191.中津城 その1

中津城を築いた黒田孝高(官兵衛、如水)には豊臣秀吉の軍師であったという印象があるでしょう。しかし実際には秀吉の下、現場で働く武将で、かつ秀吉の秘書官のような存在であったようです。

立地と歴史

秀吉とともに天下統一を推進

中津城は、現在の福岡県東部と大分県の北西部を合わせた地域に相当する豊前国にありました。豊前国はまた、九州の最北端に当たり、関門海峡を通じて日本の本州とつながっていました。中津城は、豊前国中央部の豊前海に流れる中津川河口のデルタ地帯に、黒田孝高(くろだよしたか)によって築かれました(彼は通称の黒田官兵衛か、隠居後の黒田如水の名前の方がよく知られています)。孝高は多くの日本人とっては、16世紀終盤に天下人となった豊臣秀吉の軍師であったという印象があるでしょう。しかしながら、この称号は、歴史家、評論家、小説家など後の人たちによって与えられたものであって、孝高自身は実際には秀吉の下、現場で働く武将で、かつ秀吉の秘書官のような存在であったようです。

豊前国の範囲と城の位置

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

孝高はもともと、播磨国(現在の兵庫県南部)の国人領主であった小寺氏の重臣でした。秀吉がまだ織田信長の部将だったころ、播磨国を含む中国地方に侵攻したときに、孝高は自身の居城である姫路城を秀吉に差し出すことで、秀吉を支えたのです。その後、秀吉による天下統一事業に全身全霊をもって尽くしました。孝高の初期時代で有名なエピソードとしては、信長に背いた荒木村重に対して居城の有岡城に説得に出向いたところ、囚われて約1年半もの間幽閉されたというものがあります。明智光秀により信長が殺され、秀吉が天下人となっていく間、孝高は秀吉の手足となって働きました。例えば、中国地方の毛利氏とは、戦わずに双方の境界線を決めるための交渉を行いました。また、1587年に九州侵攻を行う際には秀吉が到着する前に、地元領主と戦うか降伏させるかして、お膳立てを行ったりしました。

姫路城に残る孝高の時代のものとされる石垣
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

領地の豊前国に中津城を築城

九州侵攻の後は、孝高は秀吉によって豊前国の一部を領地として与えられました。その領地はそれまでの孝高の貢献に比べると小さく、それは秀吉が孝高の秘めたる力(天下を狙える力)を恐れたからだと言われてきました。しかし実際には、孝高がクリスチャンであり、侵攻の直後にキリスト教の布教を禁止した秀吉にとって心証が悪かったからだと指摘する人もいます。孝高は当初、当時一般的であった山城の一つである馬ヶ岳(うまがだけ)城を居城としていましたが、1588年に中津城の建設を開始しました。そしてその城は、今治城高松城と並んで、日本三大海城と言われるようになります。城の立地は、統治や交通の利便性から、孝高によって決められたのですが、秀吉の示唆も恐らくあったでしょう。秀吉の他の部将たちも同時期に、九州地方に得た新しい領地に、小倉城、大分府内城八代城などの海城を築いているのです。これらの城は、秀吉が計画していた朝鮮侵攻(当時は唐入りと称されました)の準備のためにも使われました。

中津城に残る黒田氏の時代の石垣
今治城
高松城
八代城跡

中津城は、九州地方ではもっとも初期に、櫓や石垣などで近代化された城の一つでした。本丸は城の中心にありましたが、河口沿いにあって川に直接通じる門がありました。日本の城では珍しい事例です。二の丸は海に向かって手前側にあり、三の丸は奥の方にありました。これらの曲輪群はデルタ上にまとまっていたので、扇の形のように見えました。最盛期には櫓が22基もありましたが。何らかの理由で天守は築かれませんでした(初期の頃の「天守の番衆」を定めた文書が残っていて、当初には天守があった可能性がありますが、大櫓のような建物を天守と称していたのかもしれません)。

