37.一乗谷城 その2

中世都市を想像し、また実際に見ることができます。

特徴、見どころ

どこまでも続く遺跡群

車でも、歩いてでも谷に沿って一乗谷城跡を訪れたなら、道の両側にどこまでも続くような住居跡を目にしてきっと驚かれることでしょう。この地域の278ヘクタールもの範囲が、一乗谷朝倉氏遺跡として国の特別史跡に指定されています。また、この遺跡から発掘された2,300を超える遺物が重要文化財に指定されています。

城周辺の航空写真

谷沿いに広がる遺跡群
城下町の遺跡

遺跡の両端では、城戸跡も見学することができます。下城戸跡には、巨石を使った食い違いの入口が今に残っています。この入口は、まさに城門そのものです。上城戸は、1990年に復元されており、全長105m、高さ5mの土塁となっています。

下城戸跡
巨石を使った食い違い入口
復元された上城戸

戦国時代の町並を復原

発掘の成果により、遺跡の中心部では約200mに渡って当時の町並が復原されています。その町並の通りに立ってみると、本物の中世都市にいるような感じがします。

復原町並

復原された住居の中に入ってみることもできます。例えば、商家の中では、商人のマネキンが陶器のようなものを売っています。

復原された商家の中

武士の館では、男性のマネキンが居間で将棋に興じています(「酔象」と呼ばれる今では使われていない駒があり、「朝倉将棋」と呼ばれています)。また、台所では使用人のマネキンが料理の準備をしています。これらの展示物は、現地で発見された遺物、他の地域に現存している絵画資料や建物をもとに復原されています。

復原された武家屋敷
居間で将棋を指すマネキン
台所の中

中心部にある朝倉氏館跡

復原町並から一乗谷川を挟んだ反対側にある朝倉氏館跡にも行ってみましょう。この館は一乗谷では最大の建物で、朝倉氏の当主が住んでいました。館跡は約120m四方で、現在も土塁と水堀により囲まれています。ここには正面に唐門があります。これは、館が炎上した後、江戸時代になって館跡に建てられた松雲院(しょううんいん)の門が残っているものです。館跡とこの寺の門は、お互いを引き立てているように思います。

土塁と水堀に囲まれた朝倉氏館跡
館跡入口の唐門

館跡の内部では、それぞれの建物があった位置が平面展示されていて(主殿、会所、台所、厩舎など)、かつてどのような建物があったのか理解できるようになっています。

館跡の内部
館跡を後ろ上方から

現役の特別名勝である庭園群

ここには、朝倉氏の一族の館跡もあります。その上に、その館周辺には4つの朝倉氏の庭園があり、1991年以来国の特別名勝に指定されています。16世紀そのままの姿で出てきた庭園が、現在の人々をも魅了しているということであり、驚くべきことです。

一族の御殿の一つ、中の御殿跡

例えば、朝倉氏館跡の上の方にある湯殿跡庭園(ゆどのあとていえん)は、荒々しい岩が組み合わされ作られています。この庭園の雰囲気は、戦国時代さながらだ言われています。

湯殿跡庭園

諏訪館跡庭園はもともと、朝倉義景の妻(小少将)のために築造されたと言われています。巨石を使ったとても美しい池泉庭園です。この庭園で最も大きな石は、日本の池泉庭園の中でも最大のものと言われています。

諏訪館跡
諏訪館跡庭園
巨石を使って作られています

「一乗谷城その3」に続きます。
「一乗谷城その1」に戻ります。

84.高知城 その3

なぜ高知城にはこんなにも建物が残っているのでしょうか。

特徴、見どころ

天守の内部

天守の一階には、石落としや狭間などの防御のための仕組みがあります。更には、この階の外側には「忍び返し」と呼ばれる鉄剣があり、天守を登ってくる敵を防げるようになっています。これは日本で唯一現存例となります。

本丸御殿から天守へ
天守一階
石落とし
鉄砲狭間
天守一階外側に装備された忍び返し

二階では、城の模型など城に関する様々な展示を見ることができます。

天守二階

三階は基本的に入母屋屋根の屋根裏部屋となりますが、窓があって、屋根の内側に守備兵が入れる場所があり、攻撃側に反撃できるようになっていました。

天守三階

四階では、窓越しに屋根の上にある青銅製の鯱を間近に見ることができます。

天守四階
四階窓から見える鯱

五階はとても暗い屋根裏部屋です。

天守五階

対照的に最上階は開放的で明るく、全方向でこの城と高知市の眺めを満喫できます。ここでは、かつて城主がそうしていたように、回り縁をぐるりと歩いてみることもできます(鉄製の欄干が安全とオリジナルの欄干の保護のために取り付けられています)。

