206.浦添城 その1

浦添城は、沖縄特有の城郭施設「グスク」のうち、大型のものの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。

Introduction

浦添城は、現在の沖縄県浦添市にあったグスク(城)です。グスクとは、12世紀終わり頃から15世紀中頃にかけて築かれた、按司(あじ)と呼ばれた領主の城館及び地域の宗教・集落施設としても使われた場所のことです。奄美諸島から沖縄諸島、先島諸島にかけて、約300も築かれたと言われています。特に13世紀から14世紀(日本本土の鎌倉~南北朝~室町時代辺り)には、有力按司の居城として長大な石垣で囲まれた大型グスクが出現しました。日本本土で本格的に石垣を使って築かれた城は、戦国時代後半(16世紀後半)に登場しますので、それより200年以上も早かったことになります。しかも、グスクの石垣は琉球石灰岩を使い、優美な曲線を描いていて、日本本土の石垣とは、ルックスも随分異なっています。浦添城は、そのような大型グスクの一つで、琉球王国成立までの歴史にも関わっています。この記事では、浦添城の歴史を、グスクの登場と琉球王国成立までの歴史と絡めながら説明していきます。なお「琉球」という名称は、もともと中国人が命名した地域名で、琉球王国が支配した奄美・沖縄・先島諸島一帯を指すとされています。(「沖縄県の歴史」)

浦添城跡
代表的な大型グスクの一つだった、今帰仁城跡

立地と歴史

グスク時代と三王国の成立

沖縄は古代から夜光貝などの貝殻類の産地として知られていました。夜光貝を加工した螺鈿細工が、美術工芸品や建築の装飾に使われていたのです。当初その交易(「貝の道」と呼ばれた)は、当時日本の境界とされていた奄美諸島の喜界島周辺で活動していた商人たちが、担っていたのではないかという見解があります(「琉球史を問い直す」)。その時点では、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採取を中心とした生活を送っていたと考えられていて、沖縄の時代区分として、11世紀頃までを貝塚時代と呼んでいます。

貝を加工して作られた貝匙(東京国立博物館ホームページから引用)

それが、11〜12世紀頃になってくると、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。石鍋・陶器(亀焼、かむいやき)・鉄器が普及し、農業が普及し、生活レベルが向上しました。沖縄でも「グスク土器」が生産されるようになります。中国の宋王朝も積極的な貿易政策を取っていました。そして高価な中国製磁器が取引されるようになり、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。貿易商人は、最初は中国・朝鮮・日本本土の人たちが中心でしたが、それに沖縄の人たちも加わるようになります。こうして、沖縄に「按司」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの、この時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。
・北山(山北):本拠地 今帰仁城
・中山:本拠地 浦添城
・南山(山南):本拠地 島添大里(しましーおおざと)城
彼らの本拠地にもなった大型グスクの築造も、その動きに沿ったものと考えられます。これらの多くは高台に立地し、複数の郭から構成されていて、中心部は、儀式を行う正殿と、宗教的施設の御庭(うなー)から成り立っていました。

島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために、「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、伝統的な儒教的秩序の確立を目指しました。そのため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。そして、1372年には中山王国に使節が送られました。三王国の中では最大勢力と見なされていたからと思われます。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、1380年には南山王が、1383年には北山王も明への朝貢を始めました。この朝貢は、貿易とセットになっていたため、三国に莫大な利益をもたらしました。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中山王国と浦添城

浦添城を本拠とした中山王国については記録が少なく、いつからどのように治められていたかは、後に作られた琉球王国の正史(「中山世鑑」など)しか文献史料がありません。それによると、3つの王統が統治しました。
1187年:舜天即位(3代継続)
1260年:永祖即位(5代継続)
1350年:察度即位(武寧までの2代、1390年には先島が帰順)
最初に即位した舜天は、日本本土から逃れてきた源為朝と、大里按司の妹との子とされています。そのこともあって、最初の王統は伝説上のものではないかと言われています。実在の可能性があるのは、次の英祖からで、考古学から考えられた浦添城の築城時期と重なっています。最後の察度は、中国側の記録にも現れているので、存在がはっきりしています。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は正史では、これらの王は全て最初から首里城にいて、琉球は最初は統一されていたが、英祖王統4代目の玉城(たまぐすく)のとき三国に分裂したことになっています(下記補足1)。しかし歴史家の中では、最初から三国だったであろうという意見が多いです。また、中山王国の本拠地についても、歴史家で「沖縄学の父」と伊波普猷(いはふゆう)たちによって、浦添城の存在が明らかになりました。

(補足1)今の王城を首里城というのは、昔天孫氏が初めて天から降臨して、あまねく諸国を巡り、城を築く地を選ばれたところ、今の王城の地が最も優れていたので、初めて経営して城を築かれたから首里というのである。
舜天尊敦と申し上げるのは、大日本人皇五十六代の清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤、六条判官為義の八男、鎮西八郎為朝公の男子であらせられる。
この時(玉城王)から世は衰え、政はすたれて朝勤会同の礼も日に日に衰え、内では思うままに女色に溺れ、外では狩猟に耽られたので、諸侯は朝廷に出仕する礼を取らず、国々の戦いが始まった。国は分かれて三つとなり、中山王、山南王、山北王と呼ばれた。(中略)中山というのは、首里の王城である。
(「訳注 中山世鑑」より)

伊波普猷 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浦添城跡にある伊波普猷の墓

浦添城は「浦添断層崖」と呼ばれる琉球石灰岩でできた崖の上に築かれました。頂上部は東西約4百メートルにわたって石積みの城壁に囲まれていました。城の北側は切り立った崖によって天然の要害になっていたので、南側に堀や張り出しの郭(土造り)を築いて防御を固めました。また、崖下を流れる牧港川が貿易港である牧港に通じていました。当時の沖縄では、北山の今帰仁城と並ぶ最大級のグスクだったのです。

浦添城の模型、浦添大公園南エントランス管理事務所に手展示

主郭部には、高麗系の瓦を使った正殿があり、外来の技術者が関わっていました。その前には御庭があり、周辺にも「ディークガマ」などの祈りの場所がありました。城の北側には王墓である「浦添ようどれ」が作られました。後の史書(「琉球国由来記」など)によれば、1261年に英祖王が造営しました。これも、現地の発掘調査による想定と一致しています。英祖王統の王たちが葬られている可能性がある墓室(西室)では、中世本土日本人の特徴がある頭蓋骨が発見され、もう一つの墓室(東室)では中国・東南アジア系人のDNAが検出されています。また、近くには琉球最古の寺院と言われる極楽寺が創建され、城の南側には人工池の「魚小堀(いゆぐむい)」が作られました。こういった城の構成は、後の首里城の原型になったと言われています。