中津城旧地図、現地説明版より、上から二の丸、本丸、三の丸の順に並んでいます

中津城から天下を狙ったのか

孝高の人生のクライマックスが、秀吉の死後1600年に起こった、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との天下分け目の戦いのときに訪れました。中日本での関ヶ原の戦いで三成と直接戦った息子の長政とともに、孝高は東軍に加わっていました。孝高自身は中津城に留まり、そこから出陣して西軍に属していた大名たちの城を一つずつ落としていきました。家康が三成を倒した関ヶ原の戦いは9月15日の一日で決着がついてしまったのですが、ところが、孝高は家康が止めるまでの約2ヶ月もの間、九州地方を攻め続けました。孝高は同盟者とともに、南九州の島津氏の領地以外、九州地方の全てを制覇したのです。このことで、後の人たちは孝高には天下人になる野望があったのではないかと推測するのですが、その答えは本人しかわからないでしょう。黒田氏は戦功により、もっと大きな領地を得て福岡城を含む福岡藩の方に移っていきました。その後、孝高は1604年に亡くなりました。

中津城にある黒田孝高夫妻の石像
福岡藩初代藩主、黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福岡城跡

城は中津藩として継続し、藩内には蘭学が普及

中津城は、細川氏の支城として引き継がれました。城は1615年に徳川幕府が発布した一国一城令の後でも生き残りました。これは、この城が細川氏当主の父親である細川三斎の隠居所として使われたからだと言われています。そして最終的には奥平氏が中津藩として江戸時代末期までこの城を支配しました。その時代の間で特筆すべき出来事といえば、「蘭学」と呼ばれた、オランダ語の書物を通じた西洋の文物の習得を藩主が奨励したことでしょう。当時の日本人は通常、西洋の文物に接することを厳しく制限されていました。長崎出島のオランダ商館における貿易と、原則4年に1回の商館長の江戸訪問のみが許されていました。しかし中津藩においては、3代目の藩主の奥平昌鹿(おくだいらまさしか)が、彼の母親の骨折が西洋医学により治療されたのを見てから、蘭学の普及を始めました。西洋の医学書を日本で最初に同僚の杉田玄白とともに翻訳した前野良沢は、中津藩の藩医でした。明治時代の著名な思想家で教育者の福沢諭吉は、中津藩の下級藩士でした。彼は藩の門閥制度にかなり反感を持っていましたが、蘭学を学ぶことが世に出るきっかけとなったのです。

細川三斎(忠興)肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
細川三斎(忠興)肖像画、自性寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前野良沢肖像画、藤浪剛一「医家先哲肖像集、1936年」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福沢諭吉、1891年頃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「中津城その2」に続きます。

94.大分府内城~Oita-Funai Castle

大分府内城は、現在はビル街の中にありますが、かつては海城だったのです。
Oita-Funai Castle is among the modern buildings now, but was a sea castle.

大分府内城の西南隅櫓と二ノ丸堀~Seinan-Sumi-Turret and Ninomaru-Moat of Oita-Funai Castle (taken by TECHD from photoAC)

立地と歴史~Location and History

大分市は大分県の県都です。府内は大分市の以前の名前です。つまり「大分府内」という名前は新旧両方の名前が組み合わさったものです。府内も同じように豊後国(大分県の以前の名称)の国府であり、中世においては長い間大友氏によって統治されました。大友氏は、大友氏館に住んでいましたが、そこは大分府内城とは違う場所です。その館は中世の典型的は領主館で、恐らく足利氏館と同じようなものだったでしょう。
Oita City is the capital of Oita Prefecture. Funai is the former name of the city. So, the name “Oita-Funai” is combined from both of new and old names. Funai was likewise the capital of Bungo Province (the former name of Oita Pref.) governed by the Otomo clan for many years in the Middle Ages. They had been living in the Otomo Clan Hall which is different from Oita Funai Castle. It was a typical hall for a lord in the Middle Ages probably like the Ashikaga Clan Hall.

