201.武蔵松山城 その1

全国の多くの「松山城」のうち、この城は便宜上「武蔵松山城」と呼ばれています。単に「松山城」といえば愛媛県松山市の松山城で、こちらが本家という感じがします。しかし武蔵松山城が現役であった戦国時代においては、こちらが本家というべき程の注目を集めました。

立地と歴史

武蔵松山城は、現在の埼玉県吉見町にあった城です。かつては単に「松山城」と呼ばれていましたが、全国には他にも多くの「松山城」がありました。そのため現在では、それらと区別するために便宜上「武蔵(かつて城があった国名)」を頭に付けて呼ばれることが多いです。また城の城下町は、吉見町に隣接する「東松山市」になっていますが、こちらも元は単に「松山」という地名でした。この町に市制が施行されるとき、名前が愛媛県松山市と重複するということで、「東」にある「松山市」となったのです。ちなみに城の名前も「松山市」にある松山城は、単に「松山城」と呼ばれることが多く、本家という感じがします。しかし武蔵松山城が現役であった戦国時代においては、こちらが本家というべき程の注目を集めました。

代表的な松山城の位置

本家の松山城

武蔵国を制するための重要拠点

この城は15世紀後半に、扇谷上杉氏の家臣、上田氏によって築かれたと言われています。当時は関東地方も戦後時代の動乱期に突入していて、扇谷上杉氏は関東管領の山内上杉氏とともに、関東公方の足利氏と戦っていました(享徳の乱)。またその後は内訌により、両上杉氏が相戦うという状況にもなっていました(長享の乱)。武蔵松山城は、武蔵国北部(現在の埼玉県)の中央部(比企郡)に位置し、武蔵国を制するための重要拠点であるとともに、諸勢力の境目にも当たりました。また、当時の主要幹線の一つ、鎌倉街道上道が比企郡を通っており、交通の要所でもありました。そのため、この城は周辺の城(杉山城菅谷城、小倉城など)とともに、頻繁に攻防の対象となりました。しかし、両上杉氏内訌の間に北条氏が関東地方に侵攻し、1545年の川越城の戦いで扇谷上杉氏が滅亡すると、これらの城は北条氏のものとなります。なお、少し前の1537年に北条方の山中主膳が、上杉方の難波田憲重が守る武州松山城を攻めたとき、両将の間で和歌の交換があり、「松山城風流合戦」として伝えられています。(憲重は、1545年に川越城で戦死しました)

埼玉県(武蔵国北部)の範囲と城の位置

杉山城跡
菅谷城(菅谷館)跡
小倉城跡

上杉氏、北条氏の攻防の舞台

武蔵松山城から南東約30kmに位置する岩槻城城主の太田資正は、元は扇谷上杉氏の家臣でしたが、北条氏に従っていました。しかし彼は内心、娘婿(難波田憲重)が城主だった武蔵松山城を奪還し、且つ北条氏を駆逐し、この地方を関東公方や関東管領が協力して支配する秩序に回復させようと考えていました。同じ頃、北条氏によって越後国(現在の新潟県)に追われた関東管領(山内)上杉憲政は、長尾景虎(のちの上杉謙信、以下謙信で統一)に助けを求めていました。これらの動きが1560年の謙信の関東侵攻(第2次越山、第1次は1552年だった)に結びつきます。このとき参陣した関東諸将の名前が載っている「関東幕注文(かんとうまくちゅうもん)」によると、資正も代表的武将の一人として記載されています。謙信と連合軍は翌年北条氏の本拠地、小田原城を包囲し、資正は先鋒を務めたとされています。しかし城は持ちこたえ、長陣により連合軍に不協和音が生じたため、謙信は撤退を決断しました。それでも謙信は憲政から関東管領の職を譲られ名目上関東の支配者となるとともに、武蔵松山城も資正の所有となりました。資正は、以前の主君の親族を探し出し、上杉憲勝として武蔵松山城の城主に据えました。こちらもかつての主従関係が復活したような形となりました。

