188.原城 その1

島原の乱決戦の地

立地と歴史

有馬氏が島原半島に築城

原城は、1638年の島原の乱終焉の地として知られています。この城は、九州地方の西部、島原半島の突端近くに築かれました。この地方の戦国大名の一つ、有馬氏が15世紀の終り頃に最初にこの城を築きました。16世紀後半の有馬氏の当主であった有馬晴信は、キリシタン大名として知られていました。島原半島には、1563年にポルトガルの宣教師が来航し布教を始めた口之津港がありました。キリスト教はこの半島周辺に急速に広まり、この地域は貿易によっても繁栄しました。晴信は、有馬氏が以前に築いた日野江城を居城としていました。彼は、17世紀初めに原城の大改修を行いました。恐らくは新しい本拠地とするためだっと思われます。ところが、彼は原城に移ろうとする前の1612年に、徳川幕府により罰せられてしまいます(岡本大八事件)。彼の息子も1614年に他の地に移されました。

城の位置

有馬晴信像複製、福井県坂井市台雲寺蔵、有馬キリシタン遺産記念館にて展示
現在の口之津港
口之津に来航したヴァリニャーノ神父の銅像

自然の地形を生かし、本丸には豪華な石垣

原城は、有明海に沿ったいくつもの丘陵の上に築かれました。本丸、二の丸、三の丸がそれぞれ独立した丘陵に築かれたのです。これらの丘陵の海際は急な崖になっていました。また、自然の地形を生かした広大で深い空堀によって隔てられていました。そして、陸地側は沼沢地となっていました。すなわち、この城の防御力は非常に高かったのです。特に、本丸は周りを全て石垣によって囲まれていました。虎口と呼ばれる入口は大規模で、食い違いの巨石を使って、ジグザグに進むルートが設定されていました。本丸の中には、天守か大きな櫓がありました。これらの構造物は、城主の権威を表していたと考えられます。二の丸と三の丸は土造りで、恐らくは武家屋敷地として使われていました。有馬氏を引き継いだ松倉氏は、原城を使わず、本拠地として新しく島原城を築きました。原城は1615年に一時廃城となりましたが、少なくとも石垣を含む基礎部分はそのまま残っていました。

原城跡を俯瞰した写真(現地説明板より)

城周辺の起伏地図

本丸に残る石垣
島原城

松倉氏の圧政により島原の乱が発生

松倉氏は、領内の農民やキリスト教徒に圧政を加えました。1612年以降、徳川幕府はキリスト教信者になることを禁じていました。1637年、島原半島の人々は、同じような状況に陥っていた有明海を隔てた天草の人々と一緒に、松倉氏と幕府に対して反乱を起こしました。彼らは公には、カリスマ的なクリスチャンの少年、天草四郎の下に統率されていましたが、実際には有馬氏や他の大名に以前仕えていた浪人衆によって指導されていたのです。反乱軍は最初、松倉氏の本拠地である島原城を攻撃するも失敗しました。そして、自ら原城を修理し、そこに立てこもることにしたのです。その理由としては、彼らは日本の他の地域のキリスト教徒や、ポルトガルのようなカトリック国からの援軍を待っていたのだと言われています。

天草四郎想像図、島原城キリシタン資料館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より
天草四郎陣中旗、天草キリシタン館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

3ヶ月の籠城の後に壊滅

1637年の12月に、婦女子を含む3万7千人が籠城を始めました。幕府からの追討軍は、最初は城を強攻しましたが失敗します。幕府軍の指揮官である板倉重昌(しげまさ)までが、銃撃により命を落としました。城が強力であったことと、その反撃の方法が玄人レベルにあったためです。幕府軍は戦術を変え、12万人の兵力で城を包囲することにしました。この籠城戦は3ヶ月近く続きます。しかしその間、反乱軍に対する援軍はついに現れませんでした。1638年2月の終わりに、守備側の兵糧が尽きたことを見計らい、幕府軍は城に総攻撃をかけました。原城は落城し、反乱軍は壊滅しました。

