192.角牟礼城 その1

豊後国玖珠地域の国人領主たちは中世の間、この地域の特徴的な地形、メサやビュートを使ってそれぞれの城を築きました。角牟礼城は、それらの城の一つでした。

立地と歴史

交通の要衝、玖珠地域の城の一つ

角牟礼(つのむれ)城は、かつての豊後国玖珠(くす)郡の森地区、現在の大分県玖珠町の森地区にあった城です。玖珠郡及び玖珠町は、北九州地方の東西を結ぶ交通路の途上にあります。例えば、大分市から福岡市か佐賀市まで行こうとすると、車を使っても公共交通機関でも玖珠町を通ることになります。それに加えて、かつての玖珠郡は北方を豊前国に接していて、中世に長く豊後国を守護として支配してきた大友氏にとっては、領土を守るために常に玖珠郡に注意を払ってきました。

豊後国の範囲と城の位置

また、この玖珠地域には面白い自然の特徴があり、火山活動に由来するメサやビュートというものです。これらは急傾斜をもった山や丘のように見えるのですが、頂上部分は浸食により平らになっています。この地域にある切株山はそれらの中でも典型的な形をしています。地域の国人領主たちは中世の間、メサやビュートを使ってそれぞれの城を築きました。角牟礼城は、それらの城の一つであり、国人領主の森氏によって角埋(つのむれ)山の上に築かれました。この名前の一部「牟礼・埋(むれ)」は、同じ大分県の佐伯市の栂牟礼(とがむれ)のように、九州地方の他の山の名前にも見ることができます。この言葉は「村」や「森」に由来するとも言われ、このことはこの山や城が地元の人たちによっても日常的に使われていたことを示唆しています。すなわち、山から燃料や部材のために木を伐採したり、戦が起こったときには村から城に避難していたようなことが考えられます。

切株山  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)

大まかに言って、角牟礼城の歴史は3つに分けられます。最初の時代は、城の創建から16世紀末に大友氏の支配が終わるまでの期間です。その当時、大友氏の支配は安定し、玖珠地域はメサやビュートを利用した城を持つ多くの国人領主たちによって分割されていました。大友氏は彼らの領地を直接統治することはせず、彼らが大友氏に所定の年貢を納め、奉仕を行っている限り、領土や財産を保全することができました。森氏によって治められた角牟礼城は土造りで、自然の地形を加工して、段状の曲輪群、堀切、切岸、縦堀などが作り出されたのです。城が築かれた山は南側を除く三方を自然の急崖に囲まれていて、それだけでも十分高い防御力を有していました。そのため、城の守備兵は防御設備を南側一方に集中させることができたのです。この城は実際に、1586年に島津氏が大友氏の領土に侵攻したときに唯一落とせなかった城となり、難攻不落の城と称されました。

角牟礼城跡のジオラマ、豊後森藩資料館にて展示

城周辺の起伏地図

毛利高政が城を近代化

二番目の時代は、天下人の豊臣秀吉により大友氏が改易となった1593年から始まりました。その後秀吉は、以前大友領だったところに直属の部下をを派遣し、直接統治することを始めたのです。玖珠地域には、秀吉によって領主として毛利高政が宛がわれました。高政は角牟礼城を居城とし、高石垣や虎口と呼ばれる防御力の高い出入口、そして瓦屋根や礎石をもった建物を築くことで改修を行いました。これらは、秀吉の他の部下たちが日本の他の地域で築いたり改修したりした城でも見ることができます。城を強化するとともに、人々に権威を見せつけたのです。特に、角牟礼城の大手門前の高石垣は、「穴太積み」と呼ばれる当時としては最新の方法によって自然石や粗く加工された石が積み上げられました。しかし高政の統治は数年で終わってしまい、1601年には徳川幕府によって、佐伯地域に転封となりました。彼はそこで佐伯城を築くことになります。このことは、角牟礼城の改修が部分的にしか行われなかった理由になるのかもしれません。

