58.明石城 その1

幕府統治安定のための城

立地と歴史

陸上海上交通の結節点

明石市は、瀬戸内海に沿った兵庫県南部にあります。近畿地方と中国地方を結ぶ、陸上交通の重要地点です。この地域はまた淡路島と四国に近く、過去には人々はここから船に乗って島の方に渡っていきました。現在では明石海峡大橋を渡って行くことができます。

城の位置

明石海峡大橋 (licensed by Tysto via Wikimedia Commons)

西日本の大名を監視するために築城

1615年、徳川幕府は最大の敵対者であった豊臣氏を滅ぼしました。また、他の大名にはその大名が住んでいる一つの城しか持ってはいけない旨を命令しました(一国一城令)。幕府の統治は安定しましたが、決して満足しませんでした。将軍である徳川秀忠は、譜代大名の一人、小笠原忠真に明石地域周辺に新しい城を築くよう命じました。

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小笠原忠真肖像画、福聚寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その城の目的は、幕府に反抗するかもしれない西日本の外様大名を監視することでした。姫路城が既にその目的のために存在していましたが、幕府はそれだけでは不十分と考えたのです。その新しい城は「明石城」と名付けられました。明石城は、丘陵地帯の端や平坦地といった自然の地形を生かして築かれました。北側の丘陵地帯には、本丸や二の丸といった城の中心部が置かれ、防御が強化されました。この一帯にはもともと剛ノ池という自然の池があり、これも堀として使われました。南側の平坦地は大手門のような門によって守られ、三重の堀が辺りを囲んでいました。

城周辺の起伏地図

播磨国明石城絵図、部分(出展:国立公文書館)

突貫工事により完成

この城の工事は、1619年に始まりその年のうちに突貫で完成しました。これは一国一城令により廃城となった他の城から建物を移築したり、廃材を活用したことによります。本丸の隅には4基の三重櫓が建てられました。それらの櫓は漆喰壁によって連結され、本丸を囲んでいました。大きな天守台も作られたのですが、天守そのももが建てられることはありませんでした。本丸を含む城の主要部分は高石垣により覆われていました。

4つの三重櫓のうち、2つが現存しています

城の完成後、1632年に忠真は、明石城にいたときよりも多くの石高で小倉城主として栄転しました。その後約50年間は、城主の氏族は何回も変わりました。1682年に松平氏がこの城に来て以来、幕末まで統治することになります。この間、戦は起こりませんでしたが、建物は頻繁に修理が必要でした。城を最初に作ったときでもその建物は新築でなかったからです。

「明石城その2」に続きます。

59.姫路城 その4

現在もなお城は生き残ろうとしています。

特徴(西の丸)

西の丸は天守の西南の鷺山にあります。ここは最終的には本多忠政により改修されました。彼は徳川幕府の創始者である徳川家康の娘、千姫と結婚していました。この曲輪は大きく、百閒廊下に入場することができます。中には石落としのような戦いのための設備もありますが、千姫に仕えたかもしれない女性のための部屋もあります。この曲輪からの天守の姿はとても優雅です。

城周辺の地図

西の丸にある百閒廊下
西の丸から見える天守

私の感想

姫路城は自然の地形に囲まれているからこそより見栄えがするのだと思います。例えば天守の建物はそれだけでも美しいのですが、天守が建てられている山や自然の造形物と一緒の方がより美しく見えます。

天守の建物だけの画像
自然との組み合わせがより美しい天守

更には、2013年にこの城を訪れたとき、面白い経験をしました。そのときこの城は平成の大修理の最中でした。大天守は工事用のカバーに覆われていました。しかしながら、観光客は工事用建物に入り、天守を間近に見ることができたのです。そこでは天守の天辺の屋根瓦の隙間が厚い漆喰で固められているのを見ました。漆喰の厚さは3cmあり、昔より厚くなっているそうです。これは荒天から城を守るためで、現在もなお城は将来生き残ろうとしているのです。