大分府内城と大友氏館の位置関係~The location of Oita-Funai Castle and Otomo clan hall)

大友氏館庭園遺構~The ruins of the Otomo clan hall’s garden(出典:文化庁)

府内の城下町は、館を中心に繁栄しましたが、戦国時代としては防御力が不足していました。1586年に島津氏の侵攻があり、館を含む市街地は焼き尽くされてしまいます。当主の大友宗麟とその息子義統は、その一族の危機の間他所に避難を余儀なくされました。彼らは天下人の豊臣秀吉からの助けにより何とか生き延びましたが、宗麟の死後、義統は秀吉により改易されました。
The Funai castle town flourished around that hall, but it had weak defenses in the Warring States Period. In 1586, Shimazu clan’s invasion happened. The city including the hall was burned out . The master, Sorin Otomo and his son Yoshimune had to escape to another place, during the destruction of the clan. They could somehow survive due to the help from the ruler, Hideyoshi Toyotomi. However, Yoshimune was fired by Toyotomi after Sorin passed away.

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵~The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして秀吉は彼の配下である福原直孝を、1597年に府内の領主とて派遣しました。直孝はもっと安全な城が必要と考え、荷の積み降ろし港の場所に新しい城を築き始め、「荷揚(荷を積むという意味)城」と名付け、その後いつしか「府内城」と改名されました。17世紀初期に、竹中氏が4層の天守や多くの櫓を含む城として完成させ、九州地方では有数な城となったのです。
Then, Toyotomi sent his man, Naotaka Fukuhara as the lord of Funai in 1597. Fukuhara thought that he needed to have a more secure castle. He started to build a new castle at a port of unloading, called “Niage Castle” (Niage means unloading), which was renamed to “Funai Castle” sometime later. In the first 17th century, the Takenaka clan completed the castle including the four-layer Tenshu keep and many turrets, becoming a prominent castle in Kushu region.

大分府内城でライトアップされた仮想天守~The illuminated virtual Tenshu on Oita-Funai Castle(taken by seama2 from photoAC)

城の中心は安全確保と交通の便のため、細い堤を挟んで大分川の河口に面していました。河口から、本丸から二の丸へ、更には三ノ丸まで外側に向かって広がっていて、水堀によって互いに隔てられていました。特に二の丸へは、「廊下橋」と呼ばれた二つの橋のみが通じていて、もしこれらの橋を落とした場合、本丸と二ノ丸は完全に外部から遮断されるようになっていました。
The center of the castle faced the estuary of Oita River across a thin bank for safety and transportation. From the estuary, the main enclosure “Honmaru”, to the second enclosure “Ninomaru” until the third enclosure “Sannomaru” spread towards outside, separated by water moats each other. Particularly, only two bridges called “Roka-Bashi” led to Ninomaru area. If these bridges were fallen, the Honmaru and Ninomaru could be shut down from outside.

豊後国府内城之絵図部分、江戸時代、コメントを付加~Part of the illustration of Funai Castle in Bungo Province in Edo Period, adding comments出典:国立公文書館)

しかし、松平氏統治下の1743年に城下町の大火による被害を被りました。天守を含むほとんどの城の建物が焼け落ちました。その後、櫓はいくつか再建されましたが、天守は再建されませんでした(天守台だけが残ります)。
But in 1743, under the Matsudaira clan’s governance, the castle suffered from a great fire around the castle town. Most of the buildings of the castle including Tenshu keep were burned down. After that, some turrets were restored, but Tenshu wasn’t (just the Tenshu base remains).

現存している人質櫓と天守台~The remaining Hitojichi-Turret and Tenchu base(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)

特徴~Fertures

現在、本丸と二ノ丸の範囲は「大分城址公園」として公園になっています。この公園は今でも二の丸の水堀と石垣に囲まれています。しかし本丸の水堀は埋められていて、そのため公園の範囲はただ一つの曲輪のように見えます。ここにはまた櫓もあり、そのうち2つだけが元からあるものです(人質櫓と宗門櫓)。更には、一基の廊下橋が最近復元されました。
Now, the area of Honmaru and Ninomaru has been turned into a park called “Funai Castle Ruins”. The park is still surrounded by the Ninomaru water moat and stone walls. But the Honmaru water moat has been filled, so the park area looks like just one enclosure. It also has several turrets, out of whom only two turrets are original (Hitojichi-Turret and Shumon-Turret). In addition, one Roka-Bashi has recently been restored.