天守最上階
最上階の回り縁
最上階からの眺め

その後

明治維新後、高知城は高知公園となりました。二ノ丸と三ノ丸にあった全ての建物は撤去される一方、本丸にあったものとその他いくつかの建物は残されました。その残っている15の建物は、1950年以来、重要文化財に指定されています。この城はまた、1959年に国の史跡にもなっています。

高知城天守

私の感想

私がこの城を随分前に初めて訪れたとき、本丸にある御殿が小さい理由を誤解していました。そのときは、昔の日本人が今より背が低く、小さかったからだと思ってしまったのです。最近再び訪れることで、本当の理由がわかりました。それとともに、もし本丸御殿がとても大きかったならば、この城が公園になったときに、もしかすると二ノ丸の御殿のように取り壊されてしまったのではないかと思うようになりました。もしそれが当たっていれば、世の中何が幸いするかわからないということでしょう。

本丸御殿の内部

ここに行くには

高知自動車道の高知ICから約15分かかります。
城の周りにいくつか高知公園駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR高知駅から、とさでんバスに乗り、高知城前バス停で降りてください。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機か高速バスを使われることをお勧めします。

リンク、参考情報

高知城、公式ホームページ
・「よみがえる日本の城13」学研
・「よみがえる日本の城、天守のすべて2」学研
・「長宗我部/長宗我部友親著」文春文庫

これで終わります。ありがとうございました。
「高知城その1」に戻ります。
「高知城その2」に戻ります。

77.高松城 その3

天守は復元されるのでしょうか。

特徴、見どころ

市街地に残る石垣

もう少しお時間があれば、公園から東の方にも行ってみてはいかがでしょう。その辺りは市街地になっているのですが、近代的ビルの合間にオリジナルの石垣が残っているのです。現存している艮櫓は、もともとこの場所にありました。

城周辺の航空写真

ビルの合間に残る石垣
艮櫓が建っていた石垣

その後

明治維新後、高松城は廃城となり、天守を含むほとんどの建物は撤去され、城の多くの場所は市街地となっていきました。しかし、旧城主であった松平氏が、城のうち、残っていた主要部分を買い取り、そこに住むことになったのです。その部分は最終的には1955年に、公立の玉藻公園となりました。現存している櫓や門は、1950年に重要文化財にも指定されています。

松平氏が明治維新後に住んでいた飛雲閣
現存する艮櫓

更には、高松市は天守を復元するための記録類を収集しています。天守は三層四階の建物でした。その姿はとても珍しいもので、一階と四階部分が張り出していたのです。これは南蛮造りと呼ばれます。外観については既に十分確認済みなのですが、内装についてはまだ多くの部分が分かっていません。高松市は、市民に対して報奨金を提示してまで古写真や書類の提供を呼び掛けています。

現在の天守台石垣
天守の古写真、現地説明板より
天守復元外観図、現地説明板より

私の感想

高松城の天守の復元には大いに興味があります。もし、天守が復元されたならば、高松城は再び波間に浮かぶ城のように見えるかもしれません。しかしながら、城跡の基本的価値は、やはり現存しているものにあるとも思うのです。高松城に関しては、私の一番のお気に入りは月見櫓です。ところが、昔のような目立ち方はしていません。月見櫓が過去に見せていたような姿を取り戻せないものでしょうか。

月見櫓
月見櫓の前は埋め立てられています

ここに行くには

車で行く場合:
高松自動車道高松ICから約20分かかります。
玉藻公園に駐車できます。
電車では、JR高松駅から歩いて数分のところです。
東京または大阪から高松駅まで:東海道または山陽新幹線に乗って、岡山駅で瀬戸大橋線に乗り換えてください。
高松駅行きのマリンライナーに乗ってください。

リンク、参考情報

高松城【玉藻公園】公式ウェブサイト
・「よみがえる日本の城13」学研
・「日本の城改訂版第27、63、125」号」デアゴスティーニジャパン
・「史跡高松城跡保存整備基本計画」高松市

これで終わります。ありがとうございました。
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