124.品川台場 その1

1853年のマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊の来航は、幕府の根本政策に大きな衝撃を与えました。幕府は江川英龍に、ペリーの2度目の来航の前に、江戸湾に確固とした防衛システムを速やかに構築するよう命じました。

立地と歴史

ペリー艦隊の来航がきっかけ

お台場は東京のウォーターフロントエリアの人気の観光地の一つです。この地の名前は、直接には「台場」に敬称の「御」を付けたものであり、江戸時代末期に武家の都である江戸防衛のため、徳川幕府により築かれた品川台場を由来としています。この地区には今でもわずかではありますが、台場の遺跡が残っています。

東京湾周辺の地図

お台場海浜公園、沖に見えるのが三番台場跡

当時日本周辺に西洋船が頻繁に出没するようになると、幕府はいくつかの譜代大名と幕下の部署に、西洋船による侵攻の恐れから江戸湾(現東京湾)内外を防衛するよう命じました。ところが実際には、その当時の大砲では江戸湾の入口である僅か8km幅の浦賀水道でさえ防衛することができませんでした。幕府は自らの鎖国政策のため、遠洋艦隊を持っていなかったからです。そのため、日本にやってきた西洋船に対する幕府の基本的対応は、来航の目的を聞き、必要な物資を与えた上で退去するよう説得するというものでした。したがって、1853年のマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊の来航は、幕府の根本政策に大きな衝撃を与えました。ペリー艦隊は意図的に江戸湾口を突破し、幕府に開国を迫るため湾内を示威的に航行したのです。

房総半島の金谷港から見た江戸湾口
マシュー・ペリー、1856年~1858年頃  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三浦半島久里浜にあるペリー上陸記念碑

江川英龍が品川沖に砲台を建造

その後幕府は江川英龍(えがわひでたつ)に対して、ペリーの2度目の来航の前に、江戸湾に確固とした防衛システムを速やかに構築するよう命じました。英龍は優秀な官僚であり、西洋科学を学んでいました。彼は、最終防衛線として江戸城と江戸市中を守ることが最優先であると考えました。その場所は、品川宿近くの、海岸線から約2km沖合でした。防衛線は、海上にあるいくつもの砲台から成り、敵方の船に十字砲火を浴びせられるようになっていました。この立地を選んだもう一つの理由は、この海岸沿いの海は水深が浅く、ペリー艦隊の旗艦、サスケハナ号のような大型の西洋軍艦は乗り入れることができなかったことです。また、砲台群はこれら大型船の大砲の射程外であり、この海域に入ってこられる小型砲艦のみに対応すればよいという有利な状況もありました。

江川英龍自画像  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「品川台場絵図」に描かれた品川台場による防衛ライン、出典:東京都立図書館
1853年のペリー艦隊の旗艦、サスケハナ号 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当初の計画では11か所の砲台を築くとされ、一番から三番までの3つの砲台が、ペリー再来航の前の7ヶ月以内に運用を開始し、品川台場と呼ばれるようになりました。それぞれの台場は四角い人工の孤島であり、石垣に囲まれ、大砲と関連施設を備えていました。専門的には方形堡と言われます。台場の基本設計は、英龍や部下たちが翻訳した西洋の兵学書に基づいていました。台場で使われていた大砲は、西洋製を模倣した国産によって賄われていました。しかし、その中には佐賀藩がちょうど製造に成功したばかりの鋳鉄製の大砲が含まれていて、世界の最先端のレベルに迫っていました。台場の石垣は、従来の日本式で築かれていましたが、その最上段は跳ね出しというヨーロッパの城郭に倣った方式を採用していました。また、これら台場独自で考え出されたアイデアの一つとして、周囲に波除杭を敷設したことがあります。これらは本来の用途の他に、敵の砲艦の台場への接近を防ぐという効果もありました。

