132.高田城 その1

土塁と水堀によって守られた城

立地と歴史

松平忠輝が短期間で築城

高田城は越後国(現在の新潟県)にありました。戦国時代の16世紀には、春日山城にいた上杉氏がこの国を領有していました。上杉氏が他の国に転封となった後、17世紀初めにはこの国はいくつかの大名により分割されました。その内の一つが堀氏で、越後国西部を領有し、福島城に住んでいました。しかし、堀氏は1610年に徳川幕府により改易となってしまいます。その代わりに徳川幕府の創始者である徳川家康の息子、松平忠輝が福島城に送られてきました。彼と幕府はもっと強力な城を必要としていました。幕府と豊臣氏との間の緊張が高まっており、豊臣氏に味方するかもしれない外様大名を監視する必要がありました。その新しい城が高田城だったのです。

城の位置

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の建設は1614年の3月に始まり、その年の10月に幕府と豊臣氏との戦いが起こる前に、わずか4ヶ月間でほぼ完成しました。幕府はこの建設のために、忠輝の義理の父親である伊達政宗を含む13家の大名を動員しました。この短い工事期間のためか、高田城にはいくつかの特徴がありました。城の基礎部分は、その当時の築城で通常使われていた石垣ではなく、完全に土だけで作られました。同じく他の城でよく見られた天守も築かれませんでした。その代わりに三階櫓が建てられました。

本丸に残る土塁
復興された三階櫓

広大な堀と高い土塁で防御

しかしながら、工事に手抜きがあった訳ではありません。いくつもの川の流れを利用して広大な水堀が作られました。その結果、城は内堀、外堀、そして流れを変えられた川によって囲まれることになりました。三の丸は外堀の中に、二の丸は外堀の内側に、本丸は内堀の内側に配置されました。三の丸の外側にある大手道から城に入ろうとすると、本丸に着くまでに3つの橋を渡らねばなりませんでした。また、土塁であっても10mもの高さがあり、そのためこの城は十分な防御力を備えていたのです。

高田城の模型(上越市立歴史博物館)
今も土塁に囲まれている本丸

領主が次々に交替

忠輝はその当時の日本では10人の大大名の内の一人でした。ところが、1615年に幕府が豊臣氏を滅亡させた後、1616年に忠輝は幕府から不確かな理由で改易されてしまいます。彼が父親に対して不遜な態度をとったとか、幕府内で内紛があったなどと言われています。忠輝は高島城に幽閉され、1683年に92歳で亡くなるまでそこで過ごしました。

高島城

それから何年か後、松平光長が57年に渡って城を治めました。彼は農業や商業を振興し、城下町や交通網の整備を行いました。城下町は現在の上越市の市街地となっています。ところが、跡継ぎをめぐるお家騒動により、彼もまた1681年に改易となってしまいます。

高田城下絵図、1737年作成、上越市立高田図書館蔵(上越市埋蔵文化財センター)

現在の城と市街地の航空写真

その後、いくつかの大名がこの城と高田藩の地域を支配しました。この地域は大雪が降る都市として知られており、他の地域から来た人にとっては、生活や付き合いに苦労があったようです。この城の最後の城主は榊原氏で、18世紀中盤から19世紀後半の明治維新まで城を所有していました。

雪に覆われた現在の市街地 (taken by v-pro from photoAC)
榊原氏の藩祖、榊原康政を祀る榊神社

「高田城その2」に続きます。

149.小牧山城 その1

とても短いが中身の濃い歴史を持つ城です。

立地と歴史

信長の橋頭保

小牧山城は、現在の愛知県西部、濃尾平野にある標高85mの小牧山の上にありました。この山には織田信長が1563年に築城するまで城はありませんでした。この築城の理由は、信長が現在の名古屋市にあった清州城からこの城に本拠地を移そうとしたことにあります。信長は現在の岐阜市にありその当時は斎藤氏がいた稲葉山城を手に入れようとしていたのです。小牧山は清州より稲葉山のずっと近くにありました。しかし、戦国大名やその家臣たちにとって、拠点を他に移すことはとても稀でした。先祖が住んでいた場所に住み続けることが普通だったのです。

城の位置

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

3つの特徴

信長による小牧山城は3つの際立った特徴がありました。一つ目は、頂上にある本丸は巨石を使って築かれた石垣によって囲まれていました。いくつかの巨石は他の山から運ばれてきました。当時は城に石垣を築くことは稀で、小牧山のような使い方は他にはなかったようです。権威を示すために石垣を使う最も早い事例でした。

