立地と歴史
九州に送られた伊東氏が築城
宮崎県は九州地方の東側にあり、農業県として知られています。南北に長い形をしていて、日が出る方角に向かっています。そのため、農業に向いているといえるでしょう。宮崎県のほどんどのエリアは、かつては日向国(ひゅうがのくに)とよばれていました。まさに日が向く国という意味です。古代より肥沃であったことが容易に想像できます。県の中央部には、4世紀から7世紀の間に築造された西都原(さいとばる)古墳群があります。また、この国から初代天皇となる神武天皇が東征を行い、大和朝廷を設立したいう神話もあります。
宮崎県の範囲と城の位置佐土原城は、日向国の中央部にあった城の一つで、伊東氏の本拠地でした。伊東氏はもとは工藤氏の出で、12世紀に東日本の伊豆半島東部に定住したときに、土地の名前を苗字としました。その世紀の末に鎌倉幕府が設立されて以来、武士たちは幕府により地方に領地を与えられ、その統治のために各地に送られました。伊東氏の支族も同様に日向国に出向きました。行った土地の名前に由来した田島伊東氏が、14世紀に佐土原城を最初に築いたと言われています。
伊豆半島の範囲(青線内)と城の位置伊東四十八城の頂点
その間、時代は南北朝時代となり、足利幕府は地方支配のために改めて、伊東氏本家から武士を送り込みました。2系統の伊東氏はやがて統合し、佐土原城を本拠として強力な戦国大名に成長しました。15世紀から16世紀の戦国時代の間、伊東氏は南から進出してきた島津氏と日向国をめぐって戦いを繰り広げました。当時の当主であった伊東義祐(よしすけ)は相当攻撃的で、1569年に南日向の主要な城である飫肥城を陥落させました(島津氏の依頼による将軍家の仲裁にも耳を貸さなかったそうです)。この時点が彼の絶頂期であり、日向国に48もの城を有していました(伊東四十八城と称されます)。そして、その頂点に佐土原城があったのです。城下町は国府のように繁栄し、九州の小京都とも言われました(義祐は高位の官位を取得し、京風の文化や町割りを導入しました)。
佐土原城は基本的に、南九州型城郭の一つとされています。このタイプの城は、この地方で山あるは丘のように見えるシラス台地上に築かれました。シラス台地は、古代の大噴火によって噴出した火山灰によって形作られています。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちは、よくこの性質を利用して城を築きました。自然の地形を加工すれば、容易に強固な防御システムを構築することができたからです。例えば、深い空堀、曲輪下に高く立ちはだかる壁、狭く防御に優れた門などが土を加工して作られたのです。このような城の代表例として、知覧城、飫肥城、そして佐土原城が挙げられます。
伊東崩れにより城は島津氏のものに
しかし、伊東義祐の栄光は長く続きませんでした。1573年の島津氏との木崎原の戦いでの敗戦をきっかけに、義祐は伊東四十八城を一つ一つ失っていきました。島津の勢いと伊東の凋落は、次々に部将たちの離反を招きました。彼は佐土原城に籠って抗戦できないか思案しましたが、状況はそれさえも許しませんでした。彼は城を後にせざるをえず、家族とわずかな供回りとともに日向国から北の、同盟者の大友宗麟が治める豊後国に逃れていきました。この出来事は「伊東崩れ(または豊後落ち)」と呼ばれました。彼らはついには全てを失い、やがて漂泊者となりました(大友宗麟が伊東救援を名目に島津氏と戦った耳川の戦いに大敗したことで居場所を失いました)。義祐は1585年に放浪の途中で亡くなってしまいますが、息子の祐兵(すけたけ)は天下人の豊臣秀吉に仕え、1588年には日向国の飫肥城への帰還を果たします。
佐土原城は必然的に島津氏のものとなりました。島津氏の下で城が改修され、頂上に天守が作られたとされていますが、いまだ事実としては確定していません。天守があったとしたら、日本最南端の天守であったろうと言われています。1600年に、城主であった島津豊久が関ヶ原の戦いで戦死してしまった後は、城は一旦幕府直轄となり、その後は島津以久(もちひさ)とその後継者が佐土原藩として江戸時代末まで統治しました。持久の息子、忠興(ただおき)は山上の城を廃し、山麓に御殿を築き、そちらに移りました。シラス台地にある城を維持するのは大変な困難を伴い、平地にある館の方が平和な江戸時代における統治に適していたからです。