87.肥前名護屋城 その2

壮大な秀吉の野望の跡

特徴、見どころ

大手口から三の丸へ

現在、肥前名護屋城跡は歴史公園としてよく整備されています。もし車で城跡を訪れるようでしたら、公園のすぐそばにある佐賀県立名護屋城博物館の駐車場に停めることができます。観光客は通常、最初は大手口から歩いて城跡に入っていきます。一目でどんなにこの城跡が巨大なのかわかると思います。また、大規模な石垣がいまだに城跡を囲んでいるのも見ることができます。しかし、それらの多くがV字型に崩されています。実はこれは意図的にそうされているのです。それから、大手口から進んで東出丸に歩いて行くと、ルートはそこからほとんど180度曲がって三の丸に至ります。

大手口付近から見える城跡
大手口
V字型に破壊された石垣
東出丸
東出丸から見た大手口ルート
ルートは反転して三の丸に向かいます
名護屋城博物館の模型写真に大手口ルートを追記

防御の要、三の丸

三の丸は防御の要だったと考えられます。この曲輪は本丸のとなりにあり、大手口ルートと搦手口ルートの双方がここに集まっているからです。搦手口からの入口は、今でも大きな櫓跡や巨石を使った石垣に囲まれています。この曲輪の中には井戸の跡があり、この井戸は籠城に備えて作られたのでしょう。

三の丸
「肥前名護屋城図屏風」に描かれた三の丸(現地説明板より)
搦手口ルートからの入口
入口から見た搦手口ルート
井戸跡

城の中心部、本丸

それから石段を歩いて、石垣に囲まれ互い違いになっている大手門跡を通り、本丸に入っていきます。本丸はとても大きいのですが、城の記念碑がある以外は空き地になっています。どんな建物が建てられていたかを示す平面展示がいくつかあります。例えば、南西隅櫓や多聞櫓について、礎石、砂利敷き、舗装などによって表現しています。

本丸周辺の地図

本丸へ向かいます
本丸
南西隅櫓跡
多聞櫓跡

天守台石垣は曲輪の北西隅にあります。その石垣自体は少ししか残っていませんが、そこからは玄界灘や城周辺の地域を見渡すことができます。

天守台
石垣は少ししか残っていません
天守台からの眺め

「肥前名護屋城その3」に続きます。
「肥前名護屋城その1」に戻ります。

134.富山城 その1

基本的に土塁と水堀によって築かれた城

立地と歴史

越中国の中心地

富山市は、富山城の城下町として発展し、現在は富山県の県庁所在地となっています。この城は、最初は16世紀前半に神保氏によって築かれました。その場所は、現在の富山県にあたる越中国の中心部の平地でした。その地域はまた、北陸街道と飛騨街道という主要な2つの街道が交わる地点でもありました。その当時、そのような場所に城を築くことは危険だったかもしれません。そのときは戦国時代の真只中であり、多くの戦いが起こっていたからです。越中国の戦国大名たちは通常は防衛のために、増山城のような山城に住んでいたのです。富山城の場合は、神通川や水堀が城を囲んでおり、それが防御の手段となっていました。

城の位置

増山城跡

佐々成政が越中国を統一

上杉氏、一向宗、織田氏といった多くの戦国大名たちが、富山城をめぐって戦いました。最終的には1582年に、佐々成政がこの城を手に入れ、越中国全域を支配しました。しかし、成政が天下人の豊臣秀吉に反抗したことで、1585年には秀吉が越中国に侵攻しました。同じ年に成政は秀吉に降伏し、富山城は破壊されてしまいました。秀吉は、越中国を前田利長に与えました。利長は、後の江戸時代に加賀藩の初代藩主となりました。1605年に、利長は藩主の座を、後継ぎ(弟の前田利常)に渡し、藩の本拠地であった金沢城から、隠居のために富山城に移ってきました。後継ぎの利常はまだ若年であったために、利長はまだ藩の実権を握っていました。彼は、新しい本拠地として富山城を再建したのです。

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前田利長肖像画、魚津歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
金沢城

前田利長が城を完成

利長は、このとき富山城の形を完成させたと言われています。大河である神通川が、本丸の北側を自然の障壁として流れていました。川には浮橋が渡されていて、後には名所にもなりました。本丸を守るために、二の丸が南にあり、東出丸が東にあり、西には西の丸がありました。それぞれの曲輪は独立していて、水堀に囲まれていました。それらの曲輪は、本丸とはそれぞれ一本の土橋のみでつながっていました。曲輪は基本的には土塁により形作られていましたが、本丸の正門など3か所の主な門の周りは石垣で覆われていました。また、本丸には御殿があり、門の石垣の上には櫓が築かれていたと考えられています。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南にあり、武家屋敷地として使われていました。しかし城は、1609年に起こった不慮の火災により不幸にも焼け落ちてしまいます。城にとっては、2度目の災難でした。利長はやむを得ず高岡城に移りました。

越中国富山古城絵図、金沢市立玉川図書館蔵(富山市郷土博物館の展示より)
歌川広重「六十余州名所図会」より「 越中 冨山 船橋」 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高岡城跡

富山藩の本拠地

1639年、利長の甥、前田利次が、富山藩として支藩を設立することを許されました。彼は一時新しい城を築くことを考えましたが、財政難のため、富山城を再利用することにしました。その代わりに、彼は城下町を守るために外郭土塁と水堀を作らせました。利次の息子、正甫(まさとし)は産業を振興し、特に製薬に力を注ぎました。この製薬業での成功は、全国的に有名な「富山の薬売り」につながります。富山藩は天守を築くことも計画しましたが、これも財政難のために諦めました。その代わりに、東出丸に千歳御殿を作り、祭礼のときには庶民が立ち入ることを許可しました。そのほか、この城は江戸時代にを通じて、何度も火災、洪水、地震などによる被害を受けました。その度に藩は城を修復してきたのです。比較的簡単な構造の土塁や水堀は、多くの災害から城を守るのに適していたのかもしれませんし、維持修復を行うのも容易だったのでしょう。

富山城址公園にある前田正甫銅像 (licensed by Miyuki Meinaka via Wikimedia Commons)
現存する千歳御殿の正門

「富山城その2」に続きます。