136.鳥越城 その1

加賀一向一揆の歴史とその果たした役割

立地と歴史

一向宗の台頭

鳥越城は、現在の石川県白山市にあたる、加賀国の白山山麓にありました。この城は、加賀国一向宗門徒の最後の抵抗地とされており、加賀一向一揆として知られる闘争の中で、彼らは戦国大名と最後の一兵まで戦ったのです。1467年に起こった応仁の乱の後は、日本のほとんど全ての人たちは自衛しなければならなくなりました。足利将軍家の権威が著しく衰えてしまったからです。これが戦国時代と呼ばれている時代です。領主層や武士だけでなく、農民や商人、そして寺院の僧までが、領地や権益を守るために武装する必要がありました。

城の位置

応仁の乱の様子、「真如堂縁起絵巻」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一向宗は、仏教の宗派の一つで、この時代に国中に広まりました。この宗派では、「南無阿弥陀仏」と唱えされすれば極楽に行けると称したため、多くの人々が信仰しました。この単純な教義に加えて、15世紀後半に第8代の宗主であった蓮如が精力的に活動し、(講などと呼ばれる)地方組織を構築し、特に、加賀国を含む現在の中部地方に広まりました。この組織はもともと宗教のために存在していましたが、時代の状況の中で、政治、経済、そして軍事的な色彩も帯びていきました。戦国大名でさえ、他の大名と戦うために一向宗に援軍を求めたりしました(例えば幕府の管領、細川政元が1506年に畠山氏と戦ったとき、当時の宗主、実如は援軍を政元側に派遣しました)。一向宗が何かのために戦ったとき、その行為は一向一揆と呼ばれ、全国的に大きなインパクトを与えました。その結果、一向宗はまるで戦国大名とその配下の武士のように振舞うようになりました。その本拠地は、後の大坂城となる石山本願寺にありました。

蓮如影像  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石山本願寺の模型、大阪城天守閣蔵 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
現在の大坂城

百姓の持ちたる国の城

加賀国では、一向宗の中でも最も強固な組織化がなされていました。その組織内の人々は加賀一向一揆と呼ばれ、当初は加賀国の守護、富樫氏を支持していましたが、やがて戦うことになり、ついにはこれを倒しました。このことは、富樫氏が高い税を賦課したのが原因ですが、一向宗に属していた地元領主たちが領地を富樫氏から奪いたかったという事情もあったのです。彼らは、国を自分たちで治めるために、後の金沢城となる尾山御坊を設立しました。加賀国は、「百姓の持ちたる国」として知られました。尾山御坊は、加賀一向一揆の本拠地であり、恐らくは城のような姿をしていたのでしょう。加賀一向一揆はまた、国の防衛のために多くの支城を持っていました。鳥越城はその内の一つでした。

金沢城内ある極楽橋、その名前の由来は尾山御坊時代に遡ると言われています
現在の金沢城
現代に復元された鳥越城

鳥越城は、加賀一向一揆の内部組織である山内衆(やまのうちしゅう)の拠点でした。この城は、手取川と大日川(だいにちがわ)の合流時点の上流側にある山の上に築かれました。頂上には本丸があり、他の曲輪は本丸の周辺や山の峰に沿って配置されていました。全ての曲輪は自然の地形を生かしながらの土造りで、空堀によって隔てられていました。このような城は「山城」として、その当時日本中で見られたのです。山内衆のリーダーであった鈴木出羽守が、織田信長の攻撃から防御するためにこの城を築いたと考えられています。

城周辺の地図

城周辺の起伏地図

鳥越城は自然の地形を生かして築かれました

加賀一向一揆の最後

織田信長は有力な戦国大名で、1570年代から1580年代にかけて天下統一を進めていました。彼は宗教勢力に対して、政治的軍事的領域から手を引くよう求めていました。もし、寺院側がその要求を断った場合、信長は1571年の比叡山焼き討ちのように、その寺院を徹底的に破壊しました。それ以前の1570年には、信長は一向宗に対して本拠地の石山本願寺から退去するよう求めていました。一向宗はそれを断り、それから石山合戦として知られる11年にもわたる戦いを行ったのです。信長の部下たちもまた、加賀一向一揆を含む一向宗の地方組織を攻撃しました(柴田勝家が北陸方面に派遣され、加賀一向一揆と戦いました)。山内衆は、1580年に石山本願寺が信長に降伏した後でさえ、鳥越城で信長の軍勢と戦い続けました(城を取ったり取られたりする激戦でした)。しかし、ついには落城し、戦いに生き残った者も殺されました。1582年のことです。これが、加賀一向一揆の最後の抵抗とされています。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石山合戦図、和歌山市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加賀一向一揆の最後の拠点となった鳥越城

「鳥越城その2」に続きます。

36.丸岡城 その1

越前国北部にあった城

立地と歴史

柴田勝豊が戦国時代に築城

丸岡城は、現在の坂井市にあたる、越前国の北部にありました。この城には日本に12基ある現存天守のうちの一つがあります。この城は、最初は戦国時代の1576年に柴田勝豊によって築かれました。彼の親族である柴田勝家が越前国を領有しているときでした。1583年に柴田氏が羽柴秀吉に倒された後は、松平氏などいくつかの氏族がこの城を所有しました。この城の初期の頃について詳細は分かっていませんが、その頃から初代の天守がそこにあったと考えられています。初代天守のために作られた現存する石垣が、現在ある天守より古いものだからです。