「太平記拾遺四十六」に描かれた太田三楽齋(資正の法名)、落合芳幾作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の小田原城

ところが、謙信が本拠地の越後・春日山城に戻ると、北条氏は巻き返しにかかります。特に武蔵松山城は重要拠点であり、ときの当主・北条氏康は資正に目をかけていたので、憎さ百倍で攻めかかったようです。資正は謙信に3回目の越山を要請しましたが、独力で北条軍と戦い、撃退に成功しました。このとき、彼の本拠・岩槻城と武蔵松山城との連絡に活用されたのが日本初の軍用犬と言われています。彼は無類の犬好きであり、約100匹もの犬を飼い、両城を行き来させました。そして人による連絡網が遮断されても、犬たちはかいくぐることができ、約2時間で到達したそうです。

春日山城跡
北条氏康肖像画、小田原城所蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岩槻城跡

武蔵松山城は、荒川とその支流・市野川(いちのかわ)に挟まれた、比企丘陵の先端部に築かれていました。丘陵部分の北・西・南側は、市野川が蛇行し、または沼沢地であり、自然の障壁となっていました。また丘陵は岩山であり、その側面は人工的に垂直に削られ(切岸)、敵が登れないようにしていました。唯一開けている東側は、頂上の本郭から4段の曲輪を階段状に構え、深い空堀で区切って防御していました。これらの構造物は丘陵に体積した土を加工して作られました。その上には、櫓・住居・倉庫などが建てられ、曲輪は柵で囲まれていたと考えられています。城の規模や構造は、城主が変わるにつれ、拡充されました。

城周辺の起伏地図

「武州松山古城図」部分、出典:国立国会図書館デジタルコレクション

北条氏康が城を奪回、謙信の救援間に合わず

1462年10月、氏康は満を持して、再び武蔵松山城の奪還に乗り出しました。自らの3万に加え、武田信玄の援軍2万5千を加えた5万5千の軍勢で城を取り囲んだと言われています(人数は誇張されていると思われます)。太田資正単独ではとても対処できる人数ではありません。そのとき謙信は越後国の方にいて、国境の三国峠は雪で閉ざされていました。氏康はこのタイミングを見計らっていたようです。この城でのクライマックスの戦いが始まりました。この戦いでは信玄が擁する鉱山技術者(金堀衆)を動員し、岩山を掘って攻撃をしかけようとしたと伝わります。また、城の水の手を断とうとしました。防御側は鉄砲を撃ちかけ、またはトンネルに水を流したりして対抗します。攻撃側は竹束で作った防御壁で鉄砲玉を防ぎながら攻城を続けますが、城はなかなか落ちません。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵、16世紀 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そうするうちに謙信は雪を押して4度目の越山を果たし、現地に駆け付けようとします。焦った攻撃側は、城主の上杉憲勝に助命を条件に交渉しました。そのときまでに水の手が断たれていたこともあり、1463年2月ついに城は開城しました。謙信は、武州松山城から数kmの石戸城まで来ていましたが、間に合いませんでした。謙信は大変悔しがり、開城した憲勝の不甲斐なさを罵り、資正を叱責したと複数の軍記物や記録に書かれています。その後、憲勝が差し出していた人質の子弟を自ら切り捨てたとも、若年のため許したとも、書物によって記載が分かれています。また謙信は自らの書状に「城の敗残兵は援軍が来ていることを知らなかった」と書いているので、軍用犬のことが本当だったとしても、このときは機能していなかったことになります。氏康にとってこの勝利は決定的でした。翌年には資正を岩槻城から追放し、着々と関東再制覇を進めていきます。謙信が亡くなった後、氏康を継いだ北条氏政は関東地方をほぼ支配し、武蔵松山城は北条配下の上田氏が再び治めました。

