155.赤木城 その1

築城の名手、藤堂高虎の原点

立地と歴史

理想の主君を求めた高虎

赤木城は、現在の和歌山県に当たる紀伊国の山間部にあった城でした。この城は1589年に、後に築城の名手と言われるようになる藤堂高虎によって築かれました。この城自体が高虎が築城した中では初期のものとなるため、彼の築城術の原点として位置付けることができます。高虎は、京都の近くの近江国出身であり、その当時は戦国時代で多くの戦国大名が割拠し、互いに戦によりしのぎを削っていました。彼は並外れた体格を持ち、多くの戦いで武功を挙げました。しかし、彼の主君は必ずしもこの時代を乗り切ることはできませんでした。その結果、現代の優秀なビジネスマンが転職を重ねるがごとく、高虎はその生涯で7回主君を変えています。そして1576年に、4度目の主君として、後に天下人となる豊臣秀吉の弟、豊臣秀長を見出しました。

紀伊国の範囲と城の位置

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀長は、周りとの調和を重んじたよきリーダーであり、秀吉の天下統一事業を支えました。高虎は、秀長により重臣の一人として抜擢され、事業を進めるための様々な要素について学びました。その一つが築城術だったのです。彼は、秀長の下での多くの戦いを通じて実践的にそれを学んだに違いありません。1585年、秀吉は紀伊国を征服し、この国を秀長に与えました。秀長はまた、紀伊国を統治するために、その一部を高虎に与えたのです。しかし、地場の領主たちはいまだ他者により統治されることを好まず、当時武器の主流となっていた鉄砲も多く所持していました。よってその統治には困難が伴っていました。その問いへの高虎の回答が、新しく赤木城を築くことだったのです。

豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
当時の主力武器、火縄銃 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最新のシステムを導入した山城

赤木城はシンプルな山城で、本丸が丘の上にあり、他の曲輪は北、東、西の三つの峰の上にありました。ここまでは、それまでにあった他の多くの城に似たものでした。高虎は、彼自身のアイデアと経験をもとに、その当時の最新の技術を使った新しいシステムを城に導入したのです。まず本丸は、基本的に四角い形に作られ、高石垣に囲まれていました。また、石垣のラインは巧みに曲げられていて、敵に対して側面攻撃ができるようになっていました。本丸の入口は、桝形と呼ばれる小さな四角い空間によって防御されていました。これらは、今治城や津城など、高虎が後に築く城にも見られる特徴です。他の曲輪群も石垣に囲まれ、よく考えられた配置をしていました。例えば、もし現代のビジターや過去には敵が、東の峰にある曲輪を通って本丸に行こうとした場合、虎口と呼ばれる食い違いになっている入口を3つ通り過ぎなければなりません。

赤木城の縄張り図、現地説明板より(北が下側になっている)
赤木城t跡の本丸石垣
津城跡
今治城

高虎は、この城の周辺の地域を治めることに成功しました。この城は恐らく、戦いによる危険から身を守り、高虎の権威を地元の人々に示したことでしょう。しかし高虎の安定した統治は、この城によってのみ果たされたのではなく、厳しい政策も実行された結果だったのです。彼は城の完成直後に、北山一揆と呼ばれる、反抗した地元の武士や農民たちを、近くの田平子(たびらこ)峠において160人も処刑したのです。一揆が発生した理由は、秀吉が全国的に実施した太閤検地にあると言われています。秀吉以前の政権は、人々の田畑の規模を正確には把握していませんでした。検地によって、人々は多くの年貢を納めなければならなくなったことでしょう。これが戦国時代の一つの現実でした。

城周辺の起伏地図

浅野氏に引き継がれ、一国一城により廃城

17世紀初頭、浅野氏が紀伊国を統治しました。彼らは和歌山城を本拠地としていましたが、北山一揆が再び起こったため、赤木城も使っていました。そして高虎の時以上の人たちを処刑したのです。赤木城は、最終的には1615年に徳川幕府によって発せられた一国一城令により廃城となりました。

