205.松尾山城 その1

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。しかし近年、秀秋の「裏切り」には疑念が挟まれています。数少ない信頼できる史料を再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。

立地と歴史

Introduction

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。秀秋は、関ヶ原南方の松尾山城に陣を布き、合戦が始まってもなお東軍につくか、西軍につくか明らかにしていませんでした。そして、しびれを切らした東軍の総帥・徳川家康の命による「問鉄砲」に刺激され、ついに東軍に組みし、その勝利に貢献したというストーリーです。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし近年、秀秋の「裏切り」と「問鉄砲」には疑念が挟まれています(白峰旬氏などの指摘)。関ヶ原合戦の記録は、同時代の当事者が記した一次史料がとても少なく、大半は後の時代に記された二次史料に頼っているからです。例えば、「問鉄砲」の記述は、合戦から半世紀以上後の軍記物「慶長軍記」からとのことです(呉座勇一氏による)。「問鉄砲」の事実が揺らぐと、秀秋の「裏切り」のタイミングも、本当に合戦の最中だったのか怪しくなってしまいます。また、秀秋がどのように松尾山城に着陣し、いつ東軍に味方する決断をしたのかとういことも謎めいてきます。最近は、その少ない一次史料・それに準ずるものを再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。それにより、「問鉄砲」の見直し以外にも、いくつも新説が提起されています。それに松尾山城については、通常は小早川秀秋陣と言われますが、そもそも何のために築かれ、使われるはずだったのかも気になります。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこで、この記事では、小早川秀秋と松尾山城との関わりについて、主に3つの視点をもって、従来説を含めた3つの仮説にまとめて、ご紹介したいと思います。
3つの視点とは、
a.関ヶ原合戦前、秀秋はどこで何をしていたのか。
b.なぜ関ヶ原が決戦場となり、秀秋はいつどのように松尾山城に布陣したのか。また西軍諸将はどこに布陣したのか。
c.秀秋は、いつ東軍に加わると決心したのか。
3つの仮説とは、
1.「問鉄砲」を含む従来説
2.小早川秀秋は裏切っていないとする説
3.西軍が松尾山城攻めをしたとする説
です。

ただしまずは、小早川秀秋と松尾山城の、関ヶ原合戦に至るまでの来歴を、簡単にご紹介してから、各説のパートに入ります。

関ヶ原に至るまでの小早川秀秋と松尾山城

秀秋は、豊臣秀吉の妻・北政所の兄、木下家定の五男として1582年(天正10年)に生まれたとされています(足守木下家譜)。幼少の頃より秀吉の養子となり、北政所に養育されていたようです。その当時から秀吉から「きん吾」と呼ばれていました(天正13年閏8月秀吉書状)。そしてわずか7歳のときに元服し、従五位下・侍従(公家成)になり、秀吉の後継者候補の一人として扱われました。秀吉が天下を取った頃には、権中納言に昇進(13歳)、丹波亀山城主にもなっていました。ところが、文禄2年に秀吉の実子・秀頼が誕生すると、翌年に秀秋は、小早川家に養子に出されてしまいます。秀吉が、秀頼の後継者としての地位を安泰にしようとしたためと考えられます。

木下家定肖像画、建仁寺常光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このときの逸話として、跡継ぎのいなかった小早川隆景が、同じく跡継ぎのいなかった本家の毛利輝元の養子にされないよう、秀吉に秀秋の受入れを申し入れたという逸話(陰徳太平記)が残っています。しかし実際には既に輝元には別の養子(一族の秀元)が決定していたため、隆景が自分の所領(九州)を引き継がせ、秀吉との関係を良好に保つために自ら決断したという見方もあります。文禄4年、秀秋と毛利輝元の養女との婚姻が行われました。輝元からその養女にあてた手紙の中に、秀秋は「利口者」であるとの記述があります。内々の手紙なので、輝元の秀秋に対する評価の一端が伺えます。一方で家臣と度々諍いを起こし、秀吉にたしなめられているので、若年による未熟さもあったと思われます。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時は、秀吉による朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)が行われていたため、秀秋の領地(筑前国)は支援基地の一つになりました。秀秋自身も慶長の役では、16歳で初陣(総大将)として朝鮮に渡っています。ところが、1598年(慶長3年)に帰国すると、秀吉から越前国(現・福井県)への転封を言い渡されました。これは、秀秋の朝鮮での軽率な行動(自ら最前線に乗り込んだ)が原因とも言われますが、これも後の軍記物での記述です。実態としては、筑前国を秀吉の直轄領とし、侵攻の統制を強化するためだという見方もあります。代官として、石田三成が派遣されています。秀吉没後は、秀秋は筑前国の領主に復帰し、豊臣一門に準ずる大大名として、五大老に次ぐポジションと認識されていました(九条兼孝日記)。そのとき、関ケ原合戦が起こったのです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つの主役・松尾山城は、近江国(現・滋賀県)と美濃国(現・岐阜県)の国境に位置していて、1570年(元亀元年)には、近江の浅井長政が家臣をこの城に配置したという記録があります(偏照山文庫所蔵文書)。当時長政が、織田信長と対立するようになったからと思われます。その後、信長が近江国を支配下に置くと、一旦廃城となりました。1600年(慶長5年)8月10日、石田三成は大垣城に入城すると、城主・伊藤盛正に対して、松尾山城に新城を築くことを命じました。三成はそのとき、大垣城と岐阜城(8月23日に落城)を拠点に、東軍に攻勢をかけることを考えていました。そして、その後詰(後方支援)として南宮山に毛利勢を入れました。また、背後の松尾山城には毛利輝元が入るはずだったという説(中井均氏)や、そのまた奥の玉城(たまじょう)には豊臣秀頼が入ることを想定していたという説(千田嘉博氏)もあります。いずれにしろ、関ケ原合戦のときには、松尾山城は西軍の有力部隊が布陣するために整備されていたのです。