再現された墓室(西室)、浦添グスク·ようどれ館にて展示

明との朝貢貿易は発展していました。明が琉球を優遇していたからです。他の国に対しては「勘合貿易」と言われるように、回数や場所を限っていましたが、琉球はほぼ自由でした(中山は35年間に40回、南山は50年間に35回、北山は33年間で15回)。それだけでなく、貿易船を貸し与えたり、「久米村」と呼ばれる実務者集団を派遣したりしました。これについては、明は新興国の「琉球」を「貿易商社」として使おうとしたとか、「倭寇」として活動していた勢力の受け皿にしようとした、倭寇情報の収集・監視役とした、日本に対する交渉の仲介役にしたなどの見解があります(「琉球史を問い直す」「琉球王国 東アジアのコーナーストーン」)。その結果、中国との交易を制限された国や勢力の間に琉球が入ることになり、ますます三王国が繁栄することになりました。1404年には、中国から冊封使が琉球に派遣され、中国皇帝が中山王・武寧が琉球国中山王として認める儀式が行われました。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
進貢船の模型、沖縄県立博物館・美術館にて展示
中国皇帝が琉球国中山王に与えた玉冠、那覇市歴史博物館にて展示

尚巴志による琉球統一、首里城への移転

15世紀になると、尚巴志により三山が統一され、琉球王国が成立します。尚巴志(生年:1372年~没年:1439年)は、南山王国の一部・佐敷城の按司でした。佐敷城は土造りの小さなグスクでしたが、その地は農業に適し、近くには良港(馬天、与那原)もありました。後世の史書(「球陽」など)によると、彼は身長が低く(五尺(約150cm)未満)で「佐敷小按司」と呼ばれたそうです。「小按司」が「尚巴志」という名の基になったのではないかという説があります。また、彼の刀を外国船が積んできた鉄塊と交換し、それを農具にして農民に与え、人望を得たという伝承があります。小領主ながら人心を掴める人物だったのでしょう。

佐敷城跡

尚巴志の琉球統一のストーリーですが、琉球王国の史書に、3つの異なった説が書かれているのです。
・中山世鑑(ちゅうざんせいかん):1650年成立、琉球王国初の正史
・蔡鐸本中山世譜(さいたくぼんちゅうざんせいふ):1701年成立、「中山世鑑」を修正
・蔡温本中山世譜(さいおんぼんちゅうざんせいふ):1725年成立、更に加筆修正
地元の伝承に基づいて書かれた最初の説を、中国の記録などを見ながら修正したらしいのです。現在の定説は、最後の説(蔡温本中山世譜)を基にしたもので、それをご紹介しますが、最初の説(中山世鑑)も捨てがたいので、異説として括弧書きで掲載します。

1402年、尚巴志は近くの島添大里城を攻撃・占領し、そこに本拠を移しました。この城は南山王国の本拠地とされていましたが、1429年まで明に朝貢を行っていることなどから、別の場所(島尻大里城か)に本拠が移ったと解釈されています。当時、南山王国では中山との抗争や内紛が起きていて(下記補足2)、尚巴志はその混乱に乗じたのかもしれません。(異説:尚巴志が島添大里城に移ったときに南山王になった、南山は尚巴志による傀儡政権になったとする歴史家もいます。)尚巴志の次のターゲットは、南山ではなく、中山の本拠地・浦添城でした。1406年、尚巴志軍に対し、当時の中山王・武寧は呆気なく降伏しました。そして尚巴志は父親の恩紹を中山王としました(異説:11421年に中山を倒し、尚巴志が中山王になった)。史書によると、武寧は周りの按司たちの支持を失っていたとされます。しかし、恩紹が1409年に朝鮮に使者を送ったときの記録によると、敵対勢力を鎮圧するのに数年を要したことが伺えます(下記補足3)。

(補足2)
朝鮮に在逃する山南王子承察度の発回(「李朝実録」太祖3年(1394年)中山王察度の願い出)
山南王温沙道(おんさどう)が中山王に追われ来たりて晋陽に寓す(「李朝実録」太祖7年(1398年)中山王察度の願い出)
是れより先、(先王の)応祖は兄達勃期(たぶち)に弑される所と為る。各塞官兵を合わせて、達勃期を誅し、他魯毎(たるみー)を推して国事を摂らしむ(「明実録」永禄13年(1415年)山南王世子他魯毎が明皇帝にあてた奏文)

(補足3)武寧が死んだ後、各按司が争いを起こし連年遠征をしていたため、使者を派遣するのが遅れた(「朝鮮太宗実録」、訳は「尚氏と首里城」より)

そして尚巴志は1416年(北山最後の進貢の翌年)、最大の敵・北山王国と対決、これを倒しました。(異説:1422年に北山を倒しこの時点で琉球統一)1421年には父から王位を継ぎ、1429年に南山王国を制圧し、ついに三山統一を果たしました(異説:すでに統一済み)。琉球王国の成立です。この間、尚巴志は本拠地を浦添から首里に移したと考えられています。現存する琉球最古の石碑「安国山樹華木之記碑」が1427年に作られ、城の周辺に人工池(龍潭)を作り、花木を植え、太平の世の記念としたことが記されています。かつての浦添城の姿が再現されたのでしょう。首里城は、以前の中山王国のときから支城として使われたと考えられていますが(「京の内」の範囲)、尚巴志が本拠とした大きな理由は、近くの那覇港の存在がありました。サンゴ礁に囲まれた沖縄は、大型船が安全に停泊できる港は、当時那覇港と運天港(今帰仁城の近く)くらいでした。尚巴志の政権は、貿易を司る「久米村」との結びつきも強めていました。城の範囲は、現在「内郭」とされる瑞泉門から内側であったとされています。尚巴志の王統(第一尚氏)は6代続きました。

龍潭から首里城の眺め
首里城の模型、首里杜館(首里城公園レストセンター)にて展示

主のいなくなった浦添城は、荒れ果てた状態になったという記録があります(下記補足4)。しかし一方で尚氏(尚巴志の王統である第一尚氏)は、王墓である浦添ようどれを改修したと考えられています。自分たちが正当な王権を継ぐ者であることを示そうとしたのでしょう。墓室である洞窟内にあった瓦葺きの建物が撤去され、中国産の石(輝緑岩)で作られた石棺墓を設置しました。そこには沖縄最古とされる仏教彫刻が刻まれています(第二尚氏の尚真、または察度王統の時代の可能性もあり)。

(下記4)城毀壊し、宮殿荒蕪して、瓦廃れ垣崩れ、鞠りて荒野と為る(「球陽」)

石棺に刻まれた仏教彫刻、浦添グスク·ようどれ館にて再現されたもの

その後

その後、琉球王朝は尚巴志とは違う王統の第二尚氏によって引き継がれましたが、その3代目の尚真王の子・尚威衡(しょういこう)が1524年に浦添城に移り住み、浦添尚家となりました。浦添城もその本拠として再整備されました。やがて尚家本家に跡継ぎがいなくなると、1589年に尚威衡のひ孫・尚寧(しょうねい)が王位を継ぎました。尚寧は首里城に移りましたが、浦添城には出張機関(浦添美御殿)を残し、両城の間を石畳の道で結びました。

復元整備された石畳道

ところが1609年、琉球王国は薩摩の島津氏の軍による侵攻を受けてしまいます。島津軍は読谷海岸に上陸し、浦添城の屋敷や城下の寺の焼き討ちを行いました。そして、尚寧が作った石畳道を通って、首里城に迫ったのです。城を包囲された尚寧は降伏し、琉球は薩摩藩の支配下に入りました。尚寧王が亡くなると、その亡骸は浦添ようどれに葬られました。2つある墓室のうちの一つ(東室)が、そのとき作られたものとされています(察度王統によるものではないかという意見もあります)。ようどれはその後、御墓番(比嘉家など)によって守られていました。

