51.安土城 その2

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

特徴、見どころ

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

大手道を登る

大手道を歩く前に、大手門跡周辺を見ておきましょう。4つも作られた門の跡です。そのうち3つがまっすぐ入れる門(平虎口)でした。東側には平虎口が一つだけありますが、西側の方には平虎口と、二度曲がって入る門(枡形虎口)の2つが並んでいます。こんな近くに、わざわざ違う形の門を作るなんて、不思議に思います。平虎口はやはり行幸用だったのかなという気もします。

大手門跡
東側にある平虎口跡
西側には、枡形虎口跡(左)と平虎口跡(右)が並んでいます

それでは、大手道を進んでいきましょう。城跡は、摠見寺の所有地なので、拝観料を支払ってから入ります。それから、まっすぐな石段を登って行きましょう。現代に訪れても特別な感じがします。昔はここから天主が見えていたのでしょう。

城跡入口
大手道の石段
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

大手道の左側には「伝・羽柴秀吉邸」跡があります。道の反対側に「伝・前田利家邸」跡もありますが、いずれも江戸時代以降に憶測で付けられた名称です。伝・羽柴秀吉邸は、2段構成の屋敷になっていたと推測されています。しかし、実は別々の建物で、改造された跡もあったため、本能寺の変後に、織田三法師と信雄が入場したときに、御殿として使われたのではないかという説もあります。

「伝・羽柴秀吉邸」跡
「伝・羽柴秀吉邸」跡の現地説明パネル
「伝・前田利家邸」跡

ずっと登っていくと、右側に摠見寺の現在の本堂(仮本堂)がありますが、ここは「伝・徳川家康邸」跡だそうです。ただし、家康が安土に来たときには、別の寺に泊まっていたという記録があります。

「伝・徳川家康邸」跡(現・摠見寺仮本堂)

やがて直線の道から、ジグザグの道に変わります。防衛を考えた道筋ということなのでしょう。石段はオリジナルの石を使いながら、復元整備されたものですが、オリジナルでは材料として石仏も使われていました。城に使う石材は、この周辺の山から調達できたはずですが、なにか意図的なものを感じます。

大手道の石材に使われた石仏

平らなところに出ると、「伝・織田信忠邸」跡です。ここは一時お寺の施設として使われて、ほとんど城の痕跡は残っていません。大手道、通用口(百々橋口)、湖に通じる道(七曲口)と城の中心部への道が交差する場所なので、かつては石垣が積まれ、厳重に守られていたようです。

「伝・織田信忠邸」跡

城の中心部に向かう

城の中心部に向かいましょう。石段を登っていくと、立派な門の跡が見えてきます。中心部への入口「黒金門」跡です。すごく大きな石を使い、四角い枡形で防御力も高そうです。「信長公記」では「おもての御門」と表現されています。やはり、城の正門だったのでしょう。

黒金門跡

中に入ると、石垣だらけです。安土城の石垣が画期的なところは、その上に建物や塀を建てる前提で築かれたことです。集められた石のうち、大きなものが中心部に高く積まれました。荒々しいですが、巧みに積まれている感じがします。:「野面積み」といって自然石と、一部に荒く加工された石が使われているそうです。こういった積み方の技術を持つ職人集団が、後に「穴太衆」と呼ばれるようになりました。

二の丸の石垣

「二の御門」「三の御門」跡を通り過ぎると、「二の丸東溜り」と呼ばれる場所に着きます。ここから左側が二の丸、右側が本丸となります。

二の丸東溜り

二の丸には、本能寺の変の翌年に秀吉が建てた「織田信長公本廟」があります。廟への階段もそのとき作られました。ここに廟が作られたのは、信長やその家族の普段の居館があったからだという説があります。廟の一番上に石が置かれていますが、信長の化身の石とも言われる「盆山」のようにも見えます。真偽はわかりませんが、それを意識したものなのでしょう。

織田信長公本廟
廟の上に置かれた石

先ほどの「二の丸東溜り」は、「信長公記」では「御白洲」という名前で記載されています。屋外にある待機場所ということでしょう。ここから本丸に向かってもう一つ門があり、その先に「南殿」がありました。江戸時代の武家御殿の遠侍・式台・大広間にあたる建物だったようです。二条城二の丸御殿にそのセットが現存していますが、安土城はルーツの一つだったのでしょう。

この先に「南殿」があったと思われます
二条城二の丸御殿の航空写真 (Google Map)

本丸の中は、現在はところどころ木が立っているだけですが、この中のどこかに、行幸のための部屋か御殿があったはずです。向こう側には三の丸の石垣が見えます。そこには接待用の紅雲寺御殿がありました、景色が良かったそうです。今はそこには登れなくなっているのが残念です。

本丸
安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

いよいよ天主台へ!

