79.今治城 その3

この城は美しく且つ強固に作られています。

特徴、見どころ

裏門から出て内堀外を散策

城がある公園には山里門と呼ばれる裏門もあり、現在のものは1990年に復元されました。城から出るためには、そこから石段を下り、高麗門をくぐって狭い土橋を渡っていきます。この橋はもともとは木橋で、戦いが起こったときには落とせるようになっていました。この門の周辺は引っ込んでいて、その一方で橋の向こう側は突出した形になっています。

城周辺の航空写真

山里門
山里門につながった山里櫓を内堀外から見ています
山里門下の石段
高欄門と土橋
橋の向こう側は突出しています

公園を出てからは、内堀の外側を歩いて回ってみましょう。堀の幅は50~70mあり、内側の石垣は9~13mの高さがあります。まるで水に浮かぶ城のように見えます。

本丸の外側
まるで浮かんでいるように見えます
二の丸側から見ています

内堀の水源、今治港

城を見回った後は、城の内堀にどのように海水が引かれているのか見てみましょう。公園の正面入口の近くに、取水口が見えます。そこから水路に沿って水源の方に歩いて行きます。そして、城内の港(船入)であった今治港に至ります。かつての城の中堀の端に該当します。海水を水源としていることから、内堀の水面の高さは、潮の満ち引きによって変動します。

内堀側の取水口
海水を導く水路
今治港
港側の取水口

その後

明治維新後、今治城は廃城となり城の全ての建物はやがて撤去されるか、火事で燃えてしまいました。本丸には1872年に吹揚神社が設立され、1914年には二の丸部分も含めて吹揚公園が開園しました。そのために内堀の中の城の主要部分が残っているのです。一方で、内堀の外側は全て市街地となりました。1953年に城跡が愛媛県の史跡に指定されて以来、今治市は、これまで述べた通り城跡の整備と復元を進めています。

公園となった城の主要部分
もう一つの復元された櫓、武具櫓

私の感想

内堀周辺を歩き、堀と高石垣の素晴らしい景色を眺めてみて、今治城は極めて実用的にできていることに気付きました。なぜ藤堂高虎は内堀を約50mの広さに、石垣を約10mの高さに作ったのでしょうか。私は、石垣の上の守備兵が内堀の外側にいる攻撃兵に対し、銃と矢両方で効率的に反撃できるようになっていると思いました。一方で、攻撃側の銃や矢は役に立たないような距離と高さです。高虎はこのように城を設計したのではないでしょうか。今治城は美しいだけではなく、相当に強力だったのです。

守るのに丁度よい高さと幅なのかもしれません
模擬天守から場内を見ています

ここに行くには

車で行く場合:西瀬戸自動車道の今治北ICから約15分かかります。または、今治小松自動車道の今治湯ノ浦ICから約20分のところです。公園の正面口の横に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、今治駅から今治営業所行きの瀬戸内バスに乗り、今治城前バス停で降りてください。駅から歩いた場合には約30分かかります。
東京または大阪から今治駅まで:飛行機を使い、そこからバスか電車に乗って現地に行かれた方がよいでしょう。

正面入口横の駐車場

リンク、参考情報

今治城、今治市文化振興課
・「今治城の謎/土井中照著」メイドインしまなみ事務局
・「第12回高虎サミット 今治城・今治市村上海賊ミュージアム特別展総合図録」高虎サミットin今治実行委員会
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「日本の城改訂版第6、55、86号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「今治城その1」に戻ります。
「今治城その2」に戻ります。

79.今治城 その2

海城の威容を見ることができます。

特徴、見どころ

海水を引き込んだ内堀を渡って城の中へ

現在、今では吹揚(ふきあげ)公園とも呼ばれている今治城は、内堀に囲まれた主要部分のみが残っていますが、それでも威容を誇っています。高石垣と内堀のコントラストがとても印象的であり、芸術的とでも言っていいかもしれません。石垣の上には、天守を含むいくつかの城の建物が再建されており、より魅力的に見えます。城は今でも今治港の近くにあり、内堀の水は海水が使われていて、海城の雰囲気を残しています。

城周辺の航空写真

公園として現存する今治城主要部分
右側から海水が引かれています

ビジターは通常、内堀の手前にある、かつては桝形だった正面入口から城の方に入っていきます。内堀にかかる土橋を渡って、昔の人と同じように大手門である鉄御門(くろがねごもん)に向かいます。この門は今でも素晴らしい石垣に囲まれており、桝形を形成しています。この門は実は、今治藩の記録や発掘の結果をもとに石垣の一部を含め2007年に復元されたものです。

正面入口から見た土橋
鉄御門の桝形

ここの石垣にはいくつもの鏡石がはめ込まれていて、そのうちの一つはこの城では一番大きな石です。この石は勘兵衛石と呼ばれており、藤堂高虎の下で城建設の責任者であった渡辺勘兵衛の名前にちなんでいます。実は、鉄御門にはもう一つ高麗門が正面に建てられていて、かつてのビジターは門の中に完全に閉じ込められる構造になっていました。これが城を守る方法の一つでした。

城で最も大きい「勘兵衛石」
かつての桝形の構造、現地説明板より

櫓が再建されている二の丸

門の内側は二の丸で、長方形の形をしています。かつてはここに領主の御殿がありましたが、今は乗馬姿の藤堂高虎の銅像があります。

手前の広場が二の丸
藤堂高虎の銅像

長方形のそれぞれの隅には現代になって3つの櫓が復元され、内部は展示のためにつかわれています(もう一ヶ所の隅部分は本丸と共有されています)。これらの櫓群をつなぐ多聞櫓も石垣の上に部分的に復元されています。

