116.沼田城 その2

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

沼田駅前

要害を感じながら城跡へ

駅から城跡の沼田公園までは、1キロくらいの距離ですが、7、80mの高さの段丘を登るので、遠く感じるかもしれません。五重の天守ディスプレイもお出迎えです。坂をずっと登っていきます。だんだん急になってきます。ここは「滝坂」と呼ばれています。近くに「滝坂川」が流れていますが、沼田の用水のことです。沼田を潤した用水が、台地の端まで来ているのです。ショートカットの階段を登ると、坂はますます急になります。:階段を出ると、崖が見えて、要害の場所というのがわかります。平らになってくると、そこは台地の上です。かつてはこの辺に「滝坂門」がありました。左に曲がって、ずーっと歩いていくと門が見えてきます。沼田公園の入口です。

街なかの五重天守ディスプレイ
滝坂
滝坂川
滝坂門のあった辺り
沼田公園入口

城跡と御殿桜を見学

公園の入口は、三の丸の一部でした。入ったところに観光案内所があります。それでは、公園の中、元の本丸に入っていきましょう。中心部は花壇になっていますが、今回は「要害」を感じたいので曲輪の縁(へり)を歩いていきます。さっそくいい景色が見えます。城が要害の地に築かれたことがわかります。近くには、公園のシンボルになっている鐘楼があります。明治時代から戦後まで、沼田の町で真田時代の城の鐘を使って建てられていたものが、公園に復元されています。現在の鐘は、レプリカだそうです。:

沼田市観光案内所
沼田公園の中心部
台地のへりを進んでいきます
復元された鐘楼

どんどん進んで行くと、次は西櫓台です。真田信利が改易となったとき、これも壊され、埋められましたが、発掘された石垣を見学することができます。その櫓台の上にある「御殿桜」は、樹齢400年以上と言われています。つまり、真田時代からあったということになります。真田時代からの石垣と桜、素晴らしいコンビです。

西櫓台の石垣
西櫓台と御殿桜

もっと見ていたいですが、次に進みましょう。公園としては「下公園」と呼ばれている場所で、城の時代には「捨曲輪」「古城」と呼ばれました。沼田城が最初に築かれた場所で、沼田顕泰が築城したと言われています。「平八石」というのが置かれています。真田昌幸が城主だったときに、顕泰の子・平八郎が城を奪おうとして返り討ちに遭い、その首が置かれたとのことです。戦国時代に逆戻りです。台地の角に着くと、これもいい眺めの場所です。ここから、名胡桃城があった辺りも見えます。名胡桃城事件があったときは、こっちは北条、むこうは真田で張り合っていました。

平八石
捨曲輪からの眺め

天守はどこに?

次は、今は幻の天守の場所を探しましょう。絵図を見ると、天守は、捨曲輪(古城)から続く、本丸の東側の堀に沿って立っています。そこで捨曲輪から折り返して、堀みたいなところを探すと、向かって左側は堀っぽいです。なるべくそれに沿って進んでみますが、今は完全に公園になっていますので、それなりに歩くと通路に出ます。その辺りに「天守跡」の石碑があります。これがなければ、五重の天守があったとは、全然わかりません。ただこの周辺(本丸堀)を発掘調査したときには、大量の瓦及び金箔瓦が発見されています。最近では、信之時代(旧)と信利時代(新)と考えられる新旧の天守礎石が発見されました。信利が天守を修復した記録があるそうです(1658年、明暦4年に本丸をかさ上げした時など)。天守も城も短期間で埋められたそうですから、他にもいろいろ出てきそうです。これからに期待です。

「上野国沼田城絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館
天守跡

発掘されて見学できるものが他にもあります。本丸堀と石垣の一部です。発掘された辺りにも櫓がありました(「東櫓」または「巽櫓」)。櫓があったと思われる場所まで行けそうです。休憩スペースになっていて、石垣も見学できます。城の姿が、少しずつ明らかになってくるのが楽しみです。

本丸堀跡
東櫓(巽櫓)跡周辺の石垣

公園パートの最後に、面白い現象をご紹介します。公園の東側の、旧野球グラウンドの場所を航空写真で見ると、箇所によって、植物の成長に違いに見られるそうです(クロップマーク)。これは、堀跡だった場所と、それ以外の場所によって生じた可能性があるそうです(沼田市資料による)。城が自己主張しているようです。

