101.志苔館 その3

函館空港から歩いて行ける史跡

その後

志苔館があった場所は明治時代には学校や日本陸軍により所有されていました。やがてそこが私有地になったとき、地元の教員たちは館跡が将来どうなってしまうのか大いに憂いました。そこで所有者に、館跡の土地を公有地として寄付してはどうかと勧めたのです。その試みは成功し、大正時代には敷地内に現在も残る記念碑が建てられました。また、1934年には国の史跡にも指定されています。

志苔館跡の標柱

私の感想

2回も占領されたという事実から考えると、志苔館はアイヌの反乱軍と戦うには不十分だったのかもしれません。しかし、志海苔という土地で和人とアイヌの人たちが平和に共存している分には十分な館だったのです。私は志苔館跡がとても好きです。ここに来るといつでもくつろぐことができますし、函館空港のすぐ近くで簡単にアクセスすることができるからです。空港からの行き方は次に記します。

志苔館跡(手前)と函館山の景色(奥)

ここに行くには

函館空港から徒歩(または車)でどうやって志苔館まで行くのかご説明します。

函館空港周辺の地図、赤破線は志苔館へのルート

まず、空港ターミナル出口を出てから右に曲がってタクシー乗り場沿いに歩いていきます。

函館空港の出口に向かいます
タクシー乗り場に沿って歩きます

そうすると、モータープールの端にある函館空港の看板が立っている所に至ります。それから空港の前を走っている道路を右の方に曲がります。最初の交差点ではまた右に曲がります。

函館空港看板のところを右へ
最初の交差点を右へ

空港の滑走路を右に見ながら道路に沿って進んでいくと、滑走路の地下をくぐるトンネルが見えてきます。トンネルには歩行者用の通路がありますが、車の場合は一車線しかありませんので注意して通行してください。

空港の滑走路が見えます
滑走路下のトンネル入口
取んなる内の通路

トンネルを出てから次の交差点で左に曲がってください。そうすると館跡が右の方に見えてきます。そして次の交差点を右に曲がると、間もなく館跡に到着です。

トンネルを出たら左折します
館跡に近づいていきます
館跡が右手に見えます
この交差点を右折します
間もなく到着です

歩いて約20分の道のりです。車の場合は、館跡には駐車場がありませんので、最後の交差点で左に曲がり、すぐ近くの公園に駐車してください。

近くの公園の駐車場

バスを使っても館跡に行けます。函館駅から91系統のバスに乗り、志海苔バス停で降りてください。そこから数分で現地に着きます。

リンク、参考情報

史跡志苔館跡、函館市
・「日本の城改訂版第4号」デアゴスティーニジャパン
・「逆説の日本史17 江戸成熟編 アイヌ民族と幕府崩壊の謎/井沢元彦著」小学館
「函館市史」デジタル版

これで終わります。ありがとうございました。
「志苔館その1」に戻ります。
「志苔館その2」に戻ります。

101.志苔館 その2

リラックスできる場所

特徴、見どころ

函館市が館跡を一部復元

現在、志苔館跡は函館市によって整備されています。南側の志海苔港の裏手の高台にあって、とてもリラックスできる場所です。その中心部には今でも四角いスペースが残存しています。建物はありませんが、外側を土塁と空堀によって囲まれています。全体的に芝生に覆われていて見栄えがします。

高台にある志苔館跡(右側)

館跡入口の手前には、和人とアイヌ民族との戦いの事を記した慰霊碑と休憩所があります。入口は西側にあるのですが、そこは空堀が二重になっています。館跡に入るには、一番目の堀にかかった橋を渡り、更に二番目の堀は土橋で渡ります。これらは現代になって復元されましたが、城の最終段階の状態を表しています。

城周辺の航空写真

入口手前にある慰霊碑
休憩所
城跡入口、向こう側に二重空堀があります
一重目の空堀にかかる橋
二重目の空堀を渡る土橋

館跡の中心部

館跡の中心部は、土塁に四角く囲まれていますが、志苔館より後の時代に築かれた日本式城郭の曲輪一つ分といった感じに見えます。発掘によれば、そこには3世代の建物がありました。2代目または3代目の建物は、恐らく城が最初にアイヌによって占領された後に再建されたものと考えられます。初代の建物群がどのように建てられたのか地面上に平面展示されています。過去に井戸であった場所は、4面の枠によって囲まれています。発掘では、多くの中国製の陶磁器や日本製の陶器が発見されています。それに加えて館に関する2基の記念碑があり、これらは約100年前の大正時代に地元の人たちが館跡の保存を期して建てたものです。

土塁に囲まれた中心部
平面展示されている建物跡
井戸跡
記念碑

素晴らしい景色を楽しむ

ここを訪れた上には是非、南側の土塁の上に立つか座ってみてください。正面には津軽海峡の雄大な景色が、右側には函館山の遠景を望むことができます。天気が良ければ、海峡を越えて本州まで見渡すこともできます。くつろぎ、リフレッシュできること請け合いです。もしお時間があれば、土塁の外側の空堀の底にある通路を歩いてみてください。例えば、東側の堀は小川が利用されています。この館は自然の地形を利用して築かれたことがわかります。

