21.江戸城 その1

今回は、メジャー中のメジャーな将軍の城、江戸城です。江戸城といえば、今の皇居のことじゃないかと思われるかもしれませんが、実は相当大きかったのです。他の主要な城郭と比べても、日本最大級と言っていいでしょう。その歴史を追うだけでも大変そうなので、歴史編も2つに分けることにしました。今回は「建設の歴史編」として、太田道潅が最初に築いたと言われる地方城郭から、江戸幕府の権威を象徴し、現代の首都の礎となる最大級の城になるまでの歴史をご説明します。

立地と歴史(建設の歴史編)

Introduction

今回は、メジャー中のメジャーな将軍の城、江戸城です。江戸城といえば、今の皇居のことじゃないかと思われるかもしれませんが、実は相当大きかったのです。東京の中心部がほぼ入ってしまうくらいです。江戸城は大まかには、内堀の範囲の内郭と、外堀の範囲の外郭に分かれるのですが、それぞれ外周が約8km、約16kmもありました。他の主要な城郭と比べても、日本最大級と言っていいでしょう。その歴史を追うだけでも大変そうなので、歴史編も2つに分けることにしました。今回は「建設の歴史編」として、太田道潅が最初に築いたと言われる地方城郭から、江戸幕府の権威を象徴し、現代の首都の礎となる最大級の城になるまでの歴史をご説明します。

皇居になっている江戸城跡

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太田道灌による築城

江戸城の歴史に入る前に、中世の関東の地理的状況を確認したいと思います。中世までの関東地方は、現在と全く異なり、利根川・荒川・渡良瀬川などの大河が、直接江戸湾(現・東京湾)に注いでいました。現在の利根川などの流路は、水運・治水などのために、江戸時代に付け替えられたのです。現在の東京都の低地は、大河の流路または湿地帯になっていて、都市開発や交通には不向きな土地でした。例えば、古代に関東南部を通過する主な交通手段は、三浦半島から房総半島に舟で渡ることでした。

古代の関東平野の水脈、「水土の礎」ホームページより引用


源頼朝が挙兵し、一旦敗れた後に渡ったのも房総半島で、そこから盛り返して鎌倉に入る前に、太井(ふとい)、隅田の両河を渡ったという記録があります(下記補足1)。そのとき帰参した豪族の一人に江戸重長がいて、彼ら一族の館は、後の江戸城の辺りにあったという説があります。関東時代の戦国時代の幕開けとなった享徳の乱(1455年・享徳3年~)では、上杉氏勢・関東公方勢の境界線は利根川でした。その上杉氏(扇谷)の家宰(筆頭家老)だった太田道潅が、前線の重要拠点として築いたのが江戸城だったのです。それでは、公方側の重要拠点はどこだったかというと、国府台から関宿を結ぶラインでした。この辺りは丘陵地帯で、東北方面にも通じていたので、各戦国大名がその確保のために戦いました。北条氏と里見氏が戦った国府台合戦が有名です。

(補足1)
治承四年(1180)十月小二日辛巳。武衛は常胤、廣常等之舟檝于相乘り、太井、隅田兩河を濟る。淸兵三万餘騎に及び武藏國に赴く。豊嶋權守淸元、葛西三郎淸重等は最前に參上す。又、足立右馬允遠元は兼日命を受くるに依て、御迎の爲に參向すと云々。今日、武衛の御乳母で故八田武者宗綱の息女〔小山下野大掾政光の妻で寒河尼と号す〕鍾愛の末子を相具し、隅田宿に參向す。則ち御前に召し往時を談ぜ令め給ふ。彼の子息を以て、眤近の奉公を致さ令む可し之由を望み申す。仍て之を召し出し自ら首服を加へ給ひ、御烏帽子を取り之を授け給ふ。小山七郎宗朝と号す〔後に朝光と改む〕今年十四歳也と云々。(吾妻鏡)

太田道灌肖像画、大慈寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、江戸城周辺がどうだったかというと、これも現在と全然違っていました。後の城の中心地は、武蔵野台地の東端に当たりましたが、そこから江戸前島という小半島が突き出ていました。そしてその間には、日比谷入江(海)が入り込んでいました。現在の皇居外苑や日比谷公園のあたりです。そして、ここにも平川という川が直接流れ込んでいました。「江戸」という地名も、「江(入江)」の「戸(入口)」という説があり、この地形を反映しているのかもしれません。

江戸時代初期の江戸瑞定地図、国土交通省ホームページより引用

太田道潅がこの地に江戸城を築いたのは1457年(康正3年)とされていますが、このときの詳細はわかっていません。自然の要害である台地上の、江戸時代の本丸周辺(現在の皇居東御苑)に築かれたと推定されています。また、城を訪れた禅僧たちが残した詩からある程度様子をうかがい知ることができます。(「梅花無尽蔵」「寄題江戸城静勝軒詩序」など)それらによると、「子城(しじょう、本丸に相当)」「中城(ちゅうじょう)」「外城(がいじょう)」という曲輪があり、周りを切岸・(土)塁・水堀に囲まれていました。内部には、道灌の居館「静勝軒」とその背後に「閣」がありました。佐倉城の銅櫓は、この静勝軒を移築したものと伝わりますが、真実かどうか現存していないので何とも言えません。道潅が居館からの景色を詠った歌として「我が庵は、松原つづき海近く 富士の高嶺を軒場にぞ見る」というのが残っています。江戸城本丸東側には、道潅が梅の木を植えたことにちなむと言われる「梅林坂」や「汐見坂」がありますので、この辺からの景色だったかもしれません。

佐倉城銅櫓の古写真、現地説明パネルより
現在の汐見坂からの景色

また、城の東側には川が流れ、南の海に注ぎ、河口には橋がかかっていたそうです。その橋の付近には船が集まり、市が形成されていました。平川や、日比谷入江周辺のことだと思われます。城はやがて、関東地方の覇者となる北条氏の支城になりますが、基本的にこの姿が継承されたと考えられます。

徳川家康の「江戸御打入り」

1590年(天正18年)の小田原合戦の結果、徳川家康が関東地方に移封、そして本拠地として江戸城を選びます。小田原城に籠っていた北条氏が降伏したのが天正18年7月5日、家康の江戸入府は8月1日(八朔)と言われますが(公式日か)、7月下旬頃には一旦入城していました。家康は、旧領国(東海)に帰ることなく、小田原の陣から直接江戸に向かったのです。家康の新領国には、小田原も鎌倉もあるのに、なぜ江戸?ということですが、選んだ人から理由まで諸説あります。
・選んだ人(豊臣秀吉)
 景勝の地である(「徳川実紀」)
 家康を関東・東北の押さえとするため
 最強の大名、家康を中央から遠ざけるため(一般的?)
・選んだ人(徳川家康)
 水運の利点を考慮(「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」幕府編纂)
 富士山が見えるから(足利健亮氏)
 朝鮮出兵の負担を逃れるため
最近は、秀吉と家康が合議の上決めたという説もありますが、後から見れば大英断だったと言えるでしょう。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、家康入府時の江戸や江戸城の状態についても、北条時代にも開発が続いていたとも、さびれて寒村状態になっていたとも言われますが(下記補足2)、当時豊臣政権下では最大の大名となった家康の本拠地として不足だったのは確かでしょう。