宗門櫓の裏側、修繕中か~The back side of Shumon-Turret, it appears being repaired.
復元された廊下橋~The restored Roka-Bashi bridge(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)
廊下橋の内部~The inside of Roka-Bashi

ところが、公園の周りの地域は全て埋め立てられ、近代的な都市に変貌しています。歴史の知識がなければ、ここが海城だったとは想像できません。
However, all area outside the park has been filled in ground for the modernized city. No one can imagine that was a sea castle without historical knowledge.

城周辺の航空写真~An aeriel photo around the castle

その後~Later Life

明治維新後、大分県庁が本丸に置かれました。大正時代にその建物が新築拡張されることになり、本丸の水堀が埋め立てられました。第二次世界大戦では、米軍による大分空襲があり、城の現存櫓もいくつか焼けてしまいました。戦後市の復興計画により、城跡は大分城址公園となりました。県庁は以前の三ノ丸に移転し、そして本丸と二ノ丸の範囲は1963年に初めて県の史跡として指定されました。「西南隅櫓」「大手口多門櫓」「着到櫓」といった櫓が外観復元されました。それ以外に模擬櫓もあります。
After the Meiji Restoration, the Oita Prefectural Building was placed on Honmaru area. In the Taisho Era, the building was replaced to a new large one that caused the Honmaru water moat to be filled. In World War II, Oita Air Raid by the US Air Force burned out the Oita city area including several remaining turrets of the castle. After the war, with the reconstruction plan of the city, the castle ruins was turned into Funai Castle Ruins park. Prefectural Building was moved to the former Sannnomaru area, then the area within Honmaru and Ninomaru was first designated as a prefectural historic site in 1963. Some turrets such as “Seinan-Sumi-Turret”, “Oteguchi-Tamon-Turret” and “Chakuto-Turret” were externally restored. There are also some imitational turrets there.

大手口多門櫓~Oteguchi-Tamon-Turret(licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

大分市は城跡の将来に向けた整備計画を検討しています。この計画によると、本丸石垣が部分的に復元され、地面に本丸水堀があったことを示す線が表示されることになっています。過去に海城があったことを周知したいようです。
Oita City is considering the development plan for the future of the ruins. They plan to restore part of the Honmaru stone walls and express the line of Hommaru water moat on the ground. They seem to let people know that there was a sea castle in the past.

2026年までの城跡整備計画マップ~The development planning map of the castle ruins by 2026 (大分市Websiteより引用)

私の感想~My Impression

面白いイベントが城址公園で開催されました。それは、鉄骨のフレームとLEDライトによって天守の姿を再現したものでした。このイベントは終わってしまったのですが、私が最近訪れたときにはまだフレームが残っていました。フレームが存在していれば、また再開することも可能と思います。そうなったらよいですね。
An interesting event was held in the ruin park. That was recreating of the image of the Tenshu keep by using a steel frame and lots of LED light bulbs. Though the event has finished, the frame remained when I visited the ruins recently. The show could be held again as long as the frame is there. Hopefully that will happen.

大分府内城の仮想天守~The virtual Tenchu in Oita-Funai Castle(taken by ぴょんにゃん from photo AC
仮想天守の骨組み(The flame of the virtual Tenshu)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:東九州自動車道大分ICから約20分です。城址公園内に駐車場があります。
大分駅から:徒歩で約15分かかります。バスの場合大分駅南口から「大分きゃんバス」に乗り、市役所前バス停で降りてください。
大分空港から大分駅まで:空港アクセスバス(エアライナー)に乗ってください。
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Oita IC on Higashikyushu Expressway. The park offers a parking lot inside.
From Oita station: It takes about 15 minutes on foot. Or take the Oita-Can-bus at the south entrance of the station, and take off at the Shiyakusho-Mae bus stop.
From Oita Airport to Oita st.: Take the Airpor Eepress Airliner bus.