「江戸品川御臺場仕様図面(三番御臺場圖)」、出典:東京都立図書館
品川台場で用いられた日本製青銅砲、靖国神社遊就館にて展示
三番台場の跳ね出し石垣
上記図面に描かれた波除杭

幕末まで維持された防衛システム

幕府は1854年に開国を決断し、ペリーとの間で日米和親条約を結びます。品川台場の建設は続きましたが、計画された11基のうち、5基のみ(一番~三番、五番、六番)のみが完成し、2基(四番、七番)は建設途中で中止となりました。その理由としては、予算不足と、条約後の西洋諸国との外交関係が安定したことが挙げられます。台場の運営は、いくつかの藩から武士たちが派遣されて行われました。例えば、忍城を本拠とする忍藩は三番台場を受け持っていました。武士たちは小さな舟に乗って独立した海堡まで行き、次の組が来るまで風呂なしの兵舎で待機していました。

現在の3番台場

幕府はまた、この防衛システムが不十分とも考えていました。未完成に終わった海上砲台の代わりに、御殿山下砲台のような海岸砲台を築きました。更には、独自の砲艦を建造し、これらの砲台と緊密な連携が取れるようにしました。それぞれの台場には船着き場があり、砲艦が停泊できるようになっていました。この防衛ラインの運用は、1868年に幕府が新政府によって倒される明治維新のときまで続きました。

1945年~1950年頃の品川台場周辺の航空写真、まだ各台場の敷地は残っていました

御殿山下砲台跡、かつての海岸線辺りにあります
オリジナルに近い6番台場の船着き場周辺

品川台場の評価は難しいかもしれません。実際の戦いに使われたことはなく、台場に設置された大砲の性能は急速に陳腐化してしまったからです。しかし歴史家は、西洋諸国による侵略を防ぐ抑止力として機能したのではないかと言っています。台場にあった大砲は、ペリー艦隊に搭載されていた大砲と同レベルであったと指摘されています。また、英国から派遣された外交官は、品川台場を見て、そこで使われている技術は西洋の大砲と同等のレベルであると本国に報告しています。

「江戸名所四十八景、三十五、高輪秋月」、二世歌川広重作、品川台場が描かれています、出典:東京都立図書館

「品川台場その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

118.忍城 その3

忍城周辺のお勧めスポット

特徴、見どころ

石田堤

石田堤周辺の地図

城の近くにある、忍城の戦いに関する歴史スポットにも行かれてはいかがでしょうか。一つは石田堤跡で、忍城跡から南東に約4km離れたところにあります。その戦いのときに石田三成が築いた28kmあったとも言われる堤のうち、一部分の300m近くが残っています。

堤沿いにある「石田堤歴史の広場」
江戸時代末に建てられた石田堤碑

その堤は、北側を川に南側を道に沿っています。そして、上には松の木が植えられていて、古い街道であることを示しています。江戸時代には日光街道の脇街道として使われ、それ以前には中山道そのものであったとも言われています。

堤の北側にある川
南側の街道と堤上にある松並木

現存する堤の端にあって、川にかかっている堀切橋は、忍城の守備兵が三成に対抗するため、堤を切って中の水を溢れさせた場所とも伝わっています。

堀切橋

さきたま古墳群

もう一つのお勧めのスポットは、忍城よりずっと早い5世紀から7世紀にかけて築かれた「さきたま古墳群」です。しかし、忍城と関係しているものがあります。丸墓山古墳は古墳群の一つで、円墳としては日本最大であり、高さ17m、直径は105mあります。忍城の戦いが起こったとき、三成はここに本陣を置き、堤の工事を指揮しました。実際、この古墳の頂上からは再建された忍城の三階櫓の上層部分を遠くに眺めることができます。三成にとっては、水攻めの状況を見て取るのに格好の場所であったでしょう。古墳への参道もまた、石田堤の一部であったと言われています。

