22.八王子城 その1

日本の山城の集大成

立地と歴史

北条氏の主要な支城の一つ

八王子城は、関東地方の現在の東京都西部、八王子市にあった大きな山城です。戦国時代の16世紀後半には北条氏がこの地方の大半を手に入れていました。北条氏は関東地方の南西隅にあった小田原城を本拠地とする一方、領土を維持するためにこの地方に支城網を構築していました。八王子城は、その主な支城の一つでした。

城の位置

この城は、遅くとも1584年までに、八王子城から約10km北東にあった滝山城を置き換える形で、北条氏照によって築かれました。置き換えの理由はいくつかあるのですが、その一つは北条氏がもっと強力な城を築きたいと思ったことです。当時、北条と天下人の豊臣秀吉との緊張が高まっていました。そこで、北条は八王子築城を急ぎ、できる限りの労力と技術をこの城に注ぎ込んだのです。

本丸と中の丸をつなぐ曳橋~The movable bridge between Honmaru and Nakanomaru
滝山城跡

3つのパート

八王子城は3つのパートによって構成されていました。一つ目は、根古屋地区と呼ばれ、城の入口周辺に家臣や職人のための住居がありました。この地区は谷あいを流れていた城山川に沿っていました。

3つのパート(現地にあるジオラマの写真に加筆)

二つ目のパートは、城主の御殿が築かれた山麓居館地区です。この地区も川に沿っていて根古屋地区の後方にありましたが、厳重に防御されていました。訪問者は大手門に入るのに川を渡り、大手道を進み、そして御殿の手前にある曳橋を再び渡らなければなりませんでした。この橋は戦いが起きたとき、外されるようになっていました。御殿の入口はジグザグの通路になっていて、土台は階段状の石垣に覆われていました。御殿はいくつかの建物から成り、公的な建物であった主殿や会所などがありました。発掘により、什器、武器、輸入磁器などの品物が発見されています。

復元または整備された山麓居館地区

最後のパートは山上要害地区といい、戦いが起こったときに使われました。本丸は標高445mの山頂にありました(山麓から約200mの高さ)。その他多くの曲輪が本丸周辺にあり、山の峰々は山麓から頂上までに至る通路のために使われていました。特に、多くの石垣がこれらの曲輪や通路を覆っていました。更には、本丸の手前だけはなく、その背後も小型の堡塁群と石垣に覆われた峰々により厳重に守られていました。山城にこのような構造があるのは大変珍しく、そのため、この城は日本の山城の集大成と言えるのです。

山上要害地区跡

豊臣秀吉軍により一日で落城

ところが、この城は秀吉の手勢によりわずか一日で落城してしまいます。1590年6月23日、少なくとも35,000人の兵士が城を攻撃したのです。一方、守備兵の数は農民や女性を含めてわずか3,000人でした。城主の氏照はそのとき小田原城にいて、ここにはいませんでした。更には、秀吉は配下の兵士に、城を力攻めにし、占領することを命じました。なりふり構わぬ攻撃を3,000人で防ぐには、この城は大きすぎたのです。城が落ちる前、多くの女性が川の滝つぼに自ら身を投げたという悲しい話も伝わっています。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
御主殿の滝 (licensed by じゃんもどき via Wikimedia Commons)

「八王子城その2」に続きます。

40.山中城 その1

北条氏の西の守りの城

立地と歴史

北条氏の西の守り

山中城は、関東地方の西側の入口である箱根関の西にあり、現在の静岡県東部に当たります。この城は最初は戦国時代の16世紀中頃に、関東地方の支配者であった北条氏によって築かれました。山中城を築くことで、箱根関の東側にあった彼らの本拠地、小田原城を守ろうとしたのです。この城は、1590年に天下人の豊臣秀吉が北条氏を攻める前にも更に増強されました。

城の位置

山中城は、日本の主要街道の一つ、東海道を取り囲んで作られました。その当時、西から坂を登ってくる人は、必ず城の中を通らなければなりませんでした。東海道は実際、三の丸の中、本丸の脇を通っていました。また、三の丸の西側には水堀があり、敵からの攻撃を防ぐためと、貯水池としての役割もありました。
三の丸の南側には、細長い防御陣地である「岱崎出丸」があり、東海道に並行して伸びていました。三の丸の西側に向かっては、二の丸、西の丸、西櫓が配置されていました。これらの曲輪は共同して敵の攻撃を防げるようになっていました。

山中城跡の案内図(現地説明板より)

北条氏独特の築城術

この城で使われていた技術は北条氏に特有のものでした。全ての曲輪は土造りであり、山の峰や谷などの自然の地形を活用していました。これらの曲輪は主に木橋で接続されていて、戦いが始まったときは落とせるようになっていました。また、深い空堀によっても隔てられており、その底は畝状または格子状になっていました。畝状の方は「畝堀」と呼ばれ、格子状の方は「障子堀」と呼ばれます。これらの空堀の作り方は北条の城に特有のものです。一旦兵士が掘に落ち込むと、全く身動きが取れませんでした。城の大きさは20万平方メートルに及びます。北条は秀吉をしばらくは釘付けにできると考えました。