リンク、参考情報~Links and Rererences

・よみがえる日本の城20、学習研究社(Japanese Magazine)
・大分城址公園整備・活用基本計画、大分市(Japanese Document)

116.沼田城(Numata Castle)

沼田城は真田がこだわり続け、しかし最後には失った城です。
Numata Castle is the one that Sanada stuck to strongly, but lost in the end.

沼田城西櫓跡(The ruins of Nishi-Yagura of Numata Castle)

Location and History

群馬県の北部に位置する沼田市は、全国的に河岸段丘の地形で有名です。その高さは、JR沼田駅近くの利根川から70メートル以上になります。市街地はその段丘の上にあり、「天空の城下町」と呼ばれています。
Numata City, in the northern part of Gunma pref., is famous around the whole country for its terrain with river terraces. The height is over 70m higher than Tone River near the JR Numata Station. The urban area of the city is on the top of the terraces and now called “Castle Town in the Sky”.

沼田市の河岸段丘、左側が段状になっている(The river terraces in Numata City, they are on the left side)taken by igamania from photo AC

この辺り一帯が最初に注目されたのは恐らく、戦国時代の16世紀頃、関東地方の支配権を巡って戦った上杉、北条、武田、織田、徳川などの有力戦国大名たちによってだと思われます。沼田地域は、関東地方の北の入り口にあたり、東の東北地方から西の信濃国(現在の長野県)に抜けていく主要街道が通っていました。
The area was probably first focused on in the Warring States Period in the 16th century by major warlords such as the Uesugi, Hojo, Takeda, Oda and Tokugawa clans who battled over the right to rule of the Kanto region . The Numata area was the northern entrance of Kanto and had a main road passing through from the east for Tohoku region to the west for Shinano Province (now Nagano pref.).

城周辺の地図及び起伏地図(A normal and relief map around Numata Castle)



沼田城は最初、土豪の沼田氏によって1532年に段丘の突端に築かれました。しかし、1560年の上杉氏の関東侵攻からは非常に重要な拠点として認識されました。結果的には、戦国時代の終わりにおいては武田氏配下の真田昌幸がこの城を保持していました。1582年には彼の主君である武田氏は滅びてしまうのですが、他の有力大名を差し置いて何とか城を守り抜きました。
Numata Castle was first built on the tip of the terrace in 1532 by the local clan Numata, but the castle became a very important site after the Uesugi’s Kanto invasion in 1560. Eventually, Masayuki Sanada under Takeda held the castle at the end of the Warring States Period. Though his master Takeda was beaten in 1582, he struggled against other major warlords to keep the castle.

真田昌幸像、個人蔵(The portlait of Masayuki Sanada, privately owned)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

クライマックスは、1589年に天下人豊臣秀吉の裁断によって、この城が北条氏に引き渡されたときでした。何と真田は、1590年の秀吉の関東侵攻と、北条氏の滅亡により、城の奪還に成功します。この出来事は、北条が約束を破り、真田の名胡桃城を乗っ取ったからだと言われていますが、真相は謎のままです。死人に口なしだからです。
The climax was that the castle was turned over to Hojo in 1589 by the decision of the ruler, Hideyoshi Toyotomi. However, Sanada was successful to get it back after Toyotomi’s Kanto invasion and the fall of Hojo in 1590. It is said that the event was caused due to Hojo breaking the rule and taking Sanada’s Nagurumi Castle. The fact is mysterious because dead men tell no tales.

名胡桃城跡(The ruins of Nagurumi Castle)licensed by Qurren via Wikimedia Commons

その後、昌幸の息子、真田信之が徳川の下につき、この城を引き継ぎ1600年前後に天守の建築を含め完成させました。この天守は、将軍がいる江戸城を除いては関東地方で唯一の5層の天守でした。
After that, Masayuki’s son Nobuyuki Sanada under Tokugawa inherited and completed the castle with building the castle Tenshu keep around 1600. The Tenshu was the only five-story one in Kanto region, excluding Edo Castle owned by the Shogun.