沼田公園の航空写真、出展:国土地理院

天空の城下町を散策

今度は城下町(市街地の坊新田町)にやってきました。ここも坂になっています。この通りは大手道で、この辺りには木戸が設けられていました(七木戸の一つ)。ちょうど坂を上がった所が関門になっていたのです。最近は「ようやっと坂」とも呼ばれているようです。大手道は当然防御されるべきなので、他にも仕掛けがありました。右側(東側)には寺が続いています。いざというときに、防衛拠点にするためです。この辺は「坊新田町」といって、信之から信吉の時代に作られ、寺が集められました。金剛院の大灯篭が見物です。少し離れますが、左側(西側)にも、小松姫のお墓がある正覚寺があります。

坊新田町周辺(ようやっと坂)
金剛院の大灯篭
小松姫墓(正覚寺)

中町を越えると、道は狭くなります。「お馬出し通り」と呼ばれていて、今もかつての雰囲気が残っています。また門が見えてきました。大手門跡です。

お馬出し通り
大手門跡

次は、先ほど大手道と交差した中町です。一見普通の商店街に見えますが、ちょっと歩いてみると、建物が少し斜めに建てられて、手前にスペースができているのが見て取れます。これは「武者隠し(武者最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。隠れ)」といって、通りを攻めてくる敵を、待ち伏せできるようになっていました。

中町
「武者隠し」と思われるスペース

最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。お寺の傍らを、沼田の用水が流れています。最初に見た滝坂川のことですが、城堀川とも呼ばれています。町の開発に努力した信吉が眠るのに、相応しい場所だと思います。

天桂寺
沼田の用水
真田信吉墓

私の感想

真田の城や町づくりが、一見あまり残っていなさそうで、実は今でもしっかり保存されていることがわかりました。御殿桜もきれいでした。

御殿桜

リンク、参考情報

沼田城跡、沼田市ホームページ
沼田市歴史資料館、沼田市ホームページ
・「沼田市史」
・「歴史群像188号 分析 謙信越山/入澤宣幸著」
・「真田信之 真田家を継いだ男の半生/黒田基樹著」角川選書
・「沼田藩真田用水群の魅力/真田陽水研究会」上毛新聞社
・「磔茂左衛門一揆の研究 /丑木幸男著」文献出版
・「発掘 沼田城かわら版 第1号、第2号」沼田市教育委員会文化財保護課
・「沼田市指定史跡沼田城跡 調査・保存整備事業の成果1・2」沼田市教育委員会文化財保護課

「沼田城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

116.沼田城(Numata Castle)

沼田城は真田がこだわり続け、しかし最後には失った城です。
Numata Castle is the one that Sanada stuck to strongly, but lost in the end.

沼田城西櫓跡(The ruins of Nishi-Yagura of Numata Castle)

Location and History

群馬県の北部に位置する沼田市は、全国的に河岸段丘の地形で有名です。その高さは、JR沼田駅近くの利根川から70メートル以上になります。市街地はその段丘の上にあり、「天空の城下町」と呼ばれています。
Numata City, in the northern part of Gunma pref., is famous around the whole country for its terrain with river terraces. The height is over 70m higher than Tone River near the JR Numata Station. The urban area of the city is on the top of the terraces and now called “Castle Town in the Sky”.

沼田市の河岸段丘、左側が段状になっている(The river terraces in Numata City, they are on the left side)taken by igamania from photo AC

この辺り一帯が最初に注目されたのは恐らく、戦国時代の16世紀頃、関東地方の支配権を巡って戦った上杉、北条、武田、織田、徳川などの有力戦国大名たちによってだと思われます。沼田地域は、関東地方の北の入り口にあたり、東の東北地方から西の信濃国(現在の長野県)に抜けていく主要街道が通っていました。
The area was probably first focused on in the Warring States Period in the 16th century by major warlords such as the Uesugi, Hojo, Takeda, Oda and Tokugawa clans who battled over the right to rule of the Kanto region . The Numata area was the northern entrance of Kanto and had a main road passing through from the east for Tohoku region to the west for Shinano Province (now Nagano pref.).

城周辺の地図及び起伏地図(A normal and relief map around Numata Castle)

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沼田城Numata Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors

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沼田城Numata Castle
Leaflet|国土地理院

沼田城は最初、土豪の沼田氏によって1532年に段丘の突端に築かれました。しかし、1560年の上杉氏の関東侵攻からは非常に重要な拠点として認識されました。結果的には、戦国時代の終わりにおいては武田氏配下の真田昌幸がこの城を保持していました。1582年には彼の主君である武田氏は滅びてしまうのですが、他の有力大名を差し置いて何とか城を守り抜きました。
Numata Castle was first built on the tip of the terrace in 1532 by the local clan Numata, but the castle became a very important site after the Uesugi’s Kanto invasion in 1560. Eventually, Masayuki Sanada under Takeda held the castle at the end of the Warring States Period. Though his master Takeda was beaten in 1582, he struggled against other major warlords to keep the castle.

