92.熊本城 その3

今回は、ここ熊本城発祥の地から出発します。コースは時代順とはいかないので、西南戦争の関連スポットに続きます。次は、清正の跡取り・加藤忠広やその後の細川氏が整備した二の丸を歩きます。そして、前々回の記事では通らなかった「特別公開北ルート」から天守に行ってみます。天守は、清正ゆかりの建物です。最後は、城の北側を回って「古城地区」よりも古いと言われる「千葉城地区」まで回ってみます。

特徴、見どころ(熊本城歴史めぐり)

Introduction

熊本市内の洗馬橋に来ています。天守がここからでも見えます。ここは熊本城の南の端なのです。熊本城はこんなに広かったのです。橋の下を流れる坪井川に沿って石垣も見えます。この辺りは城が築かれた台地の端で「古城地区」と呼ばれています。名前の通り、熊本城が最初に築かれた場所です。そのころは字が違う「隈本城」でした。今回は、ここ熊本城発祥の地から出発します。コースは時代順とはいかないので、西南戦争の関連スポットに続きます。次は、清正の跡取り・加藤忠広やその後の細川氏が整備した二の丸を歩きます。そして、前々回の記事では通らなかった「特別公開北ルート」から天守に行ってみます。天守は、清正ゆかりの建物です。最後は、城の北側を回って「古城地区」よりも古いと言われる「千葉城地区」まで回ってみます。

洗馬橋
洗馬橋から見える天守

城発祥の地→西南戦争の痕跡

洗馬橋から少し移動して「古城」の入口だったところにやってきました。今は高校の入口になっています。高校生がうらやましいです。築城当時は「おもての門」と呼ばれていたようです。残っている石垣に沿って歩いていきましょう。この石垣は、清正がこの「古城」に入ったばかりの時に築かれました。、熊本城では一番古い石垣だそうです。この石垣がある曲輪は「小座敷之丸」と呼ばれた場所と考えられています。周りは「古城堀端公園」になっていて、かつてはお堀がありました。進んで行くと、一段上がった所がありますが、そこが当初の「本丸」でした。「てんしゅ」もあったそうです。きっと清正が最初にいたところなのでしょう。

「おもての門」跡
熊本城最古の石垣
隈本城時代の本丸


公園を出て、城の外側と思われる道を歩くと、登り坂のふもとに出ます。坂は「法華坂」で、ふもとが「札の辻」と呼ばれていて、豊前・豊後街道の起点になっていました。城にとっても重要なルートで、二の丸に通じていました。西南戦争でも激戦地になっています。この街道は後でまた出てきますので、もう少し先まで行きます。西南戦争での最大の激戦地だった「段山(だにやま)」の辺りです。残念ながら、段山は開発によって削られ、今は「激戦地跡の碑」が残るのみです。しかし、ここで何があったのか知るのも大事なことなのだと思います。

法華坂
激戦地跡の碑


もう一か所、西南戦争関係のところに行ってみましょう。西郷軍に対して、熊本鎮台が激しい砲撃戦を行った場所が、藤崎台です。今は球場になっています。その場所に、古くから藤崎八幡宮がありましたが、西南戦争中に焼けてしまったのです。城の区分では「三の丸地区」に当たります。駐車場に入っていくと、唯一残っている見どころがあります。藤崎台のクスノキ群です。素晴らしい景色です。古いもので、推定樹齢は約1000年だそうです。ということは、西南戦争どころか、城の歴史も全部見ていたのです。無事に残ってくれて良かったです。

藤崎台
藤崎台のクスノキ群

清正のフォロワーたちが整備した二の丸

球場の入口辺りまで登ってくると、高いところまで来た感じがします。ここから二の丸に向かいましょう。橋を渡って行きますが、その下は、「新坂(しんざか)」といって、明治時代に開かれた道だそうです。橋を渡ると、立派な門跡があります。二の丸の入口「住江門(すみのえもん)」跡です。そして、右側(南側)から道が合流しています。:これが豊前・豊後街道です。さっき出発点を見た街道です。その街道がこの門を通っていたのです。つまり、誰でも通れるということになっていたのです。せっかく、こんなすごい枡形になっているのにと思ってしまいます。仮想敵の島津の殿様も参勤交代のとき、ここを通ったということです。