浦添ようどれの案内パネル、左側の墓室が尚寧王陵
戦前の浦添ようどれ、現地案内パネルより

そして1945年の沖縄線では、浦添城にとって最大の悲劇が起こりました。米軍は読谷海岸に上陸し、日本軍司令部があった首里を目指して南下しました。そのとき激戦があったのが、崖上にあった城跡に設置された陣地「前田高地」です(米軍は「ハクソー・リッジ」と呼称)。12日間にわたる戦闘で、浦添ようどれを含む城跡はほぼ壊滅しました。何よりも日米両軍兵士だけでなく多くの住民も犠牲となったのです。

壊滅した浦添ようどれ、現地案内パネルより

戦後、城跡は採石場となり、ますます城跡の荒廃が進みました。1955年になって、当時の琉球政府がわずかに残った墓室の修復を始めました。その後公園用地となり、1989年には国指定史跡になりました。それを受けて浦添市は発掘調査を行い、2005年には浦添ようどれの復元を行いました。現在は浦添城の復元を目指した調査や整備を行っています。

復元された浦添ようどれ、現地案内パネルより

「浦添城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

70.Okayama Castle Part1 (draft)

Location and History

Introduction

Okayama Castle was still located in Okayama City which is the prefectural capital of Okayama Prefecture. Its main tower was nicknamed as “Ujo” which means “Crow Castle” because of its black colored walls. Although the original main tower was unfortunately burned down by the Okayama Great Air Raid on the 29th of June in 1945, it was apparently fully restored in 1966. There is the Okayama Korakuen Garden across the river from the castle, which is called one of Japan’s three most beautiful gardens. Therefore, the area around is a very popular tourist spot. The area was created not for a short time but for a long time between three different lord families. They are the Ukita Clan which built the castle, the Kobayakawa Clan which modernized it, and finally the Ikeda Clan which completed it. As a result, the castle became the origin of the city. This article will explain its story from the beginning to its completion.

The current main tower of Okayama Castle

Was Naoie Ukita an Accomplished Villain?

Naoie Ukita became a great warlord around the current Okayama Prefecture in his life during the Sengoku Period. However, he wored so hard to achieve this that he has been labeled “an accomplished villain” or “One of the three great villains” in the period (the other two were Dosan Saito and Hisahide Matsunaga”). The bad reputation started from the first Edo Period. Hoan Oze, a writer at that time, described it in his “Hoan Taikoki” which is a popular biography of Hideyoshi Toyotomi. He wrote as followed:

“A person, who has a good talent, but uses it for his own benefit against justice, would eventually destroy himself.”

He mentioned Naoie in the example above. Hoan was devoted to Confucianism, therefore, he seemed to look back at the Sengoku Period to make a consequence theory. As a reality, most warlords were also something like Naoie which Hoan wrote, but as a result, most people during the peaceful Edo Period accepted Hoan’s theory. The three villain’s family’s power declined then because of financial reasons; therefore, they lost the ability to complain about it.

The restored wooden statue of Naoie Ukita, exhibited by Okayama Castle

The theory was accelerated by the Bizen Gunki, a war chronicle which was written during the late Edo Period. This book is one of the few remaining records which say Naoie’s early days as followed:

“Naoie and his family were attacked by an enemy but managed to escape from their castle and wandered when he was only a little child. After he grew up, he served the Uragami Clan and avenged the enemy. He also got promoted because of his talent. However, he worked hard for this. For example, he even killed his relatives even they were his son-in-laws. He used any means necessary such as tricks, assassinations and the use of poison. He eventually defeated his master to become a great warlord.”

The book makes us believe that Noaie was really an accomplished villain. However, recent studies are confirming these descriptions one by one. So far, some of them are false (for example, one of the murders was not actually committed by Naoie). The work is incomplete and vague. If more evidence comes out in the future, Naoie might actually be seen as a hero rather than a villain. Even though many of the descriptions are confirmed, they may have been common ways for warlords to survive. In addition, the hierarchical system was very chaotic and unstable during the Sengoku Period. It was often revised and changed because of the power struggle that often plagued the Senoku Period, unlike the peaceful Edo Period.

Naoie’s last home was Okayama which was near the Seto Inland Sea to the south at that time. The location was good for land and water transportation. It was on the delta of estuary of Asahigawa River which flowed into the sea. The delta had three hills, one of which was called Ishiyama (which means stone mountain), where Naoie built the main enclosure of the castle. Another one was called Okayama, which was the origin of the castle and the current city’s name. The scale of the castle was still small. However, Naoie expected that the castle and town would eventually prosper.

The imaginary map around the Okayama area before the Edo Period, exhibited by Okayama Castle
The range of Okayama Castle during Naoie’s period, exhibited by Okayama Castle

After Naoie became a great warlord, his actions were recorded multiple times. However, the records say Naoie was worried about his last decision. In the late 1570’s, the Oda Clan and the Mori Clan battled each other over the Chugoku Region including Naoie’s territories. He was on the Mori’s side and fought against the Oda Clan. At first the Mori Clan was more superior than the Oda Clan which eventually changed. Naoie seemed to continue watching this trend while keeping a cool head. He finally decided to switch over from the Mori to the Oda in 1579 through the agency of Hideyoshi Hashiba who was a senior vassal of the Oda Clan. That meant Naoie would become the frontline against the Mori Clan. Severe battles continued for a while. Naoie unfortunately got sick and eventually died around January in 1582 (according to the lunar calendar). Hideyoshi wanted to expand his empire. He entered Okayama Castle in April and battled against the Mori Clan at Bicchu-Takamatsu Castle in May before the Honnnoji Incident happened in June, which resulted in him being the next ruler. As a result, Naoie’s decision was correct.

The portrait of Nobunaga Oda, attributed to Soshu Kano, owned by Chokoji Temple, in the late 16th century (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Terumoto Mori, owned by the Mori Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of Bicchu-Takamatsu Castle

Hideie Ukita, a young nobleman of the Toyotomi Government, develops the Castle

Hideie Ukita followed his father, Naoie when he was only 11 years old but was supported by his relatives. The Ukita Clan joined the unification of Japan by Hideyoshi Toyotomi (who changed his name from Hashiba). Hideie was eventually promoted by Hideyoshi finally as a member of the council of the 5 elders. He was the youngest member in the council (at only 27 years old) while the others were all over 40. Historians speculate that there are 4 reasons for his early promotion.

The portrait of Hideie Ukita, owned by Okayama Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
  1. Hideyoshi felt an obligation for the contributions of the Ukita Clan
    The clan joined Hideyoshi’s troops during the most important period of his unification of Japan.
  1. The affection from Hideyoshi to Go-hime, Hideie’s wife
    Go-hime was a daughter of Toshiie Maeda, who was adopted to Hideyoshi when she was a baby. Hideyoshi loved her very much because he didn’t have children then. However, he finally got more children later on his life. Her husband was Hideie. When she suffered from a terrible sickness, Hideyoshi blamed it on the curse of the foxes. He ordered Fushimi Inari Shrine to pray for her recovery (the shrine uses foxes as envoys). He also declared that he would destroy the shrine and hunt foxes every year if she died. She fortunately recovered. Go-hime was the important connection between Hideyoshi and Hideie.
  1. The good relationship between Hideyoshi and Hideie himself
    There are no records that indicate Hideyoshi, who was a whimsical ruler, was ever angry at Hideie. Hideyoshi once announced that Hideie would be the ruler of Japan or Korea during the first stage of his invasion of Korea. (Hideyoshi himself wanted to rule China.) Hideie didn’t have his own military contributions but was often active fighting which might have been admired by Hideyoshi. He also spent huge amount of money and time for Noh plays, tea ceremonies, and falconries (using a falcon for hunting), which Hideyoshi also liked. In addition, you might think he was handsome person when you look at his portrait. However, the image above was drawn during the Showa Era using the author’s imagination.

