160.飯盛城 その2

過去には石垣によって覆われていました。

特徴

四条畷神社からの山道

現在、飯盛城跡を通る山道はとても人気のあるハイキングコースとなっています。城跡を訪れる場合、いくつかあるコースから選ぶことができます。今回はJR四条畷駅から四条畷神社を経由するコースをご紹介します。四条畷神社は、14世紀の南北朝時代の武将、楠木正行を祀っています。彼は楠木正成の息子で、南朝方に属していましたが、1348年の四条畷の戦いで足利幕府軍に倒されてしまいました。足利幕府は北朝方で、飯盛山に陣地を構え、正行を破ったのです。

城周辺の航空写真

四条畷神社への参道
四条畷神社

北部の曲輪群と広大な景色

神社の裏手から伸びる山道は長くて急です。山を300m近く登っていく必要があります。山道は全て山の西側にあるため、頂上に着くまでは石垣を見ることはできません。坂を登り切ると、城の北側部分に到着します。この部分は狭く、小さな曲輪がいくつか見られます。突然、京都から大坂まで含む広大な街の景色が目に飛び込んできます。山の東側では現存している石垣も見ることができます。しかし、石垣より下の方に行くことはできません。山の東側の道は放棄されているままで危険だからです。この周辺には御体塚と呼ばれる三好長慶の墳墓もあります。

山頂へ伸びる山道
北部の曲輪群からの景色
北部の曲輪群に残る石垣

南部の曲輪群~本丸と千畳敷

山道を南の方に進むと、城の南側部分の入口で道は二つに分かれます。右側に行くと山の頂上にある本丸に着きます。いくつか登山客のための見所があります。展望台、正行の銅像、第二次世界大戦以前に使われた国旗掲揚台跡、城の標柱などです。ここでも西方に大阪平野の素晴らしい景色を楽しめます。先ほどの分かれ道を左の方に行った場合には、本丸の東側にある多くの石垣を見ることができます。最近、石垣に関する新しい発見が次から次へと報告されています。

山道の分岐点
楠木正行の銅像 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
国旗掲揚台跡
本丸からの大阪平野の眺め
本丸東側に残る石垣(大東市ウェブサイトから引用)

本丸の南側には、城で一番大きな曲輪があり、千畳敷と呼ばれています。ここには長慶の御殿があったと考えられていて、現在は放送塔の設備があります。この曲輪の北側は細い土橋により、南側は石垣を伴った虎口により守られていました。両方の遺跡を現場で見ることができます。

放送塔設備がある千畳敷曲輪
曲輪の北側にある土橋
曲輪の南側にある虎口跡

「飯盛城その3」に続きます。
「飯盛城その1」に戻ります。

159.芥川山城 その1

三好氏が治めた戦国時代の代表的な山城

立地と歴史

戦国時代の山城

戦国時代の16世紀、近畿地方では戦は日常茶飯事でした。戦国大名たちは普段は京都のような平坦地にある館に住み、非常時に山城を使っていました。ところが、そのやり方は、次の戦がいつ起こるのかわからない中では大変危険なことになったのです。その結果、彼らは常に山城に住むようになりました。その山城の頂上には館があり強力な防衛システムを備えていました。芥川山城は、この地方の代表的な山城だったのです。

城の位置

三好長慶が本拠地とする

この城は最初は1516年に、足利幕府の重臣であった細川高国によって築かれましたが、三好長慶の本拠地として有名です。長慶は四国の阿波国(現在の徳島県)出身で、細川氏に仕えていました。彼は、他の幕府の家臣たちが内輪もめを続ける一方で、政治軍事両面で力をつけていきます。彼の実力が将軍であった足利義輝に拮抗した時、義輝は長慶を殺そうとしました。長慶は将軍を京都から追放し、1553年に彼自身による統治を開始しました。同じ年に彼はまた芥川山城に居を定めるのです。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