藤崎台球場
二の丸へ渡る橋(宮内橋)
橋の下の新坂
住江門の手前、右側から豊前・豊後街道が合流しています
住江門の枡形

門を入った所が「二の丸広場」です。天守と工事中の宇土櫓(工事の素屋根に櫓の絵が描かれている)が見えてきます。城の中心部とちがって、広々としています。かつては重臣の屋敷地で、清正の後の加藤忠広や、更に後の細川氏の時代に整備されました。か大軍が集まったりするような場所にも感じます。西側から敵の大軍に攻められた場合を考えたのでしょう。

二の丸広場
二の丸から見える天守と工事中の宇土櫓

城の中心部の方に進んで行きましょう。二の丸の先には、すごい堀にがあります。その向こうは本丸の西出丸です。その隅のところに復元された戌亥櫓があって、熊本地震のときには、こちらも倒壊寸前だったのです。こちらも一本石垣のようになっていました。現在は、建物を解体し、崩れた石垣を回収した段階です。

西出丸手前の堀
熊本地震後(2017年)の戌亥櫓

清正ゆかりの天守・宇土櫓

現在ビジターが、お城の中心部を見学できる「熊本城特別公開」のうち、今回は北ルートを進んで行きます(西大手門〜天守間は土日祝のみ、2025年5月時点)。二の丸から入っていき、堀の間の土橋を通って、西出丸(本丸地区)に行きます。途中では、右側(南側)の石垣がかなり崩れているが見えます。これは、奉行丸の石垣で、塀も倒壊しました。向こうにある未申櫓は前々回の記事に出てきました。

堀の間の土橋
奉行丸の石垣
未申櫓


西出丸には、城の正門の西大手門があって、これも復元されていましたが、近くの元太鼓櫓や南大手門(復元)とともに被災し、復元を待っています。せめて枡形を歩くことでその姿を想像しましょう。その先に北ルートの入口がありますが、工事現場の雰囲気があります。ブリッジになっているのは、南ルートと一緒です。ブリッジの下にも空堀があって、関門になっています。同じく下にある頬当御門を越えると「平左衛門丸」です。

現状の西大手門跡
被災前の西大手門、現地説明パネルより
北ルートの入口
北ルートのブリッジ

ここは宇土櫓があるところで、現在行われている復旧工事の素屋根で大きさがわかります。月に1回、内部の特別公開を行っていますが、今日はそうでないので残念です。宇土櫓は、現存している3重5階の櫓で、高さが約19メートルあって、熊本城・第3の天守と呼ばれています。現存天守と比べても、これより高いものは4つ(姫路・松本・松江・松山)しかありません。かつては宇土城天守を移したものと言われましたが、最近では、古城の隈本城天守が、宇土櫓になったという説があります(御裏五階櫓になったという説もあり)。大天守と比較すると、建物や瓦の様式は古いのに、石垣は新しいというのがその根拠です。その石垣は例の「武者返し」で、そのおかげで熊本地震を耐えたとも言われます。ただ、続櫓が倒壊したり、本体に破損、石垣にも膨らみが生じたため、解体修理となりました。その過程で、1927年(昭和2年)の解体修理のときに設置された鉄骨の筋交いも、効果があったことがわかりました。宇土櫓は、本体も改装されていて(2重2階?→3重5階)結構謎があるのです。元通りになる頃には、謎が解けているかもしれません。

宇土櫓復旧工事の素屋根
熊本地震後(2017年)の宇土櫓

いよいよ、また天守に行きます。西側から見ると、天守台石垣が目立ちます。大天守の石垣は、本丸の中でも一番古い方で、あの二様の石垣の古い方と同じ時期に築かれたそうです。小天守の石垣は、それよりずっと新しい様式なので、小天守は、次の忠広の時代に付け加えられたと考えられます。それが、元の宇土城天守ではないかという説があります。宇土城は清正が隠居予定の城だったので、その遺徳をしのんだというのです。歴史ロマンを掻き立てられます。