4, Hideyoshi wanted to promote his relatives
When Hideyoshi got old, all of his male relatives were all gone excluding his only son, Hideyori. For example, the ex-successor, Hidetsugu was forced to kill himself by performing Harakiri. Hideyoshi’s brother, Hidenaga died because of illness. Hideie might have been considered one of his few relatives who would support Hideyori in the future.

The Portrait of Hideyoshi Toyotomi, attributed to Mitsunobu Kano, owned by Kodaiji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Hideie was also a great lord who several territories with about 500,000 Koku of rice. Okayama Castle was renovated as his home. It was said that the construction was done between 1590 and 1597. The center of the castle was moved from the Ishiyama hill to the Okayama hill to the east. The new center (the main enclosure) was surrounded by high stone walls which was over 15m high. They were built piling up natural stones, which was called the Nozura-zumi method. Asahigawa River had been diverted into several flowing rivers around the castle but was converged as a natural moat in the north and east of it. Many other enclosures were also built in the southern and western parts of the castle, which were surrounded by artificial moats. The castle town was well developed. However, Hideie was so busy that he couldn’t live there for a long time. However, he sent his instructions on how to build the castle town to Japan from Korea where he was positioned during the invasion.

The transition of the scale of the castle, the second one from the left is Naoie’s period and the third one is Hideie’s period, notice the diversion of the rivers
The range of Okayama Castle during Hideie’s period, exhibited by Okayama Castle, The dark blue line represents the convered river flow that turns into one big moat
The remaining stone walls of Hideie’s period

The most interesting thing of the castle was its main tower as the symbol. It officially had 3 levels with 6 floors (however, some historians consider it 4 or 5 levels because of its complex roofs). It was over 20m high (about 35m in total including its stone wall base). The base was built along the natural terrain as the techniques were still primitive at that time. Therefore, the base became a scalene pentagon on a plane. As a result, the first floor became the same shape as the base. As you go higher, the shape turns into a square. Because of the complex floors, the first and second levels looks like multiple turrets and the top level like a lookout point was on them. This style is called “Boro-gata” (means the lookout type). The main tower of Okayama Castle is said to have followed the style of Nobunaga Oda’s Azuchi Castle and Hideyoshi’s Osaka Castle. The walls of the tower were painted black, which originated from the nickname of the castle, “Ujo” (means Crow Castle). In addition, the castle was decorated by rooftiles using gold leaves, which needed special permission from Hideyoshi to be used.

The old photo of the original main tower (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons), Unfortunately because the picture is in black and white, it’s hard to tell that the walls were indeed in the color of black
The miniature model of the main tower, exhibited by Okayama Castle, The minature model has a slight difference in design compared to the modern look of the castle today
The excavated or restored rooftiles using gold leaves, exhibited by Okayama Castle, the round family crest is Toyotomi Hideyoshi’s family

However, after Hideyoshi died in 1598, the situation changed dramatically. The authority of Hideie, which had been back upped by Hideyoshi, began to deteriorate. That caused an imbalance in power, which is often called Ukita Trouble. Some senior vassals, such as Ukita Sakyonosuke, and Hideie’s close vassals like Jirobe Nakamura fought against each other about who would rule their territories. Unfraternally, Hideie was not able to stabilize it. Eventually, many vassals left Hideie. For example, Ukita Sakyonosuke would become the lord of Tsuwano Castle. As a result, the power of Hideie would eventually disappear.

The portrait of Ukita Sakyonosuke, private owned (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of Tsuwano Castle (in Shimane Prefecture)

On the 15th of September in 1600 (according to the lunar calendar), the Battle of Sekigahara occurred, where Hideie joined the Western Allies but was unfortunately defeated. He escaped from the battlefield and hid in the mountain areas with his few retainers for a while. Then, he sailed to Satsuma Province to ask the Shimazu Clan which also joined the Western Allies for help. The clan still did not surrender to the Tokugawa Shogunate which was the former Eastern Allies. Hideie wanted to survive and get back to being a lord. After the clan and the shogunate made peace in 1603, Hideie presented himself at the shogunate the following year. The decision of the shogunate was to banish him to Hachijojima Island, nearly 300km away from Edo (the current Tokyo), forever. It was said Hideie never gave up on his comeback until his death when he was 84 years old in 1655. Hideie must have been stronger than his image of ” a young nobleman of the Toyotomi Government”.

The encampment of Hideie Ukita at the Sekigahara battlefield

Hideaki Kobayakawa, a Misfortunate Lord who Modernizes the Castle

After that, Hideaki Kobayakawa entered Okayama Castle as the lord of the Okayama Domain which earned him about 400,000 Koku of rice. This was his reward for helping Ieyasu win The Battle of Sekigaha. His actions gave him the reputaiton of a betrayer. He switched from the Western Allies to the Eastern Allies during the battle, being forced by the way of Toi-deppo (shot by Ieyasu Tokugawa). However recent studies suggest that Hideaki did not switch sides halfway through the battle but rather was supportive of the eastern allies from the very beginning. In spite of this, his bad reputation affected his relationship with the Okayama Domain. They said that Hideaki lived a luxurious life, doing bad things, and finally died a madman. As a matter of fact, he killed a senior vassal, which resulted in other senior vassals leaving him in fear of getting killed.

The portrait of Hideaki Kobayakawa, owned by Kodaiji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

However, recent studies suggest that Hideaki’s death was caused by excessive alcohol drinking since his childhood. In addition, he left too many achievements for his short two years at Okayama before his death at only 21 years old. The purge to his senior vassals might have indicated his new government with his new close vassals. Some of Hideaki’s achievements include land survey, reorganization of temples, destroying unnecessary castles, and modernizing Okayama Castle (excessive castles could lead to rebellions which many lords wanted to minimize). The modernizing was done because the castle needed to adapt to new military methods after the Sekigahara battle.

Hideaki doubled the range of the castle (from 60 hectares to about 110 hectares). The outer third enclosure was built in the new western part of it. The outer moat also surrounded the enclosure, which was 2.5km long in total. It was said that the moat was built in only 20 days, which gives it its nickname “Hatsuka-bori” (which means 20 days moat). It was also said that it was fortified to prepare for the possible invasions from the Mori Clan. The clan was defeated during the Sekigahara battle and their territories were reduced by the shogunate, but Hideaki wanted to prepare for a possible revenge invasion from the west of Okayama Castle. In addition, Hideaki also extended the main enclosure and built new turrets and gates. We can see the stone walls of the enclosure, built by him, next to those of Hideie Ukita’s period. Some of the turret buildings were said to have been moved from castles which had been abandoned.