津軽海峡と志海苔漁港の景色
函館山の遠景
南側の空堀の底
小川を利用した東側の空堀
土塁の北東角部分

「志苔館その3」に続きます。
「志苔館その1」に戻ります。

101.志苔館 その1

和人とアイヌ民族の交易の中心地

立地と歴史

道南十二館の一つ

志苔館(しのりたて)は、現在の北海道函館市において中世の日本の武士たちが築いた館です。当時、北海道は蝦夷(ヶ島)と呼ばれていて、原住民としてアイヌ民族が住んでいました。アイヌは、日本の本州に住んでいた日本人(以下「和人」と表記)とは違う言語、違う生活様式を有していました。彼らは、和人が通常農耕により生活していたのとは異なり、狩猟、漁撈、交易によって生活の資を得ていました。本州から蝦夷に渡った最初の和人は、罪人、落ち武者、商人であったろうと言われています。(和人から見て当時の蝦夷は3つの集団に分かれていましたが)その蝦夷に渡った人たちが、和人と交易を行っていた「渡党(わたりとう)」というグループになったのではないかとする歴史家もいます。本州の北端部分を支配していた安東(あんどう)氏が、13世紀以来「蝦夷管領」として渡党の人たちを監視し、コントロールしていました。

イザベラ・バードによるアイヌ男性のスケッチ、19世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

14世紀後半、渡党と和人たちが北海道の南端の渡島半島でさかんに活動しました。そして、そのリーダーたちは半島沿いに居住や交易のためにいくつもの館を築き始めました。志苔館は、道南十二館の一つであり、そのうちで最も東側にあり、恐らくは最初のものだっと思われます。歴史家は、安東氏の配下であった小林氏が志苔館を築いたのではないかとしています。

城の位置

志海苔の町とともに繁栄

館のそばにある志海苔(しのり)の町も、和人とアイヌの間で行われた交易や産業によって繁栄しました。記録によれば、そこには数百件の家屋から成る鍛冶屋町がありました。アイヌの人たちは自分たちで鉄製品を作ることができなかったからです。1968年のことですが、志苔館跡から約100m離れた海岸で大甕に入った約37万枚もの古銭が発見されました。大甕は複数あり、一部が壊れていました。もし、全部が完全な状態であれば古銭の量は50万に及んだだろうとされています。古銭の種類を調べたところ、館があったのと同じ時期に埋められたということがわかりました。この辺りには裕福な商人か領主がいたということになります。歴史家の中には、小林氏が志苔館を築くときの地鎮祭のために、これらの古銭を埋めたのではないかと推測している人もいます。

北海道志海苔中世遺構出土銭、重要文化財、函館市ホームページから引用

志苔館は、南側の海岸から20m以上の高さがある丘の上に築かれました。館は、東西70m、南北50mの方形の区画に建てられました。その区画の外側は、土塁、更には空堀によって囲まれていました。区画の西側が出入口となっており、空堀が二重になっていました。館は普段は居住や交易のために使われたが、緊急事態や戦いが起こったときには城のような基地としても使われたと考えられます。

城周辺の起伏地図

志苔館跡
志苔館跡の現地案内図

アイヌの反乱により2度の落城

館周辺の状況は、1432年に安東氏が南部氏との戦いに敗れ、本州から追い出されたときに劇的に変わりました。安東氏は本拠地を北海道に移さざるをえず、それ以来、和人とアイヌの間の緊張が一気に高まりました。安東氏が北海道を直接支配しようとしたからです。1456年に志海苔の鍛冶屋で事件が起こりました。アイヌの少年がその鍛冶屋に注文した小刀(マキリ)に対して不満を述べたところ、なんと鍛冶屋が少年を殺してしまったのです。この事件はアイヌの人たちを憤激させ、アイヌのリーダー、コシャマインによる反乱に至りました。

アイヌマキリ (licensed by Haa900 via Wikimedia Commons)

小林良景(よしかげ)が所有していた志苔館は、反乱軍により攻撃され、落城しました。良景もまた殺されました。そして、道南十二館のうち、10館までが占領されてしまったのです。翌年、和人の武将である武田信広がコシャマインを討ち取り、反乱を鎮圧しました。その後、志苔館は良景の子、小林良定(よしさだ)により再建されましたが、1512年にまたもアイヌによる反乱がおこり、館は占領されました。良定までもが殺されました。その結果、和人は渡島半島の西部に集結することとし、江戸時代には松前藩の立藩や松前城の築城につながっていきます。半島の東側にあった志苔館はやがて廃城となりました。

武田信広肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松前城

「志苔館その2」に続きます。