西側から見た大天守・小天守
大天守の武者返しの石垣

熊本城より古い?千葉城へ

最後のセクションを始めるのに、再び二の丸にやってきました。街道が中を通っていた場所です。これから城の北側を歩くので、二の丸の北側から外に出ます。そこは二の丸御門跡で、街道はここも通っていました。ここも立派な門だったと想像できますが、地震の被害もかなりのものです。門跡を出たら右(東)に曲がります。ここからがまた見どころで、すごい石垣が続いています。百間石垣です。あの飯田丸を守備していた飯田覚兵衛が築いたと言われています。ここも被災していて、復旧はいつになるのでしょう。

二の丸御門跡
門の内側
門を出たら右に曲がります
百間石垣

一階建ての櫓が見えてきました。監物櫓で、重要文化財の建物のうち、2番目に復旧されました(2023年)。いつ建てられたかは不明ですが、その名前はこの辺りに屋敷があった細川氏の家老・長岡監物に由来しています。道路は橋を渡ります。現在は橋の下は県道ですが、かつては「新堀」という空堀だったのです。北の守りを固めるため、細川時代に掘られました。先ほどからの街道分だけ、土橋として残されていたそうです。街道とはここでお別れで、私たちはUターンして、またお城の外側を歩きます。

監物櫓
かつて新堀だった県道
かつては新堀を土橋で渡っていました
城の外側を進むのUターンします


また天守が見えてきます。この辺りは棒庵坂で、この上に加藤神社があります。すごい石垣が続きますが、やっぱりここも崩れています。その上には、現存している門は櫓群がありますが(不開門・五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓)、全て被災し、復旧する日を待っています。

棒庵坂付近
北十八間櫓復旧工事現場


ついに、本日の最終目的地、千葉城跡に到着しました。上の方は施設跡になっていては入れませんが、丘のような場所です。大元は小さな城があって、熊本城にとっては、出丸のような場所だったのでしょう。西南戦争のときも、西郷軍が橋頭保にしようと攻めたてましたが、鎮台兵が守り抜きました。こんな何気ない場所にも歴史が積み重なっているのです。

千葉城跡
小さな丘のような場所です
川にも囲まれ、出丸のようになっています

関連史跡

細川時代の史跡を余りご紹介できなかったので、関連史跡として、水前寺成趣園(水前寺公園)に来てみました。

水前寺成趣園

富士の築山が有名です。実は、この築山も熊本城の歴史と関係あるのです。西南戦争のときに政府軍の砲台として使われたそうです。更に熊本地震のときにも、頂上が陥没しました。まるで城とつながっているようです。

富士の築山

古今伝授の間から見る景色もすばらしいです。水が豊かで、これも阿蘇の伏流水です。、熊本に入った細川初代・忠利が湧水の地にお茶屋を作ったのが始まりだそうです。でも、熊本地震のとき、一時この池もかなり干上がってしまいました。ところが、なぜか徐々に元に戻ったそうです。自然とは計り知れないものです。これにあやかって、熊本城も復旧復興が進むよう願います。

古今伝授の間からの眺め

リンク、参考情報

熊本城 公式ウェブサイト
加藤清正の実像【市政だより連載】、熊本市
熊本城調査研究センター定期講座「熊本城学」配布資料
「熊本城~復興に向けて~」熊本城調査研究センターパンフレット
「熊本城解体新書」熊本城調査研究センターパンフレット
・「歴史群像 名城シリーズ2 熊本城」学研
・「シリーズ・織豊大名の研究2 加藤清正/山田貴司編著」戒光祥出版
・「歴史群像 111、138、179、180号」学研他
・「熊本城復旧基本計画 令和5年(2023年)改訂版」熊本市
・「熊本城みどり保存管理計画」
・NHK BS1スペシャル「よみがえれ 熊本城 サムライの“英知”を未来へ」2017年放送
・NHK「ブラタモリ 熊本城」2016年放送