The ruins of the outer moat
The right side of these stone walls were built by Hideaki, the left side was built by The Ukita Clan
The miniature model of Onando Turret, which was one of turrets that were moved\ from other castles, exhibited by Okayama Castle

Hideaki died not having a successor. For this reason, the shogunate fired the Kobayakawa Clan. He was forced to mature at a young age, and like the wind he had an early demise. If he could have lived for few more years or have had his successor, his reputations would have been different from the current ones. He was really a misfortunate lord.

Ikeda Clan, the Pivot of Western Japan completes the Castle

Okayama Castle and the Okayama Domain was followed by Tadatsugu Ikeda when he was only 5 years old. He was a son of Terumasa Ikeda, the lord of Himeji Caste, whose wife was a daughter of Ieyasu Tokugawa. Therefore, Tadatsugu was a grandson of Ieyasu. This promotion may have been favoritism by Ieyasu. Tadatsugu was back upped by Toshitaka Ikeda (20 years old) who was another son of Terumasa, but his mother was different from Tadatsugu (Terumasa’s ex-wife). Tadatsugu died young just after he grew up, so his brother, Tadakatsu (14 years old but after his coming-of-age ceremony) followed him. Tadatsugu died when he was 31 years old and his successor (Mitsunaka) was only 3 years old back then. The shogunate decided to move Mitsunaka to Tottori Castle. Instead, Mitsumasa Ikeda, who was a son of Toshitaka, moved from Tottori to Okayama when he was 24 years old. Overall, the shogunate considered Okayama castle and the domain as an important spot in western Japan, where a young lord was not able to govern it properly.

Himeji Castle
The Portrait of Terumasa Ikeda, owned by Tottori prefectural art museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The Portrait of Tadatsugu Ikeda, owned by Setai-in Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Okayama Castle was finally completed by the Ikeda Clan. First, Toshitaka, who was the guardian of Tatatsugu, developed the inner second enclosure and the western enclosure. The remaining Nishite Turret was built at the western enclosure at the same time. Secondly, Tadakatsu extended the main enclosure to build the government office called “Omote-shoin”. The remaining Tsukimi Turret was also built there. The castle not only become a home for battles, but it also become an office for the government.

Part of the illustration of Okayama Castle in Bizen Province, exhibited by the National Archives of Japan
The Portrait of Toshitaka Ikeda, owned by Hayashibara Museum of Art (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The remaining Nishite Turret, which is located in front of the inner moat
The Portrait of Tadakatsu Ikeda, owned by Setai-in Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The miniature model of the main enclosure of Okayama Castle, exhibited by Okayama Castle
The remaining Tsukimi Turret, This turret is located on the bottom left corner of the diorama shown above

After Mitsumasa Ikeda became the lord, he improved the civil administration and cultural affairs in his domain. He learned Confucianism to lead the people in the domain. He also established the Okayama Domain School in 1669 for the Samurai-class people. Furthermore, he built the Shizutani School in 1670 for the lower-class people, which was said to be the earliest school for commoners in Japan. The constructions of the schools were instructed by his excellent close vassals like Nagatada Tsuda. On the other hand, the castle town of Okayama often suffered from natural disaster damages like floodings of Asahigawa River. This was because the river was artificially converged as a natural moat when the castle was renovated. As a result, the water of the river would often overflow to the town during harsh weather conditions. Mitsumasa ordered Nagatada to prepare preliminary measures for possible natural disasters. Nagatada decided to build spillways called “Hyakkenn-gawa” (which means 180m-wide river) at the upstream of Asahigawa River which came from the ideas of a Confucian, named Hanzan Kumazawa. The spillways usually worked as banks, but they changed to a river when the flow of Asahigawa River overflowed.

The Portrait of Mitsumasa Ikeda, owned by Hayashibara Museum of Art (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The ruins of the Okayama Domain School
The auditorium of the Shizutani School
The explanation of Hyakkenn-gawa River, exhibited by Okayama Castle, the curved blue arrow represents the overlow of the riverbanks during flooding. Notice the stone fortification in front of the reservoir that was prepared for the excess of water from the flooding. Back then the reservoirs were used as farmlands by farmers.
The second bank of Hyakkenn-gawa River

Mitsumasa’s successor, Tsunamasa liked culture and entertainment very much.
After the spillways were completed, the site across Asahigawa River from the castle became a wasteland. Tsunamasa launched the construction of his garden there, called Gokoen which is the current Okayama-Korakuen, one of the three greatest gardens of Japan. It was also instructed by Nagatada, who was like a superman! (a powerful retainer, rather than a powerful warrior) The garden was mostly consisted of fields, where farmers worked, as if it was a real countryside, by Mitsumasa’s interests. He commuted to his own garden by a boat from the castle occasionally. As time passed, the appearance of the garden was changed by his descendants. For example, most of the fields were turned into grass. Artificial hills and ponds were added on some points of the garden, which resulted in what we see today. The garden was also used for guests and opened to the public on somedays during the later Edo Period.

The Portrait of Tsunamasa Ikeda, owned by Hayashibara Museum of Art (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The current Okayama-Korakuen
The illustration of the Gokoen garden, 1n 1863, exhibited by the Cultural Heritage Online

To be continued in “Okayama Castle Part2”

70.岡山城 その1

岡山城は、岡山県の県都・岡山市に今でもそびえている城です。天守はその黒さから「烏城」とも呼ばれています。この記事では、岡山城が完成するまでのストーリーをご説明します。

立地と歴史

Introduction

岡山城は、岡山県の県都・岡山市に今でもそびえている城です。天守はその黒さから「烏城」とも呼ばれています。オリジナルの天守は、1945年(昭和20年)6月29日の岡山大空襲で焼失しましたが、1966年(昭和41年)に外観復元されました。また、城の堀とも言うべき旭川を挟んで、日本三名園の一つ、後楽園もあり、人気の観光地になっています。これら優美な姿は、一遍に現れたのではなく、3つの大名家の関わりによって出来上がりました。城を築いた宇喜多氏、城を受け継いで近代化した小早川氏、そして完成させた池田氏です。そして、現在の岡山市の繁栄の基にもなりました。この記事では、岡山城が完成するまでのストーリーをご紹介します。

現在の岡山城天守

「戦国の梟雄?」宇喜多直家による築城

宇喜多直家は一代で、現在の岡山県周辺地域(備前・美作国)の戦国大名にのし上がりました。しかしその手段が卑劣だったということで「戦国の梟雄」「戦国三大悪人(の一人)」などと呼ばれてもいます。実はそのような評判は江戸時代初期からのことでした。当時の作家・小瀬甫庵の「甫庵太閤記」に取り上げられているのです(下記補足1)。

(補足1)直家義も露程も知らず事ども、甚だもって夥し。かつ記すに、先主浦上備前守宗景を隠謀をもって弑し、舅中山備中守を属託にふけり殺害し、作州ゑびの城主後藤を聟に取り、毒して殺しけり。かやうの類悪のみにて、備作の城主をあまた生害し、その領知を奪取て、威猛く富溢れ出、一往栄え侍れども、天その不義をば赦し給わずなり。(略)まことに無道の報、直家にかぎらず。松永弾正忠久秀、斎藤山城守道三、この両人等も直家にひとしく、才高くして利を好み、義を疎にせしが、何も後絶にけり。(甫庵太閤記)