毛利高政木造、佐伯市歴史資料館の説明板より
角牟礼城の穴太積みの高石垣
佐伯城跡

水軍の棟梁が内陸の藩の領主に

来島長親(くるしまながちか)が同じ年に高政の代わりに角牟礼城にやってきました。しかし、来島氏はこの内陸の地に異動することにとても戸惑いを感じたはずです。どうしてかというと、来島氏はもともと瀬戸内海の芸予諸島で村上水軍の一族として繁栄していたからです。彼らは、急流で知られる来島海峡に面する来島を根拠地としていました。そして、通行料を支払った船を安全な航路に案内する一方、そうでない船にはいわゆる海賊行為を働いていました。また彼らは時には水軍となって戦いに加わっていて、その支援先の一つが天下人の秀吉でした。そのおかげで彼らの海域は安堵されたのです。長親はその当時の当主でしたが、1600年に起こった天下分け目の戦いでは西軍に加わり、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に敗れてしまいました。それが慣れない場所への転封の理由だったのです。しかしそれでも、他の多くの西軍に加わった武将が死罪となったり改易となる中、ラッキーだったのかもしれません。

来島長親肖像画、安楽寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
来島海峡

長親の新しい領地は、玖珠郡の一部、森地区でした。そのため森藩と呼ばれることになります。その石高は1万4千石で、独立大名としては認められても、城を持つことは許されませんでした。そのため、長親は山上の角牟礼城を廃城とせねばならず、その代わりに南麓に陣屋を構えてそこに住んでいました。しかし、彼の一族は山の部分を維持し続け、建物は撤去したもののその基礎部分は残していました。戦いが起こった場合に備えていたのでしょう。久留島氏(来島より改姓、読みは同じ)はまた、陣屋の周りに城下町を整備し、江戸時代末期まで藩を統治しました。

久留島氏の陣屋跡
城下町の武家屋敷跡

「角牟礼城その2」に続きます。

193.臼杵城~Usuki Castle

「丹生島」と呼ばれた島の全体が城そのものでした。
The whole of an island called “Niu Island” was the castle itself.

西側から見た「丹生島」の全景~The whole view of “Niu Island” from the west

立地と歴史~Location and History

臼杵城は、もともと「丹生島城」と呼ばれていて、こちらの方が歴史ファンにはなじみがあるかもしれません。なぜならここは戦国時代に大友氏と島津氏の間で起こった有名な「丹生島城の戦い」の舞台となったからです。大友氏は北部九州地方において6箇国を領有し、その本拠地は豊後国の府内、現在の大分市にありました。
Usuki Castle was originally called “Niu Island Castle” which is rather popular among history fans. Because there was a famous battle between the Otomo and Shimadu clans called “the Battle of Niu Island Castle” in the Warring States Period, Otomo clan had their territory of six provinces in the north part of Kyushu region, whose home base was in Funai of Bungo Province, now called Oita City.

16世紀中頃の大友氏の勢力圏~The Otomo clan’s territory in the mid 16th century(licensed by Alvin Lee via Wikimedia Commons)

大友宗麟は、1561年に毛利氏との戦いに敗れた後、より防御力の強い拠点を作る必要を感じました。宗麟は、臼杵湾にある岩でできた丹生島に新しい本拠地を作る決断をします。この島は約4kmの外周があり、海面から15mの切り立った岩崖がありました。更には、この城は引き潮のときは砂浜経由で行き来できましたが、満ち潮のときは完全に陸地から離れていました。もし戦いが起こった場合、十分な兵糧か水軍による補給があれば、長期間の籠城が可能となっていました。
Sorin Otomo found his clan in need of building a more defensive site after they were beaten by the Mori clan in 1561. He decided to build their new base castle on the rocky Niu Island in the Usuki Bay. The island was about 4 km surroundings in length, and 15m height from sea surface with vertical rock cliffs. In addition, the castle was accessible through the sandy beach at low tide, or completely isolated from land at high tide. If a battle happened, it could persevere for a long time with enough supply of its own or from the Navy.

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵~The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図~The relief map around the castle

「丹生島」の切り立った岩の崖~The vertical, rocky cliff of “Niu Island”