防御力と権威を備えた山城

この城は、摂津国(ほぼ現在の大阪府北部に当たる)三好山の頂上にありました。この山自身が非常に防御力が強く、北と西側は摂津峡に囲まれていました。この城に行くには、東側から峰伝いに行く方法と、南側から谷沿いに行く方法がありました。長慶自身も以前にこの城を攻めたことがあり、そのときにこの城の強さを認識したようです。

城周辺の起伏地図

城の復元想像図(現地説明板より)

山の頂上は本郭となっていて、御殿がありました。他の多くの曲輪が本郭東側の峰の周辺に配置されていました。通路はこれらの曲輪に沿っていて、土塁・土橋・空堀・食い違い虎口などの構造物により、容易に進めないようになっていました。また、大手道が本郭の南側を通っていましたが、とても急であり、石垣を備えた大手門によって守られていました。この石垣は、この城の権威をも表していて、日本の城の中では石垣を意識的に使った最も早い事例の一つであるとされています。

本郭周辺の想像図(現地説明板より)
本郭東側の曲輪群想像図(現地説明板より)
大手道と石垣の想像図(現地説明板より)

織田信長も一時滞在

長慶は1560年に彼の息子にこの城を譲り、飯盛城に移っていくのですが、芥川山城は三好氏の重要な拠点として使われ続けました。1568年、織田信長が近畿地方を制するために上洛します。このとき信長は芥川山城を占領、滞在し、部下にこの城を与えました。しかし、信長が天下統一を進めていくにつれ、芥川山城のような城は必要なくなってしまいます。この城はその後廃城となりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「芥川山城その2」に続きます。

58.明石城 その2

今でもその防御力が目に見えてわかる城です。

特徴

駅から見える城

もし電車で明石城を訪れるのでしたら、明石駅のホームに降りたときからこの城がどんなに頑丈であったのか目の当たりにするでしょう。2基の現存している三重櫓、左側の坤(ひつじさる)櫓と右側の巽(たつみ)櫓が丘の上で漆喰塀によるつながっている姿が見えるのです。素晴らしい光景です。

明石駅ホームから見える明石城

城周辺の航空写真

大手門周辺

城跡は、中堀の内側にある明石公園の一部として整備されてきました。公園の正面入り口は、城の大手門でした。その石垣は残っていて、「桝形」と呼ばれる四角い空間を形作っています。平地部分には散策ゾーンや各種施設があり、球場があったところはかつては城主の御殿が建っていました。

明石公園入口
大手門の桝形部分

本丸を守る防御力

本丸の坤櫓は目の前の高石垣の上にあります。櫓に向かって階段を登っていき、櫓と天守台石垣の下にたどり着きます。しかしながら、本丸にはそのまま入ることはできません。本丸に入るには、本丸下にある稲荷曲輪を回って、後ろ側に行く必要があるのです。敵方は本丸に行きつく前に反撃を受けることになったでしょう。

そびえ立つ坤櫓
本丸に向かう階段
立ちふさがる天守台石垣
裏側にある本丸の入口

本丸の内部

本丸の中では、2基の現存櫓を間近に見ることができます。日本の城では12基残っている三重櫓のうちの2つなのです。櫓の間にある漆喰塀は最近復元されたものです。塀の中ほどにある展望台からは素晴らしい街の景色が見えます。巽櫓の向こうには、明石海峡大橋も望めます。

間近に見る坤櫓
復元された漆喰塀
本丸からの眺め
明石海峡大橋も見えます

本丸をサポートする二の丸、東丸

二の丸は、本丸とつながっています。そこには今は建物はありませんが、石垣と、石垣に囲まれた入口が良好な状態で残っています。二の丸からは、本丸の巽櫓がかっこよく見えます。東曲輪は二の丸のとなりにあり、そこも公園の入口となっています。

二の丸から本丸への入口
二の丸から見た巽櫓
二の丸の石垣と石段
東丸

「明石城その3」に続きます。
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