要するに「義」を疎かにし、「才」能を「利」得のために使う者は、滅びる運命にあるということの典型例として、直家の名を挙げているのです。甫庵の考え方(儒教の忠孝)に基づき、結果論から語っているようにも思いますが、結果的に平和になった江戸時代の人々に受け入れられました。宇喜多家は大名としては滅びたので、抗議の声もあがらなかったでしょう。

宇喜多直家像(復元、岡山城にて展示)

この傾向に拍車をかけたのが、直家の前半生を記した記録が、江戸時代後期に書かれた軍記物の「備前軍記」くらいしか残らなかったことです。宇喜多家にあった記録は、没落により散逸してしまったからでしょう。ここでは敢えて直家の生い立ちを「備前軍記」に基づいて簡単に記してみます。

1534年(天文3年)島村観阿弥が宇喜多氏の居城・砥石城を奇襲、祖父・能家は自害、直家(6歳)は父親(興家)とともに流浪
1543年(天文12年)浦上宗景に仕官(直家15歳)、その後元服して乙子城を預けられる
1549年(天文18年)浮田大和を攻め、砥石城を落とした手柄で、新庄山城(奈良部城)を預けられ居城とする
1559年(永禄2年)舅の中山信正を、亀山城で酒宴で油断させて自ら斬る、城を乗っ取る、また、祖父の仇・島村観阿弥を砥石城からおびき寄せ討ち取る、城も取り返す
1561年(永禄4年)龍の口城の穝所元常を美少年の小姓を使い、酒を飲ませて生害
1566年(永禄9年)備中の大名・三村家親を、部下に鉄砲で生害させる
1568年(永禄11年)金川城の娘婿・松田元堅を討つ
1570年(元亀元年)岡山城主・金光宗高(別書では娘婿)を切腹させる
1573年(天正元年)岡山に移転
1577年(天正5年)主君の浦上宗景を天神山城に攻め、宗景は落ち延び、浦上氏滅亡
1578年(天正6年)妹聟の虎倉城主・伊賀久隆に毒を盛る
1579年(天正7年)三星城主・後藤勝基を(別書では娘婿)攻め自害させる

まさに、目的のためにはたとえ身内相手でも手段を選ばずといった感じですが、他に直家の詳しい経歴がわかるソースがないため、これがそのまま直家の「戦国の梟雄」イメージを作り上げ、現代まで続いているのでしょう。現在では、島村観阿弥への仇討ちが他の史料で確認でなかったり、必ずしも直家が単独で行ったのか疑問を持たれるケース、年次の誤り(例:浦上氏滅亡は実は2年前、伊賀久隆没は3年後)、「酒を飲ませる」パターンなど誇張された表現などが指摘されています。しかし仮にグレーな部分が全て事実だったとしても、程度の差はあれ、戦国時代は生き残りのため親族間であっても謀略・寝返りは普通に行われていました。これらのストーリーは、直家の戦国大名としての優れた能力をも示しているのではないでしょうか。「主君」を攻めるという件についても、当時は完全な上下関係ではなく、有力大名と地方領主の関係で力関係によって下剋上となったのです。

直家が最後の本拠地とした岡山の近くには、瀬戸内海が湾のように入り組んでいて、旭川の河口がすぐ南にありました。そのデルタ地帯の「石山」という丘を中心に城を構えたとされています。後の岡山城よりはずっと小規模でした。1572年(元亀3年)に毛利氏と宇喜多氏が和平を結んだときの文書に「岡山」という地名が初めて見られるということです(十月二日付小早川隆景書状「乃美文書」)。「備前軍記」には、直家が岡山を選んだ理由と経緯が書かれています(下記補足2)。こういったところも、直家の先見性を示しています。

(補足2)(これまでの城と比べて)岡山は城下が殊のほか広大で、城の東を流れる大川は、海に通じて運送の便もよく、行く行く繁昌する条件を備えた土地であった。しかし、岡山の城はこれまで金光宗高の居城で、城の規模も小さく、家臣の屋敷も少なく、このままでは居住できなかったので、城の郭を押し拡げ、或いは作り添え、新規に縄張りを行い、土居や堀を改築することにした。そのためこの地にあった寺社を外に移転した。(「現代語訳 備前軍記」より引用)

中世当時の岡山周辺の推定海岸線(岡山城にて展示)
直家時代の城の範囲(緑色部分、岡山城にて展示)

また後に羽柴秀吉が毛利氏と対決するため、備前国に駐留した時に出した掟書には、岡山に城下町があったことがわかります(下記補足3)。

(補足3)
一 岡山町で売り買いするときには、従来どおり「かわり(為替か)」を取り交わして買うこと。
一 町中において、在陣の者たちは無礼な振る舞いをしないこと
一 備前国衆と喧嘩口論があった場合は、理非を問わず、在陣の者に非があること。
(羽柴秀吉掟書写「諸名将古案」訳は「宇喜多直家・秀家」より)

直家がメジャーな存在になると、他の記録にも現れるようになり、その動向がはっきりしてきます。しかしそれは、最後の試練に悩む姿でした。直家が戦国大名化したとき、中国地方は織田信長と毛利輝元が対決するフェーズに入っていました(1576年(天正4年)足利義昭が毛利氏を頼って以後)。直家は毛利氏の傘下で、織田軍と戦っていたのです(上月合戦など)。毛利氏は当初善戦していて、1578年(天正6年)には上月城を落とし、別所長治(三木城)・荒木村重(有岡城)が織田方から離反していました。しかし翌年には三木城包囲戦が始まり、有岡城は開城されました。直家はその動きを見ていたものと思われます。そして、羽柴秀吉の仲介で織田方に寝返ったのです。この決断は織田方の先鋒として毛利と戦うことを意味し、熾烈な戦いが続きました。やがて直家は病に倒れ、1582年(天正10年)正月までに亡くなったとされています(「信長公記」に宇喜多秀家が信長から家督継承の許可を得たという記事あり)。秀吉は中国戦線のテコ入れを図り、4月に岡山城に入城、5月に有名な備中高松城の戦いが始まり、6月に本能寺の変を迎えます。直家の判断は正しかったことになります。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
備中高松城跡

「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家による大拡張

直家の跡を継いだのは若干11歳の秀家でした。宇喜多勢はこの後、羽柴から豊臣となった秀吉とともに、天下統一事業に加わります。叔父の宇喜多忠家がバックアップしていましたが、秀家は若年で異例の出世を遂げ、最後は五大老の一人に上り詰めます。(秀吉没時 秀家27歳、徳川家康57歳、前田利家61歳、毛利輝元46歳、上杉景勝44歳、伊達政宗でさえ32歳)この主な要因は4つあると考えられています。

宇喜多秀家肖像画、岡山城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1.宇喜多直家・秀家親子に対する秀吉の恩義
秀吉が天下を取るための最も大切な時期に、秀吉軍の主力として戦いました(下記補足4)。

(補足4)備前・美作両国の宇喜多直家は、さきに播磨の別所長治が寝返った時、「西国(毛利方)」から離脱した。秀吉陣営の領域は度々危機に見舞われたが、並々ならぬ覚悟をもって尽力してくれた。だから直家が没すると、その嫡男を取り立てて、温床として秀吉の婿に迎え、「羽柴」の名字を与えて「羽柴八郎」と名乗らせた。さらに「分国の外」にも所領を与えた。(「天正記」二、現代語訳を「宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性」から引用)


