟運で繁栄した出羽国~Dewa Province Prospering by Ships

近代以前、大量輸送は船によって行われましたが、海上での航海は危険でした。船が十分発達していなかったからです。日本の場合、中世においては、商業船は主には太平洋ではなく、瀬戸内海や日本海などの内海を航行していました。そのため、当時は内海沿いの大きな港をもつ地域が繫栄しました。出羽国(現在の秋田、山形県を合わせた範囲)はそのような地域でした。
Before the Modern times, mass transportation was done by ships, but sailing on ocean could be dangerous because ships were not developed enough. In the case of Japan, in the Middle Ages, merchant ships sailed mainly on islands seas, such as the Seto Island Sea and the Japan Sea, not on the Pacific Ocean. For this reason, areas with a large port along the island seas prospered at that time.
Dewa Province (combining what is now Akita and Yamagata Prefectures) was one such areas.

1860年代の日本古来の弁財船~Traditional Japanese junks in 1860s (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秋田で力をつけた安東氏~Ando Clan has power at Akita

安東氏は、北出羽(大体今の秋田県)を根拠地として海上交通を支配して大きな勢力となりました。戦国時代(日本中の地方大名が覇権をめぐって争った時代)には安東氏は、檜山安東氏と湊安東氏の2つのグループに分かれていました。檜山安東氏は北秋田にあった檜山城に住み、湊安東氏は南秋田にあった湊城を拠点としていました。
The Ando Clans had a great power to manage the marine transportation based in the north Dewa (roughly now Akita Prefecture). In the “Sengoku” Period- a period when local clans around Japan were fighting for control over all of the country- the Ando Clans was divided into two groups namely the Hiyama-Ando Clan and the Minato-Ando Clan. The Hiyama-Ando Clan lived in Hiyama Castle which was located on the northern part of Akita, while the Minato-Ando Clan lived in Minato Castle located on the southern part of Akita.

城の位置~The location of the castle

安東愛季は、最初は檜山安東氏の総領でしたが、湊安東氏に固有の跡継ぎがいなかったため、取り込むことに成功しました。彼は、秋田全域を統治することで最も有力な戦国大名の一人になったのです・
Chikasue Ando was at first the lord of the Hiyama-Ando, but was able to take over the Minato-Ando as it didn’t have its own successor. As a result, he ruled over the entire Akita and became known as one of the greatest warlords.

安東愛季の肖像画、東北大学附属図書館蔵~The portrait of Chikasue Ando, owned by Tohoku University Library (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

安東愛季が脇本城を拡張~Chikasue Ando develops Wakimoto Castle

愛季は1577年、彼の本拠地を檜山城と湊城の間にある城に移しました。彼が選んだ城が脇本城だったのです。この城は最初は15世紀に築かれたと言われていますが、その後愛季が東日本では有数の規模の山城にまで拡張しました(約150ヘクタール)。この城は、男鹿半島の根元にある100mの高さの丘の上に築かれ、重要な商業港であった土崎湊の近くでもありました。また、主要道路の「天下道」が城の中を通っているため、非常に戦略的な立地であり、城の領主は完全に交通を制御することができました。
Chikasue moved his home base to a castle located between Hiyama and Minato Castles in 1577. The castle that he chose was the Wakimoto Castle. The castle is said to be first built in the 15th century, then Chikasue developed the castle as one of the largest mountain castles in eastern Japan (about 150 hectare). The castle was located on a 100m high hill in the connecting part of Oga Peninsula, near an important trading port called Tsuchizaki-minato. This location proved to be very strategic as a main road called “Tenga-michi” ran between the two sides of the castle giving the Lord full control over transportation.

遺跡の全体図、現地案内板より~The whole map of the ruins, from the signboard at the site

愛季は支配者として絶頂期にあって、領土を拡張する一方、織田信長といった外の有力戦国大名とは手紙や贈り物により親交を深めました。ところが、1587年の戦いのさ中、彼は突然の病に倒れ、亡くなってしまいます。彼の息子、実季は湊城に住み、最終的には1602年に徳川幕府により関東地方に移されてしまいました。脇本城はそれから廃城となってしまったようです。
Chikasue was at the peak of his career as an administrator expanding his territory and building relationship with other great warlords such as Nobunaga Oda by sending letters and gifts. However, during a battle in 1587 he suddenly fell ill and died. His son, Sanesue lived in Minato Castle and was lastly transferred to Kanto Region by the Tokugawa Shogunate in 1602. Wakimoto Castle seemed to be abandoned since then.

安東実季木造、羽賀寺蔵~The wooden statue of Sanesue Ando, owned by Haga-ji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

城跡へ登っていく~Walking up to Castle Ruins

現在、脇本城跡は今もって非常に広大であり、5つの地区に分けられています。しかしながら、5つの地区全てが等しく整備されているわけではありません。そこで、私の訪問時には、一番整備されている「内館」1箇所を見学しました。ここは城の中心部分であり、現在はより整備されていて、観光客が訪れやすいようになっています。
Now, the ruins of Wakimoto Castle are still very large, and they are divided into five areas. However, not all the 5 areas have been developed equally. So, when I visited, I covered the one that was most developed which is “Uchidate”. This was the main portion of the castle, and now is further developed for tourists to visit easily.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

城跡の入口は国道101号線沿いにあります。車で来られた方のために駐車場があります。そこから城跡への道を登っていく必要がありますが、それはかつてからある「天下道」の一部分です。更に進んで城跡の案内所を過ぎると、丘の頂上部分が見えてきます。
The entrance of the ruins is alongside National Route 101. You can park at a parking lot if you are driving. Then, you need to walk up the road to the ruins which was part of the old road, “Tenga-michi”. When you go farther passing through the guide house of the ruins, you will see the top of the hill.

