183.久留米城 その2

城の石垣がいまだに健在です。

特徴、見どころ

本丸に残る素晴らしい石垣

現在、久留米城跡として本丸のみが残っています。城跡には城の建物はありませんが、その石垣がいまだにほとんど元のまま残っています。この曲輪はそれ程大きくはなく、南北約150m、東西約100mの大きさです。このような限られたスペースに、7基もの三階櫓が全て二階建ての多聞櫓によってつながっていたことを想像するだけでも驚きです。今、この曲輪には有馬氏を祀る篠山神社があります。

城周辺の地図

本丸だけ残る久留米城跡
篠山神社

南側の新しい石垣

この曲輪の正面は南を向いていて、神社の入口にもなっています。唯一残っている水堀がこの方角にあります。15mの高さがある素晴らしい高石垣を見ることができます。この南側の石垣は、四角に成形された石を整然と積んで築かれており、布積みと呼ばれる方式です。この方式は、この城の他の石垣より新しいもので、有馬氏によって築かれたと考えられます。

南側の入口
南側の高石垣

この石垣の上には、3基の三階櫓(巽(たつみ)櫓、太鼓櫓、坤(ひつじさる)櫓)が立っていました。特に、巽櫓は最も大きく、城のシンボルとして天守の代わりとなっていました。

巽櫓跡
巽櫓跡下の石垣

本丸の内部

舗装され左側に曲がる通路上にある冠木御門(かぶきごもん)跡を通ってこの曲輪に入っていきます。この通路の途中には、桝形と呼ばれる四角い防御のための空間があったのですが、この通路が舗装されたときに一部改変されてしまい、今でははっきりとは見ることはできません。

冠木御門跡
本丸に入っていきます

本丸には、篠山神社とは別に有馬記念館があり、有馬氏の事績を展示しています。この記念館は、坤櫓と西下櫓の跡地にあります。他の櫓跡の上または傍らには地元の歴史に関する記念碑があります。例えば、太鼓櫓跡には1871年藩難事件の犠牲者の追悼碑(西海忠士之碑}があり、その周辺からは素晴らしい高石垣を間近に見ることができます。

太鼓櫓跡
太鼓櫓跡にある西海忠士之碑(右側  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)
太鼓櫓跡から見た高石垣

また、艮(うしとら)櫓跡の傍らには旧日本陸軍の「菊歩兵第五十六連隊記念碑」があり、その周辺からは筑後川を眺めることができます。

菊歩兵第五十六連隊記念碑
艮櫓跡
筑後川の眺め

東側の古い石垣

本丸の東側でも、素晴らしい石垣を見ることができます。こちらの石垣は、粗く加工された石を積み、その隙間を小さい石を埋める方式で築かれました。この方式は打ち込みハギと呼ばれます。一方この石垣の角部分は、長方形に加工された石を互い違いに積む算木積みという方式で築かれています。これらの方式は、本丸の南側よりも古いものであり、これらの石垣は毛利氏か田中氏によって築かれたとも考えられます。

東側の石垣
角部分の算木積みの石垣

こちら側には月見櫓跡の傍らに、もう一つの入口が石段とともにあります。これもまた、こちら側がもともと本丸の正面だったときの正面口だったのかもしれません。櫓跡からは、かつては城の水堀であった、久留米大学のグラウンドが見えます。

月見櫓跡
月見櫓脇の東側入口
久留米大学のグラウンド

「久留米城その3」に続きます。
「久留米城その1」に戻ります。

185.唐津城 その2

今この城は現代的な観光地となっています。

特徴、見どころ

見栄えのする模擬天守

現在、唐津城は現代的な観光施設として、一般に公開されています。城がある地に向かった場合、まず山の上に立つ五層の模擬天守が見えてくることでしょう。この天守は実際には近代的ビルであり、この城が作られた当時よく見られた天守の形式(慶長様式と呼ばれています)に似せて作られています。この城に本当に天守があったかいまだ不確かではありますが、とても見栄えがします。