松尾山城跡に立つ小早川秀秋の幟

「問鉄砲」を含む従来説

関ヶ原合戦の従来説は、明治時代に陸軍参謀本部が作成した「日本戦史」をもって固まったと言われています。歴史の本に出てくる関ヶ原の布陣図も、「日本戦史」のものがベースになっているそうです。今回注目する視点から、従来説をご説明しますが、新説の広まりによって、従来説を補強する意見(笠谷和比古氏などによる)も出てきていますので、併せてご紹介します。

西軍は8月1日に伏見城を落城させましたが、小早川秀秋勢は、主力としてこの戦いに参加しました。その後は表向きは、西軍の一員として行動していました。西軍の主力は大垣城に籠城していましたが、小早川勢は近江国周辺を行軍していたとされています。実際に、秀秋が近江の寺(成菩提院)に出した禁制(兵士に対する禁止事項)が残されています。その一方で東軍側とも交渉していて、東軍に味方する密約も交わしていました。これについては、東軍の黒田長政・浅野幸長からの密書があります。その中では「北政所」の名前を出され、東軍に味方することが彼女に報いることだと説かれています(下記補足1)。

(補足1)(前略)あなた様がどこに居られようとも、この度の忠節が非常に大切です。二・三日中に家康公がご到着されますので、それ以前に決断しなければなりません。我ら二人は北政所様に引き続きお尽くししなければなりませんので、このように申し上げているのです。速やかなご返事をお待ちしております。(8月28日付黒田長政・浅野幸長小早川秀秋宛連署状。訳を「小早川隆景・秀秋」から引用)

成菩提院、米原市ホームページから引用

9月14日に家康が大垣近くの赤坂に着陣すると、得意の野戦に持ち込むために、西上して佐和山城を攻略作戦を立て、その情報をわざと西軍に流しました。その情報を得た西軍総大将の石田三成は、急きょ先回りをして夜中に関ヶ原に布陣しました。秀秋も三成指示により、それまでに松尾山城に着陣していました。これについては、三成が新しい事態に対処するために、自ら選択した結果とも考えられます。戦い直後に吉川広家が、西軍は佐和山に撤退しようとしていたと書状に書いているからです(下記補足2)。しかし東軍の動きが早くなったことで、関ヶ原で食い止めることになったのです。また、西軍諸将は、一旦関ヶ原より西側に移動したようですが、結果的に迎撃しやすい関ヶ原に、ほぼ従来説通りの布陣をしたと考えられます。江戸時代前期に既にそれに近い布陣図が作られているからです(下記補足3)。大谷吉継は、秀秋の裏切りを予測し、わざと松尾山近くの山中に布陣したとされていますが、最終的に関ヶ原の方に前進してきたようです。。

(補足2)これは佐和山へ二重引きをする心づもりであると見えました。(一重目が関ヶ原に当たる)(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足3)武家事記所収の布陣図(山鹿素行)

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦いは、午前8時頃始まりましたが、午前中は一進一退で、西軍は善戦していました。しかし東軍と密約を交わしていた南宮山の吉川勢と、松尾山の小早川勢は動きませんでした。秀秋は東軍に寝返る約束もしていましたが、それもしていませんでした。業を煮やした家康は、小早川勢に対して発砲を命じ、狼狽した秀秋はついに西軍への攻撃を決心したのです。この開戦と、小早川参戦の時間差については、戦いに参加した島津義弘や島津家臣が証言しています(下記補足4)。また「問鉄砲」は否定されているということですが、それに近い話が伝えられています(備前老人物語)。松尾山の麓で鉄砲の音がしたので、秀秋が調べさせたところ、それは徳川方の誤射だったというのです(下記補足5)。それは実は抑制された警告射撃かもしれず、もしかしたら「問鉄砲」ストーリーの元になった可能性もあります。小早川勢は大軍(8千とも1万5千とも)だったので、一部は山麓に展開していて、このようなことに気づくこともあったのではないでしょうか。