(補足2)(城には)二の丸、三の丸、外郭にある家までそのまま残っていた。(中略)だが、ことのほか古い家屋だったため、本多佐渡守(さどのかみ / 正信)が『これは見苦しい』と言上したところ、(家康は)笑って家づくりにはかまわず、本丸と二の丸の間の堀を埋めて、城の普請を急いだ(「落穂集(おちぼしゆう)追加」)

そんな家康が、その時優先したのは、城の拡張ではなく、江戸・領国のインフラの整備でした。当時は天下人ではないので、大規模築城のために他の大名や技術者集団を動員できなかった事情もあったでしょう。家康はまず、江戸前島を横断する運河として「道三堀」を開削させました(1590年~)。続いて、行徳(現・千葉県)と結ぶ人工河川・小名木川を通しました。これは、塩を確保するためとされますが、それ以外にも、国府台から関宿につながる丘陵地帯を軍事的に掌握するためだったとの見解も出されています。関宿は、やがて利根川を銚子の方に付け替える大事業の重要地点にもなります。この時代からその構想があり、第一歩(1594年の会の川の締め切り)が始まったという見解があります。一方、水害対策の一環だったという意見もあります。

現在は大手町のオフィス街になっている道三堀跡

城の近くでは、飲料水の確保が重要な課題でした。江戸城は海辺に近く、質量ともに不足していたのです。そこで、城の西側の谷筋の湧水や小河川の水をせきとめ、「千鳥ヶ淵」「牛ヶ淵」を作りました(1592年頃~)。これが城の内堀の原型になります。それと並行して、城の曲輪としては、本丸に加えて、家康の隠居地ということで西の丸を増築しました。

千鳥ヶ淵

天下普請による城拡張

家康は、関ヶ原の戦いで勝利し、1603年(慶長8年)に征夷大将軍になると「天下人」として各大名を動員できるようになります。この動員により行われた大規模な築城などの工事を「天下普請」といいます。その対象は将軍の居城・江戸城も含まれました。江戸城の拡張が本格化するのです。

翌年(1604年)家康は、西国の外様大名などに、石垣築造のための石材の調達(約6万個相当)、それを運搬するための石船(3000艘)の建造を命じました。幕府も建造費として支出(金1192枚5両)しましたが、実態として大名たちの負担は大変なものでした。石1個は「百人持之石」で約4トンもあり、舟1艘で2個ずつ運べたそうです。運搬だけでも困難で、慶長11年5月26日には大風のため、鍋島家の120艘、加藤(喜明)家の46艘、黒田家の30艘が沈没したとの記録があります。
(判明している内訳)
・浅野幸長(和歌山藩) 385艘
・島津忠恒(薩摩藩) 300像
・黒田長政(福岡藩) 150艘
・尼崎又次郎(堺の豪商) 100艘

伊豆半島に残されている江戸築城石(licensed by GuchuanYanyi via Wikimedia Commons)

江戸城の第一次天下普請は、1606年(慶長11年)から翌年にかけて本格的に行われました。それとともに、大名屋敷などの敷地確保のため、日比谷入江が埋められていきました。残土処理、城を脅かす軍船の侵入を防ぐためでもありました。城については、本丸の強化が中心で、周りは石垣で固められ、天守台・天守(初代)・御殿などが建設されました。最近の研究(「江戸始図」の発見による)では、本丸の南側には5連続の枡形が備えられてたとされています。その他、二の丸・北の丸・西の丸(継続)の工事が行われました。また、日比谷入江に代わる運搬経路として、外堀が新設されました。付け替えられた平川(日本橋川)の延長線上に、江戸前島の尾根をなぞって掘られました。

かつて日比谷入江だった皇居外苑
本丸石垣
日本橋、この下を流れる日本橋川も人工の運河です

江戸城の天下普請は一段落しますが、他の城の天下普請はひたすら続きます。まだ健在であった大坂城の豊臣家に対する包囲網を形成するためと、豊臣に味方するかもしれない西国の外様大名の力を削ぐためです。主な天下普請を挙げてみます。
・彦根城(1603~1606年)
・篠山城(1603~1604年)
・名古屋城(1610年~)
・駿府城(1606~1611年)
・他に亀山城、膳所城など

彦根城
篠山城
駿府城
名古屋城

そうするうちに、江戸城第二次天下普請も始まりました(1611年、慶長16年)。このときは西の丸の堀と石垣の工事が中心でした。堀普請は東国大名、石垣は西国大名が中心でした。一旦中断しますが大坂包囲網が完成すると再開され(1614年)、本丸・二の丸・西の丸の強化、そして、以前日比谷入江だった西の丸下でも石垣工事が行われました。工事が行われた堀は、入江を埋め残したものと言われます。その普請の最中、大坂冬の陣が起こり、動員されていた大名たち(34家)は、そのまま徳川方として、戦に動員されることになったのです。つまりこの頃の江戸城天下普請は、必ずしもそれを最優先させていたわけではなく、大名をコントロールする政策の一環として行われていたと言えるでしょう。

西の丸の内堀(桜田濠)
西の丸下堀

日本一の城の完成

1615年(慶長20年)、幕府は豊臣氏を亡ぼしますが、まだまだ天下普請は続きました(下記は主なもの)。徳川の世を盤石にするための措置でした。なお、この頃から外様大名だけでなく、親藩や譜代大名も動員されるようになりました。天下普請の目的が徐々に変わってきたということでしょう。これらに比べると、まだ江戸城は控えめな状況だったのかもしれません。
・徳川家康逝去に伴う日光東照宮造営(1617年、このときの社殿は後に、世良田東照宮として移築)
・明石城築城(1619年)
・福山城築城(1619年~)
・大坂城再建(1620年~)
・他に尼崎城、高槻城修築、利根川東遷事業など