この想定は1586年に南九州から島津氏が大友氏の領地に侵攻したときに現実となりました。宗麟は、天下人の豊臣秀吉に救援を求めましたが、島津氏は秀吉からの援軍が到着する前に全九州地方を征服しようとしました。島津の軍勢はこの城を取り囲み、大友は運命は風前の灯のようでした。そのとき、大友方の最終兵器として「国崩し」との異名を持ち、ポルトガルから輸入されたフランキ砲が火を噴き、島津を駆逐したと言われています。大友は滅亡を免れました。島津は城の攻略をあきらめて撤退し、最後は秀吉に降伏をしました。大友もまた苦難を避けられず、宗麟の子息、義統は後に秀吉により改易されました。
The assumption came true when Shimadu clan’s invasion from the south Kyushu assaulted Otomo’s territory in 1586. Sorin asked the ruler Hideyoshi Toyotomi for help, but Shimadu tried to conquer all of Kyushu region before the reinforcements from Toyotomi arrived. Shimadu’s troops surrounded the castle while Otomo was like a candle flickering in the wind. However, it is said that Otomo’s ultimate weapon, Breech-loading swivel gun imported from Portugal, nicknamed “Destroyer of nations”, eliminated Simadu before Otomo escaped death. Shimadu gave up to capture the castle, withdrew, and surrendered to Toyotomi in the end. Otomo were also not without trouble, because Sorin’s son, Yoshimune was fired later by Toyotomi.

島津軍を率いた島津義弘肖像画、尚古集成館蔵~The portrait of Yoshihiro Shimasu, the head of the Shimadu troop, owned by Shoko Shuseikan Museum(licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

江戸時代には、この城は臼杵藩の所有となり、主に「臼杵城」と呼ばれるようになりました。城の範囲は島の外に広がり、便益のために「大手門」や「三の丸」が設置されました。
In the Edo Period, the castle was in the Usuki Domain, mainly called “Usuki Castle”. Its range spread outside the island setting the main gate “Otemon” and the third enclosure “Sannomaru” for convenience.

「豊後之内臼杵城絵図」部分、江戸時代~Part of the illustration of Usuki Castle in Bungo Province, in the Edo Period(出典:国立公文書館)

特徴~Features

臼杵城は「臼杵公園」となっています。公園は今では完全に陸地の一部になっていますが、以前は島だったというのがその形からわかります。なぜなら今では島の代わりに岩山のように見えるからです。
The ruins of Usuki Castle has become “the Usuki Park”. The park is now completely part of land, but you can see the shape of the former island. Because it looks like a rocky hill instead of an island.

城周辺の地図~The normal map around the castle

城周辺の航空写真~The aerial photo around the castle

最初は正面口である「古橋口」から登ってみましょう。この入り口は大友時代から存在し、二の丸に通じています。この城は部分的に石垣に覆われ、2つの現存櫓といくつか復元建築物もあるのですが、元は江戸時代に作られたものです。
You can first climb up narrow stairs from the front entrance called “Furuhashi-Guchi”, which has existed from Otomo era, to the second enclosure “Ninomaru”. The castle has been partly covered with stone walls, and had two remaining turrets and some recently restored buildings. Their origin goes back to the Edo Period.

古橋口~The Furuhashi-Guchi(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)
臼杵城の石垣、塀、現存櫓「畳櫓」~The stone walls, plaster walls, and one of the remaining turrets “Tatami-Yagura” of Usuki Castle(taken by おさむし from photoAC)

二の丸はこの島の一番高いところにあり、領主のための館が城の歴史の最初と後半の時期に設けられました。ここにはフランキ砲のレプリカがあります。また余談ですが、丹生島城の戦いで使われた本物の大砲は、東京の靖国神社にある遊就館に展示されています。
Ninomaru was the highest point of the island where the halls for the masters were in the first and the last of the castle’s life. You can see the replica of a breech-loading swivel gun at this spot. In addition, you can also see the genuine gun which was used in the Battle of Niu Island Castle in the Yushukan Museum of Yasukuni Shrine, Tokyo.

二の丸にあるフランキ砲のレプリカ~The replica of a breech-loading swivel gun at Ninomaru(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)
遊就館にあるフランキ砲~The breech-loading swivel gun at Yushukan Museum(licensed by Uploadalt via Wikipedia Commons)

島の後ろ側には本丸があり、江戸初期に天守が建築されました。ここは一時期城の中心地とされたのですが、長くは使われませんでした。恐らく二の丸より低く狭かったからでしょう。「卯寅口」と呼ばれる通用口は、本丸から下って船着き場に通じており、非常時を考え作られました。その外側は今は海ではないですが、この出入口にはまだ船着き場の雰囲気が残っています。
The back side of the island was the main enclosure “Honmaru” where the Tenshu keep was built in the early Edo Period. This place was once set as the center of the castle, but it wasn’t used for long, perhaps because of being lower and smaller than Ninomaru. The back entrance called “Uto-no-Kuchi” goes down from Honmaru to the port for emergency. Though outside is now not the sea, the entrance still has an atmosphere of a port.