本丸から本丸取付台を通って、いよいよ天主台に行きましょう。「取付台」といっても当時は建物があって、他の建物とは渡り廊下で連結されていたようです。進んでいくと「発掘調査中」という区画があります。2023年から滋賀県による「令和の大調査」が、この場所から始まっているのです。天主の姿や、焼失の原因が、明らかになるかもしれないと期待されています。今のところ、天主台石垣を人為的に崩した跡が見つかり、廃城のときに行われた可能性があるそうです。

発掘調査中の区画
調査が行われている天主台北側

天主台の階段を登りましょう。階段の途中の踊り場に注目です。タイルのようになっているところです。「笏谷石(しゃくだにいし)」という越前国特産の石を加工して作られたものです。北陸地方に担当していた柴田勝家から献上されたそうです。

笏谷石を加工して作られた踊り場

この階段は土蔵、つまり地下室に通じていました。中に入ると、礎石がたくさんあります。天主や城の建物がどんな姿をしていたのかは謎ですが、滋賀県によると、「高層の天主」「高石垣」「瓦葺きの建物」の3点セットが、初めて日本の城に現れた場所だったとのことです。また、金箔瓦が城の中心部で発見されています。「金箔瓦」自体も、安土城が初めてと言われています。(岐阜城でも金箔を押した跡のある瓦が発見されていますが、信長時代のものとは確定していません。)

天主台内部
城中心部で発見された金箔瓦、安土城考古博物館にて展示

「令和の大調査」には、発掘だけでなく、安土城を描いた絵画の探索も含まれています。信長が安土城を描かせ、天正遣欧使節に託してローマ教皇に送った「安土山図屏風」です。その屏風はバチカン宮殿に飾られましたが、現在は行方不明になっています。:滋賀県はこれまでも探していましたが、もう一度ネジを巻きなおすそうです。その屏風が見つかったら、世紀の大発見になるでしょう。

「安土山図屏風」の想像画、安土城郭資料館にて展示

やっぱり謎の摠見寺

城の中心部から「伝・織田信忠邸」跡に戻ると、見学コースは摠見寺の方に向かいます。ルイス・フロイスによれば、「盆山」を祀っていたところです。景色が開けたところに、本堂跡があります。かつて、その本堂は二階建てで、その二階に「盆山」が置いてあったとのことです。その場所は、一階の仏像はもちろん、三重塔よりも高い位置だったと言われています。まるで、天主の宝塔と、信長の部屋のような位置関係です(これも一説によりますが)。その本堂は、改造された後、江戸時代に火事で燃えてしまいました。もし残っていたら謎の一つが解けていたかもしれません。

摠見寺本堂跡

かつて城に接していた湖は大分干拓されてしまいましたが、今でもいい眺めです。

本堂跡からの眺め

三重塔、仁王門は、火事を生き延びて現存し、重要文化財になっています。この寺は、他の寺から建物を移築して設立されたので、両方とも、なくなった城の建物より古いのです。摠見寺を通る道は、城の通用口(百々橋口)だったので、一番使われたはずです。信長最後の正月(天正10年)の年賀行事には、百々橋から摠見寺に、大名・家臣・群衆が押し寄せたとの記録があります。

現存する三重塔
現存する仁王門

現在の見学コースでは、その百々橋口には出ることができません。それなので、山の中腹を回って、「伝・羽柴秀吉邸」跡に戻ってきます。

百々橋口は塞がれています
山の中腹を通って戻ります
「伝・羽柴秀吉邸」跡に到着

私の感想

安土城の謎を考えても、ますますわからなくなるというのが正直な感想です。しかし、その謎解きを考えること自体が面白かったです。織田信長は常識を打ち破ってきた人物なので、彼の安土城を現代の常識で考えても、答えは出ないのかもしれません。よって、決定的な証拠が出てくるまでは、謎解きを楽しめばよいのだと思います。

安土山

その謎解きの助けになる博物館が、城跡の近くにいくつもあります。併せて行ってみてはいかがでしょうか。

安土城郭資料館(中に展示している安土城天主20分の1モデル)
安土城考古博物館
安土城天主 信長の館

リンク、参考情報

織田信長の安土城址と総見寺(安土城址の公式サイト)
滋賀県立安土城考古博物館
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第24回 安土城の石垣1
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「安土 信長の城と城下町」滋賀県教育委員会
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫
・「歴史群像名城シリーズ3 安土城」学研
・「復元安土城/内藤昌著」講談社学術文庫
・「逆説の日本史 9戦国野望編 10戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「よみがえる日本の城22」学研
・「新「近江八幡市」誕生までのあゆみ」近江八幡市
・「特別史跡安土城跡整備基本計画」令和5年3月 滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第20号 安土城の大手道は無かった」木戸雅寿氏論文
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第30号 安土城の空間特性」大沼芳幸氏論文
・「鳥取環境大学 紀要第8号 安土城摠見寺本堂の復元」岡垣頼和氏・浅川滋男氏論文

