48.松坂城 その1

孤高の大器、蒲生氏郷が築いた城

立地と歴史

氏郷、2人の天下人に抜擢される

松坂城は、現在の三重県松阪市にありました。三重県はかつては伊勢国と呼ばれていました。この城は最初は1588年に蒲生氏郷によって築かれ、その後は他の大名たちによって維持されました。氏郷は、日本の人々にさえ、その能力と業績の割にはあまりよく知られていません。これは恐らく、彼自身が40歳で早く亡くなり、彼の跡継ぎもまた早くなくなったことで家が断絶してしまったからだと思われます。その結果、氏郷に関する記録や伝承があまり残っていないのです。彼は、彗星のように現れ去っていった、孤高の大器だったのでしょう。

蒲生氏郷肖像画、会津若松市立会津図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

蒲生氏郷は、現在の滋賀県にあたる近江国出身です。蒲生氏はもともと、戦国時代にこの国にあった観音寺城を拠点としていた六角氏に仕えていました。その後天下人となる織田信長が1568年に近江国に侵攻したとき、蒲生氏は信長に降伏し、跡継ぎであった氏郷を人質として差し出しました。しかし信長は、あまたの他の氏族からも来ている人質たちの中で、氏郷の才能が際立っていることを見抜き、自分の娘を氏郷に娶わせたのです。氏郷は信長の親族となりました。1582年の本能寺の変で信長が殺された後は、氏郷は次の天下人となる豊臣秀吉を支持します。1584年、彼は秀吉により伊勢国12万石の領主に抜擢されました。彼は最初は以前の領主がいた松ヶ島城に住んでいたのですが、新しい本拠地を築くことに決めました。それが松坂城でした。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊勢国の範囲と城の位置

天下人を見習い、城と城下町を建設

氏郷は、新しい城の主要部分を、以前の城の近くにあった丘の上に築きました。丘上にはいくつもの曲輪が置かれましたが、全て高石垣により囲まれていました。この石垣は、氏郷の故郷である近江国から、石工の職人集団である穴太衆を招いて築かれました。また、主要部はこれら石垣と、食い違い虎口、複雑な通路に沿って建てられた櫓群により強固に守られていました。丘の頂上にあった本丸上段には、三層の天守がありました。三の丸は丘の周辺に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして、水堀がその周りを囲んでいました。氏郷はまた、城の周りに城下町を建設し、「近江商人」として知られていた彼の故郷の商人たちを呼び寄せました。総じて氏郷は、主君の信長や秀吉が行ってきたやり方に習い、彼の考えや経験も加えて、城や城下町を築き上げたのです。彼は最後に、その城の名前を「松坂」としました。縁起がいい言葉である「松」と、そのときの主君、秀吉の城、大坂城から一字もらい受けた「坂」を組み合わせたものでした。

松坂城の現存高石垣
伊勢国松坂古城之図部分(出展:国立公文書館)

秀吉による天下統一がなされた直後の1590年、氏郷は再び加増移封となり、東北地方の押さえとなるために、会津に入りました。彼の領地は最終的には91万石に達し、日本有数の大大名となりました。彼は、そこにあった城(黒川城)に大改修を加え、松坂城のように高石垣と天守を築きました。彼はこの城を若松城と改名しました。また彼は、東北地方の大名であった南部信直に高石垣を使った城を築くようアドバイスしたと言われています。その城は氏郷の死後完成し、盛岡城となりました。これら2つの城は、東北地方においては非常に稀な、総高石垣による城作りの事例です。氏郷はまた、高名な茶人、歌人であり、クリスチャンでもありました。ところが、1595年に不幸にも病死してしまいます。

現在の若松城
盛岡城の現存石垣

困難だった城の維持

氏郷が松坂城を離れた後は、服部氏、古田氏、(紀州)徳川氏によって引き継がれました。前者の2家は、氏郷の時代よりも領地が少なく、氏郷の築いた城を維持していくのが困難でした。徳川氏は御三家の一つでしたが、その本拠地は和歌山城であったため、事情は一緒でした。松坂城の石垣はなんとか修繕されましたが、建物の方は時が経つにつれ劣化していきました。例えば、1644年の暴風雨により天守が崩壊しましたが、再建されませんでした。また、江戸時代末期には裏門の屋根は茅葺きとなっていました。一方、城下町は江戸時代には大いに繁栄しました。城の商人たちは「伊勢商人」として知られるようになります。一例を挙げると、現在の三越百貨店につながる三井越後屋呉服店の創業者、三井高利はこの町の出身です(江戸に出て同店を開業)。

