29.松本城 その1

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。

立地と歴史

小笠原氏が追放され、帰還するという本懐を待ち続けた城

松本城は長野県松本市にある城で、現存する素晴らしい5層天守により有名です。城が位置する松本盆地は古代より、周辺の山々から流れてきた豊かな水が湧き出る地としても知られていて、現代の市街地でも多くの現役の井戸を目にすることができます。そのため、この地はもともと「深瀬(ふかせ)」または「深志(ふかし)」と呼ばれていました。「深く流れる水」という意味だったようです。中世の頃には、信濃国(現在の長野県)の守護であった小笠原氏がこの地を本拠地としていました。多くの戦いが起こった戦国時代には、小笠原氏の家臣、島立右近(しまだてうこん)が1504年に、主君の本拠地・林城防衛のために、深志城を築城しました。これが松本城の前身となります。ところが1550年に、武田氏により城は落城し、小笠原一派は追放されてしまいました。

松本市の範囲と城の位置

市街地にある井戸(西堀公園井戸)
こちらは名も無き井戸か

武田氏は深志城を強化し、盆地の平地部分にある城であっても、強力な防御拠点にしようとしました。まず、城を三重の水堀で囲みました。堀に囲まれた曲輪部分は、真ん中から順に、本丸、二の丸、三の丸とされました。加えて、女鳥羽川(めどばがわ)の流路が、総堀(一番外側の堀)に沿うように変えられ、城の防御力はますます高まりました。武田氏はまた、城の門を改良し、前面に馬出しを加えました。馬出しとは、小さな丸い曲輪で、狭い通路によって門とつながっていました。これは、武田氏が開発し、頻繁に使われた防御システムです。城の基本的な構造は、武田氏によって完成されたと言われています。しかしこの時点では、城は基本的には土造りでした。

江戸時代の松本城の模型、松本市立博物館にて展示、三重の堀に囲まれています
城の東側にわずかに残る総堀
わずかに残る総堀の内側にあった土塁(西総堀土塁公園)
女鳥羽川
上記模型にある馬出し、現在では全て撤去されています

小笠原氏が戻ってくる機会が1582年に突然やってきました。織田信長が武田氏を滅ぼし、またその信長も本本能寺の変で明智光秀に殺されてしまったのです。その当時徳川家康に仕えていた小笠原貞慶(おがさわらさだよし)はその翌年、33年ぶりに城に帰還したのです。貞慶はそれを祝して、城の名前を「松本」と変えました。その名前は、「本(もと)懐」を「待つ(松)」というところから付けられたと言われています。しかし、状況はまた急激に変わりました。1590年には天下人の豊臣秀吉により、貞慶は主君の家康とともに、関東地方に移封となりました。秀吉は松本城を、家康の重臣であり、秀吉の下に出奔した石川数正(いしかわかずまさ)に与えました。

小笠原氏の家紋、三階菱  (licensed by Minamoto at fr.wikipedia via Wikimedia Commons)
「長篠合戦図屏風」に描かれた石川数正  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

石川氏が天守を築き城を近代化

数正は、秀吉によって好まれた先進技術によって城の近代化を始めました。1592年に数正が亡くなってからは、子の康長(やすなが)が引き継ぎました。康長は曲輪群を石垣で囲み、本丸には5層の天守を築きました。彼はまた、主要な門の馬出しを桝形に置き替えました。桝形とは、石垣や門の建物に囲まれた、四角い防御スペースのことを言います。これらの門は、三の丸の大手門、二の丸の太鼓門、本丸の黒門のことです。城の工事は1594年に完成しました。しかし、この工事は突貫で行われたため、民衆には苦痛を与えました。地元の言い伝えによれば、太鼓門に使われる巨石を運んでいた人夫が不満を言ったところ、康長はそれを聞き、直ちにその人夫の首を刎ねたそうです。それ以来、その石は玄蕃石(げんばいし)と呼ばれるようになりました。「玄蕃」とは康長の官職名でした。

城周辺の地図

上記模型にある大手門、手前は女鳥羽川
現在の大手門跡
復元された太鼓門
太鼓門にある玄蕃石
復元された黒門

城の建物には、秀吉の特別な許可により、金箔を貼った屋根瓦が使われました。この許可は、秀吉の親族か、信頼のある重臣にのみに与えられました。その重臣たちの城にも金箔瓦が使われていて、小諸城上田城甲府城沼田城駿府城など家康がいた関東地方周辺に配置されました。松本城を含むこれらの城は、家康包囲網を形成し、家康を監視し、且つ脅威を与えていました。康長は、秀吉の死後に家康が天下を取ったときも、家康に味方することで何とか生き残りました(金箔瓦は当然廃棄されました)。ところが、1613年に彼はついに家康によって改易されました。その理由ははっきりしないのですが、可能性として、家康は石川氏が彼の下を去ったことに報復したという面もあったでしょう。