平成の大修理の際の工事用のカバー
間近に見えた天守の屋根瓦

ここに行くには

車で行く場合:播但連絡道の花田ICまたは砥堀ランプから約15分かかります。城周辺にいくつか駐車場があります。
姫路駅から:駅北口前の姫路駅前バス停から城周辺観光ループバスに乗り、姫路城大手門前バス停で降りてください。駅から歩いた場合は約20分かかります。

リンク・参考情報

世界遺産 姫路城(公式サイト)
・「歴史群像名城シリーズ10 姫路城」学研
・「よみがえる日本の城4」学研
・「日本の城改訂版第6号」デアゴスティーニジャパン
・「歴史群像51号、歴史群像流 姫路城の歩き方」学研
・「歴史群像99号、戦国の城 播州姫路城」学研

これで終わります。
「姫路城その1」に戻ります。
「姫路城その3」に戻ります。

44.名古屋城 その2

尾張名古屋は城でもつ

立地と歴史

復活した名古屋城

戦国時代の16世紀中頃、現在の名古屋城と同じ場所に、同じ名前を持つもう一つの那古野(なごや)城がありました。この古い方の那古野城で有名な戦国大名、織田信長が生まれたと言われています。信長は、そのうちに本拠地を清州城に移し、那古野城は廃城となりました。それ以来、清州城(名古屋城の北西約10kmのところ)は尾張国(現在の愛知県西部)の中心地であり続けました。1609年、徳川幕府は度々洪水の被害にあっていた清州城の代わりに、新しい城を築くことを決めました。大坂城にいた豊臣氏との戦いに備え、徳川の親族が入るためのより強力な城が必要とされたのです。その城は、再び名古屋(なごや)城と命名されました。

名古屋城と清州城の位置

清州城跡から見た名古屋城 (licensed by 名古屋太郎 via Wikimedia Commons)

シンプルだが強力な城、最大級の天守

城の範囲は広大で、シンプルであっても強力に作られました。城の中心である本丸は、西の丸などの曲輪群によって全ての方角に対し防御されていました。二の丸は、本丸の南東に付け加えられていて、城主のための御殿が建てられていました。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南方にあり、重臣たちの屋敷地となっていました。

尾張国名古屋城絵図(出展:国立国会図書館)

城周辺の航空写真

本丸には5層の天守があり、史上最も大きな天守の一つでした。頂にあった2つの金鯱は人々の間で特に人気がありました。初代の金鯱には215kgもの金が使われていたと言われています。また、本丸御殿もありましたが、これは将軍が滞在するためだけに存在しました。実際には3人の将軍しか使用していません。人々は「尾張名古屋は城でもつ」と言い慣わしてきました。

元あった天守と本丸御殿の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

焼亡と復興

明治維新後、二の丸、三の丸といった大きな曲輪は日本陸軍の駐屯地となりました。しかし、政府は本丸周辺は城として維持していくことを決断しました。天守や本丸御殿を含む伝統的建物群がそのまま残されたのです。1930年には、城として初となる国宝にも指定されています。ところが、誠に残念なことに1945年にほとんどの建物が焼け落ちてしまったのです。現在は3つの櫓と3つの門が残るのみです。

空襲で燃え上がる天守 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存している本丸の西南隅櫓
現存している本丸表二之門

その悲劇から14年後、名古屋の人々は現在見る天守を再建しました。再建のための予算の3分の1は市民からの寄付によりました。天守の外観はほとんど元通りでしたが、実は元の石垣の内側にあるケーソンの上に建てられた、コンクリート製の近代的ビルだったのです。元あった金鯱は1945年に一緒に燃えてしまいましたが、同時に復元されました。現在のものは88㎏の金を含んでいるそうです。2018年、本丸に、従来工法により本丸御殿が復元されました。本丸はかつての姿を取り戻しつつあります。

現在の再建された天守
現在の復元された金鯱
復元された本丸御殿

「名古屋城その3」に続きます。
「名古屋城その1」に戻ります。