世良田東照宮
明石城
福山城
現・大阪城

江戸城の天下普請は、家康の跡を継いだ徳川秀忠により1620年(元和6年)に本格的に再開されました。このときは、伊達政宗・上杉景勝など主に東北地方の大名が動員されました。内容としては、主に内郭の北側の石垣や枡形門が整備されました。(清水門など、清水門の現存建物は1658年の再建)。1623年(元和9年)には、秀忠のためとも言えるような2代目天守も完成しました。これに合わせて本丸御殿も拡張されました。これをもって内郭部分が完成したとされています。また、外郭の整備も始まり、神田川が開削されました。伊達政宗の仙台藩が担当した部分は「仙台堀」と呼ばれています。直接的には平川の源流を、隅田川に放流されるためでした。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
清水門

今に残る内郭部分の航空写真

仙台堀

また、秀忠隠居後になりますが(大御所として実権)、1628年(寛永5年)には、その年に発生した地震による被害の修復と、枡形門の増築が行われました。この直後の江戸城の姿がいわゆる「寛永図(武州豊嶋郡江戸庄図)」として残されています。1632年、寛永9年に描かれたとされています。完成した江戸城中心部だけでなく、発展中の江戸の町の様子もわかります。例えば、日本橋・京橋を通る東海道や、以前江戸前島だった陸地の沖が埋め立てられて、広がっています。その間には、水路が張り巡らされています。

「寛永図(武州豊嶋郡江戸庄図)」(東京都立図書館蔵)

1632年(寛永9年)に秀忠が亡くなり、名実ともに権力者になった3代将軍・徳川家光は、1636年(寛永13年)に最大規模の天下普請を江戸城で行いました。合計120家もの大名が動員されました(下記内訳)。外郭、つまり総構を構築し、江戸城全体が完成させるときが来たのです。
・石垣築造組:6組62大名(中国・四国・九州が中心)
・外濠の掘り方工事組:7組58大名(東北・関東・北陸・信濃)

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

堀は、それまでに神田川が開通していましたので、その続きが掘られました。現在のJR四谷駅近くに跡がある「真田濠」は、この開削に真田信之が加わっていたことにちなみます。外郭の場合、ほとんどが土塁で、石垣は要所に設けられた枡形門に築かれました。現在も地名になっているものがあります。これだけ大きな総構を築いた理由として、城の中心を、当時の大砲の射程外に置くためだったという見解があります。ちょうど幕府が「鎖国政策」に向かっている時期でした。大規模な天下普請を通して、各大名を統制し、幕藩体制を確立するという意味もあったのでしょう。

真田濠跡(上智大学グラウンド)
江戸古地図上の外郭範囲(licensed by Tateita via Wikimedia Commons)

外郭(総構)が完成すると、翌年(1637年・寛永14年)には、空前絶後の新天守(寛永天守)の建設が始まります。次の年までには完成していたようです。これも江戸の城と町を描いた「江戸図屏風」は、家光の治世を顕彰するために作られたと言われています。そうであれば、この姿は、その完成した天守と江戸城ということになります。江戸城の天下普請は、この後、1660年(万治3年)の4代将軍・家綱の時代まで続くのですが、この記事は寛永天守の完成をもって終幕にしたいと思います。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示
「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)

「江戸城 その2」に続きます。

207.西方城 その1

藤田信吉という武将をご存じでしょうか。それほど有名ではありませんが、戦国時代に関東の大名家を渡り歩き、江戸時代初期には西方藩の藩主になった人物です。例えば、真田昌幸が沼田城を手に入れた時、関ヶ原前の会津征伐が始まる時など、戦国のターニングポイントで登場します。また、彼が藩主になったとき出会ったのが西方城です。もとは、現・栃木県栃木市に、宇都宮氏の一族・西方氏が築いた山城です。こちらもまだそれほど有名ではありませんが、技巧に富んだ造りをしています。今回は、隠れた猛将が出会った隠れた名城、として両方をご紹介します。

立地と歴史

Introduction

藤田信吉という武将をご存じでしょうか。それほど有名ではありませんが、戦国時代に関東の大名家を渡り歩き、江戸時代初期には西方藩の藩主になった人物です。例えば、真田昌幸が沼田城を手に入れた時、関ヶ原前の会津征伐が始まる時など、戦国のターニングポイントで登場します。そして、大坂の陣後に突然亡くなり、藩も改易になるなど、退場の有様も謎めいています。また、彼が藩主になったとき出会ったのが西方城です。もとは、現・栃木県栃木市に、宇都宮氏の一族・西方氏が築いた山城です。こちらもまだそれほど有名ではありませんが、技巧に富んだ造りをしています。信吉はその山麓に、二条城とも呼ばれる城館(陣屋)を築きました。今回は、隠れた猛将が出会った隠れた名城、として両方をご紹介します。

西方城跡、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より

藤田信吉の登場

藤田氏はもともと武蔵国北部(埼玉県)の有力領主(国衆)でした。戦国時代の中頃(16世紀前半)になると、北条氏が台頭し、関東地方の制覇を目指します。藤田氏は、関東管領・上杉氏の配下でしたが、河越城の戦いでの敗戦(1546年)をきっかけに北条氏になびくようになります。そのやり方は、当時の当主・藤田泰邦が、北条氏康の子・氏邦を婿養子として受け入れることでした。北条氏としては、実質その国衆の領地を手に入れることになります。氏邦は、北条氏領国の重要拠点・鉢形城城主にもなりました。

河越(川越)城跡(本丸御殿)

しかし1560年(永禄3年)に上杉謙信の関東侵攻が起こると、北条氏による支配は一時揺らぎます。そのとき氏邦が当てにしたのが、藤田氏の一族・用土氏で、その当主は、藤田康邦の甥の重連(しげつら)でした。重連は北条本家(氏政)にも信用され、謙信亡き後、北条が沼田城を手に入れたときには、その城代の一人にもなりました。

沼田城跡

ところが、1578年(天正3年)、重連が突然亡くなります。北関東統治を安定させた氏邦が、今度は用土氏の存在が邪魔になって、毒を盛ったと言われています。その重連の後釜に、北条本家が指名したのが弟の信吉(当時は新六郎)だったのです。つまり、北条氏内で食い違った思惑の中、重要なポジションを任されたのです(下記補足1)。

(補足1)此の沼田の城は重氏(氏邦)に降りしを、又重連に賜はること安からぬとて、頓て重連に毒すすめて殺しぬ。氏政、重ねて重連が弟弥六郎信吉して、兄が跡を継ぎて沼田の地を守らす。安房守重氏、いよいよ安からぬ事に思ひ、氏政、氏直父子に信吉が事さまざまに讒す。(「藩翰譜」)