これで終わります。ありがとうございました。
「安土城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

49.小谷城 その1

浅井氏が築いた大規模な山城

立地と歴史

浅井氏が本拠地として築城

小谷城は、現在の滋賀県にあたる近江国のうち、北部にあった大規模な山城です。戦国時代の1520年代頃に、この地方の戦国大名であった浅井氏がこの城を築きました。ところが、浅井氏は不幸にも1573年にこの城で滅ぼされてしまったため、浅井の悲劇とともに人々に記憶されることになりました。

近江国の範囲と城の位置

近江国は、東日本と西日本をつなぐとても重要な位置にありました。歴代の将軍や天下人たちは、この国を統治するか、思いのままにコントロールしたがっていました。そのため、例えば織田信長は、1568年に上洛する前に、彼の妹お市を、浅井氏の当主であった長政に嫁がせ同盟を結んだのです。ところが長政は、1570年に信長が浅井氏のもう一つの同盟先である朝倉氏を攻めたとき、信長に反旗を翻しました。信長と長政の長い戦いはこうして始まりました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井長政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

織田信長との戦いのために強化

小谷城は、小谷山(標高495m)の尾根上に築かれました。館を伴う多くの曲輪があり、石垣に囲まれていました。城の初期の段階では、これらの構築物は戦うためというよりも、居住のためや権威を象徴するものであったと考えられています。それは、この城の城主が敵から攻撃されたとき、度々城から逃亡していたからです。しかし、信長と戦うことになってからは、朝倉氏からの協力によって、城は強固な要塞として改良されました。また、この城には多くの支城がありました。例えば、大嶽(おおずく)城は小谷山の頂上にあり、峰上にある小谷城の背後を守っていました。

城周辺の起伏地図

長政と朝倉氏は、1570年の姉川の戦いで、信長と野戦を行いましたが、敗れてしまいます。そのため、長政は小谷城に籠ることにし、信長包囲網と呼ばれる他の味方の大名たちが信長を倒すのを待つことにしました。信長は、城を力攻めにすることは諦め、その代わりに少しずつ城を孤立化する策を講じました。羽柴秀吉などの信長の部下たちは、長政の家臣を説得し、信長の味方に引き入れました。その結果、いくつもの小谷城の支城は、戦うことなしに信長側についたのです。

のちの羽柴秀吉、豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長期戦により孤立、そして落城

信長はまた、小谷城の正面に、陣城として虎御前山(とらごぜやま)城を築き本陣としました。このことで、信長側の補給は安定し、一方の長政側は困難となりました。1573年、信長は、最も重要な支城であった大嶽城に滞陣し守っていた朝倉氏を追い払いました。その上で、信長は朝倉氏を、本拠地である一乗谷城まで追跡し、ついには滅ぼしてしまったのです。その結果、小谷城は完全に孤立しました。

城周辺の起伏地図

一乗谷城跡

峰上にある城において、長政は低い方にあった本丸にいました。彼の父親である久政は高い方にあった小丸にいました。信長の部下、羽柴秀吉は麓から一気に駆け上がって中間地点にあった京極丸を占拠しました。それが8月27日のことです。城とそこにいる浅井一族は分断されてしまったのです。久政は混乱に陥り、その日のうちに切腹して果ててしまいます。長政の方は、何日間か持ちこたえましたが、父親と同じように自害しました。城は9月1日に落城しました。

浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現地にある曲輪復元図に曲輪名を赤字で加筆

浅井長政の妻子の運命

信長の妹のお市は、長政の妻でもあったので、まだ城に留まっており、信長によって救助されました。彼女と長政の間には3人の娘と少なくとも1人の息子がいました。この娘たちも同様に救われ、後に浅井三姉妹として知られるようになります。長女の茶々は、秀吉が天下人となった後にその妻となりました。息子の万福丸は、その当時の習わしとして、成人してから復讐できないよう不幸にも殺されてしまいます。長政と久政の首は、これも当時の習いとして京都の公衆の面前に晒されました。信長は、彼らの頭蓋骨を使って髑髏(どくろ)杯を作らせ、宴会で部下たちに披露しました。当時は現在のわれわれとは全く違った多くの風習があったのです。(髑髏杯については、信長だけの特異な行動だったのかもしれませんし、これを敗れた部将への敬意によるものと考える人さえいます。)

