25.甲府城 その3

もっと人気が出てよい城跡

特徴

城跡の外側の見所

復元された内松陰門と鍛冶曲輪門が丘の西麓で公道に向かって開いています。これらは城の入口のようにも見えるのですが、曲輪と曲輪をつなぐ門だったのです。それだけこの城は過去には大変大きかったのです。

城周辺の地図

復元された内松陰門
復元された鍛冶曲輪門
甲府城主要部分の模型、2つの門の位置を追記(甲府城稲荷櫓)

最後に、丘の東側面の外側を歩いて、素晴らしい高石垣をご覧になることをお勧めします。この石垣は17mの高さがあり、東日本ではもっとも高い石垣の一つです。この石の積み方は、野面積みと言われ、自然石を積み上げたものです。とても野性的に見えます。この城が築かれたときに主流だった方法でした。昔は内堀であって、石垣に沿った道路から間近に見学することができます。

東側の高石垣
高さが17mあります
道路が石垣のすぐ近くを通っています

その後

明治維新後、甲府城は廃城となり、全ての城の建物は撤去されました。城跡は勧業試験場となり、製糸場や醸造所が作られました。その後、城跡は部分的に公園になりましたが、それ以外は市街地になっていきました。城跡は最初は1968年に県の史跡に指定されました。山梨県は公園を整備し、城跡を調査し、城の建物を復元してきました。城跡は2019年についに国の史跡に指定されました。

約100年前の城跡の写真 (licensed by 江戸村のとくぞう via Wikimedia Commons)
城跡の一部は山梨県庁となりました
写真の中の塔は、1922年に建てられた謝恩碑

私の感想

甲府城は、その潜在能力に比べると有名でないかもしれません。それは人々が通常、甲府市は武田氏の遺産であると思っているからではないでしょうか。甲府城は武田の後に築かれました。しかしながら、もしこの城を訪れ、この城のことを学んだなら、この都市は明らかにこの城を基礎にして発展したことに気づくでしょう。復元された城の建物も素晴らしいですが、現存している石垣はもっと素晴らしいと思います。石垣は粗野にも見えますが、実は緻密に積まれています。そんな対比を城の至る所で見ることができます。

甲府城の石垣(中心部分)
甲府城の石垣(東側)
天守台から見た本丸

ここに行くには

車で行く場合:
中央自動車道の甲府昭和ICか甲府南ICから約15分かかります。甲府駅周辺にいくつか駐車場があります。
電車の場合は、甲府駅のすぐ近くとなります。
東京から甲府駅まで:新宿駅で特急あずさかかいじに乗り、甲府駅で降りてください。約1時間半の道のりです。

天守台から見た甲府駅
特急あずさ (licensed by MaedaAkihiko via Wikimedia Commons)

リンク、参考情報

甲府城、甲府市
・「よみがえる日本の城11」学研
・「日本の城改訂版第30、57号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。
「甲府城その1」に戻ります。
「甲府城その2」に戻ります。

25.甲府城 その1

徳川幕府の重要な防衛拠点

立地と歴史

加藤光泰が本格的に築城か

甲府城は、甲斐国(現在の山梨県)にありました。甲斐国は、1582年に織田信長に滅ぼされるまでの長い間、武田氏が領有してきました。それ以来、織田氏がこの国を支配するも、徳川氏、豊臣氏、そしてまた徳川氏と、次々と支配者が変わりました。甲府市は、現在の山梨県の県庁所在地ですが、既に武田氏館の城下町でした。徳川氏が最初に支配した1583年に、この城下町の南側に初めて甲府城を築いたと言われていますが、定かではありません。1590年に豊臣秀吉の配下である加藤光泰が甲斐国を与えられました。彼は、甲府城を大幅に改良し、大規模な石垣を築いたものと思われます。というのは、豊臣は穴太衆と呼ばれる石垣を築くことができる職人集団を従えていたからです。徳川方はそういった組織は持っていませんでした。同時に、この城の基本構造が完成したと考えられています。