復元された櫓の一つ、御金櫓(おかねやぐら)
御金櫓の入口

模擬天守が立つ本丸

本丸は二の丸のとなりにあり、正方形の形をしていて二の丸の半分の大きさです。現在、内部に吹揚(ふきあげ)神社があるのですが、これら2つの曲輪はまるで1つの曲輪のように見えます。なぜならその間に仕切りがないからです。かつては仕切りとして土塀があり、本丸に行くにはまた桝形を通らなければなりませんでした。

吹揚神社

また、かつては四隅に4つの櫓もありましたが、北隅を除いて石垣台が残っているだけです。その北隅は現在の模擬天守がある場所です。この天守は1980年に建設されましたが、そのときもオリジナルの天守がどこにあったかわかっていませんでした。また、その姿は高虎が編み出した層塔式ではなく、望楼式の天守のように見えます。こうなったのは、恐らく当時は望楼式の方が天守として人気が出るはずだと設計者が考えたからでしょう。

本丸には一隅を除いて櫓は再建されていません
本丸北隅に建てられた模擬天守

石垣で囲まれかつて桝形だった場所を通り過ぎて、天守に入っていきます。実際には近代的ビルで、歴史博物館と展望台として使われています。

模擬天守への門
模擬天守の入口
模擬天守からの眺め(今治港方面)

「今治城その3」に続きます。
「今治城その1」に戻ります。

79.今治城 その1

藤堂高虎の城づくりの金字塔

立地と歴史

藤堂高虎が理想の本拠地として築城

今治城は、かつて伊予国と呼ばれた愛媛県の北部に位置している今治市にあります。この城は1604年に、築城の名人として知られる藤堂高虎によって築かれました。それまでにも彼はいくつもの城を築いていました。例えば他の武将の部下として和歌山城赤木城を、伊予国の一部を領する独立した大名になってからは宇和島城大洲城が挙げられるでしょう。しかし今治城は、彼が独立後一から築き上げることができた最初の本拠地としての城でした。つまり高虎はこの城の建設に、それまでの経験や考えの全てを投入することができたのです。その結果、今治城は高虎の城の中でも記念碑的な作品となりました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊予国の範囲と城の位置

宇和島城
大洲城

この城の建設以前に、高虎は1597年の朝鮮侵攻に水軍の大将として参陣しました。この経験から高虎は、新しい城には水軍の支援と水上交通の利便性が得られる立地が必要と考えました。そのため今治城は、海城且つ平城として瀬戸内海に面していました。しかしそれまでは、そのような立地は困難且つ危険と考えられていました。海岸の地盤は軟弱であり、平地では敵に容易に攻められてしまうからです。これらを防ぐために、まず犬走りと呼ばれる段が石垣の基礎部分として築かれました。犬走りは、敵が攻めてきたときには柵を立てて攻撃を防ぐためにも使われることになっていました。またこの城は水堀によって三重に囲まれ、堀の水は海から供給されました。

犬走りの上に築かれた今治城の石垣

シンプルだが防御力を確保した縄張り

今治地域に特有な条件の他にも、高虎は今治城に新しく共通且つ簡便な建設手法を持ち込みましたが、それであっても突然の敵襲にもきちんと対応できるようになっていました。本丸と二の丸が組み合わされた城の主要部分は、シンプルな四角い形をしていて、建設が容易で且つ多くの将兵を収容できました。一方で防御面で不安がありそうですが、広い内堀、高石垣、その上に築かれた櫓群により囲まれていました。主要部への門は、桝形と呼ばれる四角い防御空間により固く守られていました。その上に大手門に入るには、内堀の手前にある出丸と呼ばれる小曲輪を通らなければならず、その出丸にも桝形がありました。そして土橋を渡って大手門に至ったのです。このような構造は、高虎が後に築城に関与することになる名古屋城二条城、篠山城などにも見ることができます。

伊予国今治城図、出典:文化遺産オンライン
名古屋城
二条城
篠山城の模型、篠山城大書院にて展示

層塔式天守を考案したか

もう一つの高虎の城づくりに関する革命は、層塔式と呼ばれる新しいタイプの天守です。それまでの天守は通常、望楼式と呼ばれる形式で建てられ、破風や華頭窓といった多くの装飾がなされていました。新しい層塔式では、単純な四角い床面が、最上階に向かって逓減していき、屋根は最低限のものでした。この形式により効率的に天守を建設でき、防御にも適していました。今治城の天守は、最初の層塔式天守と言われており、5層で本丸に築かれました。

典型的な層塔式、島原城天守
典型的な望楼式、犬山城天守

実は、その天守が本当に今治城に築かれたかどうかは発掘によって科学的には証明されていないのです。それは高虎が今治城での短い在城期間の後、1608年に伊賀上野城に移った際、その天守が撤去され、別の場所に移設されてしまったからなのです。高虎は一時、その天守を自身の伊賀上野城のために使おうと考えていたのですが、幕府の命により建設された亀山城のために、幕府に献上することにしました。亀山城の天守の古写真を見ると、確かに5層で層塔式の形をしています。この逸話は、高虎の伝記と藤堂氏の年譜にしか記録されていません。今治城の現場では、天守台石垣のような直接的な証拠はみつかっていないのです。歴史家の中には、今治城天守は天守台石垣を使わず、地面の上に直接建てられたのではないかと推測している人もいます。

伊賀上野城跡
亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今治城そのものは、高虎の親族の藤堂高吉(たかよし)が1635年まで、その後は久松松平(ひさまつまつだいら)氏が引き継ぎました。久松松平氏は、もとは単に久松と称していましたが、将軍の親族の家名である松平を名乗ることを許されました。徳川家康の母親が、後妻として嫁いでいたからです。久松松平氏は江戸時代末期まで、今治藩として城とその周辺地域を支配しました。

現在の今治城

「今治城その2」に続きます。