159.芥川山城 その1

三好氏が治めた戦国時代の代表的な山城

立地と歴史

戦国時代の山城

戦国時代の16世紀、近畿地方では戦は日常茶飯事でした。戦国大名たちは普段は京都のような平坦地にある館に住み、非常時に山城を使っていました。ところが、そのやり方は、次の戦がいつ起こるのかわからない中では大変危険なことになったのです。その結果、彼らは常に山城に住むようになりました。その山城の頂上には館があり強力な防衛システムを備えていました。芥川山城は、この地方の代表的な山城だったのです。

城の位置

三好長慶が本拠地とする

この城は最初は1516年に、足利幕府の重臣であった細川高国によって築かれましたが、三好長慶の本拠地として有名です。長慶は四国の阿波国(現在の徳島県)出身で、細川氏に仕えていました。彼は、他の幕府の家臣たちが内輪もめを続ける一方で、政治軍事両面で力をつけていきます。彼の実力が将軍であった足利義輝に拮抗した時、義輝は長慶を殺そうとしました。長慶は将軍を京都から追放し、1553年に彼自身による統治を開始しました。同じ年に彼はまた芥川山城に居を定めるのです。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
足利義輝肖像画、国立歴史民俗博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

防御力と権威を備えた山城

この城は、摂津国(ほぼ現在の大阪府北部に当たる)三好山の頂上にありました。この山自身が非常に防御力が強く、北と西側は摂津峡に囲まれていました。この城に行くには、東側から峰伝いに行く方法と、南側から谷沿いに行く方法がありました。長慶自身も以前にこの城を攻めたことがあり、そのときにこの城の強さを認識したようです。

城周辺の起伏地図

城の復元想像図(現地説明板より)

山の頂上は本郭となっていて、御殿がありました。他の多くの曲輪が本郭東側の峰の周辺に配置されていました。通路はこれらの曲輪に沿っていて、土塁・土橋・空堀・食い違い虎口などの構造物により、容易に進めないようになっていました。また、大手道が本郭の南側を通っていましたが、とても急であり、石垣を備えた大手門によって守られていました。この石垣は、この城の権威をも表していて、日本の城の中では石垣を意識的に使った最も早い事例の一つであるとされています。

本郭周辺の想像図(現地説明板より)
本郭東側の曲輪群想像図(現地説明板より)
大手道と石垣の想像図(現地説明板より)

織田信長も一時滞在

長慶は1560年に彼の息子にこの城を譲り、飯盛城に移っていくのですが、芥川山城は三好氏の重要な拠点として使われ続けました。1568年、織田信長が近畿地方を制するために上洛します。このとき信長は芥川山城を占領、滞在し、部下にこの城を与えました。しかし、信長が天下統一を進めていくにつれ、芥川山城のような城は必要なくなってしまいます。この城はその後廃城となりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「芥川山城その2」に続きます。

24.武田氏館 その1

人は城、人は石垣、人は堀だったのでしょうか?

立地と歴史

武田信虎が守護所として築城

躑躅ヶ崎館とも呼ばれた武田氏館は、現在の山梨県の県庁所在地である甲府市にありました。この館が甲府市発祥の地だと言えるのです。甲斐国(現在の山梨県)の守護であった武田信虎が1519年に最初にこの館を作りました。館は、守護の公邸ということだけでなく、武田氏の本拠地でもありました。よって、日本の城の一つとして分類されています。

武田信虎肖像画、武田信廉筆、大泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その立地は、北側に山が控えていて、南側にはその周辺から扇状地が広がっていました。信虎は城下町やその周辺地を見渡すことができました。彼は、館を一辺が200m近くある方形の曲輪の上に築き、土塁と水堀で囲みました。これは当時の日本の守護の典型的な館の築き方で、京都の将軍の御所にあやかったものでした。更に、彼は館の北、約2kmの所にある山にもう一つの城を緊急事態のときのために築き、要害山城と呼ばれました。例えば、信虎とその家族は、戦いが起こったときは館からこの山城に避難できたわけです。実際に、彼の息子、武田信玄は1521年の信虎と今川氏との戦いの最中に要害山城で生まれました。これらの城のネットワークは、当時としては安全を確保するための十分な防御態勢だったのです。

城の位置

武田信玄の言葉と城との関係

日本の最も有力な戦国大名の一人であった武田信玄もまた、1551年に家族と関係者のための西曲輪を加えるなど、館を拡張しました。それ以外に、丸く突き出た形の防御陣地である馬出しが、東側の大手門の前に築かれました。また、北側には信玄の母の館が築かれたと言われています。それぞれの曲輪は10m近い高さの土塁と5mの深さがある水堀に囲まれていました。