山上に残る石垣

二つ目ですが、この城は2つの城主のための館があり、1つは山上に、もう1つは山麓にありました。2つの館を持っていたのは、他の山城を持つ戦国大名も同様でした。彼らは通常麓にある方に住み、戦が起こったときに山の上の方を使いました。ところが、信長の場合は山の上にある館に住んでいたようなのです。彼はこの山を特別な場所として意識していたのかもしれません。彼の次の本拠地となる岐阜城でも似たような事例が見られます。

山上の発掘現場

最後に、山麓から山の中腹に大手道が、安土城のようにまっすぐ伸びていたことです。他の戦国大名にとっては、山にこのような道を作るのは異常なことでした。防御に不利だからです。なせこのような作り方をしたのかは今だ不明ですが、信長の発想によることは間違いないでしょう。更には、城下町が以前なにもなかった所に先進的な方法で作られました。町は武士、商人、職人が住む場所が整然と分けられていました。このような城下町の作り方は、通常は次の世紀に見られるものです。

真っすぐ伸びる山麓の大手道
現地にある城下町の町割り模型

家康の本陣

信長によるこの城があったのはわずか4年間でした。1567年に信長が稲葉山城を獲得できたためです。彼は再び本拠地を稲葉山城に移し、岐阜城と名を改めました。小牧山城は直ちに廃城となります。1584年、この城は徳川家康が天下人の豊臣秀吉と小牧長久手の戦いを行ったときに再利用されました。家康は、ここを本陣として犬山城にいた秀吉に対抗するために、城を取り囲む囲む土塁と空堀を作り、強化しました。この戦いは引き分けに終わり、家康は存在感を示し、後に徳川幕府の創始者となるのです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
家康が築いた土塁

「小牧山城その2」に続きます。

106.脇本城~Wakimoto Castle

安東氏が最盛期のときの城
The castle when the Ando clan was its peak

立地と歴史~Location and History

舟運で繁栄した出羽国~Dewa Province Prospering by Ships

近代以前、大量輸送は船によって行われましたが、海上での航海は危険でした。船が十分発達していなかったからです。日本の場合、中世においては、商業船は主には太平洋ではなく、瀬戸内海や日本海などの内海を航行していました。そのため、当時は内海沿いの大きな港をもつ地域が繫栄しました。出羽国(現在の秋田、山形県を合わせた範囲)はそのような地域でした。
Before the Modern times, mass transportation was done by ships, but sailing on ocean could be dangerous because ships were not developed enough. In the case of Japan, in the Middle Ages, merchant ships sailed mainly on islands seas, such as the Seto Island Sea and the Japan Sea, not on the Pacific Ocean. For this reason, areas with a large port along the island seas prospered at that time.
Dewa Province (combining what is now Akita and Yamagata Prefectures) was one such areas.

1860年代の日本古来の弁財船~Traditional Japanese junks in 1860s (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秋田で力をつけた安東氏~Ando Clan has power at Akita

安東氏は、北出羽(大体今の秋田県)を根拠地として海上交通を支配して大きな勢力となりました。戦国時代(日本中の地方大名が覇権をめぐって争った時代)には安東氏は、檜山安東氏と湊安東氏の2つのグループに分かれていました。檜山安東氏は北秋田にあった檜山城に住み、湊安東氏は南秋田にあった湊城を拠点としていました。
The Ando Clans had a great power to manage the marine transportation based in the north Dewa (roughly now Akita Prefecture). In the “Sengoku” Period- a period when local clans around Japan were fighting for control over all of the country- the Ando Clans was divided into two groups namely the Hiyama-Ando Clan and the Minato-Ando Clan. The Hiyama-Ando Clan lived in Hiyama Castle which was located on the northern part of Akita, while the Minato-Ando Clan lived in Minato Castle located on the southern part of Akita.

城の位置~The location of the castle

安東愛季は、最初は檜山安東氏の総領でしたが、湊安東氏に固有の跡継ぎがいなかったため、取り込むことに成功しました。彼は、秋田全域を統治することで最も有力な戦国大名の一人になったのです・
Chikasue Ando was at first the lord of the Hiyama-Ando, but was able to take over the Minato-Ando as it didn’t have its own successor. As a result, he ruled over the entire Akita and became known as one of the greatest warlords.