さきたま古墳群周辺の航空写真

丸墓山古墳
丸墓山古墳の頂上部分
丸墓山古墳から忍城方面の景色
忍城三階櫓をズームアップ
石田堤の一部と言われる丸墓山古墳への参道

更には、鉄砲山古墳は江戸時代末期の忍藩の歴史に関わっています。藩士たちは、この古墳の側面を加工して鉄砲の砲術訓練をしていました(「角場(かくば)と呼ばれていました)。江戸湾にある品川台場などでの防衛任務の準備をしていたと思われます。

鉄砲山古墳
鉄砲山古墳の平面図、現地説明版より、濃紺部分が角場

その後

明治維新後、忍城は廃城となり、水城であった部分は埋められて、近代的公園や建物がある場所に変わっていきました。これはこの都市を近代化するのに必要なことだったのでしょう。市の名前は、日本の伝統的な靴下である「足袋」を生産して栄えた地区の名前から、「行田」となりました。

行田足袋  (licensed by katorisi via Wikimedia Commons)
足袋の製造現場を再現した展示(行田市郷土博物館)
行田市に残る足袋倉

公園には一時球場がありましたが、城にかつてあった三階櫓のような外観を持つ行田市郷土博物館に置き替えられました。市の観光施設として、博物館周辺には鐘楼、門、塀なども復元されています。

1970年代の本丸周辺の航空写真

現在の本丸
行田市郷土博物館の入口

私の感想

忍城の戦いの結果は、1590年に秀吉が天下統一のために関東地方に侵攻したときの唯一の失敗と言われてきました。そしてそれは石田三成が愚かな武将だったからともされています。しかしその評価は、1600年の関ヶ原の戦いで三成が徳川家康に敗れたという結果から後付けされたものであって、正当とは言えません。三成は忍城の戦いにおける秀吉の命令の忠実な実行者であり、少なくとも城を包囲することには成功しているのです。仮に城の守備兵が成田長親ではなく、北条氏から派遣された代官に指揮されていたらどうだったでしょうか。三成にすぐに降伏していたかもしれません。忍城の戦いは、長親と三成ががっぷり四つに渡り合った名勝負だったのではないでしょうか。

成田氏の家紋、丸に三つ引き、行田市郷土博物館にて展示
堀切橋から見た石田堤

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の加須ICか羽生ICから約30分かかります。城跡周辺にいくつか駐車場があります。もし石田堤跡やさきたま古墳群にも行かれるのでしたら、車を使った方がよいでしょう。
公共交通機関を使う場合は、東武線の行田市駅から歩いて約15分かかります。
東京から行田市駅まで:上越新幹線に乗って、熊谷駅で東武線に乗り換えてください。

本丸跡の石碑がある行田市郷土博物館の駐車場

リンク、参考情報

忍城跡、行田市
・「よみがえる日本の城15」学研
・「天正十八年~関東の戦国から近世~」行田市郷土博物館
・「描かれた忍城」行田市郷土博物館

これで終わります。ありがとうございました。
「忍城その1」に戻ります。
「忍城その2」に戻ります。

118.忍城 その1

「忍城の戦い」の舞台として有名な城

立地と歴史

成田氏が大河間の湿地帯を利用して築城

行田市は埼玉県北部にあり、関東地方の大河である利根川と荒川に挟まれています。市の地形はとても平坦であり、居住に便利な地として開発されてきました。しかし中世においては、この地は川の氾濫により沼地や湿地帯となっていました。15~16世紀の戦国時代のときにはこの地は「忍(おし)」と呼ばれていて、成田氏が支配していました。15世紀後半にその成田氏が忍城を最初に築いたと言われています。その当時は関東地方では多くの戦いがあり、地方領主は強力な城を築き、身を守る必要があったのです。箕輪城を築いた長野氏や、金山城を築いた岩松氏のように、山城を築く領主がいた一方、成田氏の選択はこの地の特徴を生かし、川沿いの沼地や自然堤防の間にあった島状の土地を利用し、水城を築くことでした。その土地を利用した曲輪群は、橋や土塁の上に作られた通路によってつながっていました。