本丸にある天守台の石垣~The stone walls for Tenshu at Honmaru(licensed by 小池隆 via Wikipedia Commons
卯寅口~The Uto-no-Guchi(licensed by Twilight2640 via Wikipedia Commons)

その後~Later Life

明治維新後、この城は公園となりました。天守や他の多くの櫓は廃材として売られるか、自然に崩壊しました。公園は有名になりましたが、桜の名所としてであって史跡としてではありませんでした。例を挙げると、天守台の高石垣が残っていたのですが、景観上の理由で削られてしまいました。最終的には1966年に城跡が県の史跡として指定されました。最近には2001年に「大門櫓」という櫓門が木造で復元されました。
After the Meiji Restoration, the castle was turned into a park. The Tenshu keep and many other turrets were sold as waste materials, or collapsed naturally. The park became famous for cherry blossoms, but not for being a historic site. For example, the remaining high stone walls for Tenshu was filed for landscape. Lastly, the ruins were designated as a prefectural historic site in 1966. Recently, a turret gate called “Daimon-Yagura” was restored in wooden style in 2001.

臼杵城の夜桜~The cxherry blossoms at night in Usuki Castle(taken by seama2 from photoAC)
復元された大門櫓~The restored Daimon-Yagura(licensed by チャコ via Wikipedia Commons)

私の感想~My Impression

臼杵城周辺の地域は、城と同じように岩山に囲まれ、石垣を使った建物も見られます。市街地も見て回られてはいかがでしょうか。また臼杵市は、「臼杵石仏」でも有名です。市街地から約5km離れた所にあります。
The area around Usuki Castle is surrounded by rocky hills and some buildings there use stone walls like the castle. Why not get around the city area as well. Uski City is also famous for “Uski Stone Buddha”, away from about 5 km from the city area.

岩山の上の臼杵城~Usuki Castle on the rocky hill

ここに行くには~How to get There

JR臼杵駅から歩いて古橋口は約15分、卯寅口には約10分かかります。
大分空港から臼杵駅まで:
大分駅行き空港アクセスバス(エアライナー)に乗り、大分駅でJR日豊本線に乗り換えてください。
もしくは、佐伯駅行き空港バスに乗り、臼杵インターチェンジバス停で降り、近くの白馬渓バス停まで歩き、佐伯駅まで大分バスに乗ってください。
It takes about 15 minutes to get Furuhashi-Guchi, or about 10 minutes to get Uto-no-Guchi on foot from the JR Usuki station.
From Oita Airport to Uusiki st.:
Take the Airpor Eepress Airliner bus to Oita station, and transfer at the station for JR Nippo line.
Or take the Express Limousine Bus to Saiki station, get off at Usuki Interchange bus stop, walk to Hakubakei bus stop nearby, and take the Oita bus to Usuki station.

リンク、参考情報~Links and Referencec

臼杵観光情報協会~Usuki-City Tourist Information Organization
・大友の聖将、赤神諒、角川春樹事務所(Japanese Book)
・よみがえる日本の城20、学習研究社(Japanese Magazine)

94.大分府内城~Oita-Funai Castle

大分府内城は、現在はビル街の中にありますが、かつては海城だったのです。
Oita-Funai Castle is among the modern buildings now, but was a sea castle.

大分府内城の西南隅櫓と二ノ丸堀~Seinan-Sumi-Turret and Ninomaru-Moat of Oita-Funai Castle (taken by TECHD from photoAC)

立地と歴史~Location and History

大分市は大分県の県都です。府内は大分市の以前の名前です。つまり「大分府内」という名前は新旧両方の名前が組み合わさったものです。府内も同じように豊後国(大分県の以前の名称)の国府であり、中世においては長い間大友氏によって統治されました。大友氏は、大友氏館に住んでいましたが、そこは大分府内城とは違う場所です。その館は中世の典型的は領主館で、恐らく足利氏館と同じようなものだったでしょう。
Oita City is the capital of Oita Prefecture. Funai is the former name of the city. So, the name “Oita-Funai” is combined from both of new and old names. Funai was likewise the capital of Bungo Province (the former name of Oita Pref.) governed by the Otomo clan for many years in the Middle Ages. They had been living in the Otomo Clan Hall which is different from Oita Funai Castle. It was a typical hall for a lord in the Middle Ages probably like the Ashikaga Clan Hall.

