48.松坂城 その3

石棺まで使われた天守台

特徴、見どころ

城の中心部、本丸

本丸下段には多くの櫓があり、城の防衛の要となっていました。現在はそれらの建物は残っていませんが、その分石垣の下を通っている通路をはっきり見下ろして確認することができます。

本丸周辺の地図

本丸下段の鐘ノ櫓跡
鐘ノ櫓跡からの眺め(松阪市立歴史民俗資料館)
本丸下段の月見櫓跡
月見櫓跡からの眺め(二の丸)

本丸上段には櫓、屋敷、そして天守がありました。天守台石垣は、蒲生氏郷が最初に城を築いたときそのままの状態で残っています。とても古風に見えます。また、石垣の一部には、石棺が用いられています。築城工事のために、いかに石材が急いて集められたかわかる事例です。ここは城では最高地点にあたるので、山並みを背後に、市街地の眺めを楽しむことができます。

本丸上段の入口
本丸上段の内部
天守台石垣
石垣に使われている石棺(手前)
本丸上段からの眺め

その後

明治維新後、松坂城は廃城となり、城の建物は撤去されるか、失火により失われました。城の主要部分は1881年に松阪公園に転用されました。一方、それ以外の部分は市街地になっていきました。以前の城下町であった松阪市は、1998年から2003年までの16年もの間、城の石垣の大修繕を行ってきました。また、城跡としての調査も行ってきています。城跡としては、2011年に国の史跡に指定されました。

天守台石垣

私の感想

松坂城を訪れる前は、私は蒲生氏郷やこの城のことをあまり知りませんでした。実際に訪れているときでも、なぜこの地方都市にこんなにもすごい石垣を持った城があるのだろうと思っていました。しかし、蒲生氏郷やこの城の歴史のことを学んでみると、すっかり納得しました。松阪市には、この城跡や氏郷の記憶を末永く伝えていってほしいと思います。なにしろ。氏郷なしにはこの街自体が存在しなかったわけですから。

本丸上段の石垣

ここに行くには

車で行く場合:伊勢自動車道の松阪ICから約15分かかります。公園の脇にビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、松阪駅から歩いて15分かかります。
東京から松阪駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で快速列車「みえ」か、近鉄の近鉄名古屋線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

国指定史跡・日本100名城 松坂城跡、松阪市
・「蒲生氏郷 戦国を駆け抜けた部将」安土城考古博物館
・「よみがえる日本の城16」学研
・「日本の城改訂版第86号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「松坂城その1」に戻ります。
「松坂城その2」に戻ります。

148.浜松城 その2

オリジナルの天守台石垣に、小さな復興天守が乗っかっています。

特徴、見どころ

公園入口へ

現在浜松城は、浜松城公園として開発されています。公園内には、天守曲輪と本丸の一部が残されています。もし浜松駅から公園の方に歩いていった場合、浜松市役所が左側に見えてきますが、ここは過去は二の丸の一部だったのです。市役所の北側から公園の入口への道に入っていきます。そうすると右側に、発掘中の本丸と二の丸がフェンス越しに見えます。そして、現代になって切り崩された本丸の断面によってできた壁に突き当たります。

城周辺の地図

浜松市役所
浜津城公園への入口
公園入口に向かう道
発掘中の二の丸と本丸の一部

よって、公園に入るにはその壁の右側か左側に回り込む必要があります。どちらの入口から入っても、本丸の残存部分に着きます。そこには、徳川家康の銅像があったり、土塁の上にある富士見櫓跡があります。

本丸の断面にある壁と公園入口への道標
右側の入口から本丸へ向かいます
本丸内部
徳川家康銅像
富士見櫓跡

古風な現存石垣

この城のハイライトといえば、本丸と天守曲輪にある現存石垣でしょう。この石垣は基本的に自然石を使って積み上げられていて、城の石垣の中では最も早い時期の手法の一つで野面積みと呼ばれます。とても古風であり、元は堀尾吉晴が築きました。

富士見櫓跡から見た天守曲輪
天守曲輪の石垣

天守曲輪の裏側の方に行っていただくと、石垣が自然地形の上の方に築かれているのが見えます。これも初期の手法の一つで、鉢巻石垣と呼ばれ、高石垣を築く技術がないときに用いられました。この石垣は、屏風のように巧みに曲げられていて、文字通り屏風折れと呼ばれています。こういった構造より、敵が城に攻めてきたときに、守備兵が石垣の任意の場所から敵を直接攻撃できるようになっていました(例えば、折れた部分から敵の側面を攻撃できます)。