城の位置

加藤光泰肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高石垣と三重の堀で守られた城

城は3つの部分から成っていました。主要部分は内城と呼ばれ、本丸、天守台、その他の曲輪を含んでおり、石垣と内堀に囲まれていました。これらは一条小山と呼ばれた丘陵の上に築かれ、南側の追手門、北側の山手門、西側の柳門という3つの入口がありました。この主要部分の東側は高石垣により厳重に防御されていました。2番目の部分として、内郭と呼ばれた武家屋敷地が主要部分の周りにあり、二ノ堀に囲まれていました。最後に、城下町が内郭の周りにあり、これも三の堀に囲まれていました。

甲府城の古絵図、楽只堂年禄第173巻 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
甲府城主要部分の模型、正面は東側の高石垣(甲府城稲荷櫓)

江戸を守るための重要拠点

17世紀からの江戸時代において、甲府城は大変重要な地点でした。徳川幕府は、五街道を設置し、それには甲府の町を通る甲府街道も含まれていました。甲府は、将軍の本拠地である江戸(現在の東京)を守るための西の防衛拠点と見なされたのです。このため、幕府は基本的にはこの城を直轄統治していました。例えば、将軍の親族である徳川綱豊が在城しており、彼は後に6代将軍となります。柳沢吉保は幕府の重臣でしたが、1705年に将軍の親族でない者として初めての甲府城主になりました。しかし、その息子の吉里は1724年に大和郡山城に移され、甲府城は再び幕府直轄となりました。

甲府と江戸の位置関係

柳沢吉保肖像画、一蓮寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1868年の明治維新のとき、新政府と幕府との間で戦が起こります。新政府軍の指揮官の一人、板垣退助は幕府よりも早く甲府城を確保するべきと考えました。幕府もまた、近藤勇率いる有名な部隊、新選組を甲府城に派遣します。板垣は急行し、わずかな差で甲府城入城を果たしました。そして彼は新選組を打ち破ったのです。

板垣退助写真、東洋文化協會出版物より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
近藤勇写真、国立国会図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「甲府城その2」に続きます。

58.明石城 その2

今でもその防御力が目に見えてわかる城です。

特徴

駅から見える城

もし電車で明石城を訪れるのでしたら、明石駅のホームに降りたときからこの城がどんなに頑丈であったのか目の当たりにするでしょう。2基の現存している三重櫓、左側の坤(ひつじさる)櫓と右側の巽(たつみ)櫓が丘の上で漆喰塀によるつながっている姿が見えるのです。素晴らしい光景です。

明石駅ホームから見える明石城

城周辺の航空写真

大手門周辺

城跡は、中堀の内側にある明石公園の一部として整備されてきました。公園の正面入り口は、城の大手門でした。その石垣は残っていて、「桝形」と呼ばれる四角い空間を形作っています。平地部分には散策ゾーンや各種施設があり、球場があったところはかつては城主の御殿が建っていました。

明石公園入口
大手門の桝形部分

本丸を守る防御力

本丸の坤櫓は目の前の高石垣の上にあります。櫓に向かって階段を登っていき、櫓と天守台石垣の下にたどり着きます。しかしながら、本丸にはそのまま入ることはできません。本丸に入るには、本丸下にある稲荷曲輪を回って、後ろ側に行く必要があるのです。敵方は本丸に行きつく前に反撃を受けることになったでしょう。

そびえ立つ坤櫓
本丸に向かう階段
立ちふさがる天守台石垣
裏側にある本丸の入口

本丸の内部

本丸の中では、2基の現存櫓を間近に見ることができます。日本の城では12基残っている三重櫓のうちの2つなのです。櫓の間にある漆喰塀は最近復元されたものです。塀の中ほどにある展望台からは素晴らしい街の景色が見えます。巽櫓の向こうには、明石海峡大橋も望めます。

間近に見る坤櫓
復元された漆喰塀
本丸からの眺め
明石海峡大橋も見えます

本丸をサポートする二の丸、東丸

二の丸は、本丸とつながっています。そこには今は建物はありませんが、石垣と、石垣に囲まれた入口が良好な状態で残っています。二の丸からは、本丸の巽櫓がかっこよく見えます。東曲輪は二の丸のとなりにあり、そこも公園の入口となっています。

二の丸から本丸への入口
二の丸から見た巽櫓
二の丸の石垣と石段
東丸

「明石城その3」に続きます。
「明石城その1」に戻ります。