(補足4)
慶長五年庚子九月十五日、美濃国関ヶ原において合戦あり。数時間、戦ったが未だ勝負を決せざるところ、筑前中納言(秀秋)が戦場で野心を起こしたため、味方は敗北し、伊吹山逃げ登った。(島津義弘「惟新公御自記」、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)
夜明けとともに東国衆が大谷吉継の陣地へ攻撃を開始しました。6,7回戦闘が繰り返されましたが、小早川秀秋隊が山から降りてきて側面を攻撃し、吉継の人数を一人も残さず討ち取ってしまいました。(神戸五兵衛覚書、訳を「関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足5)小早川軍が松尾山に布陣して東西両軍の戦いを観望していたときのこと、麓の方で自軍に向けた鉄砲の射撃音のするのが聞こえた。そこで小早川の使番は、秀秋の命を受け下山して調べようとした。ところが、そのとき徳川方の武士が下から上がってきて、これは誤射であり御懸念無用にと述べ、調査の必要はないと強く申し立てた。しかしその使番は、調査は主君からの命令であるとして、それに構わず現場の状況をあれこれ調べたところ、単なる誤射ではなくて、かなり複雑な事情がある行為であったようだ。(「備前老人物語」のエビソード、「論争 関ヶ原合戦」から引用)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小早川秀秋は裏切っていないとする説

次は、最近出ている新説(白峰旬氏などによる)から、秀秋と松尾山城に関係するものをご紹介します。まず合戦前の秀秋の所在ですが、実はあまりはっきりしていないのです。近江にいたというのは、秀秋の家老を務めていた稲葉家が江戸時代に幕府に提出して記録に基づいていると思われます(寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜)。そこには、小早川勢が9月14日、松尾山城にいた伊藤盛正を追い出して入城したともあります。それであれば、既に「裏切り」を決断していたように思えるのですが、この記録は稲葉家の徳川家への貢献を強調するよう編集されている可能性があるので、鵜呑みにはできません。一方、大垣城に籠城していたという記録もあります。東軍として浜松城にいた保科正光が、籠城中の武将として、秀秋の名前を挙げているのです(下記補足6)。いずれにしろ、東軍からの勧誘を受けていたのは確かですので、西軍と行動を共にしつつ、迷っていたのではないでしょうか。同盟のため、9月14日付で秀秋の家老宛に出された東軍の井伊直政・本多忠勝連名の起請文があったとされていますが、これも江戸時代の軍記物(関原軍記大成)に記載されているだけなので、確実とは言えません。

(補足6)昨日(28日)、東軍先手衆から何度も報告がきました。それによりますと、大柿城には、三成・秀家殿・秀秋殿・惟新・行長ら、そのほか豊臣馬廻衆の精鋭らが2万人ほどで立て籠もっています。(8月29日付黒河内長三宛保科正光書状、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

秀秋の家老だった稲葉正成肖像画、神奈川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、秀秋が開戦時に松尾山城にいたことを示す確実な史料はないのです(白峰旬氏による)。しかし開戦直前の状況として先ほどの吉川広家の書状に「秀家の逆意がはっきりしたので、大谷吉継救援のため、西軍が山中(関ヶ原の西)に移動した」とあるのです(下記補足7)。これによれば、関ヶ原周辺に秀秋と吉継が既に布陣していたことになります。また、戦い直後に伊達政宗は、西軍は南宮山の毛利勢を支援(後詰)するため大垣城から陣を移したと言っています(下記補足8)。これらから考えると、関ヶ原合戦直前、赤坂にいた徳川家康が南宮山の毛利勢を攻めようとし、秀秋が寝返ったことも伝わったので、三成は大垣城から出る決断をしたのだと考えられます。そして南宮山にいた吉川広家は不利を悟り、家康に事実上の降伏をしたのでしょう。そのため東軍は、三成が率いる西軍主力を追って、関ヶ原に進出したのではないでしょうか。なお、西軍が布陣したのは、前述の通り、関ヶ原ではなく、その西の「山中」でした。三成にとっては、そのときその場で戦になるとは想定外だったかもしれません。

(補足7)筑中は早くも逆意を明らかにしました。それにつき、大垣の衆(三成ら)も(かの地(大垣)にいられなくなり)大刑少(吉継)の陣が気がかりとのことで、山中へ向かって引き揚げました。(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足8)大垣城への「助衆」(毛利勢)に対して合戦を仕掛けるため、家康が14日に赤坂近辺へ陣を進めたところ、大垣城に籠城していた衆が夜陰に紛れて美濃の「山中」というところへ打ち返して陣取りをした(9月晦日付家臣宛伊達政宗書状、訳を「歴史群像145号」から引用)