板倉重昌肖像画、板倉温故会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
島原の乱のジオラマ、有馬キリシタン遺産記念館にて展示

反乱軍の生き残った人々に対する処置は過酷でした。いくらかの逃亡者以外のほとんど全ての人たちは殺されました。多くのクリスチャンたちは、殉教者として自ら処刑されることを望んだといいます。原城は、幕府により完全に破壊され、そして埋められました。処刑された人々の遺体も、城とともに埋められたのです。この地域の領主、松倉勝家は、失政のかどで処刑されました(名誉ある切腹ではなく斬首されました)。島原の乱は、日本の歴史の中の最も大きな悲劇の一つでした。この事件はまた、徳川幕府による鎖国政策の導入を加速することにもなったのです。

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

「原城その2」に続きます。

87.肥前名護屋城 その2

壮大な秀吉の野望の跡

特徴、見どころ

大手口から三の丸へ

現在、肥前名護屋城跡は歴史公園としてよく整備されています。もし車で城跡を訪れるようでしたら、公園のすぐそばにある佐賀県立名護屋城博物館の駐車場に停めることができます。観光客は通常、最初は大手口から歩いて城跡に入っていきます。一目でどんなにこの城跡が巨大なのかわかると思います。また、大規模な石垣がいまだに城跡を囲んでいるのも見ることができます。しかし、それらの多くがV字型に崩されています。実はこれは意図的にそうされているのです。それから、大手口から進んで東出丸に歩いて行くと、ルートはそこからほとんど180度曲がって三の丸に至ります。

大手口付近から見える城跡
大手口
V字型に破壊された石垣
東出丸
東出丸から見た大手口ルート
ルートは反転して三の丸に向かいます
名護屋城博物館の模型写真に大手口ルートを追記

防御の要、三の丸

三の丸は防御の要だったと考えられます。この曲輪は本丸のとなりにあり、大手口ルートと搦手口ルートの双方がここに集まっているからです。搦手口からの入口は、今でも大きな櫓跡や巨石を使った石垣に囲まれています。この曲輪の中には井戸の跡があり、この井戸は籠城に備えて作られたのでしょう。

三の丸
「肥前名護屋城図屏風」に描かれた三の丸(現地説明板より)
搦手口ルートからの入口
入口から見た搦手口ルート
井戸跡

城の中心部、本丸

それから石段を歩いて、石垣に囲まれ互い違いになっている大手門跡を通り、本丸に入っていきます。本丸はとても大きいのですが、城の記念碑がある以外は空き地になっています。どんな建物が建てられていたかを示す平面展示がいくつかあります。例えば、南西隅櫓や多聞櫓について、礎石、砂利敷き、舗装などによって表現しています。

本丸周辺の地図

本丸へ向かいます
本丸
南西隅櫓跡
多聞櫓跡

天守台石垣は曲輪の北西隅にあります。その石垣自体は少ししか残っていませんが、そこからは玄界灘や城周辺の地域を見渡すことができます。

天守台
石垣は少ししか残っていません
天守台からの眺め

「肥前名護屋城その3」に続きます。
「肥前名護屋城その1」に戻ります。

87.肥前名護屋城 その1

秀吉の最大にして最後の野望

立地と歴史

朝鮮侵攻のための巨大な陣城

肥前名古屋城は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻を進めるために築かれた陣城で、九州北西部にありました。秀吉は、16世紀後半に天下統一を成し遂げた天下人として知られています。彼は、1590年の小田原征伐にて、小田原城に立てこもる北条氏を下すことで統一を完成させました。ところが、天下統一の間もない1591年に、秀吉は中国征服を宣言し、日本中の大名たちにその準備をするよう命じました。秀吉配下の多くの大名や武士たちも、この新たな領地が得られる計画に賛同しました。天下統一後の戦がない中、日本国内では新たな領地を得ることができなかったからです。