山の上に再建された唐津城

城周辺の航空写真

もし車で行かれるのでしたら、松浦川の河口沿いにある駐車場を使うことができます。その駐車場から道路を渡って行くと、城の入口に着きます。左手に二の丸の素晴らしい石垣を目にすることができます。そこにはかつて藩庁と二の丸御殿がありましたが、現在は学校の敷地ととなっています。

駐車場から見える模擬天守
二の丸の石垣

天守に登り、素晴らしい景色を堪能

観光客は通常、坂口門跡から城の中心の方に行きます。長い石段を登って二の曲輪に向かいます。二の曲輪の入口は防御のため、桝形と呼ばれる石垣に囲まれた四角い空間になっています。この曲輪は本丸のとなりにあり、そこからは模擬天守が乗っている天守台石垣を見上げることができます。そして、復元された本丸櫓門を通って本丸に入ってきます。

坂口門跡から伸びる長い石段
二の曲輪入口
二の曲輪から見上げた天守台石垣と模擬天守
復元された本丸櫓門

代わりに、山の麓からエレベーターを使ってもっと簡単に本丸まで行くこともできます。この城自体が現代的な施設として整備されているからです。模擬天守は、歴史博物館と展望台として使われています。天守の中では、城のことや唐津市の文化について学ぶことができます。

本丸行きのエレベーター
本丸内部
博物館、展望台として使われている模擬天守

最上階では、唐津市域全方位の景色を堪能することができます。例えば、東の方角には松浦川の河口を越えたところの海岸沿いに美しい松林が見えます。これは、虹の松原と呼ばれ、寺沢広高が開発させたものです。実は、この展望台がある山は、城が築かれる前はその松林がある海岸につながっていました。そして、北の方角には玄界灘が、南には市街地が、西の方には海岸沿いにもと城だった区域を見渡すことができます。

虹の松原を含む東側の景色
北の玄界灘
西側に見える砂浜と二の丸
南側に見える市街地と松浦川

城らしさを求め周辺を散策

唐津城が過去どのようであったのかもっと知りたければ、現在ある城の周りを歩いてみてはいかがでしょうか。例えば、海岸に沿って山の麓部分を歩いてみることができます。この部分は腰曲輪と呼ばれていて、海の方から敵が攻撃してくるのを防ぐため、石垣の上に櫓がいくつも築かれました。現在石垣は残っており、その上には近年に漆喰塀がいくらか復元されています。その石垣は波打ち際に建てられており、城を強固に守っていたことがわかります。

山麓に位置する腰曲輪
櫓跡の一つ
波打ち際に築かれた石垣

また、山から西の方にある砂浜に沿って歩いて行くこともできます。この辺りは二の丸であり、多くの武家屋敷が建てられていました。現在では市街地となっていますが、この曲輪に沿って長く石垣が残っているのがわかります。更には、二の丸と三の丸を隔てる水堀や、二の門跡では復元された太鼓櫓を見ることができます。

長く続く二の丸の石垣
二の丸、三の丸間の堀
復元された太鼓櫓

「唐津城その3」に続きます。
「唐津城その1」に戻ります。

76.徳島城 その1

徳島城は様々な点で発展してきました。

立地と歴史

蜂須賀家政が築城

徳島城は、現在の徳島市にありました。徳島県の県都は徳島市です。徳島県は、かつて阿波国と呼ばれていて、戦国時代の16世紀後半には、この国をめぐって長宗我部氏と天下人の豊臣秀吉が争っていました。最終的に秀吉が勝利し、1585年にこの国を重臣の蜂須賀家政に与えました(秀吉は、家政の父の正勝に与えようとしたが、固辞したため子の家政に与えたとされています)。家政は最初は主要な山城の一つであった一宮城を拠点としましたが、すぐの1586年に他の場所に新しい城を築いて移ります。それが徳島城でした。