謙信が着陣した石戸城の位置

石戸城跡

徳川氏の治世になって廃城

1590年に豊臣秀吉が天下統一のため、関東地方に侵攻したとき、城主の上田憲定と主力兵は、北条氏の本拠・小田原城に召集されました。よって武蔵松山城には盗人までもが召集され、2千5百名が立て籠りました。この城を攻めたのは秀吉軍20万以上のうち、3万5千名の北国勢ですが、分担して複数の城を攻めていたので、何人が武蔵松山城を囲んだかはわかりません。しかし、主力の前田利家と上杉景勝が参加しているので、それ相応の人数であったと思われます。代理の城主は、圧倒的な彼我の差を見て、戦わずに開城してしまいました。北条氏が滅びると、関東地方には徳川家康が入り、武蔵松山城には一族の松平家広が入れられました。しかし、家康が天下を取った後の1601年に、跡継ぎの忠頼が浜松城に移され、武蔵松山城は無主となりやがて廃城となりました。

武蔵松山城跡

「武蔵松山城その2」に続きます。

114.唐沢山城 その1

最後の城主となった佐野信吉は、関東地方では稀な高石垣を城の主要部に築き上げました。これには豊臣秀吉による援助があったと考えられます。秀吉やその部下たちは、西日本で多くの似たような石垣を築いていたからです。

立地と歴史

佐野氏が戦国時代に築城

唐沢山城は、現在の栃木県佐野市にあった城です。この城は、関東平野の北端に沿った大規模な山城でした。言い伝えによれば、有名な武将であった藤原秀郷が平安時代の972年にこの城を築いたとされていますが、歴史家によれば、秀郷の子孫であり、この城を長く治めた佐野氏によって作られた話であろうとのことです。調査研究の結果、佐野氏は最初は15世紀まではこの山の西麓に館を構えていましたが、戦国時代になって関東地方で多くの戦が起こるようになって、山の上に城を築いたか拡張したと考えられています。金山城箕輪城など関東地方の他の有名な山城は、この厳しい状況を乗り切るために同じ時期に築かれています。佐野氏は最初はこの山城を緊急事態のときに使っていましたが、やがて生き残りのためそこを居城とするようになります。

佐野市の範囲と城の位置

城周辺の起伏地図

佐野氏が当初住んでいた山麓の館跡(現・興聖寺)
唐沢山城跡
金山城跡
箕輪城跡

上杉謙信が執着した城

一方、関東地方を支配したい有力戦国大名は、その有利な立地条件から唐沢山城を確保したいと思うようになります。上杉謙信はそのうちの一人で、その実現に執着しました。そのことを如実に示すエピソードがあります。1560年前後に謙信が最初に関東地方に侵攻したとき、北条氏の大軍が唐沢山城を包囲する中、僅かな近臣とともに城を訪れ、城主の佐野昌綱(さのまさつな)を説得し、謙信への支持を取り付けたのです。ところが、謙信が越後国の本拠地、春日山城に引き上げると、北条氏は領土奪還を始め、地元領主たちに服従を強いました。昌綱もその一人であり、北条方に寝返りせざるをえませんでした。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城跡

最強の武将の一人とされていた謙信は激怒し、唐沢山城を攻撃しますが、城もまた大変強力であり、強攻策では落とせませんでした。その後、昌綱は謙信に降伏することになりますが、謙信が引き上げると、また同じ事が繰り返されました。その結果、彼らは少なくとも5回も戦いました。謙信は一時、昌綱を城から追放し、親族(虎房丸、人質として引き取った昌綱の子という説もあります)や重臣を送り、城の直接統治を行いました。ところが、謙信はなぜか昌綱に城を返してしまいます。遠くにあるこの城をコントロールする難しさを感じていたのかもしれません。