城の位置

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小田原城

秀吉はまた、朝鮮に近い九州の地に陣城を築くよう大名たちに命じました。これが肥前名護屋城です。陣城とはそもそも一回限りで使われ、単純な作りでした。秀吉はかつて小田原征伐のときに、もう一つの豪華に作られた陣城である石垣山城を築きました。ところが、肥前名護屋城はさらに大きく、強力に作られました。その大きさは、秀吉の本拠地の大坂城に次ぐほどでした。この城の建設は、大名たちによる割り普請の結果、わずか8ヶ月で完了しました。約120の大名たちが集まり、城の周りに彼ら自身のための陣屋の建設も行いました。この城が築かれた場所は、もともと単なる漁村でした。ところが、ここは極めて短期間に日本有数の都市になったのです。20万人近くの兵士たちがこの軍事都市から朝鮮に渡り、10万人以上の人たちがここに留まりました。

石垣山城跡
大坂城
肥前名護屋城、城下町、各大名の陣屋敷地の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

豪華かつ強力な作りの城

肥前名護屋城の一番高い場所には、天守と御殿を伴う本丸がありました。登城ルートは五つありました。主なものとしては、大手口、搦手口、そして山里口が挙げられます。大手口は、南方から本丸の東側にあった三の丸に、東出丸を経由して通っていました。本丸の大手門は、この三の丸に向かって開いていました。搦手口は、本丸の西側にあった二の丸の外側から始まっていました。ところが、このルートは直接本丸には至らず、その南側を回り込んで東側の三の丸に通じていました。歴史家の中には、こちらの方がより防御がしっかりしているため、搦手口こそが本当の大手口であったのではと推測しています。山里口は、三の丸より低く、またその北側にあった山里丸に通じていました。茶室が付属した秀吉の居館が、手前の方に建てられました。全ての曲輪は石垣で囲まれており、城を強固にするとともに、秀吉の権威を見せつけていました。

名護屋城模型の本丸及び天守部分
現地案内図に3つの主要登城ルートを加筆
名護屋城模型の秀吉居館部分(手前の方)

長引く戦いと秀吉の死による挫折

朝鮮侵攻は1592年に始まりました(文禄の役)。この戦いはもとは中国征服が目的でしたが、必然的にその途上にある朝鮮で戦いが起こりました。日本軍は、最初は短期間のうちに朝鮮のほとんどを占領しました。秀吉は、肥前名護屋城に居座り、そこから軍を指揮していました。彼はそのよい知らせを聞き、満足した様子で、中国と朝鮮をどのように分割するかということまで計画しました。ところが、中国の明王朝から派遣された援軍や、朝鮮の義勇兵や水軍による反撃により戦線は南朝鮮で膠着しました。1593年には明王朝からの使節が停戦交渉のために肥前名護屋城を訪れました。

1592年の釜山鎮の戦いを描いた「釜山鎮殉節図」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日本の軍船、安宅船の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)
明軍の武器、フランキ砲の模型(佐賀県立名護屋城博物館にて展示)

この交渉は長期間続きました。しかし決裂し、1597年に戦いが再び朝鮮南部で起こりました(慶長の役)。戦意に乏しい日本軍は、無益な戦争を明軍と戦わねばなりませんでした。朝鮮の無辜の人民も多く殺されました。1598年の秀吉の死の直後、ようやく日本軍は朝鮮から引き上げました。この戦いの失敗は、豊臣氏の凋落と徳川幕府の設立を早める結果となりました。肥前名護屋城は、撤退とともに廃城となり、静かな場所へと戻っていきました。

1597年の蔚山城の戦いを描いた「蔚山籠城図屏風」部分、 福岡市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「肥前名護屋城図屏風」、佐賀県立名護屋城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「肥前名護屋城その2」に続きます。