ちょうどその時、沼田城を狙っていたのが、武田勝頼の家臣・真田昌幸でした。1580年(天正5年)、昌幸は調略の手を信吉に伸ばしました。信吉はそれまで北条方として真田と戦っていたのですが、一方で北条氏邦から命を狙われていたとも言われます。北条家臣出身の妻が亡くなり、人質に出していた藤田康邦の母も亡くなっていました。機会が訪れたと言えるのかもしれません。信吉は、昌幸に内応し、武田方の城・沼田城の城代になりました。そして藤田信吉と名乗り、北条氏に奪われた家名を、自ら復活させたのです。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

大名家を渡り歩きついに独立大名に

信吉は武田方の武将として、北条からの攻撃をよく防ぎました(沼田平八郎によるものなど)。しかし今度は、武田氏の滅亡・本能寺の変による混乱に巻き込まれます。沼田城は一旦、織田方の滝川益重(滝川一益の城代)のものとなり、信吉は他の城に退きました。滝川氏が本能寺の変を聞き、兵を引き上げるとき、信吉は沼田城での独立を目論見ます。ところが、滝川は城を真田昌幸に返したため、信吉は行き場を失ってしまったのです。信吉は城を奪回しようとしますが果たせず、落ち延びました。その行先は、越後(現・新潟県)の上杉景勝でした。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信吉の武名はよく知られていましたので、景勝は喜んで信吉を迎えました。その頃上杉家は内乱(御館の乱)の直後で、人材不足に陥っていました。また、当時の信吉の妻が海野竜宝(武田信玄の子)の娘で、景勝の正室が竜宝の妹だったという縁故もありました。1582年(天正10年)の放生橋の戦い(対新発田重家)で、信吉は景勝の窮地を救うという活躍をし、重臣に抜擢されました(下記補足2)。信吉もその期待に応え、越後国内外の平定(新発田重家の反乱鎮圧など)に貢献しました。1590年(天正18年)豊臣秀吉による北条氏攻めが起こると、信吉は上杉部隊として出陣しました。そしてかつての主君、北条氏邦がこもる鉢形城攻撃に加わったのです。1ヶ月の籠城戦の後、氏邦は降伏しますが、信吉はかつてのいきさつにも関わらす、氏邦の助命嘆願をしたとも言われます(「埼玉人物事典」)。氏邦は、城攻めの大将だった前田利家のもと(金沢)で亡くなる(1597年)まで過ごしました。信吉は信吉なりに、信義を尽くしたのです。

(補足2)同(天正十年)十月廿七日、新発田の城の戦に、首八十六切つて参らす。景勝、大きに感じ、此の年十二月、長島の城を賜り、藤田が手の者二百五十騎、寄騎の侍五十人、都合三百騎の大将に成れてけり。(「藩翰譜」)

鉢形城跡

上杉はその後会津に転封となりましたが、その時代のハイライトは会津征伐でしょう。秀吉没後は、家康が最強の実力者となり、政権基盤を固めようとしました。例えば、前田利家が亡くなった後、その跡継ぎ・利長を勢力下に収めました。前田としても、後に「加賀百万石」が定まる大きな分岐点でした。1600年、慶長5年の正月、信吉は景勝の名代で上洛しました。信吉はこのとき、上方の状況を見て、上杉家存続のためには家康との融和が必要と考えたはずです。折しも、上杉は領国での新城などの建設、旧領国からの年貢持ち去り問題などがあり、謀反を疑われていたのです。信吉は、帰国すると景勝に対して、上洛して家康に申し開きをするよう説得しました。もしここで景勝が上洛していたら「会津120万石」と今でも言われていたかもしれません。しかし「直江状」で有名な直江兼続を筆頭に、家中は反家康に傾いていました。最近の研究では、景勝自身も家康に強硬な態度をとっていたと言われます。つまり信吉は、上杉家中の「家康に買収され内通している」として完全に孤立してしまったのです。この年の3月、信吉は出奔しました。その行先は、徳川でした(下記補足3)。

(補足3)かかる所に景勝、石田治部少輔三成等と言い合はせたる旨あって、東西に分かれて一時に軍起こさんとす。信吉、是を強ちに諫めしに、直江兼続が為に讒せられて誅せらるべしと聞こゆ。信吉、大きに恨みて、おのが家に二心あらざる由の起請文書きて残し置き、慶長五年三月十三日、会津を去りて都に登り、大徳寺に籠り居て入道し、源心とぞ号しける。(「藩翰譜」)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このとき信吉は、江戸で、家康の跡継ぎ・秀忠に、上杉を讒言し、会津征伐のきっかけを作ったという見解もありました。しかし形勢が固まっていたとするならば、状況を報告しただけなのかもしれません。家康は信吉に、会津への道案内をするよう依頼したとも言われますが、信吉は剃髪、「源心」と号して、京都・大徳寺に蟄居しました。関ヶ原後、家康は信吉を召し出し、下野国西方に1万5千石の領地を与えました。ついに、独立大名の地位を得ることになったのです。

西方城の築城と発展

西方城は、伝承によれば、宇都宮氏の一族・西方景泰が、鎌倉時代後期に築いたとされます(江戸時代に編さんされた「西方記録」)。しかし最近の研究よると、同じ宇都宮氏の一族で、西方宗泰という人物が、室町時代に京都から下野にやってきた以降のこととのことです。確実な史料に西方城の名が初めて現れるのは、戦国時代(1573年、天正元年)になります。

城の位置

戦国時代の下野国は総じて、宇都宮城を本拠地とする宇都宮氏の勢力が強かったのですが、国内を統一していたわけではなく、那須氏・小山氏・結城氏・佐野氏らによっても分割されていました。西方城の周りにも、壬生氏・皆川氏がいて、敵にも味方にもなりうる存在だったので、西方城は、宇都宮氏グループの西側の飛び地のようになっていたのです。実際、皆川氏との抗争の場でもあったと言われます(戦国中盤または後半の時期)。やがて、戦国時代後半(16世紀後半)になると、北条氏が南から勢力を伸ばしてきました。佐野氏、小山氏、皆川氏、壬生氏は、北条の傘下となりました。宇都宮氏の当主・宇都宮国綱は、本拠を山城の多気城に移し、北条氏の侵攻に備えました。西方城も、このような状況下で、境目の城として防御態勢が強化されたと考えられます。

復元された宇都宮城
多気城跡

そのころの西方城は山城として築かれ、峰の上には曲輪群があり、それぞれが深い堀で区切られていました。敵の攻撃を防ぐため、土塁・堀・切岸を複雑に組み合わせ、敵の側面に攻撃(横矢)できるようにしました。城への入口は、枡形虎口を多く使っていて、厳重に守られていました。自然の地形を生かしながら、巧みに加工して、攻めにくいように築き上げたのです。