城の位置

蜂須賀家政肖像画、個人蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
一宮城跡

海上交通のネットワークを形成

徳島城は、渭津(いのつ)と呼ばれた砂州にあった標高62mの渭山(いのやま)の上に築かれました。その砂州は、四国で一番の大河であった吉野川のデルタ地帯の中にありました。この城が築かれた場所は、この国の領主にとって決して広くはありませんでした。秀吉がこの場所に城を築くよう示唆したとも言われています。それでは、なぜ秀吉は家政にそのような場所に城を築くよう指示したのでしょうか。歴史家は、秀吉は本拠地の大坂城とともに海上交通のネットワークを構築しようとしたと推測しています。渭津は徳島と改名され、紀伊水道のような海上交通ルートをコントロールできる拠点となったのです。この地域は、大坂城が面していた大阪湾の入口に当たりました。この海上ネットワークは水軍と商船隊の両方から構成されていました。この場所を選んだもう一つの理由としては、蜂須賀氏はまだ長宗我部の残党に対抗するため、阿波九城と呼ばれた支城に家臣を派遣する必要があったと考えられています。そのため、蜂須賀の本拠地はそれ程広大でなくてもよかったのです。

阿波国徳島城之図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

城周辺の起伏地図、渭山がデルタ地帯の中で目立っています

徳島城と大坂城の位置関係

大坂城

当初は城の中心は山上部分

渭山は、くの字型に曲がっていて、東西方向に横たわっていました。本丸は、最高地点で且つ最も広く、山の形が曲がっている辺りにありました。ここには、初代天守と初代の城主御殿があったと考えられています。ところが、その天守は創建から約30年後になぜか解体されてしまします。そして、東側の低い位置にあった東二の丸に再建されたのです。これはとても稀なケースで、なぜならほとんどの城の天守は山の最高地点にあったからです。たった一つ、水戸城で似たようなケースが見られるだけです。水戸城の場合は、理由は明白です。本丸が狭く不便であったからです。(徳島城の場合は、東二の丸の方が、城下町をより見渡すことができたからだという説があります。)山の西側の部分には、西二の丸と西三の丸があり、本丸を防御していました。これら山の上の曲輪は、それぞれ石垣に囲まれていました。一方、山の南側の砂州にあった平地は開発がまだ進んでいませんでした。専門家は、恐らく城主の御殿は山上と平地の2か所にあっただろうと推測しています。メインの方は山上にあり、予備の方は平地にあって、そこには家臣の屋敷もありました。初期の段階では、徳島城は戦いがあった場合に備えた作りになっていたと思われます。

渭山に築かれた本丸などの曲輪、天守は本丸ではなく、東側の低い部分にあります(阿波国徳島城之図部分

水戸城周辺の航空写真

二の丸にあった水戸城天守の古写真

城の中心が平地部分に移動

1615年に徳川幕府が豊臣氏を倒した後は、幕府の統治はついに安定してきました。蜂須賀氏も幕府に貢献したことにより淡路国も与えられ、領地を広げることができました。天下泰平が続く中、阿波九城はやがて廃城となりました。その結果、家臣たちは徳島城に集まることになり、城の再構成が必要となりました。平地には城主のための大規模な御殿が再建築され、城の中心部となりました。また、櫓がいくつも築かれた石垣や、屏風塀と呼ばれる塀が、内堀や寺島川に沿って中心部を囲んでいました。南側には、大手門としての黒門があり、そのとなりには太鼓櫓という三階櫓がありました。御殿の南の方には、三木郭があり、そこには城の正門として鷲の門がありました。城の周りには多くの川がありましたが、埋め立てられて武家屋敷や城下町となっていきました。蜂須賀氏は、江戸時代の終わりまでここを居城としていました。

御殿が建てられた平地部分(阿波国徳島城之図部分)絵図に御殿は描かれていません
黒門と太鼓櫓(阿波国徳島城之図部分)
三木郭と鷲の門(阿波国徳島城之図部分)

「徳島城その2」に続きます。