「熊本城その1」に戻ります。
「熊本城その2」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

92.熊本城 その1

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。

特徴、見どころ(復興状況見学)

Introduction

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。スタート地点は、復旧が完了した長塀にしますが、まだまだ復旧が完了した建物は少ないのです(重要文化財の建造物は13棟のうち2棟(長塀と監物櫓)、復元または再建建物は20棟のうち1棟(天守のみ))。それから、城の中心部では、見学者が復旧状況を間近に見学できる「特別見学通路」が設けられています。本記事では、まず長塀を見学しながら、南側から入城して、復旧の様子を見てみましょう。それから「特別見学通路」に入っていきます。その通路に沿って、天守や、有名な二連の石垣を眺めてみましょう。:通路を降りたら、本丸御殿を通って、天守に到着です。

現地に掲示されている熊本城復旧基本計画
復旧された監物櫓

長塀を見ながら入城

長塀は、手前の坪井川とともに、城の東南側を防衛するために築かれました。全長が242メートルもあり、現存する城の塀では最長です。当初は、石落としも所々に備えられていたそうです。名所といっていい風格を感じます。この長塀も、熊本地震で被災しましたが、13ある熊本城の重要文化財の建物の中で、最初に復旧しました(2021年)。それでも5年かかったのです。

長塀
復旧工事中の長塀(2017年)

進んでいくと、加藤清正の像があります。熊本城の正面は、南とも西とも言われていますが、南の島津氏に備えて築城したこの清正は南を向いています。それでは、南側から行幸橋、行幸坂を通って入城しましょう。

加藤清正公像

右側には唯一の水堀「備前堀」が見えますが、その向こうに石垣があります。その上には何があったでしょうか。その場所は「飯田丸」といって、熊本地震の際「奇跡の一本石垣」として、隅の石垣一本でがんばった飯田丸五階櫓(復元建物)があった所なのです。見たところ、石垣は復旧しています(2023年完了)。一旦解体した櫓の再建も、これから始まるそうです。櫓も復旧したら、復活のシンボルになりそうです。

備前堀と飯田丸五階櫓の石垣
飯田丸五階櫓と奇跡の一本石垣、現地説明パネルより

坂を登って行くと「特別見学通路」の入口に着きますが、近くにある奉行丸の未申櫓(2003年復元)を見て行きましょう。この櫓は健在そうに見えますが、裏の石垣や塀が崩れているそうです。けなげに修理の順番を待っているのです。

奉行丸未申櫓

まるで空中回廊「特別見学通路」

それでは、特別見学通路に入っていきましょう。特別見学通路は、現在「特別公開」として設定されている南ルートの一部です。アミューズメント施設のような入口から入り、階段を登っていくと、まるで空中回廊のような通路のアーチが見えます。2020年に設置され、長さ約350メートル、高さは6メートル前後あります。復旧工事に影響を与えずに、ビジターが安全に復旧状況を見学することができます。それ以上の価値があるようにも感じます。あくまで仮設の扱いで、いずれは撤去される予定ですが、残してほしいとの声も上がっているそうです。

特別見学通路の入口
特別見学通路のアーチ

通路に上がると、今は痛々しい感じですが、確かに石垣が間近に見えます。被災した数寄屋丸の石垣です。かつては隅のところに、数寄屋丸五階櫓がありました。そのとなりには、被災した建物もあります。復元された数寄屋丸二階御広間です。かつては、主に茶会など接客用に使われていたそうです。この建物も石垣も、修理が必要に見えますが、順番待ちになっています。それまで何とか持ちこたえてほしいです。

被災した数寄屋丸石垣
数寄屋丸二階御広間

ところでこの特別見学通路のおかげで、新たに注目されたものがあります。建物の下の石垣をよく見ていただくと・・・ハートマークの石が見えます。しかも色もそれっぽいです。当時は、縁起のよい葉っぱをイメージしたものかもしれないとのことですが、現代になって、新たな価値が付きました。これもこの通路を作った効果かもしれません。