城の地形図(赤色立体地図)、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より
山城の二の丸虎口

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、下野国には、家康の子・結城秀康の領地(本拠は下総国、10万石)の一部が設定されました。西方城も、その中に含まれたのです。その時代の城の状況はわかっていません。一時廃城になったとも、その時期に山麓に城館が築かれたとも言われています。

小田原合戦後の下野国分割状況、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より

関ヶ原後、結城秀康は、越前北ノ庄68万石の大大名になり、その後釜の一人として藤田信吉が入ってきたのです。彼は、山麓に陣屋(藩庁)を置いたとされます。この部分は現在「二条城」とも呼ばれていて、京都の二条城を連想してしまいますが、新しい城という意味で「にいじょう(新城)」がなまったものと言われます。山城部分は、普段は使わなくも、何か事があったときには、山麓と連携して使ったとしてもおかしくありません。信吉は城下町も整備し、その名残として、そのときに由来を持つ神社や寺が残っています。

山麓の「二条城」跡
信吉が創建したと伝わる愛宕神社(鞘堂内)

信吉と西方城の最期

藤田信義と西方城の最期は、思いがけずやってきます。そのきっかけは、1615年の大坂夏の陣の時です。信吉は、榊原康勝の軍監として出陣しました。しかし、慶長20年5月6日の若江の合戦で失態を犯してしまうのです。この合戦で幕府軍は、大坂方の木村重成隊などと戦いました。その直前に、木村隊の一部が、小笠原秀政隊に近づいてきたときに、となりにいた榊原隊がともに戦おうとしましたが、信吉がそれを止めたのです。敵の後ろに伏兵が控えていると思ったからです。(下記補足4)しかし実際には伏兵はいなくて、両部隊は戦機を逸したのです(榊原隊は合戦後半に参戦)。小笠原秀政は、将軍・徳川秀忠から叱責を受けました(信吉が弁明)。翌日の天王寺口の戦いでは、両部隊と信吉は、遮二無二戦いました。大坂の陣終結となる日です。小笠原秀政は戦没、榊原康勝は無理な戦がたたって病没、信吉も重傷を負いました。幕府方にもこんな犠牲があったのです。特に榊原康勝の件は、徳川四天王・康政の跡取りだったので重大視され、戦後、信吉は徳川家康から直接尋問されました。信吉は自分の責任を認めつつ、経緯を説明しました。その場の処分はなかったものの、信吉自身の戦傷が重くなり、1616年(元和2年)療養の途上、信濃国奈良井の長泉寺で亡くなりました(59歳)。信吉には跡継ぎがいなかったので、大名としても改易になってしまったのです(下記補足5)。信吉は、長泉寺の住職に、代々「藤田」を名乗るよう遺言していますので、亡くなるまで家名にこだわっていたのではないでしょうか。

(補足4)其合戦場敵備の後に、誉田八幡の森続、森の茂深し。伏奸あるべき地なり。天下の大軍を引請け、御威風にも恐れず、城より出でゝ備を立て、蹈忍へて引入れざるは事は、武術あるべき儀なるに、敵の備唯一重なり、是は伏兵を秘し、東の大軍追来る時、其乱立ちたる中へ、伏を起し討入るべしと考え申候。其時、館林の備を進め、横合に敵を討ち、勝利を得べしと存じ、此理を遠江守へ申談じ控へさせ候所、案に相違仕り、敵伏兵も無く、総崩れ仕り候。(「管窺武鑑」で信吉が徳川家康の尋問に答える場面)

(補足5)元和二年七月十四日、五十九歳にて卒し、男子なければ家たえたり(「藩翰譜」)

大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西方・実相寺にある信吉墓(中央)

ところで、藤田氏の改易には異説があります。信吉の夏の陣での失態が直接の原因であるというもの(下記補足6)と、信吉の失言説もあります(下記補足7)。確かに失態により改易の方が理解されやすいとも思えます。現時点では、失態説の方が一般的のようです。

(補足6)大阪ノ役、指揮ヲ失フヲ以テ封除セラル(「徳川除封録」)

(補足7)大坂より御帰陣之日、能登守信吉言上奉り、「実に易く落城致し候」と祝い申し上げ、御機嫌に背き、面目を無くして高野山へ遁世(「西方記録」)

また、信吉の亡くなり方にも異説があって、自ら命を絶ったとするもの(補足8)、殺害説まであります(下記補足9)。失態→改易→自害というのが、聞き手にはドラマティックに思えてしまうのでしょう。早くに改易されて、家としても残らなかったで、いろんな話が作られたのでしょう。藤田信吉、謎と波乱に満ちた武将の人生でした。

(補足8)六日の戦に小笠原、榊原手に逢わざる事後に御せんさくに付き、小笠原事藤田差図のより申上げて藤田ついに信州へ流罪、これを憤って自殺す(「新編武家事紀」)

(補足9)三太郎(北条氏邦旧臣の諏訪部定吉)。越前中納言秀康卿に仕え、のち伏見に於て藤田能登守某を殺害して自殺す(「寛政重修諸家譜」)

西方藩廃藩に伴い、西方城も廃城になりました。そして。長い眠りにつくとことになったのです。城下町のあった辺りは、日光例幣使街道の宿場の一つ(金崎宿)になりました。西方藩廃藩に伴い、西方城も廃城になりました。そして。長い眠りにつくとことになったのです。城下町のあった辺りは、日光例幣使街道の宿場の一つ(金崎宿)になりました。

「西方城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

27.上田城 その1

上田城を築いた真田昌幸は、真田幸隆の三男として生まれました。昌幸は、当初信玄に近臣として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たちが討たれると、真田家を継ぎました。

立地と歴史

上田城築城と第一次上田合戦

上田城を築いた真田昌幸(生年:1547年〜没年:1611年)は、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれました。父親の幸隆は、信濃国真田郷の小豪族でしたが、武田信玄に仕え、重臣の一人となりました。特に調略を得意とし、後半生は武田氏の西上野での領土拡大に貢献しました(岩櫃城など)。昌幸は、当初信玄に近臣(武藤喜兵衛と名乗っていた)として仕え、信玄・幸隆が亡くなり、長篠の戦いで兄たち(信綱・昌輝)が討たれると、真田家を継ぎました。昌幸は、西上野の攻略を進め、1579年(天正7年)には沼田城を落としました。この城が、後の真田氏による領土経営のキースポットになります。彼は武田氏の一部将でしたが、一定程度の領土経営権を与えられていたと言われています。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