武田氏館の想像図(現地説明板より)

ところが、この館は多くの人たちに誤解されているようなのです。これは、江戸時代の17世紀の軍学書である甲陽軍艦に記載されている信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀・・」から来ているのです。この言葉の意味するところは強い城を築くより人の心を掴むことが大事ということなのですが、後の多くの人たちは、これを信玄が、織田信長や上杉謙信のような他の戦国大名と比べて、なぜこのような小さな城しか持たなかったかということへの理由として考えているのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田氏館自体は、信長の安土城や謙信の春日山城より随分小さいものです。しかし、それはその時代や状況が異なっていたからです。信玄の場合は、館は守護の公邸としてスタートしました。当時としては、このような館が守護の住む所として普通でした。武田氏はこれに、城のネットワークや馬出しを状況に応じて加えていったのです。彼らとしてはそれで十分でした。

武田氏館跡

武田勝頼が本拠地を移す

1582年、信玄の息子、武田勝頼は本拠地を大きな新しい城、新府城に移すことを決めました。状況が変わったからです。勝頼は信長の脅威に直面しており、武田氏館より強力で大きな城を必要としていたのです。武田氏館は一時廃城となります。勝頼は、不幸にも信長により滅ぼされてしまい、武田氏館は織田氏や徳川氏により再び使われることになりました。1590年、徳川氏が近くに甲府城を築いたときに武田氏館はついに最後のときを迎えました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「武田氏館その2」に続きます

44.名古屋城 その2

尾張名古屋は城でもつ

立地と歴史

復活した名古屋城

戦国時代の16世紀中頃、現在の名古屋城と同じ場所に、同じ名前を持つもう一つの那古野(なごや)城がありました。この古い方の那古野城で有名な戦国大名、織田信長が生まれたと言われています。信長は、そのうちに本拠地を清州城に移し、那古野城は廃城となりました。それ以来、清州城(名古屋城の北西約10kmのところ)は尾張国(現在の愛知県西部)の中心地であり続けました。1609年、徳川幕府は度々洪水の被害にあっていた清州城の代わりに、新しい城を築くことを決めました。大坂城にいた豊臣氏との戦いに備え、徳川の親族が入るためのより強力な城が必要とされたのです。その城は、再び名古屋(なごや)城と命名されました。

名古屋城と清州城の位置

清州城跡から見た名古屋城 (licensed by 名古屋太郎 via Wikimedia Commons)

シンプルだが強力な城、最大級の天守

城の範囲は広大で、シンプルであっても強力に作られました。城の中心である本丸は、西の丸などの曲輪群によって全ての方角に対し防御されていました。二の丸は、本丸の南東に付け加えられていて、城主のための御殿が建てられていました。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南方にあり、重臣たちの屋敷地となっていました。

尾張国名古屋城絵図(出展:国立国会図書館)

城周辺の航空写真

本丸には5層の天守があり、史上最も大きな天守の一つでした。頂にあった2つの金鯱は人々の間で特に人気がありました。初代の金鯱には215kgもの金が使われていたと言われています。また、本丸御殿もありましたが、これは将軍が滞在するためだけに存在しました。実際には3人の将軍しか使用していません。人々は「尾張名古屋は城でもつ」と言い慣わしてきました。

元あった天守と本丸御殿の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

焼亡と復興

明治維新後、二の丸、三の丸といった大きな曲輪は日本陸軍の駐屯地となりました。しかし、政府は本丸周辺は城として維持していくことを決断しました。天守や本丸御殿を含む伝統的建物群がそのまま残されたのです。1930年には、城として初となる国宝にも指定されています。ところが、誠に残念なことに1945年にほとんどの建物が焼け落ちてしまったのです。現在は3つの櫓と3つの門が残るのみです。

空襲で燃え上がる天守 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存している本丸の西南隅櫓
現存している本丸表二之門

その悲劇から14年後、名古屋の人々は現在見る天守を再建しました。再建のための予算の3分の1は市民からの寄付によりました。天守の外観はほとんど元通りでしたが、実は元の石垣の内側にあるケーソンの上に建てられた、コンクリート製の近代的ビルだったのです。元あった金鯱は1945年に一緒に燃えてしまいましたが、同時に復元されました。現在のものは88㎏の金を含んでいるそうです。2018年、本丸に、従来工法により本丸御殿が復元されました。本丸はかつての姿を取り戻しつつあります。

現在の再建された天守
現在の復元された金鯱
復元された本丸御殿

「名古屋城その3」に続きます。
「名古屋城その1」に戻ります。