山中城の畝堀
山中城の障子堀

山中城の戦いで落城

ところが、城はわずか半日で秀吉のものになってしまいます。1590年3月29日の早朝、7万人近い秀吉軍の兵士が城への攻撃を開始しました。一方守備側の人数はわずか約4千人でした。攻撃側は最初西櫓と岱崎出丸の両方を強襲しましたが、北条側の鉄砲による反撃のため大量の死傷者が発生しました。もしこれが局地戦であったなら、攻撃側はこれ以上の損害を防ぐため攻撃を一時中止したかもしれません。しかしながら、指揮官たちは無理やり攻撃を続行しました。そうでなければ、秀吉によりクビにされかねないからです。結果的には、秀吉側の指揮官の一人、一柳直末を含む多くの戦死者と引き替えに秀吉は城の確保に成功しました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この戦いはわずか数時間で終わりました。この短い戦いのもう一つの要因は、城主である北条氏勝が城から脱出したため、城兵たちが混乱したことも挙げられています。また、岱崎出丸は秀吉の攻撃までに完成していなかったことも指摘されています。いずれにせよ、どんな強力な城でも、十分な兵士と適切な指揮なしには生き残れないということでしょう。

城跡の標柱

「山中城その2」に続きます。

123.滝山城~Takiyama Castle

城跡は自然とともに残っています。
The castle ruins remain with nature.

本丸と中の丸をつなぐ曳橋~The movable bridge between Honmaru and Nakanomaru

立地と歴史~Location and History

滝山城は現在の八王子市の多摩川南岸の河岸段丘上にありました。この城の起源は、戦国時代のいずれかの時点で大石氏によると言われていますが、1560年の上杉謙信の関東侵攻をきっかけとして、北条氏照が拡張、完成させました。この城の使命は、小田原城の防御線になることと、小田原と北関東とのルートを確保することでした。
Takiyama Castle was located on the southern bank terrace of Tamagawa River in what is now Hachioji City, Tokyo. The origin of the castle is said to be by the Oishi clan sometime in “Sengoku” or the Warring States Period, but Ujiteru Hojo improved and completed the castle, inspired by the Kenshin Uesugi’s Kanto invasion in 1560. The mission of the castle was to be the defense line for Odawara Castle and to hold the route between Odawara and the northern Kanto region.

滝山城の位置、赤い線は1560年の上杉謙信の侵攻概略ルート、青い線は1569年の武田信玄のもの~The location of Takiyama Castle, the red line shows the rough attack route of Kenshin Uesugi in 1560, the blue line is that of Shingen Takeda in 1569

この城の北側は多摩川に沿って急な崖となっていて、攻めるには困難でした。この城の3つの主な通路は、川の反対側にある滝山街道につながっていました。これらの通路は全て二の丸に集まっていました。二の丸は防衛の中心拠点であり、桝形という方形の入り口と、馬出と呼ばれる障壁となる関門が通路に向かって設置されていました。
The northern side of the castle was a steep cliff along Tamagawa River which is difficult to attack. The three main routes to the castle were connected from the Takiyama Road, the opposite side of the river. The routes all gathered the Ninomaru enclosure. The enclosure was the defensive center which had square entrances called Masugata and gateway barriers called Umadashi heading towards these routes.

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

二の丸の後ろには、中の丸と本丸がありました。双方が曳橋という可動橋によってつながっており、緊急時には容易に取り外しが可能でした。本丸は、中心でかつ最後の曲輪となりますが、比較的小さいように思えます。歴史家は、そこが土豪が作ったこの城の最初の場所だったのだろうと推測しています。
The back of Ninomaru are Nakanomaru and Honmaru enclosures. Both were tied by a movable bridge called Hikihashi that could be removed easily for in emergency. Honmaru was the main and last enclosure which looked relatively small. Some historians speculate it could be the origin of the castle for a local clan.

城周辺の地図~The map around the castle

1569年、甲斐(現在の山梨県)から武田信玄が北条の領地に侵入し、この城を攻撃しました。信玄は二の丸に迫りましたが、諦めて小田原の方に向かったと言われています。氏照は滝山城を守り切ったのです。
In 1569, Shingen Takeda from Kai Province (now Yamanashi Pref.) invaded Hojo’s territory and attacked the castle. It is said that Shingen approached Ninomaru, but gave up and transferred to Odawara. Ujiteru was successful in keeping Takiyama Castle.

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀~The portrait of Shingen Takeda, owned by Jimyo-in, in the 16th century(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

1584年前後、氏照は城下町ごと八王子城の方に移っていきました。この理由は歴史家によって分かれています。一つは、武田との戦いの結果から北条がより強い城を必要としたというものです。もう一つは、1578年に謙信が死に、1582年に武田が滅亡したので滝山城はもう必要なくなったというものです。
Around 1584, Ujiteru moved to Hachioji Castle with the castle town. Historians’ opinion about the reason remain divided. One is that Hojo needed a stronger castle than Takiyama because of the result of battle with Takeda. The other is that there would be no need for Takiyama Castle after Kenshin died in 1578, and Takeda was destructed in 1582.