上野国沼田城絵図部分、江戸時代(Part of the illustration of Numata Castle in Kozuke Province in Edo Period)|出典:国立公文書館

1658年に、真田一族の中でこの城の相続を巡ってお家騒動が起こりました。徳川幕府は、真田の分家である信利を沼田藩として、信濃国松代にあった真田本家より独立させる決定をしました。
There was internal trouble in the Sanada clan over the inheritance of the castle in 1658. The Tokugawa Shogunate decided to make the branch Sanada, Nobutoshi separate from the head Sanada in Matsushiro, Sinano Province as the Numata Domain.

真田信利肖像画、加納永泰筆、大法院蔵(The Portrait of Nobutoshi Sanada, attributed to Eitai Kano, ownd by Daihoin)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

信利は、幕府から困難な課役を引き受け、真田本家に対抗するため豪華な屋敷も造営しました。その結果沼田藩の領民は重い年貢に苦しみました。そして信利は、両国橋再建の資材調達に失敗したのと、農民の茂左衛門の幕府への直訴により、1681年に改易となってしまいました。ついには、真田があれほどまでこだわった沼田城は、1682年に幕府により完全に破壊されたのです。
Nobutoshi accepted hard tasks from Shogunate and built luxurious halls against the head Sanada. The result was that people in Numata Domain suffered from high taxes. Nobutoshi was fired in 1681 inspired by his failure of preparing materials for the Ryogoku Bridge rebuilding and the direct appeal to Shogunate by a farmer called Mozaemon. At last, Numata Castle that Sanada were so much devoted to, was completely destroyed by Shogunate in 1682.

天守があったと思われる場所(The place where there seemed be Tenshu)

Features

現在沼田城の城跡は、沼田公園として使われています。そこには美しい花々や木々による庭園があるのですが、西櫓の石垣が掘り出されたのと、復元された時計台が残っているのみです。
Now, the ruins of Numata castle have been turned into a park called the Numata Park. Though it has a beautiful flowers and trees garden, only unearthed stone walls of the west turret and the restored clock tower remain.

沼田公園(Numata Park)
掘り出された西櫓石垣(The unearthen stone walls of the west turret)
復元された時計台(The restored clock tower)

Later Life

真田の城が撤去された後、土岐氏などの大名が江戸時代の間この地域を支配しましたが、藩庁のための建物が設置されたのみでした。明治維新後その建物も撤去され、堀は埋められました。幸いだったのは元藩士の久米民之助が城跡を買い上げ、市に公園として寄付したことでした。
After Sanada’s castle was demolished, some lords like the Toki clan governed the area in the Edo Period. They just had a few office halls to govern. After the Meiji Restoration, the buildings of the castle were removed, and moats were filled. The good thing was that a former warrior Taminosuke Kume bought the ruins and donated them to the city for a park.

公園からの眺め(A view from the park)

現在、2016年に人気が出たNHK大河ドラマ「真田丸」が放送された後、沼田市には天守を復元できないか検討している人たちがいます。そのドラマは、真田氏、主には信之の弟、真田信繁の人生を描いたもので、信繁は大坂城で豊臣のために徳川と戦ったことで有名です。(真田氏は意図的に徳川方と豊臣方に分かれていました。)ドラマでは、沼田も取り上げられており、そのことが沼田市の観光振興にも寄与しました。
Now, some people in this city are considering how they could restore the Tenshu after a popular NHK drama called “Sanada-Maru” aired in Japan in 2016. The drama was about the lives of the Sanada clan, mainly about Nobushige Sanada, Nobuyuki’s little brother, famous for the fights with Tokugawa for Toyotomi in Osaka Castle. (Sanada clan were divided into Tokugawa and Toyotomi on purpose.) The drama which also featured Numata, led to an increase in tourism for the city.