佐野昌綱肖像画、大庵寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣秀吉の援助で高石垣が築かれる

唐沢山城を含む関東地方は、1570年代から1580年代にかけて、北条氏に帰属するようになります。北条氏もまた、謙信が行ったように、この城に一族の北条氏忠を送り込みました。一方、正綱の一族、佐野房綱(さのふさつな)は関東地方から西日本に逃れ、当時天下人として君臨していた豊臣秀吉に仕えました(房綱は当時は天徳寺宝衍(てんとくじ ほうえん)と名乗っていました)。そして、秀吉が1590年に関東地方に侵攻したときには、その先導役を務めたのです。その結果、房綱は唐沢山城の城主に返り咲きました。ところが、秀吉もまたこの城を自身の影響下に置きたかったようです。秀吉は、近臣である富田信高の弟を、房綱の跡継ぎに送り込み、佐野信吉(さののぶよし)となります。そして、彼が最後の当主、最後の城主となりました。これは、秀吉によって関東地方に転封されたライバルの徳川家康を、信頼できる誰かに監視させる目的であったと思われます。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

唐沢山城は、いくつもの峰を持つ大きな山の上に築かれました。山頂と峰上には多くの曲輪が設けられ、そこには矢倉、物見、番所、射撃所(「大鉄砲」「大筒」「国崩し」などと呼ばれました)などが置かれ、敵が来ないか監視し、来た場合には反撃できるようになっていました。峰々や曲輪群は、深い堀切によって区切られ、敵の攻撃を弱らせることができました。城に向かうには南側と西側の2つの主要道があり、山頂近くの大手門の前で合流し、城兵のコントロール下にありました。山麓地区は城主と重臣たちの屋敷地となっていて、防衛のため長大な土塁によって囲まれていました。これらは、佐野、上杉、北条の各氏によって長い期間をかけて構築されてきたのです。

城があった唐沢山
山麓にある土塁跡
山麓にある重臣屋敷跡(隼人屋敷)

この城の基礎部分は基本的には土造りで、当時の東日本での築城においてはそれが一般的でした。しかし、最後の城主となった佐野信吉は、この地方では稀な高石垣を城の主要部に築き上げました。これには秀吉による援助があったと考えられます。秀吉やその部下たちは、西日本で多くの似たような石垣を築いていたからです。一方、関東の家康は、そのような高石垣を築く技術や石工集団をまだ持ち合わせていませんでした。すなわち、強力な唐沢山城にある石垣は、家康にとって大いなる脅威と映ったに違いありません。

唐沢山城の高石垣

徳川家康の命で突然の終焉

秀吉の没後、1600年前後に家康が天下を取ったとき、信吉は家康に味方することで何とか生き延びました。ところが、唐沢山城と佐野氏の没落は突然やってきます。1602年に家康は信吉に、唐沢山から近くの平地にある佐野城への移動を命じました。その理由としては、山城の上から家康の住む江戸城を見下ろすことが無礼とされたから、と言われています。そして1614年に信吉はついに、兄の富田信高の罪に連座して改易となってしまいました。総じてみると家康は、信吉のような者が、唐沢山のような強力な城に籠って反乱を起こすことを、防ぎたかったようです。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
佐野城跡

「唐沢山城その2」に続きます。

133.鮫ヶ尾城 その1

御館の乱と上杉景虎の終焉の地

立地と歴史

春日山城の支城

鮫ヶ尾城は、現在は新潟県である越後国の西部にあった山城でした。この城が最初にいつ築かれたのかは分かっていませんが、16世紀後半には上杉謙信の本拠地である春日山城の支城の一つとなっていました。謙信は、その当時の日本では最も有力な戦国大名の一人であり、その本拠地を守るために城のネットワークを構築したのです。鮫ヶ尾城は、実のところ、支城としてよりも御館(おたて)の乱の最終決戦地として、そしてその乱で敗者となった上杉景勝の終焉の地として有名となっています。

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
春日山城を中心とした支城ネットワーク、上越市埋蔵文化財センターにて展示、鮫ヶ尾城は赤丸内