茅葺きとなっていた裏門の古写真、松阪市立歴史民俗資料館にて展示
歌川広重「名所江戸百景」より「駿河町」、三井越後屋が描かれている (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「松坂城その2」に続きます。

49.小谷城 その1

浅井氏が築いた大規模な山城

立地と歴史

浅井氏が本拠地として築城

小谷城は、現在の滋賀県にあたる近江国のうち、北部にあった大規模な山城です。戦国時代の1520年代頃に、この地方の戦国大名であった浅井氏がこの城を築きました。ところが、浅井氏は不幸にも1573年にこの城で滅ぼされてしまったため、浅井の悲劇とともに人々に記憶されることになりました。

近江国の範囲と城の位置

近江国は、東日本と西日本をつなぐとても重要な位置にありました。歴代の将軍や天下人たちは、この国を統治するか、思いのままにコントロールしたがっていました。そのため、例えば織田信長は、1568年に上洛する前に、彼の妹お市を、浅井氏の当主であった長政に嫁がせ同盟を結んだのです。ところが長政は、1570年に信長が浅井氏のもう一つの同盟先である朝倉氏を攻めたとき、信長に反旗を翻しました。信長と長政の長い戦いはこうして始まりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井長政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

織田信長との戦いのために強化

小谷城は、小谷山(標高495m)の尾根上に築かれました。館を伴う多くの曲輪があり、石垣に囲まれていました。城の初期の段階では、これらの構築物は戦うためというよりも、居住のためや権威を象徴するものであったと考えられています。それは、この城の城主が敵から攻撃されたとき、度々城から逃亡していたからです。しかし、信長と戦うことになってからは、朝倉氏からの協力によって、城は強固な要塞として改良されました。また、この城には多くの支城がありました。例えば、大嶽(おおずく)城は小谷山の頂上にあり、峰上にある小谷城の背後を守っていました。

城周辺の起伏地図

長政と朝倉氏は、1570年の姉川の戦いで、信長と野戦を行いましたが、敗れてしまいます。そのため、長政は小谷城に籠ることにし、信長包囲網と呼ばれる他の味方の大名たちが信長を倒すのを待つことにしました。信長は、城を力攻めにすることは諦め、その代わりに少しずつ城を孤立化する策を講じました。羽柴秀吉などの信長の部下たちは、長政の家臣を説得し、信長の味方に引き入れました。その結果、いくつもの小谷城の支城は、戦うことなしに信長側についたのです。

のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長期戦により孤立、そして落城

信長はまた、小谷城の正面に、陣城として虎御前山(とらごぜやま)城を築き本陣としました。このことで、信長側の補給は安定し、一方の長政側は困難となりました。1573年、信長は、最も重要な支城であった大嶽城に滞陣し守っていた朝倉氏を追い払いました。その上で、信長は朝倉氏を、本拠地である一乗谷城まで追跡し、ついには滅ぼしてしまったのです。その結果、小谷城は完全に孤立しました。

城周辺の起伏地図

一乗谷城跡

峰上にある城において、長政は低い方にあった本丸にいました。彼の父親である久政は高い方にあった小丸にいました。信長の部下、羽柴秀吉は麓から一気に駆け上がって中間地点にあった京極丸を占拠しました。それが8月27日のことです。城とそこにいる浅井一族は分断されてしまったのです。久政は混乱に陥り、その日のうちに切腹して果ててしまいます。長政の方は、何日間か持ちこたえましたが、父親と同じように自害しました。城は9月1日に落城しました。

浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現地にある曲輪復元図に曲輪名を赤字で加筆

浅井長政の妻子の運命

信長の妹のお市は、長政の妻でもあったので、まだ城に留まっており、信長によって救助されました。彼女と長政の間には3人の娘と少なくとも1人の息子がいました。この娘たちも同様に救われ、後に浅井三姉妹として知られるようになります。長女の茶々は、秀吉が天下人となった後にその妻となりました。息子の万福丸は、その当時の習わしとして、成人してから復讐できないよう不幸にも殺されてしまいます。長政と久政の首は、これも当時の習いとして京都の公衆の面前に晒されました。信長は、彼らの頭蓋骨を使って髑髏(どくろ)杯を作らせ、宴会で部下たちに披露しました。当時は現在のわれわれとは全く違った多くの風習があったのです。(髑髏杯については、信長だけの特異な行動だったのかもしれませんし、これを敗れた部将への敬意によるものと考える人さえいます。)