やがて主君の武田氏が滅亡し、武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺の変で討たれると、旧武田領(甲斐・信濃・西上野)は空白地帯となり、周辺有力大名(徳川・北条・上杉)による争奪戦が起こります(1982年(天正10年)の天正壬午の乱)。上田周辺から沼田までの一帯を勢力圏としていた昌幸は、有利な条件(領土維持)を求め、上杉→北条→徳川と、次々に傘下となる大名を変えていきます。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時、昌幸は山城の砥石城(またはその周辺の館)を本拠にしていたと考えられますが、徳川傘下にいたときに築いたのが上田城でした。上田の地は、徳川・上杉勢力圏の境目にあたり、街道(上州街道・北国街道)と千曲川が交わる地点で、徳川方として確保が必要な場所でした。つまりこの城は、徳川方が上杉方に対抗するために築かれたのです。従って、築城にあたっては、徳川方の全面支援があったと考えられています。平地での築城なので、上杉方からの妨害も受けやすく、築城時の安全確保の必要もありました(下記補足1)。

(補足1)海津よりの注進の如くんば、真田、海士淵(あまがふち)取り立つるの由に候条、追い払ふべきの由、何れへも申し遣はし候(天正十一年四月十三日島津左京亮宛上杉景勝書状「上杉年譜」)

戸石城跡

平地の城であっても、自然の要害を生かして築かれました。城の南側は、千曲川の支流が流れ「尼ヶ淵」と呼ばれていて、切り立った崖になっていました。北や西から攻めてくる上杉方に対して、後ろ堅固の城であったと言えます。その北側と西側は、川(矢出沢川・蛭沢川)の流路を変え、元の流路を堀に活用し、新流路を惣堀として、備えとしました。城の中心部分は、かつて他の豪族(小泉氏)の城館として使われていた微高地を利用し、西から小泉曲輪・本丸・二の丸を並べました(梯郭式)。更に東側は沼沢地でしたが、その合間に昌幸や一族の屋敷地(中屋敷、常田屋敷、玄三屋敷)が作られました。築城は、1583年(天正11年)に始まり、2年後に完成したとされています。その頃の城の姿を表すとされる絵図(「天正年間上田古図」)が残されています。

城の南側の崖部分(かつての尼ヶ淵)
惣堀として使われた現在の矢出沢川
堀の一つ、百間堀跡
「天正年間上田古図」、上田市立博物館にて展示

ところが、昌幸は城が完成した時期に、徳川方から上杉方に鞍替えをします。これは、徳川家康が北条氏との和睦の条件として、上野国を北条の領国として認めたことによります。これは真田が沼田を失うことを意味していました。替地も明確でなかったようです(諸説あり)。昌幸はこれを拒否しました(下記補足2)。並みの地方領主だったら飲んだのでしょうが、昌幸は自分が切り取った領土にこだわったのです。上杉の支援があるとはいえ、北条(沼田への攻撃)・徳川双方を敵に回す決断でした。(ただし、上杉のバックにいた豊臣秀吉の存在を考慮したという指摘もあります)家康は激怒し、真田討伐を命じました(下記補足3)。これが第一次上田合戦です(天正13年7月〜11月)。

(補足2)
三河物語
ぬまた(沼田)を小田原(北条)へ渡せと仰せになったところ、さなだ(真田昌幸)は、ぬまたの城は上様よりいただいたものではなく、我らの手柄で取り立取った城なので筋違いの話です(訳:代替案のための弁証法的空間)

(補足3)敵幸ひの所へ引き出し候はば、この度根切り緊要に候(八月二十日徳川家康書状、「宮下家文書」)

沼田城跡

鳥居元忠、大久保忠世らに率いられた約7千の徳川勢に対し、真田勢はわずか約2000人でした。しかも、上田城は対上杉用に築かれた城なので、東側(甲斐)から攻めてくる敵(徳川勢)は想定外でした。そのとき昌幸がとった戦術は、少ない兵を更に分散させて配置することでした。昌幸本人は上田城に、長男の信之(当時は「信幸」)は砥石城に、残りを他の城や伏兵として布陣したのです。そして、敵の正面(東側)に対する防御(神川・染谷城)を事実上放棄し、わざと攻めやすくさせたのです。徳川勢は、数は多いが寄せ集めで、真田勢を見下していたとも言われています。城の東側の神川を越え、中間の沼沢地や障害物(千鳥掛け柵)を通り、一気に二の丸まで攻め寄せました。勢いで敵の統制が緩む隙をついて、真田勢は反撃に移り、砥石城の部隊も加わりました。徳川勢は退却しますが、真田勢の追撃を受け、神川付近で多くの兵士を失いました(1300人、下記補足4)。その後、徳川勢は攻め口を変えますが、戦線が膠着し、ついには撤退しました。この戦いは、真田の独立大名として道を開くとともに、その名を天下に知らしめました。昌幸だからこそできた離れ業と言えるでしょう。

(補足4)
沼田城重臣宛信幸返書
芳札披見、仍従遠州出張候間、去二日於国分寺遂一戦
千三百余討捕備存分に候、然者南衆(北条方)其表可相働候、
於然堅固之備憑入候 恐々謹言
閏八月十二日    真田源三郎  信幸 判
 下豊(下沼田豊前守)、恩伊(恩田伊賀守)、木甚、恩越、發参
去る二日国分寺において一戦を遂げ、千三百余り討ち取り、備へ存分に任せ候
芳しい書状を拝見した 遠州より徳川勢が攻めて来たが、去る2日国分寺に於いて一戦し、1300人余り討ち取り備えは十分である。そこで、北条方がそちらに攻めて来るに違いないので、堅固の備えを頼み入る(「恩田家文書」、訳:おぎはらの洋ラン日記)

上田城二の丸
神川

豊臣大名の城に、そして第二次上田合戦

その後、昌幸が選んだ道は、豊臣秀吉への服従でした。秀吉は昌幸を「表裏比興の者(表と裏を使い分けるくせもの)」と呼び、一時討伐を決意しましたが許しました(下記補足5)。昌幸は、家康の与力大名となりますが、家康もまた、信幸を重臣の本多忠勝の娘(小松姫、形式上は家康の養女)の婿としたのです。こうして真田は豊臣政権下の大名となったのです。秀吉の天下統一の過程で、一時沼田城は北条のものとなりますが、小田原合戦の結果、真田の下に戻ってきました。

(補足5)
真田の事、先度この方において仰せ出し候如く、表裏比興の者に候間、成敗を加へらるべき旨仰せ出され候間、定めて家康人数相動くべく候条、その方より一切に見続等これあるまじきの由に候。(八月三日上杉景勝宛増田長盛・石田三成書状「上杉家記」)