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以上が正しければ、秀秋は合戦前日には、東軍への参加を表明したことになります。合戦当日の経緯ですが、西軍は従来説よりも短時間で敗北したと考えられます(下記補足9)。また、開戦時間も早朝ではなく(午前10時頃)、秀秋も当初から戦いに参加したとの記録があります(下記補足10)。開戦時刻については史料によって早朝から10時頃までまちまちですが、以下のようにも考えられます。関ヶ原一帯は当日霧が深く、西軍ではそこに大谷勢が進出していました。そこで東軍先鋒との戦いが早朝に起こり、霧が晴れた段階(10時頃)で、松尾山から降りてきた小早川勢が参戦し、大谷勢が全滅したのです。そして東軍と西軍主力の戦いが山中で始まり、短時間で決着したという流れです。というのは、家康がそのとき発した書状に両者(関ヶ原・山中)の使い分けが見られるからです(補足11・12)。

(補足9)家康方軍勢が山中に押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「歴史群像145号」から引用)

(補足10)15日の巳の刻(午前10時頃)、関ヶ原で一戦及ぼうとして、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が関ヶ原に移動した。東軍は井伊直政・福島正則を先鋒としてその他の部隊を後に続けて、西軍の陣地に攻め込んで戦いが始まった時、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子の4人が御味方して、裏切りをしたので、西軍は敗北した(9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写(堀文書)、訳を「動乱の日本戦国史」から引用)

(補足11)今度関ヶ原御忠節之儀、誠感悦之至候(9月24日付小早川秀秋宛徳川家康書状)

(補足12)今十五日午前、於濃州山中及一戦、備前中納言・島津・小西・石治部人衆悉討捕候(9月15日付伊達政宗宛徳川家康書状)今月十五日の午の刻(正午頃)、美濃国の山中において一戦におよび、備前中納言(秀家)、島津(惟新)、小西(行長)、石治部(三成)の軍勢を悉く討ち取りました。(訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

徳川家康最後陣地

西軍が松尾山城攻めをしたとする説

前説においても、秀秋が関ヶ原合戦の最中に「裏切り」を決断したわけではないことがわかりますが、状況証拠の集まりで、明らかに合戦当日に最初から東軍側に立ち、西軍と対峙していたという形にはなっていません(戦とはそういうものかもしれませんが)。それを明確にしてくれるのが「関ヶ原合戦は西軍が、松尾山城に籠る秀秋を討とうしようとして発生した」という説です(高橋陽介氏による)。この説での秀秋の合戦前の行動は、前説とそれ程変わらないようにも思えますが、東軍側のつく意志は早く固めていたことでしょう。

松尾山城跡

前説と異なってくるのは、開戦直前の三成など西軍主力の状況です。この説では、前説で取り上げた吉川広家の同じ書状の解釈が異なり、西軍主力が秀秋のいる「山中」に攻め込み、大谷吉継が後を追いかけているとしているのです(下記補足13)。また、島津家臣の後年の記述によると、9月14日の大垣城の軍議中に注進が入り、秀秋が寝返ったことが判明したというのです。(下記補足14・15)つまり、三成たちは秀秋を討つために関ヶ原方面に向かったのです。

(補足13)宇喜多・島津・小西・石田らが山中へ攻め込んだため、秀秋の逆意は明らかになりました。そのため、大柿にいた者たちも、そこに留まっていることができなくなってしまいました。吉継は心細くなって、山中に向かって撤退していきました。きっとそのあと、佐和山まで撤退するつもりだったのだと思います。(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足14)「然に筑前中納言一揆被起_内府様方に被差出之由、九月十四日に大柿江相知れ申し候事、」(宮之原才兵衛書上)

(補足15)「ヶ様之御談合最中に、筑前中納言殿野心之よし注進候、」 (井上主膳覚書)

大谷吉継墓

三成が陣を布いたのは、従来説の「笹尾山」ではなく、藤下村の「自害が岡」という所でした(下記補足16)。島津家臣の後年の記述を検討すると、松尾山に対して、第一陣が宇喜多・小西、第二陣が島津、その東に石田という布陣になっていました。他の史料で「第一陣が石田、第二陣が島津」となっているものがありますが、それは、秀秋を救援するために駆け付けた東軍主力部隊からの見方です。大谷隊は後から来たために、一番東の関ヶ原に布陣することになりました。そのため、東軍先鋒と戦うことになり、結果的に小早川隊と挟み撃ちに遭い、一番最初に壊滅してしまったのです(上記補足4)。同じ史料でも全く違う局面を表わしていることになります。

(補足16)「治部少本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す、所の者不吉也と云ふと云々、」(戸田氏鉄「戸田左門覚書」)