家康包囲網の城

小諸城跡
上田城跡
甲府城跡
沼田城跡
駿府城跡

月見櫓建設により天守が完成

その後、小笠原氏が再度松本城に復帰するのですが、1617年にはまた明石城に転封となりました。城とその周辺地域は松本藩となりますが、江戸時代の間、いくつもの親藩や譜代大名によって引き継がれました。その間、城に関する重要な出来事がいくつかありました。その一つが松平直政(まつだいらなおまさ)が城を治めたときに起こりました。彼は、将軍の徳川家光が松本城に立ち寄るという計画を聞き(その後取りやめとなりますが)、1634年に新しく月見櫓を天守に付け加えました。それまでは天守は全く戦を想定して作られていました。しかし、月見櫓は完全に娯楽のために築かれたものです。これによって天守は、違った趣の建物が融合した、現在の姿になりました。

松平直政肖像画、月照寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
月見櫓(外観)
月見櫓(内部)
月見櫓(右側)を従えた松本城天守

二番目の出来事は、1727年の松本大火のときです。大火により、天守となりの本丸御殿は焼けてしまいましたが、天守そのものは幸運にも無事でした。人々は、中に祀られていた二十六夜神(にじゅうろくやしん)が天守を救ったのだと考えました。また城下町は、南北を貫く善光寺街道と東西を走る野麦街道が交差する場所として、大いに繁栄しました。城下町には多くの番所があり、もし敵が攻めてきたときには容易に城に近づけないようになっていました。

本丸御殿跡
現在も天守に祀られている二十六夜神
上記模型の松本城城下町
上記模型の番所部分

「松本城その2」に続きます。

137.福井城 その1

越前国の中心地

立地と歴史

北ノ庄城としてスタート

福井城は、福井県の県庁所在地である現在の福井市にありました。この都市の名前は、この城に由来しているのです。しかし、この城はもとは北ノ庄城と名付けられていました(北ノ庄とは、北にある荘園といった意味でしょうか)。有力な戦国大名、織田信長の部将であった柴田勝家が1575年に最初にこの城を築きました。現在の福井県の一部にあたる越前国を征服したときでした。

城の位置

柴田勝家像(現地説明板より)

後に天下人、豊臣秀吉となる羽柴秀吉が1583年にこの城を攻撃したとき、彼は書状にこの城には九層の天守があると記しました。しかし、本当に九層の天守だったかどうかは全く分かりません。当時の日本語では、九層という言葉は単に「多層である」ことを意味していたからです。勝家は不幸にも秀吉により倒されてしまい、北ノ庄城は燃やされ、破壊されてしまいました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
初期北ノ庄城の想像図(現地説明板より)

結城秀康が大藩の藩主として再建

1601年、最終的に天下人となった徳川家康の息子、結城秀康が北ノ庄藩の創始者として北ノ庄城を再建しました。秀康は、家康の後継者となった徳川秀忠の兄でした。ところが、彼は秀吉の元に(実質的には人質として)送られ、後には結城氏の跡継ぎ養子となりました。この理由は、彼が父親である家康から愛されていなかったからとも言われています。それでも秀康は、その父親が徳川幕府の創始者となる契機となった、1600年に起こった関ヶ原の戦いで大いに貢献したのです。家康はついに秀康を受け入れ、幕府における重要な役割を任せたのです。秀康は、幕府そのものを除いて、日本で2番目に大きな領地を治めることとなり、その石高は75万石に及びました。彼はまた、将軍の親戚であることを表す「松平」という姓を使うことも許されました。越前国は幕府にとってとても重要な地点であり、日本の首都である京都に近く、最大の領地を持つ前田氏に隣接していました。

福井城跡にある結城秀康の彫像
徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀康の父親、家康が北ノ庄城の一部の縄張りを行ったと言われています。本丸は城の中心部であり4層の天守と御殿があり、石垣と内堀に囲まれていました。二の丸、三の丸、外郭がその中心から同心円状に築かれました。これらの曲輪群は水堀によって隔てられていました。その結果、この城は4重場所によっては5重の水堀に囲まれることになったのです。この城には10基の櫓、40基の門が備わっていました。城の大きさは、約2km四方に達しました。

