185.唐津城 その3

寺沢氏の業績をどう評価すればよいのでしょうか。

その後

明治維新後、唐津城は廃城となり、城の全ての建物は撤去されました。城のほとんどの部分は市街地になっていきましたが、山の部分は1877年に舞鶴公園となりました。模擬天守が建設され、新しい唐津城として開業したのは1966年のことです。それ以来、城は現代の観光地であり、史跡でもあるのです。

唐津城の模擬天守
模擬天守を本丸外側から

私の感想

私は、島原の乱の結果から寺沢氏に対してはよい印象を持っていませんでした。寺沢家の初代、広高は新しい領地である天草で徳川幕府に忠誠を尽くそうとしたように思います。彼が天草で行った圧政は、それを示すため取った方法と考えられ、同じようなことを島原城の松倉氏や沼田城の真田信利も行っていました。また、広高が唐津で行ったことと、天草で行ったことは分けて評価するべきとも思うのです。彼は、少なくとも唐津城を築き、唐津市の礎を作ったのです。それから、広高が奨励した唐津焼は今でも唐津市の名産になっています。ご覧になってはいかがでしょう。

島原城
沼田城跡
唐津松文大皿、メトロポリタン美術館蔵 (licensed by the Metropolitan Museum via Wikimedia Commons)

ここに行くには

この城に行くには、車を使うことをお勧めします。
西九州自動車道の二丈鹿家(にじょうしかか)ICから約15分かかります。
城入口近くにある駐車場に駐車することができます。
電車では、唐津駅から歩いて約20分かかります。
福岡から唐津駅まで:福岡市地下鉄の空港縁に乗って、姪浜(めいはま)駅でJR筑肥線に乗り換えてください。
東京または大阪から福岡まで:新幹線か飛行機に乗ってください。

リンク、参考情報

唐津城 施設利用案内、唐津市文化事業団
唐津城、唐津観光協会
・「よみがえる日本の城21」
・「日本の城改訂版第95号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「唐津城その1」に戻ります。
「唐津城その2」に戻ります。

136.鳥越城 その3

現代の日本で生きることに感謝します。

その後

鳥越城跡は、一向一揆が壊滅した後は長い間放置されていました。発掘調査が行われたのは1997年から2002年までで、その間の1985年には国の史跡に指定されました。歴史公園としての整備といくつかの城の建物の復元も、1991年から2002年の間に行われました。そのおかげで、この城跡を加賀一向一揆の記念碑として今日見学できるのです。

復元された桝形門(手前)と本丸門(奥)
本丸門の脇にある望楼跡、今は展望台となっています
本丸にある建物跡

私の感想

私が鳥越城跡を訪れたとき、この城はまるで戦国大名が作った城と全く同じであると思いました。このことが、加賀一向一揆が本当に宗教的、政治的、そして軍事的な力さえ持っていたことを示しているのでしょう。別の言い方をすれば、その当時の人々は、自らを守る必要があったのです。少なくとも日本においては、現在生きている人たちは通常何の心配もなしに安全に過ごすことができます。これは、一部には一向一揆の人たちの尊い犠牲があったからだということを学びました。それだけでなく、この城跡は戦国時代の一般的な山城を学ぶにもよい教材になると思います。

桝形の内部
本丸と後二の丸の間の空堀
本丸の南を守っていた二の丸

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使うことをお勧めします。
北陸自動車道の小松ICから約30分かかります。
山の頂上近くの駐車場に車を停めることができます。
公共交通機関を使う場合は、小松駅から北鉄加賀バスの麦口線に乗り、三坂バス停で降りてください。バス停から歩いて約30分かかります。
東京から小松駅まで:北陸新幹線に乗り、金沢駅で北陸線の特急に乗り換えてください。
大阪からは、特急サンダーバード号に乗ってください。

後二の丸から見える駐車場
駐車場から見える後二の丸

リンク、参考情報

史跡鳥越城跡附二曲城跡、白山市
鳥越城跡、白山市公式観光サイト
・「戦国時代と一向一揆/竹間芳明著」日本史史料研究会ブックス
・「逆説の日本史10 戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「はくさん 第12巻4号」石川県白山自然保護センター

これで終わります。ありがとうございました。
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36.丸岡城 その3

天守には2回の危機がありました。

その後

明治維新後、丸岡城は廃城となりました。天守を含む城の全ての建物は入札にかけられました。ところが、天守の建物の落札額はとても低いものでした。通常の役所や住居として使うことができなかったからです。また、解体して廃材にしたり移設するにはあまりに低い金額でした。落札者は結局天守に何も手をつけることができず、その間他の建物は移設されたり、撤去されていきました。全ての水堀は埋められ、市街地として使われました。天守の所有者はついに、1901年に天守を公共に寄付することにしたのです。そのため、天守だけが今に残っているのです。

天守内にある丸岡城の模型、天守以外の建物は全て売却、撤去されました

1948年、天守と天守台石垣は福井地震により崩壊しました。しかし、地元の人たちは1955年に天守をほとんど元通りに復元しました。これは、地震の8年前に天守を修理した際、その詳細を調査してあったから可能だったのです。復元にあたっては、元から使っていた部材の約7割を再利用しました。日本の他の城の建物を修理するときにも通常、同様のやり方で行われています。つまり、丸岡城天守は、地震の前と同等の価値を維持したと言えるのです。

福井地震の際、落下した石製の鯱

私の感想

丸岡城天守の中を見た後、お時間があれば、内堀の痕跡に沿って城の周りを歩いてみてはいかがでしょう。堀自体は市街地になってしまっていますが、堀の外側の輪郭線は道路として残っています。その道路に沿って歩いてみると、丘の上にある美しい天守の姿を見上げることができます。自分で歩いてみたとき、正直毎日その天守の姿を見ている人たちを羨ましく思いました。実は坂井市は、城の魅力アップのために50年かけて内堀の一部を復元し、その内側を公園化することを検討しています。(現在そのエリアに住んでいる人が住居の建て替えをする際、公有地化をお願いするようです。)

元の内堀ラインから見える丸岡城天守

道路として残っている内堀のライン

別の場所からもう一枚

ここに行くには

車で行く場合:北陸自動車道の丸岡ICから約10分かかります。城がある公園に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR丸岡駅から永平寺駅前行きのバスに乗って、丸岡バスターミナルバス停で降りてください。
そこから歩いて約5分のところです。
東京から丸岡駅まで:北陸新幹線に乗って、金沢駅で北陸線に乗り換えてください。
大阪から:特急サンダーバード号に乗って、福井駅で北陸線の普通列車に乗り換えてください。

リンク、参考情報

丸岡城 公式サイト
・「丸岡城~ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎~/吉田純一著」坂井市文化課丸岡城国宝化推進室
・「よみがえる日本の城8」「天守のすべて①」学研
・「城の科学 個性豊かな天守の「超」技術/萩原さち子著」ブルーバックス新書
・「丸岡城周辺整備基本計画」坂井市

これで終わります。ありがとうございました。
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