二階御広間の石垣
ハートマークの石

反対側を見ると、復旧工事の状況がわかる景色があります。そこは、西櫓御門の跡なのですが、石垣が崩れてしまっています。崩れた石を見ると、番号が付けられています。これは、被災前の写真などから場所が特定され、元通りに復旧されるのを待っている石たちなのです。石積みができる業者や職人も限られるので、長い時間がかかるのです。

西櫓御門跡
番号が付けられた石たち

特別見学通路を進んでいくと、天守が見えてきます。

天守が見えてきました

城を違った視点から眺めよう

やはり、天守はかっこいいです。南側から見る天守は、石垣に囲まれ、高さも感じられて、強そうに見えます。手前の方に目を向けていくと、本丸御殿、そして有名な二様の石垣も見渡せます。なかなか壮観です。

特別見学通路から見た天守
手前の本丸御殿

二様の石垣の方に近づいていきましょう。下からの眺めの写真を見たことがあありますが、今回は空中から見ているようです。二様の石垣は、勾配が緩やかな方が加藤清正時代に築かれました。急な方は、細川時代とされていましたが、最近では清正の次の忠広の時代と言われています。本丸御殿を増築するために、継ぎ足されたのです。時代の違いによる、石の加工のされ方や、積み方の違いを見ることができます。弓のように立ち上がるこの石垣は「武者返し」と呼ばれます。実はこの「武者返し」は、地震対策だったという見解があるのです。熊本地震で、熊本城の石垣は約50ヶ所で崩れましたが、その多くは明治以降に修復した部分で(約3割が崩落)、築城当初の石垣は、ほとんどが地震に耐え抜いたのです(崩落は1割)。なんと、清正は敵だけなく、地震にも耐えられる城を作っていたのです。しかし、二様の石垣の天辺を見ると、両者に少しズレが生じてしまっています。こんな頑丈な石垣でも、維持していくのはとても大変なのです。

天守と二様の石垣
下から見た二様の石垣と天守, taken by ichico from photoAC
手前が清正時代、奥が恐らく忠広時代
両者に生じているズレ

ここでも、通路の反対側を見てみましょう。迷路のようになっている場所があります。南側から本丸に向かう途中に設けられた連続枡形です。この枡形を越えるには、6回も曲がる必要があります。しかも、石垣の上には「竹の丸五階櫓」などの櫓群が築かれていました。

連続枡形


更に通路を進んで行くと、復旧工事の様子が見えてきます。本丸の東にある、東竹の丸にある重要文化財の5棟の櫓群です。源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓です。倒壊はしませんでしたが、状況に応じて解体修理などがされています。工事現場の前には、瓦が並んでいるね、新しいもののようです。復旧予定は、比較的早い時期になっています。しっかりと復旧してほしいです。

東竹の丸の櫓群の復旧工事現場
新しい瓦が並んでいるようです

違う視点から景色を眺めることができた特別見学通路もそろそろ終点です。階段をまた登っていきます。今度は本丸御殿に行きます。被害を受けて建物内部には入れませんが、関門になっていて、行ってみればよくわかります。

終点が近い特別見学通路
本丸御殿に向かいます

本丸御殿~天守に到着

通路から降りたところが本丸御殿の「大御台所(おおおんだいどころ)」、つまりキッチンです。その向かいには大きな井戸があります。朝鮮で過酷な籠城戦を経験した清正は、熊本城内に120もの井戸を作ったと言われています。この井戸は残っているものの一つで、水源は阿蘇の伏流水だそうです。

本丸御殿の大御台所の出入口が見えます
本丸御殿の井戸

さて、ここからが関門です。すごい梁が横たわっていて、この下を行きます。闇り通路(くらがりつうろ)です。これが本丸御殿への入口で、天守への最後の関門にもなっています。すごい梁が続いて、圧倒されます。多くは熊本県産のアカマツだそうです。