大分府内城と大友氏館の位置関係~The location of Oita-Funai Castle and Otomo clan hall)

大友氏館庭園遺構~The ruins of the Otomo clan hall’s garden(出典:文化庁)

府内の城下町は、館を中心に繁栄しましたが、戦国時代としては防御力が不足していました。1586年に島津氏の侵攻があり、館を含む市街地は焼き尽くされてしまいます。当主の大友宗麟とその息子義統は、その一族の危機の間他所に避難を余儀なくされました。彼らは天下人の豊臣秀吉からの助けにより何とか生き延びましたが、宗麟の死後、義統は秀吉により改易されました。
The Funai castle town flourished around that hall, but it had weak defenses in the Warring States Period. In 1586, Shimazu clan’s invasion happened. The city including the hall was burned out . The master, Sorin Otomo and his son Yoshimune had to escape to another place, during the destruction of the clan. They could somehow survive due to the help from the ruler, Hideyoshi Toyotomi. However, Yoshimune was fired by Toyotomi after Sorin passed away.

大友宗麟肖像画、瑞峯院蔵~The portrait of Sorin Otomo, owned by Zuihoin(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして秀吉は彼の配下である福原直孝を、1597年に府内の領主とて派遣しました。直孝はもっと安全な城が必要と考え、荷の積み降ろし港の場所に新しい城を築き始め、「荷揚(荷を積むという意味)城」と名付け、その後いつしか「府内城」と改名されました。17世紀初期に、竹中氏が4層の天守や多くの櫓を含む城として完成させ、九州地方では有数な城となったのです。
Then, Toyotomi sent his man, Naotaka Fukuhara as the lord of Funai in 1597. Fukuhara thought that he needed to have a more secure castle. He started to build a new castle at a port of unloading, called “Niage Castle” (Niage means unloading), which was renamed to “Funai Castle” sometime later. In the first 17th century, the Takenaka clan completed the castle including the four-layer Tenshu keep and many turrets, becoming a prominent castle in Kushu region.

大分府内城でライトアップされた仮想天守~The illuminated virtual Tenshu on Oita-Funai Castle(taken by seama2 from photoAC)

城の中心は安全確保と交通の便のため、細い堤を挟んで大分川の河口に面していました。河口から、本丸から二の丸へ、更には三ノ丸まで外側に向かって広がっていて、水堀によって互いに隔てられていました。特に二の丸へは、「廊下橋」と呼ばれた二つの橋のみが通じていて、もしこれらの橋を落とした場合、本丸と二ノ丸は完全に外部から遮断されるようになっていました。
The center of the castle faced the estuary of Oita River across a thin bank for safety and transportation. From the estuary, the main enclosure “Honmaru”, to the second enclosure “Ninomaru” until the third enclosure “Sannomaru” spread towards outside, separated by water moats each other. Particularly, only two bridges called “Roka-Bashi” led to Ninomaru area. If these bridges were fallen, the Honmaru and Ninomaru could be shut down from outside.

豊後国府内城之絵図部分、江戸時代、コメントを付加~Part of the illustration of Funai Castle in Bungo Province in Edo Period, adding comments出典:国立公文書館)

しかし、松平氏統治下の1743年に城下町の大火による被害を被りました。天守を含むほとんどの城の建物が焼け落ちました。その後、櫓はいくつか再建されましたが、天守は再建されませんでした(天守台だけが残ります)。
But in 1743, under the Matsudaira clan’s governance, the castle suffered from a great fire around the castle town. Most of the buildings of the castle including Tenshu keep were burned down. After that, some turrets were restored, but Tenshu wasn’t (just the Tenshu base remains).

現存している人質櫓と天守台~The remaining Hitojichi-Turret and Tenchu base(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)

特徴~Fertures

現在、本丸と二ノ丸の範囲は「大分城址公園」として公園になっています。この公園は今でも二の丸の水堀と石垣に囲まれています。しかし本丸の水堀は埋められていて、そのため公園の範囲はただ一つの曲輪のように見えます。ここにはまた櫓もあり、そのうち2つだけが元からあるものです(人質櫓と宗門櫓)。更には、一基の廊下橋が最近復元されました。
Now, the area of Honmaru and Ninomaru has been turned into a park called “Funai Castle Ruins”. The park is still surrounded by the Ninomaru water moat and stone walls. But the Honmaru water moat has been filled, so the park area looks like just one enclosure. It also has several turrets, out of whom only two turrets are original (Hitojichi-Turret and Shumon-Turret). In addition, one Roka-Bashi has recently been restored.