安東愛季の肖像画、東北大学附属図書館蔵~The portrait of Chikasue Ando, owned by Tohoku University Library (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

安東愛季が脇本城を拡張~Chikasue Ando develops Wakimoto Castle

愛季は1577年、彼の本拠地を檜山城と湊城の間にある城に移しました。彼が選んだ城が脇本城だったのです。この城は最初は15世紀に築かれたと言われていますが、その後愛季が東日本では有数の規模の山城にまで拡張しました(約150ヘクタール)。この城は、男鹿半島の根元にある100mの高さの丘の上に築かれ、重要な商業港であった土崎湊の近くでもありました。また、主要道路の「天下道」が城の中を通っているため、非常に戦略的な立地であり、城の領主は完全に交通を制御することができました。
Chikasue moved his home base to a castle located between Hiyama and Minato Castles in 1577. The castle that he chose was the Wakimoto Castle. The castle is said to be first built in the 15th century, then Chikasue developed the castle as one of the largest mountain castles in eastern Japan (about 150 hectare). The castle was located on a 100m high hill in the connecting part of Oga Peninsula, near an important trading port called Tsuchizaki-minato. This location proved to be very strategic as a main road called “Tenga-michi” ran between the two sides of the castle giving the Lord full control over transportation.

遺跡の全体図、現地案内板より~The whole map of the ruins, from the signboard at the site

愛季は支配者として絶頂期にあって、領土を拡張する一方、織田信長といった外の有力戦国大名とは手紙や贈り物により親交を深めました。ところが、1587年の戦いのさ中、彼は突然の病に倒れ、亡くなってしまいます。彼の息子、実季は湊城に住み、最終的には1602年に徳川幕府により関東地方に移されてしまいました。脇本城はそれから廃城となってしまったようです。
Chikasue was at the peak of his career as an administrator expanding his territory and building relationship with other great warlords such as Nobunaga Oda by sending letters and gifts. However, during a battle in 1587 he suddenly fell ill and died. His son, Sanesue lived in Minato Castle and was lastly transferred to Kanto Region by the Tokugawa Shogunate in 1602. Wakimoto Castle seemed to be abandoned since then.

安東実季木造、羽賀寺蔵~The wooden statue of Sanesue Ando, owned by Haga-ji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特徴~Features

城跡へ登っていく~Walking up to Castle Ruins

現在、脇本城跡は今もって非常に広大であり、5つの地区に分けられています。しかしながら、5つの地区全てが等しく整備されているわけではありません。そこで、私の訪問時には、一番整備されている「内館」1箇所を見学しました。ここは城の中心部分であり、現在はより整備されていて、観光客が訪れやすいようになっています。
Now, the ruins of Wakimoto Castle are still very large, and they are divided into five areas. However, not all the 5 areas have been developed equally. So, when I visited, I covered the one that was most developed which is “Uchidate”. This was the main portion of the castle, and now is further developed for tourists to visit easily.

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

城跡の入口は国道101号線沿いにあります。車で来られた方のために駐車場があります。そこから城跡への道を登っていく必要がありますが、それはかつてからある「天下道」の一部分です。更に進んで城跡の案内所を過ぎると、丘の頂上部分が見えてきます。
The entrance of the ruins is alongside National Route 101. You can park at a parking lot if you are driving. Then, you need to walk up the road to the ruins which was part of the old road, “Tenga-michi”. When you go farther passing through the guide house of the ruins, you will see the top of the hill.

城跡の入口~The entrance of the castle ruins
残っている「天下道」~The remaining “Tenga-michi” road
案内所を越えて頂上へ~Passing the guide house to the top

生鼻崎周辺~Around Oihana-saki Cape

基本的に、戦国時代の東日本では、城の基礎部分は土造りでした。城跡には建物はありませんが、土塁、空堀、虎口などが残っています。丘の頂上に登ってみると、左手(西の方角)には、海に突き出ている「生鼻崎」という岬の上にたくさんの曲輪があるのがわかります。それらの曲輪は岬の先端に向かって列を作って並んでいます。実はかつてはもっと多くの曲輪が岬と共に海に伸びていたのですが、江戸時代の地震のときに崩壊してしまいました。歴史家はこれらの曲輪は安東氏の家臣の屋敷地として使われたのではないかとしています。岬の先端では、日本海の荒々しい姿が見えます。
Basically, the foundations of the castles, in eastern Japan during the Sengoku Period, were made out of soil. The ruins have no buildings, instead they have earthen walls, dry moats, entrances, etc. When you climb on top of the hill, you will see a lot of enclosures on a cape called “Oibana-saki”, sticking out to the sea on the left on the west direction. You can see that these enclosures are in lines towards the top of the cape. In fact, there were many more enclosures with the cape spread to the sea in the past, but they collapsed when an earthquake happened in the Edo Period. Historians speculate that they were used for the Ando clan’s retainers’ houses. At the top of the cape, you can also have a wild view of the Japan Sea.