天守曲輪の裏側の鉢巻石垣
「屏風折れ」の石垣

天守門は、発掘の成果を基に、最近2014年に伝統的工法で復元されました。門の下を通るだけではなく、門の建物の中にも入ってみることができます。

復元された天守門
天守門内部への入口

オリジナルより小さな復興天守

それ以外には、現存する天守台石垣の上に復興天守が1958年に建てられ、それ以来城のシンボルとなっています。この天守が「復興」と呼ばれる理由は、オリジナルの天守の姿が不明であることと、実はこの天守は天守台と比較してとても小さいのです。恐らく、この天守台に合う天守を作るには予算が不足していたと思われます。

オリジナルの天守台石垣に載った小さな復興天守
復興天守と推定されるオリジナル天守の大きさ比較、復興天守内にて展示

それでも、天守の中に入ってみれば、城のことを学べたり、浜松市街を一望することができます。歴史博物館及び展望台として使われているのです。

発掘された天守内の井戸、復興天守内にて展示
復興天守内の展示の一部
展望台からの市街地の景色

「浜松城その3」に続きます。
「浜松城その1」に戻ります。

89.佐賀城 その3

城の役割は変わっていきます。

特徴、見どころ

今に残る外堀

お時間があれば本丸から、まだ残っている外堀の方に歩いてみてはいかがでしょう。本丸の端まで歩いて行くと、石垣のラインがずっと続いているのが見えます。このうちの一部は、西南隅櫓台石垣とともに最近になって復元されたものです。これらの復元により、城の本来の姿が少しずつ甦りつつあります。外堀は今でも水に満たされていて、50m以上の幅があります。この風景を見ていると、この城はもともと多くの堀や水路によって守られていたのだと改めて認識します。

城周辺の航空写真

長く続く本丸の石垣
復元された西南隅櫓台石垣
現存する外堀

その後

明治維新後、佐賀城は佐賀県庁舎として使われました。そのため、佐賀の乱ではここが戦場となったのです。佐賀の乱が終わってからは、焼け残った本丸は校舎として使われました。しかし、本丸御殿は1920年に解体されてしまい、城主の居間は他の公園に移設されました。その後も残っていた鯱の門は、1957年に重要文化財に指定されました。1989年、佐賀県は発掘と調査研究を行った後御殿を復元し、歴史博物館として活用することを決定しました。御殿のうち、表と呼ばれる公の政務を行う場所が主に復元され、元の場所に戻された城主の居間と組合わされました。御殿は、2004年に佐賀城本丸歴史館として再度公開されました。

オリジナルの本丸御殿の古写真、明治時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
鯱の門の内部
佐賀城本丸歴史館となった本丸御殿
本丸の現存または復元された建物・構築物の模型、佐賀城本丸歴史館にて展示

私の感想

佐賀県は、復元された本丸御殿をもって、佐賀藩が江戸時代末期においてどのような役割を果たしてきたか示そうとしています。この城跡には、他にも天守台石垣のような見どころがあります。これらを比べてみると、城の役割というのが変化してきたということがわかります。水で満たされた堀は完全に防御のためでした。天守はそれに権威を付け加えました。そして、御殿は統治と居住のために作られたのです。これらにより、佐賀城には幅広い機能が備わったのだと思います。

防御のための外堀
権威を示す天守台
統治のための本丸御殿

ここに行くには

車で行く場合:長崎自動車道の佐賀大和ICから約20分のところです。本丸にある駐車場に停めることができます。
公共交通機関を使う場合は、JR佐賀駅から佐賀市営バスの佐賀城跡線に乗って、佐賀城跡バス停で降りてください。
東京または大阪から佐賀駅まで:新幹線か飛行機を使って博多駅に行き、そこから特急に乗ってください。

この写真の奥の方の場所が駐車場になっています

リンク、参考情報

佐賀県立 佐賀城本丸歴史館
・「よみがえる日本の城21」学研
・「幕末維新と佐賀藩~日本西洋化の原点」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
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「佐賀城その2」に戻ります。