お市の方肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三姉妹(左から茶々、江、初)の銅像、北ノ庄城跡

「小谷城その2」に続きます。

140.玄蕃尾城 その1

賤ヶ岳の戦いにおける柴田勝家の本陣

立地と歴史

羽柴秀吉に対抗して築城

玄蕃尾城は、越前国と近江国の国境にあった城で、現在では福井県と滋賀県の県境にあたります。この城は、1583年に起こった賤ヶ岳の戦いの当時、越前国を領有していた柴田勝家によって築かれました。1582年の本能寺の変により天下人の織田信長が亡くなった後、重臣であった勝家と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、主導権を巡って互いに争いました。秀吉は、勝家が併せて領有していた北近江に侵攻し、勝家の本拠地であった越前国との国境近くに多くの陣城を築きました。勝家も秀吉に対抗して、その国境周辺に陣城を構築しました。玄蕃尾城は、これらの陣城の中心であり、勝家の本陣だったのです。この城の名前の一部「玄蕃」は朝廷の官職の一つであり、高い地位にある武士に与えられました(もしくは自称していたことも考えられます)。しかし、誰に与えられた官職名から由来していたのかは不明です(佐久間「玄蕃」盛政からとも言われますが、朝倉氏の家臣である朝倉「玄蕃」助景連が築城し、名前の元になったという説もあります)。

城の位置

柴田勝家像(北ノ庄城跡現地説明板より)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

山上に築かれた曲輪群

この城は、標高445mで国境にも位置していた中内尾山の頂上に築かれました。またこの城からは、城の近くにある両国の境を通っていた刀根(とね)峠を押さえることができました。城の曲輪群は山の峰の北側から南側に沿って築かれました。城の正面口は南側に開いており、刀根峠と秀吉が侵攻した近江国の方角に向いていました。そのため、城の南面は2つの直列した曲輪群によって厳重に守られていました。一方城の北側には、城では最も大きな曲輪があり、駐屯地として使われていました。本丸は城の中心部にあり、恐らく勝家がいたと思われます。そこには天守か大櫓があり、防御のための馬出しまたは張出と呼ばれる3つの小さな突出した曲輪が付随していました。

城周辺の起伏地図

玄蕃尾城の縄張り図(現地説明板より)

佐久間盛政の攻勢と秀吉の反撃

1583年の4月16日、勝家の同盟者、美濃国の岐阜城にいた織田信孝が秀吉に対して兵を挙げました。秀吉は、4月17日にこれを鎮圧するために美濃国に向かいました。このとき勝家は、秀吉側に攻撃を仕掛ける絶好の機会だと思ったのです。勝家配下の佐久間盛政は、4月19日に秀吉の陣城を占領するために前進してきました。ところが、それは秀吉の罠だったのです。盛政は陣城を一つ攻略し(中川清秀が守っていた大岩山砦)、もう一つの陣城、賤ケ岳砦をも手に入れようとしました。それから秀吉は直ちに元の陣地に引き返し、4月20日には盛政に対し反撃を開始したのです。勝家と盛政は、ついには秀吉により倒されました。1626年に出版された小瀬甫庵による、比較的古い秀吉の伝記である「甫庵太閤記」は、勝家は盛政に対して最初の攻撃の後引き返すよう忠告したにも関わらず、盛政の不用意な行動が彼らの滅亡を招いたと記述しています。多くの日本人は長い間、これを定説として受け入れてきました。

佐久間盛政を描いた錦絵、楊斎延一作、1893年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

前田利家の撤退が勝敗を決したか

最近の研究によれば、盛政の行動は致命的ではなかったとのことです。勝家のもう一人の同盟者で、秀吉が天下人となった後大大名となった前田利家は、秀吉の反撃と同時に勝家の承諾なしに自陣から撤退したのです。これこそ秀吉の勝利と勝家の敗退へ導いた決定的な要因だったのです。甫庵はどうしてこの最も重要な事実を述べなかったのでしょうか。それは、甫庵は前田家から扶持をもらっていたからなのです。前田家の始祖である前田利家の行動は、恐らく秀吉と約束されていたのでしょう。しかし後の人々はそれを勝家への裏切りと取るかもしれません。甫庵は、前田家の恥になるかもしれないこの事実を記録できなかったと考えられるのです。よって、彼は敗戦の責任を他の誰かに押し付ける必要がありました。玄蕃尾城は強力でしたが、あくまで他の陣城と連携して力を発揮するようになっていました。勝家は、同盟者が責務を果たせない以上、この城から撤退せざるをえなかったのです。

前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「玄蕃尾城その2」に続きます。