2.樹正院(豪姫)に対する秀吉の愛情
樹正院は前田利家・芳春院(まつ)の子ですが、秀吉・北政所の養女となり、秀吉から溺愛されました(下記補足5)。その婿となったのが秀家でした。樹正院が出産後に大病を患ったときには、秀吉は野狐の祟りと考え、伏見稲荷社に祈祷を命じ、万一のことがあれば、稲荷社を破壊し、毎年日本国中で狐狩りを行うとまで言っています。

(補足5)大こうひそのこにて候まゝ、ねよりうへのくわんにいたしたく候(略)八郎ニハかまわす候(太閤秘蔵の子であるから、北政所より上の官につけたい、秀家にかまうことはない。)(豊臣秀吉書状、賜芦文庫所蔵文書、現代語訳は「宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性」から引用)


3.秀吉と秀家との良好な関係
秀家が、気まぐれであった秀吉の勘気に触れた記録はないそうです。朝鮮侵攻初期には、秀家を日本の関白か朝鮮の支配者にすると言っていました。特筆すべき武功はないが、出陣(紀州・朝鮮など)したときには積極性を見せているので、それが気に入られたかもしれません(下記補足6)。秀吉が好んだ能、茶道、鷹狩りに莫大な経費をかけ、上方の屋敷では秀吉の御成を受けて豪華な饗宴が開かれました。(イケメンだったからかもしれないが、知られている肖像(上記)は、昭和に描かれた想像画です。)

(補足6)就其大明国へ先懸同備之事、備前之宰相都ニ相残儀迷惑之由、達而申越候条、(天正20年6月13日付豊臣秀吉朱印状、「成仏寺文書」)


4.身内を引き立てようとする秀吉の意図
跡継ぎの秀頼を除き、弟の秀長、切腹した秀次、その弟の秀勝・秀保と、一門が次々と亡くなっていました。一門と呼べる大名が秀家くらいになっていたのです(小早川秀秋は他家の養子扱い)。秀頼を補佐する次代のリーダーと見込まれていたのかもしれません。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀家は、大名としても約50万石(諸説あり)もの領地を有していました。岡山城は、その本拠地に相応しいものとして大拡張されました。工事が始まったのは1590年(天正18年)とされていますが、その2年前から工事の準備が始まった記録があります(下記補足7)。まず、城の中心部が「石山」から東の方にあった「岡山」に移されました。中心部の本丸は、自然石をあまり加工しないで積まれた、野面積みの高石垣で、最高15メートルあり、関ヶ原前では屈指の高さでした。本丸から西と南側に多くの曲輪を作り、三重の堀で囲みました。当時は、旭川が分流して城の周りを流れていましたが、流れを一本化して本丸の北と東に、天然の堀として通しました(下記補足8)。
城の堀も、元の川の流れを利用したものと言われています。城下町も整備し、西国街道を城下町や旭川に沿って付け替えました。秀家はあまり領国にいなかったようですが、朝鮮から指示を出した文書が残っています(下記補足9)。

(補足7)其元(岡山)普請之事、大石如何程取置候哉、承度候、岡山之詰衆徒ニ戻申候間、其方御呼越候て普請可被仰付候、(天正16年7月26日付花房秀成書簡、「湯浅家文書」)

(補足8)中納言秀家卿当城普請のとき、先づ二流の朝日川を、石を以て西の流をせき入、東一方へ流したり、今の川筋は是也(地誌「和気絹」)

(補足9)
一 あまし(天瀬)の内、さふらい(侍)のほか、商売人一人も不可居住事、
一 しやうはい(商売)人之事、よき家をつくり候ハゝ、新町をはしめ、いつれの屋敷にかきらす、あしき家をこほさせ可遣、但二かひ(二階)つくりたるへき事、
一 大河に橋を可懸之あいた、川東へなり共、心まかせに、や敷(屋敷)とり(ら)すへし、請銭之事、いつれの給人雖為進退、一段可為貫別事、
(文禄2年5月2日宇喜多秀家覚書、「黄薇古簡集」)

城の大きさの移り変わり(現地説明パネルより)
秀家時代の城の範囲(濃色部分、岡山城にて展示)
本丸に残る秀家時代の石垣

そして特徴的なのが、城のシンボルである天守です。3重(屋根が複雑なため4重または5重とも表現される)6階で、建物の高さは20メートル以上ありました。当時の天守台石垣は、技術的な問題から、地形に沿って多角形に作られました。岡山城の場合は、不等辺五角形になっています。そのため一階部分も同じ形になっていて、上の階に行くほど、四角形に修正されていきます。その結果、一重目と二重目(4階まで)が大きな櫓(入母屋屋根)の形をしていて、小さな三重目(5階と6階)が望楼として乗っかっています。このスタイルを望楼型といいますが、岡山城天守は、天守の魁である安土城や秀吉大坂城の姿を引き継いでいると言われています。天守の壁は、黒く塗られた下見板張り(横長の板材を階段状に重ねたもの)で、別名「烏城」のもととなりました。屋根には、特別に許された、金箔瓦が使われ、城主の権威を表していました。
城の改修には、秀吉の指導もあったと言われ、1597年(慶長2年)までに完成しました。

天守古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
天守模型(岡山城にて展示)
発掘及び復元された金箔瓦(岡山城にて展示)

しかし1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると、状況は一変します。秀吉のバックアップで成り立っていた秀家の権威が低下し「宇喜多騒動」と呼ばれるお家騒動が勃発したのです。浮田左京亮(うきたさきょうのすけ)など重臣たちと、秀家の政策を進める近臣たち(中村次郎兵衛など)が、惣国検地のやり方などを巡って対立したのです。秀家はこの騒動を治めることができず、徳川家康の裁定に持ち込まれました。結果、多くの家臣が宇喜多家を去ることになりました(浮田左京亮は、関ヶ原で東軍に属し、坂崎出羽守と名前を変えて、津和野城主になります)。

坂崎出羽守肖像画、個人蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
津和野城跡

1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原合戦では、秀家軍は西軍主力として戦いますが、敗れました。秀家はわずかな家臣とともに美濃山中に潜伏し、樹正院・芳春院の影なる援助もあって、堺から船で薩摩に乗り付け、島津氏を頼ったのです(下記補足10)。生き延びて、自らの復権を願ったのです。そして2年後に徳川・島津の講和が成立すると、秀家は翌年に伏見に出頭しました。島津氏や家康側近の本多正純(弟が宇喜多に仕官していた)などの助命嘆願が功を奏し、八丈島への配流ということで決着しました。秀家はその後も復権を諦めていなかったそうです。そして1655年(明暦元年)、84歳になるまで生き抜きました。「貴公子」というイメージ以上にしたたかな人物だったのではないでしょうか。

(補足10)我ら心中、申し置き候間、宜しき様にその心得たのみ入り候、以上、今度我ら身上の儀に付いて、一命を顧みられず、山中え罷り越され、その以後、方々堪え難き所、付きそい奉公の儀、誠にもって満足の至り、浅からず候、我ら身上成り立ち候わば、その方事、一かどの身躰に相計らうべく候、今度奉公の程、重ねて忘却なく候、向後も我ら身上の儀、諸事由(油)断なく、その心遣い肝要に候、謹言、(慶長六年五月朔日付難波秀経宛宇喜多秀家書状)

