75.萩城 その3

毛利氏の城づくりの到達点

特徴、見どころ

三の丸から旧城下町へ

二の丸前の駐車場に戻ったとして、そこから三の丸を歩いてみるのもよいと思います。この地区は、堀内伝統的建造物群保存地区に指定されています。ここでは、重臣たちの屋敷群がかつてあったように残っています。現在、その内部は実際には公共施設、萩焼の店、夏みかんの栽培地等になっていたりしますが、今に残っている石垣や土塀、そして屋敷門などがその区画を囲んでいるので、あたかも本物の城の領域の中に立っているような気分になります。

城周辺の地図

三の丸(堀内伝統的建造物群保存地区)
旧毛利家別邸表門、明治時代の建築だが別の場所から三の丸に移築、中は萩セミナーハウス
現存する問田益田(といだますだ)家の土塀
通り沿いの石垣と背景の指月山
石垣の内側では夏みかんが栽培されています

この地区から外堀を越えていくと、菊屋家住宅や木戸孝允旧宅などの城下町の観光スポットを見学することができます。

外堀
菊屋家住宅
木戸孝允旧宅  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)

詰めの城、指月山

最後にお時間があれば、詰めの城としての指月山に登ってみてはいかがでしょうか。約20分の多少きつい登りとなりますが、その苦労に十分見合った甲斐はあります。頂上には、麓と同じような石垣に囲まれた門跡があります。

指月山への登山口
ところどころ急坂があります
頂上の門跡に到着
この門も桝形になっています

また、頂上にある二段の曲輪も石垣に囲まれています。かつてはその上に6つの櫓が立っていました。そこからは、萩の市街地や日本海の景色が楽しめます。

下段の二の丸
二の丸から見た日本海
ここからが上段の本丸
本丸から見た萩市街地

それから、上段の本丸には籠城に備えた貯水池もあります。更には、切り込みが入った巨石があちこちにあるのがとても目立っています。これらの切り込みは通常石垣を作る際の過程として理解されています。(つまり、作成途上の石垣が放置されているということ)しかし、これらの石は敵が攻めた来たときの反撃用で、カットされて投石として使えるようにここに留めたのではないかという人もいます。

本丸にある貯水池
切り込みが入った巨石
何のために残されたのでしょうか

その後

萩城が廃城となった後、中心部の城の建物は全て撤去されました。長州藩は明治維新における勝者なのだから、なぜそんなことをする必要があったのかいまだに疑問に思っている人もいます。多くの人は、そうする(城の建物を撤去する)ことで新しい時代が来たことを示そうとしたのだとも考えています。しかし実態としては、萩の地元に残った人たちにはこれらの建物を維持するだけの予算がなかったようです。藩庁あるいは県庁が山口に移ってしまったからです。その結果、城跡は1877年以来、現在私たちが目にするような公園になっています。城跡としては、1951年に国の史跡に指定されています。

天守も廃城となった年(1874年)に解体されました

私の感想

萩城は、毛利氏の城づくりの到達点なのだと思います。この城は、平城でもあり、山城でもあり、また海城でもあったのです。毛利氏は、それまでの経験値を全てこの城に注ぎ込んで、最強の城を作ろうとしました。だから、彼らがこの立地を不承不承選んだのではなく、積極的に選んだのだと思うのです。あと、城跡に関して一つだけ言わせていただくと、山の上の土塀(これも現代になって復元されたもののようですが)に落書きがたくさんありますので、これは何とかしていただけないでしょうか。

城と一体になった指月山

ここに行くには

車で行く場合:中国自動車道の美祢ICから約50分かかります。二の丸の手前に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、萩バスセンターか東萩駅から歩いて約30分かかります。または、そのどちらかからレンタル自転車を借りるのも良いと思います。萩には他にも、松陰神社や伊藤博文旧宅など多くの史跡が、点在しているからです。
東京または大阪から萩バスセンターまたは東萩駅まで:山陽新幹線に乗って、新山口駅で高速バス「スーパー萩号」に乗り換えてください。