福井城本丸の想像図(現地説明板より)
現代の地図上に示した江戸時代の城の範囲(現地説明板より)

繁栄した越前松平氏

1604年に秀康が亡くなった後の1606年に城は完成しました。結城氏から改めた松平氏は、城と藩を江戸時代の終わりまで統治しました。その間、城と藩の名前は、第3代藩主の忠昌(ただまさ)によって「北ノ庄」から「福井」に改められました。天守は不幸にも1669年の火災により焼け落ちてしまいましたが、再建はされませんでした。第14代藩主の松平春嶽は、幕末と明治維新の頃、中央政府で活躍しました(幕府の政事総裁職、新政府の議定などを歴任)。

松平忠昌肖像画、福井市立郷土歴史博物館による展示 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平春嶽写真、福井市立郷土歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ちなみに、秀康の子孫は大いに繁栄しました。秀康の息子たちから始まる分家の当主は江戸時代末までに、津山城松江城、前橋城、明石城の城主となりました。これらの分家は、福井城の城主を含めて、しばしば越前松平氏と呼ばれています。秀康の努力は、十分報われたと言えるのではないでしょうか。

津山城
松江城
明石城

「福井城その2」に続きます。

78.丸亀城 その3

「ひとりぼっちの天守」を解消できないものでしょうか。

特徴、見どころ

裏側にもしっかり高石垣

三の丸に戻ると、裏出口から外に出ていくこともできます。城の裏側の方であっても高石垣があるのを見て、また驚かれるかもしれません。実は、現在の裏側の面は、1660年に変更されるまでは城の正面だったのです。その結果、この城は全て石垣で覆われることとなったのです。

三の丸の裏出口
裏側の高石垣

最後に山裾では、野面積みと呼ばれる自然石が積み上げられた、この城では独特の石垣を見ることができます。この石垣は、この城の他の石垣より古い方式により積まれています。よってもともとは、この城の最初の城主であった生駒氏によって築かれたのではないかと言われています。

山裾で見られる野面積みの石垣
タイプが違う石垣のコントラスト

その後

明治維新後、天守や大手門など現存しているものを除き、全て撤去または火災で失われました。城の跡地は第二次世界大戦まで日本陸軍によって使われます。内堀の外側は市街地となりました。丸亀市は1919年に山上に公園を開設しました。天守と大手門の建物は、1957年に重要文化財に指定されました。丸亀市は常に、石垣などの遺跡を保存するために努力しています。しばしば悪天候による被害を受けているからです。また、調査研究を行ったうえで、山上にあった櫓や塀を復元することも検討しています。

修理中の石垣
三の丸石垣

私の感想

城の前に立ったとき、素晴らしい高石垣に本当に感動しました。山上から見る景色も素晴らしいです。しかし、正直に言わせていただくと、天守は見事なのですが、どこか寂しそうに見えます。もし天守の周りの櫓や塀が復元されたら、明石城のように城のもとの姿がよみがえるのではないでしょうか。余談ですが、この街は、讃岐うどんでも有名です。城の周りにはうどん店がたくさんあります。旅がもっと楽しくなるでしょう。

本丸から見える讃岐富士
二の丸から見た天守
寂しいかもしれない天守
現存櫓の間の土塀が復元された明石城

ここに行くには

車で行く場合:
高松自動車場の坂出ICまたは善通寺ICから約20分かかります。
公園周辺にもいくつか駐車場があります。
電車で行く場合は、丸亀駅から歩いて約10分かかります。
東京または大阪から丸亀駅まで:
東海道新幹線または山陽新幹線に乗り、岡山駅で瀬戸大橋線に乗り換えてください。
もし、松山もしくは高知行きの特急に乗った場合には直接丸亀駅に到着します。
もし、高松行きのマリンライナーに乗った場合には坂出駅でもう一回予讃線に乗り換える必要があります。

マリンライナー  (licensed by Sui-setz via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

丸亀城(日本100名城・現存十二天守)、丸亀市
・「よみがえる日本の城13」学研
・「日本の城改訂版第9、78」号」デアゴスティーニジャパン
・「史跡丸亀城跡保存活用計画」丸亀市

これで終わります。ありがとうございました。
「丸亀城その1」に戻ります。
「丸亀城その2」に戻ります。