闇り通路への入口
ものすごい梁が続きます

この通路は、東西南北に通じていて、今は、南北のみ通れるようになっています。交差点がありますが、東西の方がメインの通路だったようで、ここでクランクして、まっすぐ通れないようになっています。西側に階段のようなものが見えます。かつては、その場所が御殿の玄関でした。現在は、その階段が一部復元されているようです。御殿内部の復旧はまだちょっと先です。復旧したら、御殿の中にも入ってみたいです。

闇り通路
東側の通路
西側にある復元された玄関か

ついに、天守の前に到着しました。大天守と小天守が並んで、見栄えがします。すっかり元通りになっているように見えます。熊本地震では、天守のほとんどの瓦が落ちたり、天守台の石垣が崩れたりしました。しかし鉄筋コンクリート造りの本体は、基礎の鉄柱を、深い所から立てていたので、大きなダメージはなかったそうです。今回、耐震補強もされましたし、内部の博物館展示も、リニューアルされました。

復旧した大天守と小天守
復旧工事中の天守(2017年)

私の感想

まるで「空中回廊」のような特別見学通路にびっくりしました。旧状況を見るだけじゃなくて、いろんな視点でお城を見れて良かったです。復旧が完了した長塀や、天守を見ることで、希望も感じました。復旧が進んだら、また来てみたいと思いました。

天守入口
天守からの眺め、東の方に阿蘇の山容がうっすら見えます

「熊本城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

92.熊本城(Kumamoto Castle)

次の地震に備えるためにはどうすればよいのでしょうか?
What should be the plan to be prepared for the next earthquake?

熊本城の天守(The Tenshu keep of Kumamoto Castle)taken by さてらいと from photoAC

何が起こったか~What happened?

2016年に熊本地震が起きてから3年以上経過しました。この地震により熊本県には甚大な被害が発生し、熊本城も同様でした。城にとって最も深刻だったのが、50か所に渡り石垣が崩壊したことでした。石垣の崩壊により、多くの建物が倒壊したり、破損または深刻な状態に陥りました。現存する日本の城壁の中では一番長く、重要文化財に指定されている長塀は、全長242mのうち80mが崩壊しました。
Over 3 years have passed since the 2016 Kumamoto Earthquakes. They caused great damage to the area in Kumamoto Prefecture including Kumamoto Castle. For the castle, the most serious factor could be the collapse of stone walls in 50 points. With the collapse, many buildings were either torn down, were broken or are in critical condition. The Long Wall, the longest among the remaining castle walls in Japan, designated as an important cultural property, collapsed over 80m out of 242m in total.

地震前の長塀(The Long Wall before the earthquakes)licensed by DryPot via Wikimedia Commons
修理中の長塀、2019年6月時点(The Long Wall under repair in June, 2019)

もう一つの重要文化財である東十八間櫓は、石垣とともに完全に倒壊しました。
Another important cultural property, Higashi-Juhakken Turret also torn down completely with stone walls.

地震前の東十八間櫓(Higashi-Juhakken Turret before the earthquakes)lisencesd by Reggaeman via Wikimedia Commons
東十八間櫓は跡形もありません、2017年12月時点(Higashi-Juhakken Turret disappeared without trace, taken in December,2017)

最近復元された建物もまた被害を受けました。特に飯田丸五階櫓は、わずかに片隅の石垣によって支えられている「奇跡の一本石垣」として注目されました。
Recently restored building also suffered, in particular, Iidamaru-five-layer-turret was focused on for being supported by only one corner stone to survive, known as “the miracle lone stone walls”.

飯田丸五階櫓と一本石垣、2016年7月時点、現在は再建のため一旦撤去されている(Iidamaru-five-layer-turret and the miracle lone stone walls in July,2016. They were once demolished to reconstruct in the future.)産経フォトより引用

乾櫓も同じような状況でした。
Inui-turret has had a similar situation.

乾櫓、2017年12月時点(Inui Turret in December, 2017)
乾櫓石垣の状態、2017年12月時点(The state of Inui Turret’s stone walls)

1960年に現代の工法で外観復元された天守も被害を免れませんでした。ほとんどの屋根瓦が地震で剝げ落ちてしまったのです。
The Tenshu keep, which was apparently restored in the modern way in 1960, was not without suffering. Almost all of its roof tiles were peeled off by the earthquakes.

