167.新宮城 その3

この城跡は発展途上です。

特徴、見どころ

他の曲輪群

それ以外には、出丸と呼ばれる小さな曲輪が本丸から川に向かって突き出ています。その鋭い様がとてもかっこよく見えます。かつては城の外部を見張るために使われました。このため、出丸周辺からの熊野川一帯の景色はとても素晴らしいです。

城周辺の地図

出丸
熊野川一帯の景色

また、松ノ丸からの道が通れるときには、そこから下って水ノ手郭に行くことができます(松ノ丸からの通路が閉鎖されているときには、川沿いの方から行けます)。この場所は近年発掘され、現在「備長炭」として知られる木炭の交易路として使われていました。この辺は発掘後、ビジターが歩いて回れるよう整備されました。

松ノ丸から水ノ手郭への道
水ノ手郭(全景)
水ノ手郭の石垣
熊野川沿いの遊歩道

もう一つの見どころは、丘の麓に残っている二ノ丸の石垣です。二ノ丸の内部は幼稚園として使われていますが、外側の石垣は見学できます。今は周辺が市街地となっている中でもひと際目立っています。その石垣の角部分は、算木積みという手法で長方形に加工した石が交互に積み上げられており、これも見ものです。

二ノ丸の石垣
算木積みの角部分

その後

新宮城は、明治維新後廃城となりました。城の全ての建物は撤去されました。そしてその結果、城跡は民間所有となったのです。1952年には鐘ノ丸に旅館が開業しました。他にもケーブルカー(日本一短いケーブルカー路線と言われました)やビアガーデンなどが本丸に作られました。本丸の大きな改変は、恐らくそのときになされたのでしょう。1980年に新宮市が城跡を買い取り、公園としました。新宮市は、2003年に城跡が国の史跡となって以来、調査や保存を進めています。また、将来城の建物を復元することも検討しています。

本丸下にあるケーブルカーの駅跡

私の感想

新宮城跡は、優れた史跡としての潜在能力を持っていますし、それはもうすぐ実現するでしょう。ただ、新宮市にはビジターに対してやることがたくさんあるとも思うのです。少なくともまず、城跡としての遺物とそれ以外のものを明確に区別する必要があります。ビジターに城がどのようであったのか理解してもらうためです。そして、次に城跡関連のものを、良好な状態で保存することです。そのくらいは建物を復元する前にやってほしいです。城跡の状況が改善したら、是非また訪れてみたいです。

本丸の現況

ここに行くには

車で行く場合:熊野尾鷲道路の熊野大泊ICから約40分かかります。公園の東側入口から本丸に行く中腹部分に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR新宮駅から歩いて15分のところです。
東京から新宮駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で特急南紀号に乗り換えてください。

中腹にある駐車場

リンク、参考情報

新宮城跡(丹鶴城跡)、新宮市観光協会
・「よみがえる日本の城1」学研
・「日本の城改訂版第60号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「新宮城その1」に戻ります。
「新宮城その2」に戻ります。

47.伊賀上野城 その3

昭和時代に伊賀上野城が復活

特徴、見どころ

高石垣を見上げる

この高石垣を、公園の外側から西内堀沿いを歩きながら見上げることもできます。この石垣の横の長さは250m近くもあります。

城周辺の地図

西内堀沿いの道への入口
高石垣が見えてきました

石垣のラインは何ヶ所かで巧みに曲げられていて、敵が城を攻撃してきたときに、敵の側面に反撃できるようになっていました(横矢掛かり)。

折れ曲がっている石垣のライン
折れ曲がっている部分を横から

石垣の角部分は、算木積みと呼ばれる、長方形に加工された石を交互に重ねて積み上げる方法により積み上げられています。これらの技術があいまって、石垣は頑丈且つ美しく見えます。

石垣の隅部分
隅部分の算木積みが見事です

その後

明治維新後、伊賀上野城は廃城となり、城の建物は撤去されました。城の中心部分は公園となりました。1935年、地元の政治家である川崎克(かつ)は、藤堂高虎が二代目の天守を築こうとした天守台石垣の上に、三代目の天守を築き寄贈しました。現在その天守が健在のため、この場所は今でも伊賀上野城と呼ばれているのです。もとからあった部分からなる城跡としては、1967年に国の史跡に指定されています。

川崎克写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
川崎が寄贈した三代目天守

私の感想

高虎は西日本において、驚くほどたくさんの城を築いたり、築城のアドバイスをしています。その中には大坂城の再建も含まれています。彼は、日本一と、それに次ぐ石垣の構築に関わっているわけです。伊賀上野城の石垣は、今でも日本有数の高さを誇っていて、見るに値するものです。しかし、くれぐれも高石垣の天辺から足を踏み外さないよう気を付けてください。