真田昌幸像、個人蔵(The portlait of Masayuki Sanada, privately owned)licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons

クライマックスは、1589年に天下人豊臣秀吉の裁断によって、この城が北条氏に引き渡されたときでした。何と真田は、1590年の秀吉の関東侵攻と、北条氏の滅亡により、城の奪還に成功します。この出来事は、北条が約束を破り、真田の名胡桃城を乗っ取ったからだと言われていますが、真相は謎のままです。死人に口なしだからです。
The climax was that the castle was turned over to Hojo in 1589 by the decision of the ruler, Hideyoshi Toyotomi. However, Sanada was successful to get it back after Toyotomi’s Kanto invasion and the fall of Hojo in 1590. It is said that the event was caused due to Hojo breaking the rule and taking Sanada’s Nagurumi Castle. The fact is mysterious because dead men tell no tales.

名胡桃城跡(The ruins of Nagurumi Castle)licensed by Qurren via Wikimedia Commons

その後、昌幸の息子、真田信之が徳川の下につき、この城を引き継ぎ1600年前後に天守の建築を含め完成させました。この天守は、将軍がいる江戸城を除いては関東地方で唯一の5層の天守でした。
After that, Masayuki’s son Nobuyuki Sanada under Tokugawa inherited and completed the castle with building the castle Tenshu keep around 1600. The Tenshu was the only five-story one in Kanto region, excluding Edo Castle owned by the Shogun.

上野国沼田城絵図部分、江戸時代(Part of the illustration of Numata Castle in Kozuke Province in Edo Period)|出典:国立公文書館

1658年に、真田一族の中でこの城の相続を巡ってお家騒動が起こりました。徳川幕府は、真田の分家である信利を沼田藩として、信濃国松代にあった真田本家より独立させる決定をしました。
There was internal trouble in the Sanada clan over the inheritance of the castle in 1658. The Tokugawa Shogunate decided to make the branch Sanada, Nobutoshi separate from the head Sanada in Matsushiro, Sinano Province as the Numata Domain.

真田信利肖像画、加納永泰筆、大法院蔵(The Portrait of Nobutoshi Sanada, attributed to Eitai Kano, ownd by Daihoin)licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

信利は、幕府から困難な課役を引き受け、真田本家に対抗するため豪華な屋敷も造営しました。その結果沼田藩の領民は重い年貢に苦しみました。そして信利は、両国橋再建の資材調達に失敗したのと、農民の茂左衛門の幕府への直訴により、1681年に改易となってしまいました。ついには、真田があれほどまでこだわった沼田城は、1682年に幕府により完全に破壊されたのです。
Nobutoshi accepted hard tasks from Shogunate and built luxurious halls against the head Sanada. The result was that people in Numata Domain suffered from high taxes. Nobutoshi was fired in 1681 inspired by his failure of preparing materials for the Ryogoku Bridge rebuilding and the direct appeal to Shogunate by a farmer called Mozaemon. At last, Numata Castle that Sanada were so much devoted to, was completely destroyed by Shogunate in 1682.

天守があったと思われる場所(The place where there seemed be Tenshu)

Features

現在沼田城の城跡は、沼田公園として使われています。そこには美しい花々や木々による庭園があるのですが、西櫓の石垣が掘り出されたのと、復元された時計台が残っているのみです。
Now, the ruins of Numata castle have been turned into a park called the Numata Park. Though it has a beautiful flowers and trees garden, only unearthed stone walls of the west turret and the restored clock tower remain.

沼田公園(Numata Park)
掘り出された西櫓石垣(The unearthen stone walls of the west turret)
復元された時計台(The restored clock tower)

Later Life

真田の城が撤去された後、土岐氏などの大名が江戸時代の間この地域を支配しましたが、藩庁のための建物が設置されたのみでした。明治維新後その建物も撤去され、堀は埋められました。幸いだったのは元藩士の久米民之助が城跡を買い上げ、市に公園として寄付したことでした。
After Sanada’s castle was demolished, some lords like the Toki clan governed the area in the Edo Period. They just had a few office halls to govern. After the Meiji Restoration, the buildings of the castle were removed, and moats were filled. The good thing was that a former warrior Taminosuke Kume bought the ruins and donated them to the city for a park.