修理中の天守、2017年12月時点(The Tenshu keep under repair in December, 2017)

城の現存建物の中で最大の宇土櫓は、比較的少ない被害で済みました。この櫓の頑丈さが改めて認識されるとともに、地震の被害者をも勇気づけているとのことです。
Udo-turret, the largest remaining building in the castle had relatively small damage. People say that it has shown its strength and has encouraged victims of the earthquakes.

宇土櫓、2017年12月時点(Udo Turret in December, 2017)

熊本市長は、天守を修理するのに3年、城全体を元通りにするのに20年かかると言っていました。その通りに天守の復元はなされており、2019年10月から部分的に公開されています。
The mayor of Kumamoto City stated that it would take 3 years to fix the Tenshu, and 20 years would be needed to restore the castle completely. As he said, the restoration of Tenshu has been done, it has partly open since October 2019.

2019年9月時点の天守(The Tenshu keep in September, 2019)産経フォトより引用

立地と歴史~Location and History

熊本城は、現在の熊本市の丘陵地帯の端に位置する茶臼山の上にあります。この城は加藤清正が1588年に肥後(現在の熊本県)の国主として着任してきてから有名になりました。清正は、薩摩国(現在の鹿児島県)の島津氏の幕府への反逆を防ぐため、この城を強大に作り込みました。加藤氏が改易となった後、その後を継いだ細川氏も江戸時代を通じて大変な労力を投じて城を維持、拡張してきました。
Kumamoto Castle has been located on a mountain called Chausu-yama on the edge of the hilly area which is now Kumamoto City. The castle became famous since Kiyomasa Kato was placed as the lord of Higo Province (what is now called Kumamoto Pref.) in 1588. Kiyomasa built the castle so large and strong that it could avoid The Shimadu’s invasion from Satsuma Province (Kagoshima Pref.) against the Shogunate. The Hosokawa clan following kato’s position after they quit, continued to keep and develop the castle making great efforts all through the Edo Period.

Marker
熊本城Kumamoto Castle
Leaflet|国土地理院

城周辺の起伏地図(The relief map around the castle)

加藤清正像、本妙寺蔵、江戸時代(The portrait of Kiyomasa Kato in Edo Period, owned by Honmyoji Temple)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

明治維新後、この城は日本陸軍の九州地方の根拠地となり、「鎮西鎮台」と呼ばれました。1877年に予期もしていなかった戦いが政府軍と西郷隆盛率いる薩摩反乱軍との間で起こりました。この戦いは「西南戦争」と呼ばれ、日本最後の内戦であるとともに、政府による徴兵と西郷指揮下の元武士との戦いであるとも見なされました。
After the Meiji Restoration, the castle was turned to into a Japanese Army base in Kyushu region called “Chinzei Chindai”. An unexpected battle happened between the Government Army and the Satusma Rebel Army led by Takamori Saigo in 1877. It was called “the Seinan War”, which was the last civil war in Japan, and also regarded as a battle between drafted soldiers under the Government and former warriors under Saigo.

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作(The portrait of Takamori Saigo by Edoardo Chiossonelicensed under Public Domain via Wikimedia Commons

熊本城が実際の戦いに使われたのはこれが最初だったのです。西郷は城を包囲したのですが、この間天守を含む多くの建物が失火により焼けてしまいました。しかし城の中の兵隊たちは、政府からの援軍が到着するまで耐え忍び、ついに西郷は撤退しました。武士の世が終わってからの近代戦においてさえ、この城が強力であることが証明されたのです。城跡は最終的には1931年に国の史跡に指定されました。
That was the first time that Kumamoto Castle was used for actual fighting. Saigo surrounded the castle while many of the buildings including the Tenshu keep were burned accidentally. But the soldiers in the castle survived until the reinforcements from the Government arrived before Saigo withdrew. Even the modern war prove the strength of the castle after warriors’ governance ended. The ruins was finally designated as a National Historic Site in 1931.