お市の方肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三姉妹(左から茶々、江、初)の銅像、北ノ庄城跡

「小谷城その2」に続きます。

47.伊賀上野城 その1

大坂を守る拠点、攻める拠点となった城

立地と歴史

忍者の国から大坂を守る拠点に

伊賀上野城は、現在の三重県西部にあたる伊賀国にありました。伊賀はこの城よりも、恐らくは忍者の里としての方がよく知られているでしょう。実際、この城が1585年に築かれるまでは、この国は多くの小領主たちによって分割統治されていました。彼らは、自分たちを防御するために、特殊な知識や技能を身に着けていました。更には他の国の大きな戦国大名たちに雇われ、諜報員や特殊部隊として活動していました。それが現在忍者と呼ばれているのです。不幸にも、彼らは1581年に織田信長により征服されてしまいます。その後、信長の後継者、豊臣秀吉が天下統一を進めているとき、秀吉は筒井定次を伊賀の国主として送り込みました。

伊賀国の範囲と伊賀上野城の位置

筒井定次肖像画、義烈百人一首より、国文学研究資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は大坂城を本拠地としてきました。そして、伊賀国は大坂から東日本に抜ける直線ルート上にありました。そのため、定次をそこに派遣し、1585年に伊賀上野城を築かせたのです。したがって、東方から敵が攻めてくるのをこの城で防ぐことが想定されていました。この城の東側には三重の天守がそびえていました。定次は、秀吉の死後、17世紀初頭に徳川家康が最後の天下人になったときにも、何とか生き残っていました。ところが、彼は1608年に家臣が彼の失政を訴えたことにより、徳川幕府から改易されてしまいます。歴史家は、幕府は実際には、定次が幕府とまだ大坂城にいた豊臣氏両方にいい顔をしていたのを快く思わず、排除したかったのだろうと推測しています。

豊臣時代の大坂城天守、「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藤堂高虎が大坂攻撃拠点として大改修

幕府は定次の後釜として、四国の今治城にいた藤堂高虎を伊賀国に移しました。高虎は、幕府の創設者、徳川家康に長く仕えている譜代大名ではありませんでした。しかし彼は、宇和島城大洲城、今治城などを築いたことで築城の名手として知られていました。また、幕府が江戸城名古屋城、京都の二条城など著名な城郭を築く際にも手助けをしていました。高虎は、これらのことで幕府の信頼を得ていました。幕府は高虎に対して、伊賀国の西方に位置する大坂城の豊臣氏に十分対抗できるだけの強力な城を築くよう期待したのです。高虎は、伊賀上野城を大改修することでこれに応えました。彼は、もし家康率いる幕府軍が大坂城で戦って敗れたとしても、家康を伊賀上野城に収容することさえ考えていました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇和島城
名古屋城

高虎は、丘の上にあり城の中心部であった本丸を、大坂城がある西の方角に向かって拡張しました。彼は、石垣造りの職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を招き、当時としては日本一高い石垣を本丸西側に築きました。この石垣が完成したことについて、高虎の記録史料(「公室年譜略」)は、大坂城の石垣よりも立派なものだと称えています。また高虎は、高石垣の背後に五重の天守の建設を始めました。ところが、その天守は1612年の大風により倒壊してしまいます。二の丸は、丘の麓の南側に築かれ、武家屋敷地として使われました。そして東西部分それぞれに大規模な大手門がありました。城の建設は、1614年に幕府と豊臣氏の戦いが始まったとき(大坂冬の陣)にもまだ続いていました。しかし、1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした(大坂夏の陣)ことで中止となりました。

伊賀上野城の高石垣
上野城下町絵図、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西大手門の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦時のための居城

高虎は、伊賀上野城を支城として弟(藤堂高清)に与えたうえで、彼自身は津城を本拠地としました。津城は、伊勢国の海近くの平地に位置していました。伊勢も高虎の領地でした。彼は、津城を平時の居城とし、伊賀上野城は戦時のためのもう一つの居城としたのです。その後平和であった江戸時代には、藤堂家の重臣が伊賀上野城及び伊賀国を治め、筒井定次が元々いた場所にあった城代屋敷に居住していました。定次が築いた初代の天守はしばらくの間残っていたのですが、1633年の大風により、これもまた倒壊してしまったと考えられています。

津城跡
伊賀上野城城代屋敷跡
寛永期の絵図に描かれた城代屋敷、伊賀上野城にて展示

「伊賀上野城その2」に続きます。