天正十四年(一五八六)十一月二十一日付 真田昌幸宛羽柴秀吉書状(真田宝物館蔵)其の方事、家康存分これ有りと雖(いえど)も、此方(こなた)に於いて直(じき)に仰せ聞けられ候。殿下も曲事に思し召し候と雖も、此の度の儀は相免ぜられ候条、其の意を成し、早々罷り上るべく候。猶、様子仰せ含めらるべく候。委細尾藤左衛門尉申すべく候也。
   十一月二十一日(朱印)(羽柴秀吉)
     真田安房守とのへ
家康がお前を恨んでいる件については、自分から直接言い聞かせてやった、自分もけしからぬことだとは思うが、今度だけは許してやるので上洛するように(訳:秀吉と真田)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田城は豊臣大名の城として、改修が進められました。第一次上田合戦のときには「殿守(天守)も無き小城」であったとされていますが、この改修で天守が建てられたのではないかとも言われています。現在の本丸堀などから、金箔瓦や鯱瓦が発掘されています。近隣で同様のものが使われた松本城・高島城・小諸城には天守がありました。また、江戸時代に作られた城の絵図(「上田城構之図」)には「御天守跡」という記載があります。一方で、金箔瓦は本丸以外(二の丸や小泉曲輪)でも発見されているので、天守以外で使われていたともいえます。また、天守があった可能性がある本丸北西隅には、天守台石垣の痕跡がないことから、否定する向きもあります。天守があったとしても、三層程度だったであろうという意見もあります。いずれにせよ、初期とは全く違う豪華な櫓や門を備えた城になっていたとは言えるでしょう。

発掘された金箔瓦の一つ、上田市立博物館にて展示
松本城
高島城
小諸城跡の天守台石垣
「御天守跡」の記載がある古地図「上田城構之図」部分、協力:上田市マルチメディア情報センター

また、弱点だった東側については、三の丸や大手門が整備され、城下町に寺町を作り、防御を固めたと考えられています。

三の丸の大手門跡
集められた寺の一つ、月窓寺

そして秀吉が亡くなると、運命の天下分け目の戦い(1600年(慶長5年))を迎えます。真田勢は当初、家康の上杉征伐に加わるべく行動していましたが、西軍奉行からの家康弾劾の書状(下記補足6)を受け取り、昌幸・次男の信繁(幸村)は西軍に、信幸は東軍に味方(下記補足7)することにしたのです(犬伏の別れ)。これは、個々の立場に基づくものとも言えますが、昌幸がこれまで見てきた大名家の存亡から、真田家を残すための決断であったと思われます。

(補足6)
慶長五年(一六〇〇)七月十七日付 真田昌幸宛長束正家等連署状
 急度(きっと)申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出馬候間、各(おのおの)申し談じ、楯鉾(たてほこ)に及び候。内府公(家康)御違ひの条々別紙に相見え候。此の旨尤もと思し召し、大閤様御恩賞を相忘られず候はば、秀頼様へ御忠節有るべく候。恐々謹言。
   七月十七日 長大(長束大蔵大輔)正家(花押)
         増右(増田右衛門尉)長盛(花押)
         徳善(前田徳善院) 玄以(黒印)
     真田安房守殿 御宿所

(補足7)
慶長五年(一六〇〇)七月二十四日 真田信幸宛徳川家康書状(真田宝物館蔵)
今度安房守(あわのかみ)(昌幸)罷り帰られ候処、日比(ひごろ)の儀を相違(たが)へず、立たれ候事寄特千万に候。猶本多佐渡守(正信)申すべく候間、具(つぶさ)にする能はず候。恐々謹言。
   七月二十四日 家康(花押)
     真田伊豆守殿

「犬伏密談図」、協力:上田市立博物館

石田三成らの西軍決起を知った家康以下東軍は、上杉征伐から引き返し、西に向かいました。その内、家康の跡継ぎ・秀忠率いる3万8千の徳川本体は、中山道を進みました(下記補足8)。その途上で、昌幸のこもる上田城を攻略することにしました。周辺で唯一西軍に組している有力大名だったからです。3千名程度といわれる上田勢は、今度は時間稼ぎの戦術に出ました。

(補足8)いよいよ真田安房守敵対申す由、中納言(秀忠)追々進発せしめ候。その方落ち度無き様、取り合ひの儀頼み入り候。もし大敵に及び候はば、この方へ注進これあるべく候。出馬、即時に踏みつぶし申すべく候(八月十三日仙石久秀宛徳川家康書状、「改撰仙石家譜」)

(慶長5年)
9月2日:秀忠、小諸城に到着(「但馬出石仙石家譜」)
9月3日:昌幸、信幸を通して秀忠に助命を嘆願(「佐竹家文書」)
9月4日:昌幸が降参しないので、秀忠が染屋台に本陣を進め、信幸の軍が、信繁が籠る砥石城に攻撃に向かう
9月5日:信繁が上田城に撤収、昌幸は降伏勧告に応じず
9月6日:徳川軍が稲の刈り取りをしようとしたところ、阻止する城兵と戦闘となり、大手門まで追うが、命令により撤収
     (「寛永諸家家系図伝」など徳川方史料)
9月8日:秀忠に、家康からの上洛命令が届く(下記補足9)
9月11日:秀忠、小諸城から出発(下記補足10)

(補足9)
わざわざ使者を以って申し入れ候、よって内府より急ぎ上洛せしむべき由申し越され候間、先ず先ず明日小諸まで罷り越し候。
その表万事油断なきの様、いよいよ仰せ付けられるべきの儀、肝要に存じ候。
なほ口上に申し含め候の条、詳にする能わず候。
恐々謹言。
         江戸中納言 秀忠御判
九月八日 羽柴右近殿 御陣所
(森家先代実録、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

(補足10)一書令啓上候、然者、黄門様(秀忠)十一日ニ小諸を御出、
九月廿三日 青常陸介 内修理亮 酒右京太夫
石田様
(堀文書、信濃史料巻十八、長野県立歴史館アーカイブより)

9月6日に戦闘がありましたが、小競り合いだったという説や、徳川方がまた大損害を受けたという説もあり、はっきりしません。
明確に言えるのは、
・秀忠軍は約10日間を費やしたが、上田城を攻略できなかった。
・総攻撃を行わず、家康の指示により関ヶ原に向かった。
・結果的に9月15日の関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

昌幸は、秀忠軍の足止めに成功したのです。しかし、関ヶ原ではわずか一日の戦いで東軍が西軍に勝利し、まもなく上田城は接収されました。信幸などによる助命嘆願の結果、昌幸・信繁は、一命を取り留め、紀伊国九度山に配流となります。昌幸は、いつか罪を許されることを期待していましたが、11年後に亡くなりました。信繁がその後、大坂の陣で活躍することは余りにも有名です。