関ヶ原の宇喜多秀家陣跡

悲運の城主・小早川秀秋による近代化

岡山城には、徳川方接収の後、小早川秀秋が備前・美作40万石(諸説あり)の岡山藩主として入城しました。もちろんこれは、関ヶ原合戦の論功行賞によるものです。合戦での秀秋の行動は、徳川家康が命じた「問鉄砲」により動揺し、合戦最中に西軍から東軍に寝返ったという「裏切り者」のストーリーとして語られてきました。しかし最近の研究によると、秀秋は合戦途中ではなく、遅くとも合戦当初から東軍に参加していたことが明らかになっています。しかしこれまでのストーリーの影響もあり、岡山城での秀秋は、豪奢放蕩にに走り、乱行を重ね、ついには狂死したとの説話が残っています。事実として、家老の杉原国政を粛清し、別の家老・稲葉正成は出奔しています(下記補足11)。

(下記11)小早川秀秋は入封後間もなく政治を乱し、ただ放鷹など狩猟にのみうつつを抜かし、時には罪なき者を殺害するようなことさえあった。稲葉内匠頭・杉原紀伊守はもちろんこれを諫めた。殊に杉原紀伊守は厳しく諫言したので秀秋は大層憤慨し、村山越中なる者を討手に差し向け、紀伊守殺害を命じた。(「現代語訳 備前軍記」より引用)

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、最近では秀秋の死因は、若年からの飲酒によるものと言われています。また、1602年(慶長7年)に21歳で亡くなるわずか2年間にしては、多くの業績も残しています。家老の粛清も、自身の近臣を中心とした、家臣団の再編成という一面があったのかもしれません。主な業績として挙げられるのは、総検地の実行、寺社の整備・再建、不要な城の破却、そして岡山城の近代化です。関ヶ原前後の新たな戦い方(大規模な集団戦)に対応するものだったと考えられています。

秀秋はわずか2年の間に、城の面積を倍近くにしたのです(約60→110ヘクタール)。城域を更に西に広げ、三の外曲輪を築き、外堀で囲みました。全長2.5キロメートルの外堀を、家臣・領民を動員してわずか20日間で完成させたと言われ「二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれました。関ヶ原で領地を減らした毛利氏への備えであったという指摘もあります。また、城の中心部でも本丸を南側に拡張し、新たな櫓や門を整備しました。現在でも本丸に小早川時代の石垣を見ることができます。櫓は、破却した城の建物を移築したものと伝わっています(亀山城天守→大納戸櫓、富山城大手門→石山門)。

外堀(二十日堀)跡
本丸の秀秋時代の石垣(右側)
大納戸櫓模型(岡山城にて展示)

秀秋は跡継ぎを残さず亡くなったため、小早川氏は改易となりました。秀秋の早すぎる晩年は、関ヶ原からその死まで、一気に駆け抜けた日々だったと言えるでしょう。もし彼がある程度長生きしたか、跡継ぎがいたならば、彼の関ヶ原や岡山での業績への評価は、もっと違ったものになったのではないでしょうか。まさに悲運の城主でした。

西国の要・池田氏による完成

小早川氏が改易となった後、その領地のうち、備前一国(28万石)が、姫路城主・池田輝政の子、わずか5歳の忠継に与えられました。母親は家康の次女・督姫(とくひめ)でした。忠継は孫ということで家康に可愛がられたそうです。とはいっても、幼少すぎるので、(母親ちがいの)兄・利隆(としたか、当時20歳)が後見しました。池田一門はこの時点で、播磨・備前・淡路・因幡国を領有したので、その総帥・輝政は「西国将軍」と称されました。やがて、輝政が亡くなると、利隆が姫路藩を継ぎ、忠継が自立します。しかし、忠継はそれからわずか1年程の1615年(元和元年)に病気で亡くなってしまいます。その跡を継いだのは弟の忠雄(ただかつ、当時14歳だが大坂の陣には出陣)でした。一方、姫路藩では利隆が1616年(元和2年)に亡くなると、跡継ぎの光政が幼い(8歳)ということで、鳥取藩に移されていました(姫路藩は本多氏へ)。ところが、1632年(寛永9年)に忠雄が亡くなると、今度はその跡継ぎ・光仲(みつなか)が3歳ということで、光政(当時24歳)が岡山に、光仲が鳥取ということになったのです。姫路や岡山は西国の要であり、幕府は、幼少すぎる藩主では任務(西国大名の監視など)を果たせないと考えていたのでしょう。

姫路城
池田輝政肖像画、鳥取県立美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
池田忠継肖像画、清泰院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

池田氏の時代に岡山城は完成しました。まず忠継を貢献した利隆が、二の丸内郭や西の丸の整備を行いました。現存する西の丸西手櫓はこの時建てられたと言われています。次の忠雄の代には、本丸中の段(表向)を大幅に拡張し、政務を行うための表書院を築きました。現存する月見櫓が建てられたのもこの時です。藩政を行うための施設が整ったわけです。防御の面でも、大手門を枡形に改修、強化しました。

備前国岡山城絵図(部分、国立公文書館デジタルアーカイブ)
池田利隆肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西の丸西手櫓
池田忠雄肖像画、清泰院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江戸時代の本丸模型(岡山城にて展示)
月見櫓

光政が藩主になってからは、岡山藩の民政・文化面での発展が見られます。光政は自ら儒学を修め、その学識によって、藩士・領民を導こうと考えていました。そのため教育の振興に努め、1669年(寛文9年)に藩士の子弟のために岡山藩学校を建設しました。また、前年には領内123ヶ所に手習所を設けて庶民の教育普及を始め、1670年(寛文10年)には統合して、閑谷学校を建設しました。これらの建設は、有能な側近・津田永忠などが行いました。特に閑谷学校は、日本初の庶民のための学校と言われています。一方、城下では、城の防衛のために一本化された旭川が度々洪水を起こし、特に1654年(承応3年)の大洪水の被害は深刻でした。光政は救済事業を行うとともに、事前対策も命じました。それが、堤と放水路を組み合わせた「百間川」の開削です。この工事も津田永忠が担当しました。光政は、1672年(寛文12年)に隠居するまで40年に渡って藩政を行いました。

池田光政肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岡山藩学校跡
閑谷学校
百間川の開削 説明パネル(岡山城にて展示)
百間川 二の荒手

跡継ぎの綱政は、文化教養を好む殿様で、閑谷学校を維持する一方、1687年(貞享4年)から旭川を挟んだ城の背後に、庭園「御後園(ごこうえん、後の後楽園)」の造営を始めました。ちょうど百間川が完成を迎える時期で、造営場所は荒地となっていました。この仕事を担当したのも津田永忠です。当初は綱政の趣味を反映して、田園風景を再現したような姿で、実際に農民が耕作していたそうです。また、庭園は藩主専用で、舟で旭川を渡って、その日のうちに城に帰るといった使い方をしていました。それが、代を重ねるごとに、その時の藩主の好みや時世の変化で姿が変わっていきました。例えば、現在の一面の芝生は、財政難で田畑・農民を維持できなくなったために、切り替えたものとのことです。その他、築山や築池などが行われ、現在の姿に至りました。時代が下ると、接待に使われたり、日を限って領民に公開することもありました。

池田綱政肖像画、林原美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の後楽園
「御後園絵図」、1863年(文久3年)(文化遺産オンライン)

「岡山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。