二の丸周辺~Around Ninomaru

特徴~Features

城周辺の航空写真~The aerial photo of around the castle

現在、城跡は都立滝山公園という自然公園の一部になっています。木々、植物、そして花に囲まれたハイキングコースがあります。車かバスを使った場合には、三の丸と小宮曲輪に挟まれた通路から入っていきます。
Now, the ruins of the castle are inside of a nature park called Metropolitan Takiyama Park. There are hiking trails among trees, plants and flowers. When using cars or buses, you will enter one of the routes sandwiched Sannnomaru and Komiya enclosures.

駐車場かバス停からの通路~The route from the parking lot or the bus stop

このルートは狭く、美しい竹林の合間をまっすぐ登っていきます。
The route is narrow and straight up among a beautiful bamboo forest.

竹林に囲まれた通路~The route surrounded by the bamboo forest

城跡の入り口は折れ曲がっていて、かつては城全体を囲んでいた長い空堀が目に入ってきます。
The entrance of ruins is zigzagged and you can see a long dry moat that surrounded the whole castle area in the past.

城跡の入り口~The entrance of the castle ruins
城跡を囲む空堀~The dry moat surrounding the castle ruins

敵は、周りの曲輪による両側からの反撃を受けることになります。1569年の武田の攻撃によりこの辺りは占領されてしまったと言われています。
Enemies had to break counterattacks from both sides of the enclosures around. It is said that Takeda’s attack in 1569 was able to capture this area.

三の丸を見上げる~Looking up Sannomaru enclosure

道は左手に深い谷を見ながら進み、千畳敷と呼ばれる広場を過ぎ、防御の中心拠点二の丸に至ります。ここには馬出しと桝形の遺構があります。
The route goes on next to a deep valley on your left. Then, passing a wide area called Senjojiki, you will reach the defense center Ninomaru. There are the ruins of Umadashi and Masugata.

左手は深い谷です~The deep valley on the left
千畳敷~The area called Senjojiki
馬出し跡、正面~The ruins of Umadashi, the front side
馬出し跡、背面~The ruins of Umadashi, the back side
二の丸の中心地~The center of Ninomaru

その後、中の丸と本丸の間にかかった曳橋が見えてきます。
After that, you can see the restored movable bridge between Nakanomaru and Honmaru.

本丸と中の丸をつなぐ曳橋~The movable bridge between Honmaru and Nakanomaru
曳橋~The movable bridge
中の丸から見た橋~The bridge from Nakanomaru

中の丸からは多摩川周辺の風景を眺めることができます。
You can also see a view of around Tamagawa River from Nakanomaru.

中の丸~Nakanomaru enclosure
中の丸からの眺め~A view from Nakanomaru

最近の発掘により、本丸には桝形があり、その床には自然石が敷き詰めてあり、排水の仕組みもあったとのことです。
The recent excavation found that Honmaru had a Masugata gate on the floor covered with natural river stones, and a draining system.

本丸の桝形跡~The ruins of Honmaru Masugata gate
本丸の内部~The inside of Honmaru

その後~Later History

この城は、戦国時代のうちに放棄されました。そのため、当時の城の構造がよい状態で自然とともに残っているのです。城跡は、1951年に国の史跡にも指定されました。
The castle was abandoned during the Warring States Period. That’s why the structure of a castle at that time remains well with nature. The ruins were designated as a National Historic Site in 1951 as well.

曳橋からの風景~A view from the movable bridge

私の感想~My Impression

城跡となっている場所は、主に自然公園として使われています。小道を歩き回っている観光客の人たちがたくさんいます。歴史ファンというよりは自然愛好家という感じです。これも史跡を活用する一つのやり方と思います。また、この城が自然の地形をうまく活用して作られたとも言えるでしょう。
The site of the castle ruins is mainly used as a natural park. You can see many tourists walking around the trails. They look like nature lovers rather than history fans. I think this is one of the ways to use historical sites. It also proves the castle was built using natural terrain very well.

小宮曲輪から通路を見下ろす~Looking down the route from Komiya enclosure

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:中央自動車道の八王子ICから約15分かかります。国道411号(滝山街道)沿いに観光駐車場があります。
JR八王子駅または京王八王子駅からバスで行く場合:戸吹、秋川駅、または戸吹スポーツ公園入口行きバスに乗り、滝山城址下バス停で降りてください。
If you want to go there by car: It takes about 15 minutes from the Hachioji IC on Chuo Expressway. There is the parking lot for tourists along Route 411 (Takiyama Road).
If you want to go there by bus from JR Hachioji station or Keio-Hachioji station: Take the bus for Tobuki, Akikawa-eki or Tobuki-sports-koen-iriguchi and take off at the Takiyama-joshi-shita bus stop.

リンク、参考情報~Links and References

都立滝山公園・滝山城跡、八王子市~Hachioji City
よみがえる滝山城(Only Japanese)
・「関東の名城を歩く 南関東編/峰岸純夫、齋藤慎一編」吉川弘文館(Japanese Book)
・「歴史群像37号、戦国の堅城・滝山城」学研(Japanese Magazine)
・「越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館(Japanese illustrated book)