松陰神社内に保存されている松下村塾  (licensed by ぽこるん via Wikimedia Commons)
伊藤博文旧宅  (licensed by そらみみ via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

萩城跡指月公園、萩市観光協会公式サイト
・「よみがえる日本の城6」学研
・「日本の城改訂版第63号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・YouTube 萩博物館チャンネル
・YouTube 毛利家歴史チャンネル

これで終わります。ありがとうございました。
「萩城その1」に戻ります。
「萩城その2」に戻ります。

75.萩城 その1

270年間に渡る長州藩の本拠地

立地と歴史

毛利輝元が関ヶ原敗戦後に築城

萩市は、古い町並みでよく知られています。近くの津和野町とセットでよくツアーが設定されています。萩市はまた、明治維新で活躍した志士たちを多く輩出した地域たということも歴史ファンの間では有名です。吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、そして日本の初代総理大臣となった伊藤博文などです。それは萩が、1604年の萩城築城以来、270年もの間長州藩の本拠地であったからなのです。

萩市の範囲と城の位置

この城を築いた毛利輝元は、もともと広島城を居城として、中国地方のほとんど、石高120万石の領地を治める大大名でした。ところが、1600年の関ヶ原の戦いにおいて、徳川幕府の創始者となる徳川家康に敗れてしまいました。その結果、家康は輝元の領地を、現在の山口県にあたる長門国と周防国のわずか2ヶ国、37万石に削減しました。輝元は新しい本拠地を定める必要となり、その候補地として3ケ所が挙げられました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の広島城

一つ目は瀬戸内海に臨んだ桑山、二つ目は日本海に面した萩、三つ目は前者の中間に位置し、現在の県庁所在地である山口でした。結果的には萩となりました。その理由としては、幕府が毛利氏が二度と幕府に反抗しないよう、奥まった場所に毛利氏を閉じ込めたためと言われてきました。しかし、最近歴史家の中には輝元が幕府との議論の末に、最も防御力が高い場所として積極的に萩を選んだのではないかと推測している人もいます。萩は、輝元の以前の本拠地であった広島城のごとく、デルタ地帯の上にあったのです。

長州藩(現山口県)の範囲と城の位置

安芸国広島城所絵図、江戸時代(出典:国立公文書館)

デルタ地帯に立地

萩のデルタ地帯は、松本川と橋本川に挟まれていて、北側が海に面していました。そして、デルタの北側は砂丘となっていました。その上、最北端の部分には標高143mの指月(しづき)山が海沿いにあったのです。城の本丸は山の手前にあり、石垣と内堀に囲まれていました。本丸には城の中心として、5層の天守と藩主の御殿がありました。二の丸は本丸の南側にあり、中堀に囲まれていました。二の丸には2つの虎口があり、その石垣は海外部分までにまで及んでいました。三の丸は前述の曲輪群の更に南側にあって、重臣たちの屋敷地として使われていました。城下町とは外堀によって隔てられていました。指月山もまた、詰めの城として使われていました。輝元は、ここにも頂上に独自の本丸と二の丸を築いたのです。その内部には最初から建物はありませんでしたが、周りを櫓群と石垣によって囲まれていました。基本的にこの場所は戦のような緊急事態に備えたものでしたが、平時には物見台として使われていました。

萩市周辺の地図、今でもデルタ地帯上にあります

萩城下町絵図、1652年。現地説明板より
萩城天守の古写真、現地説明板より

城下町から明治維新の志士を輩出

城下町については、この区域はデルタ地帯の北側の砂丘部分より低い位置にあったので、最初は湿地帯でした。萩の人たちは排水のために運河を掘り、これによって城下町の建設が可能となりました。実際、明治維新で活躍したヒーローたちはこの城下町出身です。興味深い話としては、高杉や木戸のような階級が高い武士は城に近い方に住み、松陰や伊藤のような階級が低い武士は城からずっと離れた所に住んでいました。当時の武士たちにとってこれは一般的なことでした。