城跡の入口~The entrance of the castle ruins
残っている「天下道」~The remaining “Tenga-michi” road
案内所を越えて頂上へ~Passing the guide house to the top

生鼻崎周辺~Around Oihana-saki Cape

基本的に、戦国時代の東日本では、城の基礎部分は土造りでした。城跡には建物はありませんが、土塁、空堀、虎口などが残っています。丘の頂上に登ってみると、左手(西の方角)には、海に突き出ている「生鼻崎」という岬の上にたくさんの曲輪があるのがわかります。それらの曲輪は岬の先端に向かって列を作って並んでいます。実はかつてはもっと多くの曲輪が岬と共に海に伸びていたのですが、江戸時代の地震のときに崩壊してしまいました。歴史家はこれらの曲輪は安東氏の家臣の屋敷地として使われたのではないかとしています。岬の先端では、日本海の荒々しい姿が見えます。
Basically, the foundations of the castles, in eastern Japan during the Sengoku Period, were made out of soil. The ruins have no buildings, instead they have earthen walls, dry moats, entrances, etc. When you climb on top of the hill, you will see a lot of enclosures on a cape called “Oibana-saki”, sticking out to the sea on the left on the west direction. You can see that these enclosures are in lines towards the top of the cape. In fact, there were many more enclosures with the cape spread to the sea in the past, but they collapsed when an earthquake happened in the Edo Period. Historians speculate that they were used for the Ando clan’s retainers’ houses. At the top of the cape, you can also have a wild view of the Japan Sea.

内館地区の地図、現地案内板に注記~The map of Uchidate Area, from the signboard at the site, adding notes
岬に伸びる曲輪~The enclosures spreading to the cape
生鼻崎周辺の想像図、現地案内板より~The imaginary drawing around Oibana-saki Cape, from the signboard at the site
日本海の眺め~A view of the Japan Sea

城の中心部分~Center of Castle

道の反対側の東の方向には、空堀に囲まれたもっと大きな曲輪があります。この辺りが、城の中心地であったと考えられます。歴史家は、北側には別々の目的で作られた2つの建物があったと推定しています。一つは公式の儀式で使われた「主殿」という建物で、もう一つはお客をもてなす「会所」という建物です。
There are two larger enclosures surrounded by dry moats on the opposite side of the route on the east direction. They are supposed to be the center of the castle. Historians also speculate that two buildings on the northern side were used for other purposes. For example one of them was used as the building for the public ceremonies called “Shuden’ and the other for hosting the guests called “Kaisho”.

城の中心部分~The center of the castle
空堀~The dry moat
北側の曲輪~The north enclosure
中心部の想像図、現地案内板より~The imaginary drawing around the center, from the signboard at the site

もう一つの南側の曲輪は高くて太い土塁に囲まれており、これもまたとても大きいものです。ここには城主の館があったと考えられています。愛季が住んでいたのでしょうか。この曲輪からは、海岸線とかつては城下町であった街並みの素晴らしい景色が望めます。
The other southern enclosure is surrounded by high thick earthen walls, and it is also very large one. This is thought to be used as the house of the lord. I wonder if Chikasue lived in it. From the enclosure, you can also have a great view of the coast line and the town which was once the castle town.

土塁に囲まれた南側の曲輪~The south enclosure surrounded by the earthen walls
海岸線の景色~A view of the coast line

その後~Later History

江戸時代の1804年、有名な旅行家の菅江真澄が脇本城の城跡を訪れています。彼は日記に城跡のことを記録し、スケッチも残しました。1993年からは調査が行われており、この城が非常に大きな規模であったことがわかりました。そのため、城跡は2004年に国の史跡に指定されました。
In 1804 of the Edo Period, a famous traveler, Masumi Sugae visited the ruins of Wakimoto Castle. He recorded the ruins on his diary and left his sketches of them. Investigations have been done since 1993 and it was found out that the castle had a huge scale. Because of it, the ruins were designated as a National Historic Site in 2004.

菅江真澄の脇本城のスケッチ、現地案内板より~One of Sugae’s sketches for Wakimoto Castle, from the signboard at the site

私の感想~My Impression

私が脇本城跡に行ったときは、ひどい天気でした。更に「内館」地区しか行っていません。それでもこの城跡が大変な規模だということは言えます。もし晴れた日に十分時間が取れれば、もっと城跡を満喫できると思います。他の有名な城に比べてこの城の研究は始まったばかりです。この城から新たな発見がもたらされるのが楽しみです。
When I visited the ruins of Wakimoto Castle, the weather was very bad. In addition, I saw only one area called “Uchidate”, but I was able to witness the large scale of the ruins. If you have enough time to visit the ruins in a fine day, you can enjoy them more! I think the study for the castle have just started compared with other famous castles. I will be looking forward to seeing the new discovery from the castle.

岬側からの城跡の風景~A view of the castle ruins from the cape

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:秋田自動車道昭和男鹿ICから約30分かかります。城跡の入口に駐車場があります。
電車の場合、JR男鹿線脇本駅から城跡まで歩いて約30分かかります。
東京から脇本駅まで:新幹線に乗り、秋田駅で男鹿線に乗り換えてください。
If you want to go there by car: It takes about 30 minutes from the Showa-Oga IC on Akita Expressway. There is a parking lot at the entrance of the ruins.
By train, It takes about 30 minutes from Wakimoto Station on JR Oga line to the ruins on foot.
From Tokyo to Wakimoto Station: Take the Shinkansen super express and transfer to Oga line at Akita Station.

リンク、参考情報~Links and References

脇本城跡、男鹿市観光協会(Oga city tourism association)
・「日本の城改訂版第150号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「土崎港(秋田港)の「みなと文化」/渡辺英夫」(Japanese Paper)