谷干城少将に率いられた鎮西鎮台の指揮官たち、朝日百科より(The commanders of Chinzei Chindai led by General Tateki Tani, from Asahi encyclopedia)licensed under Public Domain via Wikipedia Commons

これからどうなる?~What will happen?

なぜ復元にそんなに時間がかかるかというと、熊本城が文化財だからです。例えば、崩壊した石垣の場合では、一つ一つの石は元の場所に戻されなければなりません。それぞれの石の3次元データを登録し、以前の写真と照合し、位置を確定するのです。更には、石垣を復元するのは元の伝統的工法でなければなりません。それができる企業や職人は限られています。またそれには莫大な予算も必要です。
The reason why the restoration takes so long time is mainly the castle being a cultural property. For example. In case of collapsing stone walls, each stone must be returned to the original position. Its 3-dimensional shapes are registered and checked with old pictures to match the position. In addition, restoring stone walls is required to build in the original traditional way. There are also few companies and craftsmen who can do it. it will also require huge funds.

復元を待つ石たち、2017年12月時点(Stones waitng for being restored in December, 2017)

私の意見~My Opinion

私は最近現場を見て回りましたが、復元にそんなにも時間がかかることは理解できました。しかし、もしまた地震が起こったらどうするのでしょうか?清正は、あの有名な「武者返し」と呼ばれる石垣のカーブを地震による崩壊を防ぐために作ったのだと言う科学者がいます。
I looked around the site recently and also realized that the restoration would take such a long time. But what should be the plan if another earthquake happens? Some scientists say that Kiyomasa might have created the famous curve of the stone walls called “Musha-Gaeshi” to prevent it from collapse by an earthquake.

熊本城の「武者返し」の石垣と天守(The stone walls called “Musha-Gaeshi” with Tenshu)taken by ichico from photoAC

江戸時代初期のこの城の城主だった細川忠利は、余分な建物を撤去し、次来る地震に備えて「地震屋」と呼ばれる避難所を建てました。
Tadatoshi Hosokawa, a lord of the castle in the early Edo Period, removed extra buildings and built a refuge shelter called “jishinya” to be prepared for the next earthquake.

細川忠利肖像画、矢野吉重筆、永青文庫蔵(The portrait of Tadatoshi Hosokawa, attributed to Yoshishige Yano, owned by Eisei Bunko Musemu)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

たとえ今は文化財であっても、元々のやり方が常にベストとは限りません。熊本市は、大きな地震が発生したときにも安全であるよう、長期的に城の新しい復元手法を開発するとのことです。それが早く実現するよう願ってやみません。
Even if the castle is now a cultural property, the original way is not always the best. Kumamoto City says that they will develop new methods for restoring the castle in the long term to be safe when a large earthquake happens. I really hope it will work in practice soon.

宇土櫓と修理中の天守、2017年12月時点(Udo Turret, and Tenshu under repair in December, 2017)

ここに行くには~How to get There

熊本駅から:
熊本市電を使うときは、熊本駅前電停から熊本城・市役所前電停まで乗ります。約17分かかります。
バスを使うときは、熊本駅前バス停から桜町バスターミナルまで乗ります。約10分かかります。
From Kumamoto Station:
When using Kumamoto City Tram, take the tram from Kumamoto-Eki-Mae tram stop to Kumamotojo-Shiyakusho-Mae tram stop. It takes about 17 minutes.
When using Bus, take it from Kumamoto-Eki-Mae bus stop to Sakuramachi bus terminal. It takes about 10 minutes.

リンク、参考情報~Links and Rererences

熊本城公式サイト(Kumamoto Castle Official Website)
・「復興熊本城Vol.2 天守復興編Ⅰ 平成30年度上半期まで」熊本日日新聞社(Japanese Book)
・「熊本城の被災修復と細川忠利」後藤典子著、熊日新書(Japanese Book)
・「歴史群像2016年8月号/壮烈!熊本城攻防戦」学研プラス(Japanese Magazine)
・「BS1スペシャルよみがえれ熊本城 サムライの英知を未来へ」NHK、2017年(Japanese TV Program)

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