城の位置

丸岡城の現存天守
丸岡城天守の石垣

本多成重が丸岡藩として独立

1624年、松平氏の家老であった本多成重(なりしげ)が丸岡藩の創始者として、独立した丸岡城城主となりました(彼の父、本多重次が家族に宛てた手紙が「日本一短い手紙」として有名であり、現在の丸岡城でも顕彰されています)。彼は城の大改修を始め、現在ある天守の再建築などを行いました。この改修は、成重の息子の代になって完了しました。

天守内にある本田成重のイラストレーション(左側、右側は父親の本多重次)

天守がある本丸は丘陵の上にありました。二の丸御殿がある二の丸は、本丸脇の平地にありました。これらの曲輪は、内堀に囲まれていましたが、その内堀は五角形のような形をしていました。この堀の形は、敵が攻めてきたときに、その敵を混乱させるためにこのようになったと言われています。また、武家屋敷があった三の丸と外堀が、内堀の更に外側にありました。

天守内にある城の模型(左側が本丸、右側が二の丸)
越前国丸岡城之絵図、江戸時代(出展:国立公文書館)

有馬氏が幕末まで統治

1695年、本多氏はお家騒動のために徳川幕府により改易となってしまいます。その後、有馬氏が丸岡城と丸岡藩の領主となりました。有馬氏は、江戸時代末期まで城を維持し、藩を統治しました。(キリシタン大名として有名な有馬晴信の家系に当たります。)

有馬氏の家紋、有馬瓜  (licensed by Mukai via Wikimedia Commons)

「丸岡城その2」に続きます。

37.一乗谷城 その2

中世都市を想像し、また実際に見ることができます。

特徴、見どころ

どこまでも続く遺跡群

車でも、歩いてでも谷に沿って一乗谷城跡を訪れたなら、道の両側にどこまでも続くような住居跡を目にしてきっと驚かれることでしょう。この地域の278ヘクタールもの範囲が、一乗谷朝倉氏遺跡として国の特別史跡に指定されています。また、この遺跡から発掘された2,300を超える遺物が重要文化財に指定されています。

城周辺の航空写真

谷沿いに広がる遺跡群
城下町の遺跡

遺跡の両端では、城戸跡も見学することができます。下城戸跡には、巨石を使った食い違いの入口が今に残っています。この入口は、まさに城門そのものです。上城戸は、1990年に復元されており、全長105m、高さ5mの土塁となっています。

下城戸跡
巨石を使った食い違い入口
復元された上城戸

戦国時代の町並を復原

発掘の成果により、遺跡の中心部では約200mに渡って当時の町並が復原されています。その町並の通りに立ってみると、本物の中世都市にいるような感じがします。

復原町並

復原された住居の中に入ってみることもできます。例えば、商家の中では、商人のマネキンが陶器のようなものを売っています。

復原された商家の中

武士の館では、男性のマネキンが居間で将棋に興じています(「酔象」と呼ばれる今では使われていない駒があり、「朝倉将棋」と呼ばれています)。また、台所では使用人のマネキンが料理の準備をしています。これらの展示物は、現地で発見された遺物、他の地域に現存している絵画資料や建物をもとに復原されています。

復原された武家屋敷
居間で将棋を指すマネキン
台所の中

中心部にある朝倉氏館跡

復原町並から一乗谷川を挟んだ反対側にある朝倉氏館跡にも行ってみましょう。この館は一乗谷では最大の建物で、朝倉氏の当主が住んでいました。館跡は約120m四方で、現在も土塁と水堀により囲まれています。ここには正面に唐門があります。これは、館が炎上した後、江戸時代になって館跡に建てられた松雲院(しょううんいん)の門が残っているものです。館跡とこの寺の門は、お互いを引き立てているように思います。

土塁と水堀に囲まれた朝倉氏館跡
館跡入口の唐門

館跡の内部では、それぞれの建物があった位置が平面展示されていて(主殿、会所、台所、厩舎など)、かつてどのような建物があったのか理解できるようになっています。

館跡の内部
館跡を後ろ上方から

現役の特別名勝である庭園群

ここには、朝倉氏の一族の館跡もあります。その上に、その館周辺には4つの朝倉氏の庭園があり、1991年以来国の特別名勝に指定されています。16世紀そのままの姿で出てきた庭園が、現在の人々をも魅了しているということであり、驚くべきことです。

一族の御殿の一つ、中の御殿跡

例えば、朝倉氏館跡の上の方にある湯殿跡庭園(ゆどのあとていえん)は、荒々しい岩が組み合わされ作られています。この庭園の雰囲気は、戦国時代さながらだ言われています。

湯殿跡庭園

諏訪館跡庭園はもともと、朝倉義景の妻(小少将)のために築造されたと言われています。巨石を使ったとても美しい池泉庭園です。この庭園で最も大きな石は、日本の池泉庭園の中でも最大のものと言われています。

諏訪館跡
諏訪館跡庭園
巨石を使って作られています

「一乗谷城その3」に続きます。
「一乗谷城その1」に戻ります。