76.徳島城 その1

今回は徳島城を取り上げます。徳島と言えば阿波踊りですが、城のイメージはピンとこないかもしれません。徳島城は、蜂須賀氏が築き、江戸時代末までずっと維持した城です。蜂須賀といえば、蜂須賀小六正勝が有名ですが、その小六子、家政が秀吉から阿波国を与えられたのが徳島城築城のきっかけなのです。小六には「盗賊、野武士の頭というイメージがありますが、実際は尾張国の土豪出身で、秀吉の参謀役として活躍したいっぱしの武将だったのです。

立地と歴史

Introduction

今回は徳島城を取り上げます。徳島と言えば阿波踊りですが、城のイメージはピンとこないかもしれません。徳島城は、蜂須賀氏が築き、江戸時代末までずっと維持した城です。蜂須賀といえば、蜂須賀小六正勝が有名ですが、その小六子、家政が秀吉から阿波国を与えられたのが徳島城築城のきっかけなのです。小六には「盗賊、野武士の頭というイメージがありますが、実際は尾張国の土豪出身で、秀吉の参謀役として活躍したいっぱしの武将だったのです。それに、徳島城は、秀吉の城郭ネットワーク戦略の下、築かれた城なのです。更に、阿波踊りなど、徳島の文化も、城や城下とともに発展した、庶民たちの中から生まれてきたのです。この記事では、そんな徳島城やそれにまつわる文化を、蜂須賀正勝の武将人生から追ってみることにします。

蜂須賀小六正勝肖像画(模写)、出展:東京大学史料編纂所データベース (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

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何者?蜂須賀小六正勝

蜂須賀氏は、尾張国蜂須賀村を本拠とした中小地元領主の一つでした。正勝が生まれた後の尾張国は、実質的に守護代とその家老職を務めていた織田一族によって分割されていました。蜂須賀氏がいた下四郡地域は、信長の父・信秀の勢力圏でした。蜂須賀氏は信秀と折り合いが悪く、先祖の地から、上四郡の方に移住したのです。当時の地元領主たちは、その地の大名に必ずしも従っていたわけではなく、状況に応じて主君を変えていました。結果として、信秀以外の織田氏や、美濃の斎藤氏に仕えることになりました。

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

濃尾平野は、今でも木曽三川が流れる地として知られていますが、当時はそれら大河が乱流し、戦国大名の統治もあまり及ばない地域になっていました。その地域の治安や商業・流通などを担っていた集団がいて、史料によっては「川並衆(「武功夜話」)と呼ばれたりします。正勝は、地元領主や商人・民衆と付き合いながら、その集団で頭角を現していったようなのです。その中には、野武士のような人や、略奪行為を行う者もいたのでしょう。そのイメージが、後の秀吉・日吉丸が、橋の上で盗賊の頭・小六に出会った「太閤記」のエピソードにつながったのかもしれません。(その話は、明治になって、当時はその橋がなかったことがわかって、事実ではないとされました。)

『美談武者八景 矢矧の落雁』月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、信長が台頭し、尾張統一が進むと、正勝たちも仕える先が限られるようになります。また、信長としても、桶狭間合戦に勝利した後でもそれほど兵力は多くなく、正勝たちのグループは無視できない存在でした。そんなときに両者を結び付けたのが、後の天下人・木下藤吉郎秀吉でした。秀吉・正勝の最初の大活躍の場が、有名な墨俣一夜城築城と言われてきました。しかし近年、このイベントが記載されている史料が限られ(「武功夜話」など」)、その信憑性が疑われていることから、彼らによる築城はなかったという説もあります。(補足1は、秀吉・小六が登場しない「信長公記」の記述、補足2は登場する「蜂須賀家記」の記述)ただ、尾張を統一した信長が、美濃を攻略する流れや、正勝たちのその後のポジションから、同様の活躍があったのではないでしょうか。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

(補足1)十四条合戦の事
永禄四年辛酉五月上旬、木曽川・飛騨川大河打ち越え西美濃へ御乱入、在々所々放火にて、其の後、洲股御要害丈夫に仰せ付けられ、御居陣のところ五月廿三日、井口より惣人数を出し、十四条という村に御敵人数を備へ候。則ち、洲股より懸け付くる足軽ども取り合ひ、朝合戦に瑞雲庵おとゝうたれ引き退く。
信長は夜の明くるまで御居陣なり。廿四日朝、洲股へ御帰城なり。洲股御引払ひなさる。(「信長公記」)

(補足2)九年丙寅秋、右府、諸将を召し、美濃を取ることを議して曰く、吾、砦を洲股河西に構へ、以て進取を図らんと欲す、誰か能く守るものぞと、衆、其の川を阻て敵地に入るを以て之を難ず。右府、密に之を太閤に謀る。太閤、曰く、篠木・柏井・科野諸邑、土豪多し、宜しく収めて我が用と為すべし、臣、請ふ、之を率ゐて砦を守らんと、右府、之を許す。太閤、乃ち土豪及び其の党属千二百余人の姓名を記して以て連む。公及び弟又十郎君と・・・(以下略)(「蜂須賀家記」)