真田信繫肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

上田は信幸の領地となりましたが、城は破却され、中心部は埋められました。信幸は、三の丸の屋敷で政務を執っていたのです。大坂の陣後の1622年(元和8年)には、松代城へ加増転封になりました。

真田信之肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
松代譲
「元和年間上田城図」、上田市立博物館にて展示

仙石忠政による上田城復興

廃城同然となっていた上田城を復興したのは、真田信之に代わって藩主となった、仙石忠政(生年:1578年〜没年:1628年)でした。彼はそれまで小諸藩主で、第二次上田合戦のときには父親の仙石久秀とともに参陣していました。久秀は、信長・秀吉に仕えた武将で、家紋は信長より拝領したものと言われています。忠政は久秀の三男でしたが、長男(久忠)は検校(盲目)、次男(久範)は関ヶ原で西軍に加わったため、跡継ぎとなりました。忠政は1622年(元和8年)に藩主となり、1626年(寛永3年)から幕府の許可を得て、上田城の復興に取りかかります。このときの将軍は家光でしたが、秀忠も大御所として健在でした。忠政を移したときに将軍だった秀忠は、修理料として銀子を与えたと言われています(補足11)。自らを含め二度も徳川軍を退けた上田城を、どのように見ていたのでしょうか。

(補足11)上田城は先年破却せしままなれば、修理の料として銀子二百貫目を賜うべし、心のままに修理すべき旨、懇の命(「改撰仙石家譜」)

仙石忠政肖像画、上田市立博物館蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

忠政は、家臣に復興工事に関する細かい指示書を出していて、復興への熱意を感じさせます。それによると、真田時代の城の姿の復元を目指していたことが伺えます(下記補足12)。埋められた堀を、掘り返していることから、少なくともレイアウトは真田時代を踏襲したと考えられます。現在、門や櫓のところに残る石垣は、そのときに築かれましたが、一部の古い形式の石垣は、真田時代のものか、その時代の石を転用した可能性があります。

(補足12)なわばりの時、古城の堀にゆがみがあるときには堀の両側を掘って直にせよ(「寛永三年仙石忠政築城覚書」、訳は「信濃上田城」による)

忠政が築造した二の丸北虎口石垣
真田時代に遡る可能性がある本丸西虎口土橋下南石垣

そして本丸には、天守はないものの、七つの櫓と、二つの櫓門を建設しました(内部の御殿はなし)。二の丸などにも建物を建てる計画でしたが、工事開始から2年後に忠政が亡くなり中断されました。以後、基本的な城の構造は、忠政が復興したものが引き継がれました。復興後の姿が、信州上田城絵図(正保城絵図)として残されています。現在の残る城跡の基にもなっています。中断したとはいえ、わずか2年で城を復興した忠政にとって、上田城はどういう存在だったのでしょうか。

「信濃国上田城絵図」部分、出展:国立公文書館

仙石氏は3代84年間、上田を統治しました。

藤井松平氏による統治

1706年(宝永3年)但馬出石藩主の松平忠周(ただちか)が、仙石氏と交代で上田藩主になりました。この家系は藤井松平氏と呼ばれていて、家康以前からの松平一族でした(いわゆる「十八松平」の一つ)。忠周は当時、将軍徳川綱吉に側用人として仕えていました。幕府中枢にいたため、より江戸に近い領地に転封になったと見られています。彼は、徳川吉宗政権でも老中を務めました。藤井松平氏は基本的に、仙石氏が復興した上田城や藩の仕組みを維持しました。

松平忠周所用具足、上田市立博物館にて展示

しかし、この時代の上田城の敵は天災(洪水、地震、大火)でした。特に、忠周の子の忠愛(ただざね)の代には、1732年(享保17年)の千曲川洪水により、城の南の崖が大きく崩壊しました。その後4年をかけて、石垣の修築・造成が行われました。主にこの時に築かれた崖を覆う石垣は、現在目にすることができます。以降、経年劣化や大雨により破損した石垣の修理が幕末まで6回行われました(幕府への届出記録による)。

尼ヶ淵に面する石垣

藤井松平家の藩主の中から、幕末に活躍した松平忠固(ただかた)を紹介したいと思います(生年:1812年~没年:1859年)。幕末の政治家の中では有名な方ではありませんが、日本の開国に尽くした人物の一人です。藩主になったとき(1830年)上田で凶作が続き、対策として養蚕を奨励したのが後の開国政策につながったのかもしれません。ペリーが来航した時老中になっていた忠固は、当初より開国だけでなく、通商開始も主張し、徳川斉昭と渡り合いました。また、アメリカの総領事ハリスと通商条約の交渉を行ったときに、忠固は、堀田正睦に次ぐ次席の老中でした(正睦が首相兼外務大臣とすれば、忠固は財務大臣)。条約調印のときも、勅許が必要とする正睦や井伊直弼に対し、必要なしと主張していました。彼には開国・通商が日本の国益になると確信していたのです(補足13)。条約が調印されると、直弼により、正睦とともに罷免されてしまいますが(1858年)、翌年に亡くなるまで上田の物産(生糸など)輸出の準備のために働いていました。

(補足13)交易は世界の通道なり、決して忌むべきの事にあらず、寧ろ之を盛んにするを要す、即ち皇国の前途亦宜しく交易に依りて大に隆盛を図るべきなり。(忠固の言葉とされるもの、「日本を開国させた男、松平忠固」より)

松平忠固所用具足、上田市立博物館にて展示

その後

明治維新後、上田城は廃城となり、城の建物と土地は競売にかけられました。その結果、城地の多くは桑園や麦畑になったそうです。そこに現れたのが地元の豪商・丸山平八郎でした。彼は材木・生糸などで富を築いていて、本丸部分を買い上げ、最後の城主だった松平氏を祀る松平神社の用地として寄付しました。その後この神社には、真田氏や仙石氏も合祀され、現在の真田神社になっています。また二の丸部分には、刑務所や伝染病院があった時期がありましたが、上田市が買い上げ、城跡全体が公園として活用され、国史跡にも指定されました(1934年、昭和9年)。建物については、城に唯一残っていたが西櫓でした。他の櫓のうち、北櫓・南櫓は遊郭で使われていましたが、転売されそうになり、それを憂えた地元の人たちが買い戻し、原位置に移築復元しました(1949年、昭和24年)。両櫓をつなぐ本丸東虎口櫓門は1994年(平成6「年)に復元されました。現在上田市では、本丸にあった7つの櫓全てを元通りに再建することを目指して活動しています。

真田神社
現存する西櫓
現存する南櫓・北櫓と、その間の復元された本丸東虎口櫓門
7つの櫓が揃った上田城本丸の模型、上田市立博物館にて展示

「上田城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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