上から見下ろす高石垣
下から見上げる高石垣

ここに行くには

車で行く場合:名阪国道の中瀬ICか上野ICから約10分かかります。公園にビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、伊賀鉄道の上野市駅から歩いて約10分のところです。この駅は自ら「忍者市駅」という愛称を付けていて、ユニークな塗装の忍者列車に乗ることもできます。
東京から上野市駅まで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で近鉄の近鉄名古屋線に乗り換え、伊勢中川駅で近鉄大阪線に乗り換え、更に伊賀神戸駅で伊賀鉄道に乗り換えてください。

公園にある駐車場
「忍者市駅」
忍者列車

リンク、参考情報

伊賀上野城、伊賀文化産業協会
・「よみがえる日本の城16」学研
・「日本の城改訂版第76、82号」デアゴスティーニジャパン
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「週刊名城をゆく43/伊賀上野城・津城」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「伊賀上野城その1」に戻ります。
「伊賀上野城その2」に戻ります。

183.久留米城 その2

城の石垣がいまだに健在です。

特徴、見どころ

本丸に残る素晴らしい石垣

現在、久留米城跡として本丸のみが残っています。城跡には城の建物はありませんが、その石垣がいまだにほとんど元のまま残っています。この曲輪はそれ程大きくはなく、南北約150m、東西約100mの大きさです。このような限られたスペースに、7基もの三階櫓が全て二階建ての多聞櫓によってつながっていたことを想像するだけでも驚きです。今、この曲輪には有馬氏を祀る篠山神社があります。

城周辺の地図

本丸だけ残る久留米城跡
篠山神社

南側の新しい石垣

この曲輪の正面は南を向いていて、神社の入口にもなっています。唯一残っている水堀がこの方角にあります。15mの高さがある素晴らしい高石垣を見ることができます。この南側の石垣は、四角に成形された石を整然と積んで築かれており、布積みと呼ばれる方式です。この方式は、この城の他の石垣より新しいもので、有馬氏によって築かれたと考えられます。

南側の入口
南側の高石垣

この石垣の上には、3基の三階櫓(巽(たつみ)櫓、太鼓櫓、坤(ひつじさる)櫓)が立っていました。特に、巽櫓は最も大きく、城のシンボルとして天守の代わりとなっていました。

巽櫓跡
巽櫓跡下の石垣

本丸の内部

舗装され左側に曲がる通路上にある冠木御門(かぶきごもん)跡を通ってこの曲輪に入っていきます。この通路の途中には、桝形と呼ばれる四角い防御のための空間があったのですが、この通路が舗装されたときに一部改変されてしまい、今でははっきりとは見ることはできません。

冠木御門跡
本丸に入っていきます

本丸には、篠山神社とは別に有馬記念館があり、有馬氏の事績を展示しています。この記念館は、坤櫓と西下櫓の跡地にあります。他の櫓跡の上または傍らには地元の歴史に関する記念碑があります。例えば、太鼓櫓跡には1871年藩難事件の犠牲者の追悼碑(西海忠士之碑}があり、その周辺からは素晴らしい高石垣を間近に見ることができます。

太鼓櫓跡
太鼓櫓跡にある西海忠士之碑(右側  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)
太鼓櫓跡から見た高石垣

また、艮(うしとら)櫓跡の傍らには旧日本陸軍の「菊歩兵第五十六連隊記念碑」があり、その周辺からは筑後川を眺めることができます。

菊歩兵第五十六連隊記念碑
艮櫓跡
筑後川の眺め

東側の古い石垣

本丸の東側でも、素晴らしい石垣を見ることができます。こちらの石垣は、粗く加工された石を積み、その隙間を小さい石を埋める方式で築かれました。この方式は打ち込みハギと呼ばれます。一方この石垣の角部分は、長方形に加工された石を互い違いに積む算木積みという方式で築かれています。これらの方式は、本丸の南側よりも古いものであり、これらの石垣は毛利氏か田中氏によって築かれたとも考えられます。

東側の石垣
角部分の算木積みの石垣

こちら側には月見櫓跡の傍らに、もう一つの入口が石段とともにあります。これもまた、こちら側がもともと本丸の正面だったときの正面口だったのかもしれません。櫓跡からは、かつては城の水堀であった、久留米大学のグラウンドが見えます。

月見櫓跡
月見櫓脇の東側入口
久留米大学のグラウンド

「久留米城その3」に続きます。
「久留米城その1」に戻ります。