和歌山城

「赤木城その2」に続きます。

47.伊賀上野城 その1

大坂を守る拠点、攻める拠点となった城

立地と歴史

忍者の国から大坂を守る拠点に

伊賀上野城は、現在の三重県西部にあたる伊賀国にありました。伊賀はこの城よりも、恐らくは忍者の里としての方がよく知られているでしょう。実際、この城が1585年に築かれるまでは、この国は多くの小領主たちによって分割統治されていました。彼らは、自分たちを防御するために、特殊な知識や技能を身に着けていました。更には他の国の大きな戦国大名たちに雇われ、諜報員や特殊部隊として活動していました。それが現在忍者と呼ばれているのです。不幸にも、彼らは1581年に織田信長により征服されてしまいます。その後、信長の後継者、豊臣秀吉が天下統一を進めているとき、秀吉は筒井定次を伊賀の国主として送り込みました。

伊賀国の範囲と伊賀上野城の位置

筒井定次肖像画、義烈百人一首より、国文学研究資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は大坂城を本拠地としてきました。そして、伊賀国は大坂から東日本に抜ける直線ルート上にありました。そのため、定次をそこに派遣し、1585年に伊賀上野城を築かせたのです。したがって、東方から敵が攻めてくるのをこの城で防ぐことが想定されていました。この城の東側には三重の天守がそびえていました。定次は、秀吉の死後、17世紀初頭に徳川家康が最後の天下人になったときにも、何とか生き残っていました。ところが、彼は1608年に家臣が彼の失政を訴えたことにより、徳川幕府から改易されてしまいます。歴史家は、幕府は実際には、定次が幕府とまだ大坂城にいた豊臣氏両方にいい顔をしていたのを快く思わず、排除したかったのだろうと推測しています。

豊臣時代の大坂城天守、「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藤堂高虎が大坂攻撃拠点として大改修

幕府は定次の後釜として、四国の今治城にいた藤堂高虎を伊賀国に移しました。高虎は、幕府の創設者、徳川家康に長く仕えている譜代大名ではありませんでした。しかし彼は、宇和島城大洲城、今治城などを築いたことで築城の名手として知られていました。また、幕府が江戸城名古屋城、京都の二条城など著名な城郭を築く際にも手助けをしていました。高虎は、これらのことで幕府の信頼を得ていました。幕府は高虎に対して、伊賀国の西方に位置する大坂城の豊臣氏に十分対抗できるだけの強力な城を築くよう期待したのです。高虎は、伊賀上野城を大改修することでこれに応えました。彼は、もし家康率いる幕府軍が大坂城で戦って敗れたとしても、家康を伊賀上野城に収容することさえ考えていました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇和島城
名古屋城

高虎は、丘の上にあり城の中心部であった本丸を、大坂城がある西の方角に向かって拡張しました。彼は、石垣造りの職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を招き、当時としては日本一高い石垣を本丸西側に築きました。この石垣が完成したことについて、高虎の記録史料(「公室年譜略」)は、大坂城の石垣よりも立派なものだと称えています。また高虎は、高石垣の背後に五重の天守の建設を始めました。ところが、その天守は1612年の大風により倒壊してしまいます。二の丸は、丘の麓の南側に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして東西部分それぞれに大規模な大手門がありました。城の建設は、1614年に幕府と豊臣氏の戦いが始まったとき(大坂冬の陣)にもまだ続いていました。しかし、1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした(大坂夏の陣)ことで中止となりました。

伊賀上野城の高石垣
上野城下町絵図、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西大手門の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦時のための居城

高虎は、伊賀上野城を支城として弟(藤堂高清)に与えたうえで、彼自身は津城を本拠地としました。津城は、伊勢国の海近くの平地に位置していました。伊勢も高虎の領地でした。彼は、津城を平時の居城とし、伊賀上野城は戦時のためのもう一つの居城としたのです。その後平和であった江戸時代には、藤堂家の重臣が伊賀上野城及び伊賀国を治め、筒井定次が元々いた場所にあった城代屋敷に居住していました。定次が築いた初代の天守はしばらくの間残っていたのですが、1633年の大風により、これもまた倒壊してしまったと考えられています。

津城跡
伊賀上野城城代屋敷跡
寛永期の絵図に描かれた城代屋敷、伊賀上野城にて展示

「伊賀上野城その2」に続きます。