公園からの眺め(A view from the park)

現在、2016年に人気が出たNHK大河ドラマ「真田丸」が放送された後、沼田市には天守を復元できないか検討している人たちがいます。そのドラマは、真田氏、主には信之の弟、真田信繁の人生を描いたもので、信繁は大坂城で豊臣のために徳川と戦ったことで有名です。(真田氏は意図的に徳川方と豊臣方に分かれていました。)ドラマでは、沼田も取り上げられており、そのことが沼田市の観光振興にも寄与しました。
Now, some people in this city are considering how they could restore the Tenshu after a popular NHK drama called “Sanada-Maru” aired in Japan in 2016. The drama was about the lives of the Sanada clan, mainly about Nobushige Sanada, Nobuyuki’s little brother, famous for the fights with Tokugawa for Toyotomi in Osaka Castle. (Sanada clan were divided into Tokugawa and Toyotomi on purpose.) The drama which also featured Numata, led to an increase in tourism for the city.

現地案内板にある天守の想像図(The imaginary drawing of Tenshu on the sign board at the site)

市の人たちは、近い将来に人気が衰えてしまうのを心配しているようです。そして天守のような新しいシンボルを模索しており、白石城のような成功事例を視察したりしています。
People in the city seem worried about the decrease in the near future. They are searching for a new symbol like the Tenshu, and researching successful cases such as the Shiroishi Castle.

復元された白石城(The restored Shiroishi Castle)

しかしながら実現にはいくつもの大きな問題があります。まず、早々に城が破壊されたため天守の詳細が全くわかりません。現在のところ本丸石垣と、金箔瓦や什器などいくつかの品が発掘されたのみです。加えて文化庁が各地方自治体に明確な根拠なしに歴史的建造物を安易に復元しないよう指導している事情もあります。次として莫大な予算が必要です。もし天守を伝統的木造建築のスタイルで再建する場合、市の年間一般会計予算に匹敵する資金が必要となります。実に悩ましい問題です。
However, there will be big problems that come with it. At first, the details are not clear at all because of the castle being destroyed. Stone walls of Honmaru, and few items like roof tiles with gold leaf and utensils have been excavated so far. In addition, the Agency for Cultural Affairs instructs local governments not to restore historical buildings without clear evidence. Secondly it needs a large budget. If they ever decide to construct the Tenshu in a traditional wooden style, it will require a fund as much as their annual general budget. That is too controversial.

発掘された本丸石垣(The excavated stone walls of Honmaru)

市は、自らを「真田の里」として売り出しています。これからどんな展開になるか注目したいと思います。
The city is also trying to identify itself as “Sanada’s Hometown”. I will keep watching what they are doing now.

My Impression

人気を維持するためまず考えられるのは、大坂城上田城、名胡桃城、岩櫃城など真田にまつわる城や城跡を持つ自治体と連携してイベントを開くことだと思います。
To keep the population, I think that a reasonable idea is holding events together with other municipalities having relative castles and ruins to Sanada such as Osaka, Ueda, Nagurumi and Iwabitsu.

大坂城(Osaka Castle)
上田城(Ueda Castle)

そして、可能性がある方法としては、発掘の結果を基に門か櫓を再建することです。例えば、鉢形城などが類似のケースでしょう。
Then, one possible solution could be rebuilding a gate or a turret based on excavation. There are similar cases, for example in Hachigata.

鉢形城の再建された門(The rebuilt gate in Hachigata Castle)

もう一つの可能性として、大分府内城のようにLEDを使って仮想天守の姿を創り出してはいかがでしょう。
For another possibility, how about creating the image of virtual Tenshu with LED like Oita-Funai.

大分府内城の仮想天守(The virtual Tenchu in Oita-Funai Castle)taken by ぴょんにゃん from photo AC

But if they actually want to construct a real Tenshu building, they might have to be prepared for using it as their office hall.
でも、もし本当に本物の天守を作りたいのであれば、市役所の建物に使うくらいの覚悟が必要なのではないでしょうか。

How to get There

沼田城跡に行くには車が便利です。関越自動車道の沼田ICから約10分です。電車を使う場合は、JR沼田駅から歩いて約20分かかります。河岸段丘の急坂を登っていく必要がありますが、それも面白いかもしれません。
東京から沼田駅まで:上越新幹線に乗って高崎まで行き、上越線に乗り換えてください。
It is useful to access Numata Castle Ruins by car. It takes about 10 minutes from Numata IC on Kan-Etsu Expressway. When using train, it takes about 20 minutes on foot from JR Numata Station. It needs to climb up a steep hill on the river terraces, but it may be interesting.
From Tokyo to Numata Station: Take the Jo-Etsu Shinkansen super express to Takasaki, then transfer to Jo-Etsu local line.

Links and References

沼田市観光協会(Numata Tourism Association)
・沼田市議会新政同志会平成29年第1回会派調査・研修報告(Japanese Document)

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