自害が岡

リンク、参考情報

関ヶ原の残党、石田世一の文学館
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「シリーズ・実像に迫る005 小早川秀秋/黒田基樹著」戒光祥出版
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均・内堀信雄編」吉川弘文館
・「新説戦乱の日本史/千田嘉博他著」SB新書
・「論争 関ヶ原合戦/笠谷和比古著」新潮選書
・「関ヶ原合戦を復元する/水野伍貴著」星海社新書
・「歴史群像145号 関ヶ原合戦の真実/白峰旬著」学研
・「新視点 関ヶ原合戦/白峰旬著」平凡社
・「関ヶ原合戦全史 1582-1615/渡邊大門」草思社
・「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった/乃至政彦・高橋陽介著」河出書房新社
・「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地「自害峰」遺構に関する調査報告」高橋陽介氏・石田章氏論文
・「動乱の日本戦国史/呉座勇一著」朝日新書

「松尾山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

204.佐和山城 その1

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

立地と歴史

滋賀県彦根市にある城といえば「彦根城」となるでしょうが、もう一つ歴史上重要な城がありました。佐和山城です。彦根駅をスタート地点とした場合、彦根城は西口から向かいます。佐和山城(跡)は、東口の方に行くと、佐和山城の案内と、城があった佐和山が目に入ってきます。それでは、佐和山城といえば、何を思い浮かべるかというと、やはり「石田三成」ということになるでしょう。「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と佐和山の城」という俗謡が有名です。しかし、この城は三成の時代のもっと前から、重要な役割を果たしていたのです。そして、その役割は変化しながら三成に受け継がれたのです。城跡にはほとんど遺物が残っていませんが、最後にその役割を彦根城に引き継いだためと見るべきでしょう。この記事では、佐和山城の歴史を4つの時代区分で説明していきます。

彦根城
佐和山城跡

南北近江の境目の城

佐和山城があった近江国(現在の滋賀県)は、京都に近く、早くから産業(農漁工商)や交通(水陸)が発達していました。よって領主や城の数も多く、室町時代には南近江・北近江それぞれに守護が置かれ、分割統治されていました。南近江は六角氏、北近江は京極氏で、北近江の範囲は京極5郡(伊香・浅井・坂田・犬上・愛知)と呼ばれたりしました。戦国時代になると、家臣の浅井氏が京極氏に取って代わり、戦国大名として六角氏と対立しました。佐和山城は、その南北近江の国境近くにあり(位置としては坂田郡)、両勢力の争奪の対象となりました。似たような位置づけの城としては、近くの鎌刃城が挙げられます。

近江国の範囲と城の位置

鎌刃城跡

佐和山城が最初に築かれたのは、鎌倉時代に遡ると言われています(下記補足1)。「境目の城」として現れるのは、1552年(天文21年)のことです。当時は六角氏の勢力が大きく、佐和山城は六角氏が有していました。その年に当主の六角定頼が亡くなると、跡継ぎの義賢は佐和山城を拠点(後詰)に北近江の浅井久政領に攻め込みます。ところが、逆に久政の反撃を受け、佐和山城は浅井氏のものになりました。その後、両者は攻防や和睦を繰り返しますが、佐和山城はおおむね浅井氏が維持しました。1561年(永禄4年)以後は、浅井氏の重臣、磯野員昌が最前線の城として守っていました。

(補足1)佐保山(佐和山)ハ昔佐々貴十代ノ屋形太郎判官定綱ノ六男佐保六郎時綱居住ノ所ナリ(淡海温故録)

江戸時代の浮世絵に描かれた六角義賢  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅井久政肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の浮世絵に描かれた磯野員昌 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

六角氏の観音寺城、浅井氏の小谷城・鎌刃城は、早くから石垣が導入された事例として知られています。もしかすると、佐和山城にもこのころから石垣が築かれていたかもしれません。

小谷城の石垣
鎌刃城の石垣

信長の近江国での居城

やがて織田信長が台頭すると、佐和山城も新たな局面を迎えます。浅井家の当時の当主、浅井長政は信長と同盟を結び、1568年(永禄11年)の信長上洛時には、宿敵の六角義賢を駆逐しました。このとき、信長は佐和山城に入り、長政と初対面したと伝わります。ところが、2年後の1570年(元亀元年)に信長が朝倉氏を攻めると、突如長政は信長に敵対します。同年6月、信長・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で姉川の戦いが起こり、信長方が勝利しました。磯野員昌は翌年2月まで、佐和山城に籠城しますが、ついに降伏開城しました。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以降、信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配置しました。佐和山城は、東西日本を結ぶ東山道が傍を通っていて、当時の信長の本拠地・岐阜城と京都の中間点に当たりました。信長にとっても重要な拠点だったのです。それだけでなく、信長は佐和山城に頻繁に滞在しました。信長の伝記「信長公記」には、元亀2年以後13回も信長が滞在した記録があります。同国に自身の本拠、安土城を築くまでは、佐和山城を近江国での居城としていたのです。

丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

特に、1573年(元亀4年)5月からは、大船建造のため、2ヶ月も滞在しています(下記補足2)。この当時は、琵琶湖の付属湖の一つ、松原内湖(まつばらないこ)が、佐和山城のすぐ近くまで入り込んでいました。その松原で、信長は陣頭指揮を取り、長さ約53メートル、幅約13メートルもの当時としては巨船を建造したのです。信長は早速、7月6日にその船で坂本まで乗り付け、26日には高島攻めにも使いました。ところが、その大船の活躍の記録はそれきりで、3年後には解体され、十艘の小舟に作り替えられてしまったのです(下記補足3)。湖で使うには大きすぎて、入れる港や場所が限られたためです。それでもその後、城主の丹羽長秀は安土城普請の総奉行となり、大船建造の棟梁・岡部又右衛門は天主建築の大工頭を務めました。

(補足2)五月廿二日、佐和山に御座を移され、多賀・山田山中の材木をとらせ、佐和山山麓の松原へ勢利川通り引下し、国中鍛冶、番匠、杣(そま)を召し寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間・横七間、櫨(ろ)を百挺立てさせ、艫舳(ともえ)に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かせられ、在佐和山なされ、油断なく夜を日に継仕候間、程なく、七月五日出来訖。事も生便敷(おびただしき)大船上下耳目を驚かす、案のごとく(信長公記)

(補足3)先年佐和山にて作置かせられ候大船、一年公方様御謀反の砌、一度御用に立てられ、此上は大船入らず、の由候て、猪飼野甚介に仰付けられ取りほどき、早舟十艘に作りをかせられ(信長公記)

大船の模型、安土城考古博物館にて展示

信長は後に、安土城を中心とする琵琶湖岸の城郭ネットワークを構築し、支城には重臣を配置します。佐和山城は水上交通の拠点でもあったので、その中でも最重要の支城の一つになりました。佐和山城跡からは、信長時代のものと思われる瓦片(コビキA)が発見されています。瓦葺きの建物があったということです。他の琵琶湖岸の支城、坂本城には「天主」があったという記録があるのと、信長が長期滞在していることから、佐和山城にもこの頃から「天主」があってもおかしくはありません。一歩譲って、石垣の上に、信長のための御殿はあったのでしょう。

安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示

秀吉領国の最前線→そして三成登場

1582年(天正10年)本能寺の変が起き、信長が明智光秀に討たれますが、その後は豊臣(羽柴)秀吉が天下統一を進めます。1584年(天正12年)に、徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きたときには、近江国は秀吉領の最前線に当たりました(味方の池田氏が美濃国にいましたが)。佐和山城には、秀吉の重臣・堀秀政が入っていました。秀政が出陣するときには、多賀秀種を城代としていました。秀種は、後に大和国(奈良県)の宇陀松山城を整備したことでも知られています。この頃「広間之作事」を行ったという記録があるので、佐和山城の拡張も行ったのでしょう。(堀秀政書状、多賀文書)

堀秀政肖像画、長慶寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀秀種肖像画、石川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇陀松山城跡

翌年には、近江国に当時の秀吉の後継者候補・豊臣秀次の居城・八幡山城が築かれました。佐和山城には、秀次を補佐する堀尾吉晴が配置されました。吉晴は、後に浜松城の天守・石垣を整備した人物です。家康との緊張関係は続いていたため、佐和山城も更に強化されたと見るべきでしょう。関ケ原の戦いのときには天守があったことが記録されていますが(伊達家文書・結城秀康書状)吉晴の時代までに整備されていたのではないかという意見もあります。天守は5層であったという伝承もありますが(西明寺絵馬)、山上の天守なので3層程度であろうという推定もあります(中井均氏など)。

八幡山城跡
堀尾吉晴肖像画、春光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浜松城の復興天守と現存石垣
佐和山の山麓にある5層天守の模型

1590年(天正18年)の小田原合戦により秀吉の天下統一がなされると、家康が関東に移り、秀次とその家老たちも東海地方に移っていきました。秀吉の家康に対する前線が東に移動したことになります。その空いた近江国は秀吉の直轄領になりますが、その代官として佐和山城を任されたのが石田三成だったのです(彼自身の領地は美濃国にありました)。そして文禄の役(朝鮮侵攻)の後、1595年(文禄4年)頃、佐和山城を含む北近江の大名(約20万石)となりました。三成は文禄の役のとき、他の奉行とともに朝鮮に渡り、中央と現地との調整に奔走していて、その論功とも考えられます。

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三成自身は秀吉を支える最側近であり(秀吉が病のときには片時も離れることを許さなかったといいます)、政権の奉行として国内外の政策(各大名の取次・指導、太閤検地、朝鮮侵攻など)に多忙であり、城にはほとんどいませんでした。そのため城を守っていたのは、父親の正継や兄の正澄でした。領地の統治は、家臣の嶋左近などに任せていました。