内館地区の地図、現地案内板に注記~The map of Uchidate Area, from the signboard at the site, adding notes
岬に伸びる曲輪~The enclosures spreading to the cape
生鼻崎周辺の想像図、現地案内板より~The imaginary drawing around Oibana-saki Cape, from the signboard at the site
日本海の眺め~A view of the Japan Sea

城の中心部分~Center of Castle

道の反対側の東の方向には、空堀に囲まれたもっと大きな曲輪があります。この辺りが、城の中心地であったと考えられます。歴史家は、北側には別々の目的で作られた2つの建物があったと推定しています。一つは公式の儀式で使われた「主殿」という建物で、もう一つはお客をもてなす「会所」という建物です。
There are two larger enclosures surrounded by dry moats on the opposite side of the route on the east direction. They are supposed to be the center of the castle. Historians also speculate that two buildings on the northern side were used for other purposes. For example one of them was used as the building for the public ceremonies called “Shuden’ and the other for hosting the guests called “Kaisho”.

城の中心部分~The center of the castle
空堀~The dry moat
北側の曲輪~The north enclosure
中心部の想像図、現地案内板より~The imaginary drawing around the center, from the signboard at the site

もう一つの南側の曲輪は高くて太い土塁に囲まれており、これもまたとても大きいものです。ここには城主の館があったと考えられています。愛季が住んでいたのでしょうか。この曲輪からは、海岸線とかつては城下町であった街並みの素晴らしい景色が望めます。
The other southern enclosure is surrounded by high thick earthen walls, and it is also very large one. This is thought to be used as the house of the lord. I wonder if Chikasue lived in it. From the enclosure, you can also have a great view of the coast line and the town which was once the castle town.

土塁に囲まれた南側の曲輪~The south enclosure surrounded by the earthen walls
海岸線の景色~A view of the coast line

その後~Later History

江戸時代の1804年、有名な旅行家の菅江真澄が脇本城の城跡を訪れています。彼は日記に城跡のことを記録し、スケッチも残しました。1993年からは調査が行われており、この城が非常に大きな規模であったことがわかりました。そのため、城跡は2004年に国の史跡に指定されました。
In 1804 of the Edo Period, a famous traveler, Masumi Sugae visited the ruins of Wakimoto Castle. He recorded the ruins on his diary and left his sketches of them. Investigations have been done since 1993 and it was found out that the castle had a huge scale. Because of it, the ruins were designated as a National Historic Site in 2004.

菅江真澄の脇本城のスケッチ、現地案内板より~One of Sugae’s sketches for Wakimoto Castle, from the signboard at the site

私の感想~My Impression

私が脇本城跡に行ったときは、ひどい天気でした。更に「内館」地区しか行っていません。それでもこの城跡が大変な規模だということは言えます。もし晴れた日に十分時間が取れれば、もっと城跡を満喫できると思います。他の有名な城に比べてこの城の研究は始まったばかりです。この城から新たな発見がもたらされるのが楽しみです。
When I visited the ruins of Wakimoto Castle, the weather was very bad. In addition, I saw only one area called “Uchidate”, but I was able to witness the large scale of the ruins. If you have enough time to visit the ruins in a fine day, you can enjoy them more! I think the study for the castle have just started compared with other famous castles. I will be looking forward to seeing the new discovery from the castle.

岬側からの城跡の風景~A view of the castle ruins from the cape

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:秋田自動車道昭和男鹿ICから約30分かかります。城跡の入口に駐車場があります。
電車の場合、JR男鹿線脇本駅から城跡まで歩いて約30分かかります。
東京から脇本駅まで:新幹線に乗り、秋田駅で男鹿線に乗り換えてください。
If you want to go there by car: It takes about 30 minutes from the Showa-Oga IC on Akita Expressway. There is a parking lot at the entrance of the ruins.
By train, It takes about 30 minutes from Wakimoto Station on JR Oga line to the ruins on foot.
From Tokyo to Wakimoto Station: Take the Shinkansen super express and transfer to Oga line at Akita Station.

リンク、参考情報~Links and References

脇本城跡、男鹿市観光協会(Oga city tourism association)
・「日本の城改訂版第150号」デアゴスティーニジャパン(Japanese Book)
・「土崎港(秋田港)の「みなと文化」/渡辺英夫」(Japanese Paper)