景虎、北条氏から上杉氏の養子となる

上杉景虎は謙信の養子でしたが、もとは謙信と関東地方をめぐって戦っていた北条氏の一族として生まれました。景虎が上杉家に来ることになった理由は、1569年に武田氏に対抗して上杉と北条が一時的に講和を結ぶことになったからです。武田氏(武田信玄)は、武田・今川・北条による三国同盟を今川氏の両国に攻め込むことで破っていたのです。北条氏(北条氏康)はこれに大いに怒っていました。ところが、上杉と北条の新しい同盟はたった2年しか続かず、北条は上杉との同盟を止めて1571年に再び武田と同盟を結びました(北条が氏康から氏政に代替わりしたことが大きな要因でした)。通常であれば、ここで景虎は北条に返されるはずでした。ところが謙信はなぜか景虎を上杉の一員として留めたのです。一説として謙信が景虎を個人的に気に入っていたと言われています。景虎の肖像画は残っていないのですが、記録によれば、彼は魅力的でかつ眉目秀麗だったとされています。

上杉景虎の想像画、現地説明板より

謙信の死後、2人の養子が対立

北条との同盟が手切れになったことで、謙信は親族よりもう一人の養子を迎えます。それが上杉景勝でした。謙信は、景虎が景勝を支え、お互いに協力していくことを願ったようです。また多くの歴史家は、謙信は1578年3月の突然の彼の死までに、明確に後継者を決めていなかったと言います。実際には、二人の養子は養父の死後しばらくは、景勝が当主であるかのごとく同じ春日山城で暮らしていました。ところが周りの状況が二人の平穏を許してくれなかったのです。景勝の古くからの家臣は、上杉家の中枢として当然景勝を支持しました。越後国の地方領主や他国の戦国大名は景虎を支持しました。彼が外部出身者だからです。特に景虎の実家である北条氏とその同盟者である武田氏は、景虎が後継者となることを望みました。このことにより二人の候補者は1578年5月に戦うことになってしまったのです。この戦いは御館の乱と呼ばれています。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

御館はもともと、元関東管領で、謙信の養父でもあった上杉憲政の屋敷でした。景虎は春日山城から約5km離れた御館に避難していたのです。この場所は乱の間、1年近く彼の本拠となりました。この戦いの初期の段階では景虎の方が他からの支援を受けられることで、景勝より優位な立場にありました。6月には武田勝頼が軍勢を率いて景虎を支持するために越後国に達していたのです。ところが景勝は、多額の金銭贈与と領土の割譲を約束することで、勝頼を引き返させてしまったのです。その結果、状況は逆転しました。景勝は多くの忠誠を誓う家臣がいる一方、景虎はその出自のせいで頼りになる家臣は少なかったのです。景勝はついに御館の屋敷に対して総攻撃をかけ、1579年3月に御館は陥落しました。景虎はそこから逃れ、彼の実家である北条氏の本拠地である小田原城に至ろうとしたのです。そして、彼を支援する堀江宗親(ほりえむねちか)の城に立ち寄りました。そして、そこが彼の最後の地となったのです。それが鮫ヶ尾城でした。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
炎上する御館の想像図、斐太歴史の里総合案内所にて展示

景虎敗れ、鮫ヶ尾城で自刃

鮫ヶ尾城は一支城でしたが、規模は大きく、それは謙信と勝頼の父である武田信玄が何度も戦った信濃国(現在の長野県で越後国の南方)の途上にある場所だったからです。この城は当時の典型的な山城であり、自然の地形を利用して防御を固めていました。土造りの多くの曲輪が山の峰上に築かれていました。これらの曲輪は人工的な堀切によって区切られ、両側を垂直にカットされた細い通路によってつながっていました。谷を通る通路は曲がりくねって作られ、敵が城を容易に攻撃できないようになっていました。

川中島古戦場にある武田信玄(左)と上杉謙信(右)の銅像
鮫ヶ尾城跡図、現地説明板より

いくら強力な城に滞在しているとは言え、景虎は他からの援軍がなければ生き残ることはできません。彼は、景勝は発した景虎追討軍にすぐに追いつかれ攻撃されました。ある記録によれば、城主である堀江宗親まで景虎を裏切ったと言われています。景虎はついに、景勝の軍勢により火をかけられた城内で自刃しました。享年26歳でした。

鮫ヶ尾城跡

「鮫ヶ尾城その2」に続きます。