宗門櫓の裏側、修繕中か~The back side of Shumon-Turret, it appears being repaired.
復元された廊下橋~The restored Roka-Bashi bridge(licensed by Reggaeman via Wikimeia Commons)
廊下橋の内部~The inside of Roka-Bashi

ところが、公園の周りの地域は全て埋め立てられ、近代的な都市に変貌しています。歴史の知識がなければ、ここが海城だったとは想像できません。
However, all area outside the park has been filled in ground for the modernized city. No one can imagine that was a sea castle without historical knowledge.

城周辺の航空写真~An aeriel photo around the castle

その後~Later Life

明治維新後、大分県庁が本丸に置かれました。大正時代にその建物が新築拡張されることになり、本丸の水堀が埋め立てられました。第二次世界大戦では、米軍による大分空襲があり、城の現存櫓もいくつか焼けてしまいました。戦後市の復興計画により、城跡は大分城址公園となりました。県庁は以前の三ノ丸に移転し、そして本丸と二ノ丸の範囲は1963年に初めて県の史跡として指定されました。「西南隅櫓」「大手口多門櫓」「着到櫓」といった櫓が外観復元されました。それ以外に模擬櫓もあります。
After the Meiji Restoration, the Oita Prefectural Building was placed on Honmaru area. In the Taisho Era, the building was replaced to a new large one that caused the Honmaru water moat to be filled. In World War II, Oita Air Raid by the US Air Force burned out the Oita city area including several remaining turrets of the castle. After the war, with the reconstruction plan of the city, the castle ruins was turned into Funai Castle Ruins park. Prefectural Building was moved to the former Sannnomaru area, then the area within Honmaru and Ninomaru was first designated as a prefectural historic site in 1963. Some turrets such as “Seinan-Sumi-Turret”, “Oteguchi-Tamon-Turret” and “Chakuto-Turret” were externally restored. There are also some imitational turrets there.

大手口多門櫓~Oteguchi-Tamon-Turret(licensed by 663highland via Wikimedia Commons)

大分市は城跡の将来に向けた整備計画を検討しています。この計画によると、本丸石垣が部分的に復元され、地面に本丸水堀があったことを示す線が表示されることになっています。過去に海城があったことを周知したいようです。
Oita City is considering the development plan for the future of the ruins. They plan to restore part of the Honmaru stone walls and express the line of Hommaru water moat on the ground. They seem to let people know that there was a sea castle in the past.

2026年までの城跡整備計画マップ~The development planning map of the castle ruins by 2026 (大分市Websiteより引用)

私の感想~My Impression

面白いイベントが城址公園で開催されました。それは、鉄骨のフレームとLEDライトによって天守の姿を再現したものでした。このイベントは終わってしまったのですが、私が最近訪れたときにはまだフレームが残っていました。フレームが存在していれば、また再開することも可能と思います。そうなったらよいですね。
An interesting event was held in the ruin park. That was recreating of the image of the Tenshu keep by using a steel frame and lots of LED light bulbs. Though the event has finished, the frame remained when I visited the ruins recently. The show could be held again as long as the frame is there. Hopefully that will happen.

大分府内城の仮想天守~The virtual Tenchu in Oita-Funai Castle(taken by ぴょんにゃん from photo AC
仮想天守の骨組み(The flame of the virtual Tenshu)

ここに行くには~How to get There

車で行く場合:東九州自動車道大分ICから約20分です。城址公園内に駐車場があります。
大分駅から:徒歩で約15分かかります。バスの場合大分駅南口から「大分きゃんバス」に乗り、市役所前バス停で降りてください。
大分空港から大分駅まで:空港アクセスバス(エアライナー)に乗ってください。
If you want to go there by car: It takes about 20 minutes from the Oita IC on Higashikyushu Expressway. The park offers a parking lot inside.
From Oita station: It takes about 15 minutes on foot. Or take the Oita-Can-bus at the south entrance of the station, and take off at the Shiyakusho-Mae bus stop.
From Oita Airport to Oita st.: Take the Airpor Eepress Airliner bus.

リンク、参考情報~Links and Rererences

・よみがえる日本の城20、学習研究社(Japanese Magazine)
・大分城址公園整備・活用基本計画、大分市(Japanese Document)