萩市周辺の起伏地図、今でも旧城下町は低い位置にあります

4人の志士の誕生地または旧宅位置

高杉晋作写真、1933年か1934年に出版 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
木戸孝允(桂小五郎時代)、1869年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
吉田松陰肖像画、山口県文書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊藤博文写真、1909年以前 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本拠地が山口に移転

それからもう一つ興味深い儀式が、城の御殿で毎年行われていたと言われています。この儀式では、家老が藩主に対して「今年は幕府を討つべきか」と聞き、藩主が「いや、時期尚早だ」と答えたというのです。ところが、状況が変わり、将軍を倒すことが可能になる時代がやってきました。長州藩は、幕末に本当に幕府に反抗したのです。そして萩城をとりまく状況も変化しました。城が築かれた当時は、海沿いに城を築くことは防御に有効でした。しかし、軍艦から砲撃される可能性が出てきた幕末には、その立地は逆に危険となってしまったのです。また、長州藩は他藩との連携を欲していて、本拠地としては山口が適切と考えるようになりました。その結果、藩主と藩士たちは幕府の許可なしに、萩を離れ、山口城に移っていきました。萩城が正式に廃城となったのは1874年のことです。

現存する山口城時代の山口藩庁正門

「萩城その2」に続きます。

174.大内氏館・高嶺城 その3

山口は明治維新のとき、再度築城の地として注目されました。

その後

山口には江戸時代末期になって再び城郭が再建されました。それまでは、毛利氏による長州藩は日本海に面した萩城を本拠地としていました。長州藩は、西洋諸国からの潜在的脅威に対抗するため、諸藩と連携する必要から山口に本拠地を移すことが最善と称しましたが、その実、徳川幕府に反抗しようとしていたのです。そして高嶺山の麓に幕府の許可なしに、西洋式築城法を部分的に採用し、砲台を備えた山口城を建設しました。また、もしも戦いとなったときには高嶺城を再利用しようと考えていました。そうするうちに、長州藩は明治維新における勝者となったのです。その結果、山口城は山口県庁となりました。余談ですが、山口県は8人の総理大臣を輩出していて、全都道府県の中では最多となります。その中には初代の伊藤博文と、最近では安倍晋三がいます。

現存する、山口城時代の山口藩庁正門
その正門から見える高嶺城跡がある山
山口県庁
伊藤博文写真  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

私の感想

大内氏館と高嶺城のコンビネーションは、統治と防御を両立するのにとてもよい組み合わせだと思います。同じような例として、武田氏が築いた武田氏館要害山城が挙げられます。このことは、江戸時代末期において、長州藩が高嶺城を再利用しようとしていたことからも裏付けされます。しかしながら大内氏の場合は、準備が遅すぎたように思います。大内氏は、その統治が安定していたことから山口が敵から攻撃されることはないと思っていたのかもしれません。1570年代から1580年代にかけて天下人として君臨した織田信長もまた、1582年の本能寺の変で殺されるまでは同じように思っていたかもしれないことと似ているように思います。

大内氏館跡の復元土塁
高嶺城跡の現存石垣
武田氏館跡
要害山城跡

ここに行くには

車で行く場合:大内氏館跡は、中国自動車道の山口ICから約15分のところです。北側と南側に駐車場があります。高嶺城跡までは、大内氏館跡から20分程かかります。山の中腹に小さな駐車スペースがあります。
公共交通機関を使う場合は、JR上山口駅から大内氏館跡まで歩いて約15分かかります。高嶺城跡まではそこから更に1時間程かかります。
東京または大阪から上山口駅まで:山陽新幹線に乗って、新山口駅で山口線に乗り換えてください。

高嶺城跡の駐車スペース周辺

リンク、参考情報

大内氏館跡(大内氏遺跡)、山口市観光サイト
・「西国一の御屋形様 大内氏がわかる本 入門編・興亡編」山口市
・「日本の城改訂版第120号」デアゴスティーニジャパン
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「大内氏館・高嶺城その1」に戻ります。
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