石田正継肖像画(写)、妙心寺寿聖院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、その方針については、三成が1596年(文禄5年)に領内に発布した掟書が残されています。
その掟書には、主には以下のことが定められていました。
・領主側の夫(人足)遣いの制限
・検地帳記載者に対する耕作権の保証
・年貢率の決定プロセスの明示化
・升の公定と統一
・身分確定と居住地の固定化
・百姓訴訟権の保証(目安)など
領民として認められる権利と、それに対応する義務が明確化されていました。他の大名と比べ、きめ細かさが際立っていて、三成が優れた官僚・民政家だったことが伺われます。三成の時代には、城全体を惣構(土塁・堀)で囲んだという記録があり(須藤通光書状)これが城の完成形と言われています。大手門や城下町は、もともと東側の山麓にありました。しかし、三成の居館は西側にあったとされるので、城の大手や城下町が、西側に移動または拡張したとも考えられます。

「佐和山城古図」彦根市立図書館蔵

井伊家つなぎの城

秀吉が亡くなると、三成は豊臣政権の中枢である5奉行の一人となりました。ところが、いわゆる「三成襲撃事件」の収拾策として、佐和山に隠退となりました。その後はご存じの通り、西軍の総大将として、1600年(慶長5年)9月15日、関ケ原で家康と戦い敗れてしまいました。しかし、総大将は大坂を動かなかった毛利輝元であり、三成は現地司令官として悪戦苦闘したという見方もあります。三成は佐和山城に戻れず、北近江の領内に潜伏しているところを捕縛され、京都で斬首となりました(嶋左近は関ケ原で戦死)。佐和山城は、関ケ原の2日後、東軍に包囲され落城しました。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦後、三成の領地は、家康の筆頭家老ともいうべき井伊直政に与えられました。今度は、大坂に居座る豊臣家に対する最前線・包囲網という位置づけでした。やはり、この地は家康にとっても重要な拠点だったのでしょう。そして、家康と井伊家は、新しい拠点として彦根城を築城します。しかし、井伊直政は当初、佐和山城に入城し、1602年(慶長7年)にそこで亡くなったのです。直政の家老たちの屋敷も、佐和山の山上にありました。彦根城を築城したのは、跡継ぎの直継なのです。

井伊直政肖像画、彦根城博物館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐和山城の建物や石垣は、彦根城に部材として転用されました(下記補足4、5)。佐和山の南側の斜面は、不自然にえぐられていますが、石垣を搬出する経路だったのではないかという意見があります(中井均氏)。三成の城であったため、徹底的に破壊されたとの見解が多いですが、むしろ利用されたと言うべきでしょう。佐和山城の役割は、彦根城に引き継がれたのです。佐和山の山麓には、井伊家の菩提寺である清凉寺と龍潭寺が建てられ、山自体も「御山」として彦根藩により維持されました。山は今でも、両寺の所有となっています。

(補足4)石垣ノ石櫓門等マテ佐和山・大津・長浜・安土ノ古城ヨリ来ル(井伊年譜)

(補足5)本丸之天守茂只今之より高ク御拝領之後御切落シ被遊候由、九間御切落とも云又七間とも申候実説相知レかたく(古城御山往昔咄聞集書)

城周辺の起伏地図

清涼寺
龍潭寺

リンク、参考情報

・「近江佐和山城・彦根城/城郭談話会」サンライズ出版
・「近江の山城を歩く/中井均編著」サンライズ出版
・「佐和山城跡のご案内」彦根観光協会パンフレット
・「よみがえる日本の城22」学研
・「石田三成伝/中野等著」吉川弘文館
・「歴史群像153号、戦国の城 近江佐和山城」学研
・「信長と家臣団の城/中井均著」角川選書
・「週刊日本の城改訂版第21号」デアゴスティーニジャパン
・「堀尾氏ゆかりの城館を辿る」堀尾吉晴公共同研究会
・「佐和山城と石田三成/米原市柏原宿歴史館」稲枝地区公民館講座資料
・「文化財教室シリーズ124 近世の古城Ⅲ 佐和山城」滋賀県文化財保護協会
・「埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1) 佐和山城跡」滋賀県教育委員会」
・「びわこの考湖学22・23」産経新聞滋賀版
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫

「佐和山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

97.鹿児島城 その1

島津氏の本拠地であるとともに、西南戦争終焉の地

立地と歴史

関ヶ原の戦いの後に築城

鹿児島城は、江戸時代の間島津氏の本拠地であり、また1877年に起こった日本最後の内戦である西南戦争の最後の戦場となったことでも知られています。島津氏は15世紀中盤から16世紀までの戦国時代における九州地方南部の有力な戦国大名でした。ところが、1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いでは、島津氏を含む西軍は、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に完敗しました。約1500人の兵による島津軍は、中部地方にあった戦場から何とか逃れ、九州地方の薩摩国にあった本拠地にたどり着きましたが、そのときまで生き残った人数はたった80人でした。