行田市の範囲と城の位置

忍城の戦いが起こり水攻めに遭う

この城の強さは実際に、1590年に豊臣秀吉が天下統一を完成させるために関東地方に侵攻したときに証明されました。当時関東地方全域は、北条氏によって支配されていて、成田氏も仕えていました。北条氏は忍城を含む支城に対して、秀吉に対抗するため、本拠地である小田原城に兵を集結させるよう命じました。忍城の城主であった成田氏長も、小田原城に入りました。そのため、氏長のいとこである長親が城代として、わずかな兵士とともに忍城に残りました。秀吉は、20万以上の軍勢をもって北条の領地に侵攻し、その軍勢は小田原城だけでなく、支城群にも派遣されました。例えば、北条からの代官が治めていた金山城は、簡単に開城してしまいました。ところが、長親に率いられた忍城内のわずか500名の兵士と2500名の住民たちは、2万人以上の攻城軍に対して、決して降伏しませんでした。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

攻城軍の指揮官は、秀吉から厚い信頼を受けていた家臣の石田三成で、与力大名としては浅野長政や真田昌幸が参戦しました。秀吉は現地にはいませんでしたが、三成に対して堤防を作って城を囲み、水攻めにするよう指示したのです。秀吉の考えは恐らく、地形的な特徴と、秀吉自身が同じ戦法を採用して成功した備中高松城の戦いでの経験から来ていたのでしょう。三成は、城の南方、約2kmのところにある丸墓山古墳に本陣を置きました。彼の軍勢は突貫工事により、わずかな日数で古墳の周辺に15kmから25kmとも言われる堤防を築き、川からの水をせき止めました。地元の言い伝えによれば、このとき農民たちが高額な対価で、堤防を築くために土嚢を持ってくるよう言われたそうです。

石田三成肖像画、杉山丕氏蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
丸墓山古墳
三成が築いた「石田堤」の現存部分

この水攻めが成功したかどうかは不確かで、ある記録によれば、守備兵が密かに堤の一部を切り、水が溢れたことで攻撃兵が溺れたとのことです。事実として確認できることは、与力大名が城を強攻しようとしたのですが、秀吉が止めさせ、水攻めを続けるよう強制したのです。包囲戦は約1ヶ月続きましたが守備側は、主君である小田原城の北条氏が降伏するまで屈しませんでした。忍城は異名として「浮き城」または「亀城」と呼ばれていますが、この包囲戦のときに城がどのように見えたかという所から来ているようです。

「天正年間成田氏忍城之図」、明治時代に郷土史家が忍城の戦いを考証した図、行田市郷土爆物館にて展示
堤を切ったと伝わる場所にある堀切橋

江戸防衛の拠点に

江戸時代の間、忍城は将軍の親族または譜代大名によって、忍藩として治められました。それは、この城が南方の将軍の本拠地、江戸城の守りにとって重要な拠点だっだからです。何回も幕府の老中を輩出した阿部氏が城を完成させたと言われています。これらの大名たちも、堀や沼地の間にあった島状の曲輪からなる城の基本的構造をそのまま使いました。但し、城の防御システムをより強化するために、三階櫓(天守の代用)、他の櫓や門を建設しました。城と藩は最終的に奥平松平氏に引き継がれます。奥平松平氏の創始者は、奥平信昌の子で、信昌は長篠城での戦いで幕府の創始者となる徳川家康に大変貢献し、家康の娘が嫁いでいたのです(よってその子は家康の孫ということで松平姓を許されていました)。奥平松平氏は幕府に頼られていたため、幕末には品川台場(第三台場)の警備を命じられました。この台場は西洋の軍艦の潜在的脅威に備えて、江戸湾に面して設置されていたのです。

江戸時代の忍城を復元した模型、行田市郷土博物館にて展示
再建された忍城三階櫓、場所はオリジナルとは違います
品川台場(第三台場)

「忍城その2」に続きます。