現地案内板にある天守の想像図(The imaginary drawing of Tenshu on the sign board at the site)

市の人たちは、近い将来に人気が衰えてしまうのを心配しているようです。そして天守のような新しいシンボルを模索しており、白石城のような成功事例を視察したりしています。
People in the city seem worried about the decrease in the near future. They are searching for a new symbol like the Tenshu, and researching successful cases such as the Shiroishi Castle.

復元された白石城(The restored Shiroishi Castle)

しかしながら実現にはいくつもの大きな問題があります。まず、早々に城が破壊されたため天守の詳細が全くわかりません。現在のところ本丸石垣と、金箔瓦や什器などいくつかの品が発掘されたのみです。加えて文化庁が各地方自治体に明確な根拠なしに歴史的建造物を安易に復元しないよう指導している事情もあります。次として莫大な予算が必要です。もし天守を伝統的木造建築のスタイルで再建する場合、市の年間一般会計予算に匹敵する資金が必要となります。実に悩ましい問題です。
However, there will be big problems that come with it. At first, the details are not clear at all because of the castle being destroyed. Stone walls of Honmaru, and few items like roof tiles with gold leaf and utensils have been excavated so far. In addition, the Agency for Cultural Affairs instructs local governments not to restore historical buildings without clear evidence. Secondly it needs a large budget. If they ever decide to construct the Tenshu in a traditional wooden style, it will require a fund as much as their annual general budget. That is too controversial.

発掘された本丸石垣(The excavated stone walls of Honmaru)

市は、自らを「真田の里」として売り出しています。これからどんな展開になるか注目したいと思います。
The city is also trying to identify itself as “Sanada’s Hometown”. I will keep watching what they are doing now.

My Impression

人気を維持するためまず考えられるのは、大坂城上田城、名胡桃城、岩櫃城など真田にまつわる城や城跡を持つ自治体と連携してイベントを開くことだと思います。
To keep the population, I think that a reasonable idea is holding events together with other municipalities having relative castles and ruins to Sanada such as Osaka, Ueda, Nagurumi and Iwabitsu.

大坂城(Osaka Castle)
上田城(Ueda Castle)

そして、可能性がある方法としては、発掘の結果を基に門か櫓を再建することです。例えば、鉢形城などが類似のケースでしょう。
Then, one possible solution could be rebuilding a gate or a turret based on excavation. There are similar cases, for example in Hachigata.

鉢形城の再建された門(The rebuilt gate in Hachigata Castle)

もう一つの可能性として、大分府内城のようにLEDを使って仮想天守の姿を創り出してはいかがでしょう。
For another possibility, how about creating the image of virtual Tenshu with LED like Oita-Funai.

大分府内城の仮想天守(The virtual Tenchu in Oita-Funai Castle)taken by ぴょんにゃん from photo AC

But if they actually want to construct a real Tenshu building, they might have to be prepared for using it as their office hall.
でも、もし本当に本物の天守を作りたいのであれば、市役所の建物に使うくらいの覚悟が必要なのではないでしょうか。

How to get There

沼田城跡に行くには車が便利です。関越自動車道の沼田ICから約10分です。電車を使う場合は、JR沼田駅から歩いて約20分かかります。河岸段丘の急坂を登っていく必要がありますが、それも面白いかもしれません。
東京から沼田駅まで:上越新幹線に乗って高崎まで行き、上越線に乗り換えてください。
It is useful to access Numata Castle Ruins by car. It takes about 10 minutes from Numata IC on Kan-Etsu Expressway. When using train, it takes about 20 minutes on foot from JR Numata Station. It needs to climb up a steep hill on the river terraces, but it may be interesting.
From Tokyo to Numata Station: Take the Jo-Etsu Shinkansen super express to Takasaki, then transfer to Jo-Etsu local line.

Links and References

沼田市観光協会(Numata Tourism Association)
・沼田市議会新政同志会平成29年第1回会派調査・研修報告(Japanese Document)