城の位置

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

島津氏は、幕府軍が薩摩国を直接攻撃してくるのではないかと憂いていました。そこで、本拠地としての新しい城を築くことを決めたのです。それまでの本拠地はシンプルな館だったので、それよりはずっと強力なものでした。城は西側にある城山の麓に築かれ、山は緊急事態のときの詰め城とされました。城には本丸と二の丸があり、北・東・南側を石垣と水堀が囲んでいました。本丸の内部には領主の御殿があり、御楼門(ごろうもん)と呼ばれる日本でも最大級の門がありました。しかし、それでもこの城の防衛システムは、天守・多層階の櫓、高く巧みに曲げられた石垣といったものがあった日本の他の城ほど複雑ではありませんでした。これは、島津氏が治めていた薩摩藩には外城(とじょう)と呼ばれた独特な防衛システムがあったからなのです。それは、藩が多くの藩士を地元に送り、その拠点を自身で守らせるというものでした。他の藩では通常、藩士を本拠地の城下に集住させていたので、薩摩藩のやり方は異なっていました。

鹿児島城の模型(北東側からの視点)、黎明館にて展示
上記模型の御楼門部分
代表的な外城の一つ、出水(いずみ)外城の模型、黎明館にて展示

幸運にも幕府は、薩摩藩に薩摩国を江戸時代末期まで統治することを認めました。1863年に起こった薩英戦争のときのことですが、イギリスの軍艦が鹿児島市街地を砲撃しましたが、城は砲撃目標とされませんでした。高層の建物がなかったからです。明治維新後、城は県庁と陸軍施設として使われました。しかし残念ながら、本丸の建物は1874年の失火により焼け落ちてしまいました。

焼け落ちる以前の鹿児島城の古写真、黎明館にて展示  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

西南戦争の勃発

ついに、この城の最大の出来事が1877年に起こります。維新三傑の一人である西郷隆盛が、他の二傑、大久保利通と木戸孝允に反発し、政府での職を全て辞して1873年に故郷の鹿児島に帰ってきました。彼は1874年に鹿児島城の二の丸に私学校を設立し、若い武士たちの教育を始めました。西郷は穏やかに若手をコントロールしようとしたのですが、結局大久保率いる政府に対する反乱の首謀者に担ぎ上げられてしまったのです。大久保は、帯刀などの武士の特権を廃止し、1876年には代々受け継がれた家禄をも取り上げました(秩禄処分)。同年からいくつか反乱が発生したのですが、その最大のものが1877年2月に起こった西郷による西南戦争でした。

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保利通肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

西郷とその軍勢は、北の方に行き熊本城を占拠しようとしました。彼とその側近たちは最初は楽観的でした。彼らはプロの武士集団であり、九州地方の他の地域から集まった支援者たちを加えると、その兵数は最大時で3万に達しました。一方、熊本城の守備兵の数はわずか3千超であり、多くは徴集された農民兵でした。西郷軍は、城の守備兵はすぐにでも降伏するとさえ考えていました。幹部の何人かは薩摩出身だったからです。ところが、谷将軍が率いる守備兵は決して降伏せず、大久保は援軍を城に送りました。その援軍の多くも徴収兵でしたが、西郷が思うよりずっとよく訓練され、西郷軍よりもずっと装備や兵站が充実していました。政府側は電信のような先端の情報技術さえ駆使しました。西郷側にはとてもそのようなものはありませんでした。4月には西郷は熊本城から撤退せざるをえず、人吉城などの九州の他の地域に滞陣しようとしますが、全て失敗しました。西郷はついに8月に反乱軍の解散を宣言します。わずか400名近くとなってしまった彼と側近たちは、最期の決死の戦いを、故郷且つ本拠地である鹿児島城で行うことを望みました。

熊本城
谷干城少将に率いられた鎮西鎮台の指揮官たち、朝日百科より (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

西郷と城の最期

彼らは9月初めに鹿児島城に何とかたどり着き、城山の麓と山上に兵を配置しました。もちろん5万人からなる政府軍からの攻撃を防ぎきれるものではありません。もし、これが戦国時代の出来事であったなら、西郷は山上に本陣を置いたでしょう。しかし、それは大砲の標的となってしまうため不可能でした。そのため、彼は山と麓の狭間の谷にあった洞窟に留まらざるをえず、そこは後に西郷洞窟と呼ばれるようになります。政府軍は、人っ子一人逃げられないよう完全に薩摩の反乱軍を包囲しました。そして9月24日に総攻撃を開始したのです。西郷は洞窟から突撃を敢行しましたが、銃撃され、最後は切腹して果てました。

西郷洞窟
政府軍の包囲陣地、1877年 (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

「鹿児島城その2」に続きます。