信長は、美濃攻略後上洛しますが、ここで小六は意外な仕事に就きます。秀吉とともに、京都の奉行職になったのです(小六は代理人)。しかも、その働きにより、将軍・足利義昭から褒賞を与えられたのです。槍働きの武将だけではなかった一面が見て取れます。その後は、秀吉配下の武将として、戦いに明け暮れます。秀吉が中国地方の軍司令官格になったときには、播州龍野の大名に取り立てられました。ただ、やはり戦いに明け暮れ、現地を治める暇はなかったようです。本能寺の変を経て、秀吉の天下取りのフェーズになると、正勝は秀吉の参謀役に、子の家政は蜂須賀軍団を率いるようになります。

足利義昭坐像、等持院蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1585年、秀吉軍の四国攻めが終わると、四国のうち、阿波国が家政に与えられました。本来であれば、当然親の正勝に与えられるべきところ、老齢を理由に、子の方になったようです。実際、正勝は前後して病気がちになり、戦にも出られなくなっていました。家政には遺訓を、後見する重臣たちにも家政をよろしく頼む旨、書き送っています(下記補足3)。そして1586年、秀吉の天下統一の完成を見ることなく亡くなりました。残された家政は、阿波国領主として秀吉に仕えますが、阿波国はひとかたならぬ土地柄だったのです。

(補足3)当国の様子・諸式、一書を以て、阿波守へ申し渡し候間、其の意を得られ、申すに及ばず候へども、国衆幷に今度渡海の御牢人衆、御堪忍候様に御心得、肝要に存じ候。阿波守、年、若う候間、何事も、諸事引き取られ、御意見頼みに存じ候。若、又、各々の御才覚にも及ばざる儀候はば、拙者へ仰せ越さるべく候。恐々謹言。(天正十三年十一月三日 西尾利右衛門正吉(家政家老)宛 小六正勝書状)

戦国時代の阿波国

戦国時代に先立つ室町時代には、阿波国の守護は、幕府重臣の細川氏が務めていました。幕府のある京都に近く、細川氏の権力をバックアップする地域でした。細川氏は、水上交通の便がいい吉野川沿いの勝瑞に守護所を置き、ここが阿波国の中心地になりました。

勝瑞城館跡

やがて戦国時代になると、細川氏の配下である三好氏が勢力を強めるようになります。ついには、三好長慶が幕府の権力者に登り詰め、三好政権を確立しました。最近では、長慶は「最初の天下人」と称されています。阿波の拠点、勝瑞城館には弟の実休が控えていて、長慶の危機には援軍に駆け付けたりしました。

三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、実休・長慶が相ついで亡くなると、三好氏の勢力は衰え、内部分裂を起こします。一時当主がいなくなったため、重臣の一部はその弟を擁立しますが、他の重臣は、土佐国の長宗我部元親と連携したのです。四国統一を目論んでいた元親はこれを口実に阿波攻略を開始し、勝瑞城館は落城しました。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三好氏以外の領主たちも、長宗我部になびき、元親は阿波、讃岐、そして伊予と、四国統一をほぼ果たしました。このときから、防御力の弱い平城より、一宮城のような山城が使われるようになります。本能寺の変後、秀吉は信長の後継者となるべく柴田勝家や徳川家康と対峙しますが、元親は反秀吉側に回り、背後から秀吉を脅かしたのです。秀吉は、四国や阿波国の重要性を改めて思い知ったに違いありません。

一宮城跡


四国攻めで元親を降伏させた秀吉は、阿波国に蜂須賀家政を入れました。しかし、まだ若い家政に全てを任せるのではなく、城に関して、2つの施策を実行させました。一つは、阿波国の反乱勢力を抑え込むための9つの支城「阿波九城」の設定でした。そして城主として「蜂須賀七人衆」を送り込んだのです。家政は当初、本城として「九城」の一つ、一宮城に入ったのですが、二つ目の施策として新たに本城を築くことにしました。それが徳島城です。

蜂須賀家政肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の位置

徳島城築城

秀吉は、四国攻めの後の領地配分をしたとき、「小六の居城は、猪山がいいだろう」と述べています(下記補足4)。そこから徳島城が築かれました。猪山とは、四国の大河・吉野川の下流域のデルタ地帯にある、標高約60mの丘陵でした(現在の「城山」)。地形図で見ると、この丘陵が目立っているのがわかります。戦国時代から小規模な城があったようです。

(補足4)
一、阿波国城々不残蜂須賀小六ニ可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいゝの山尤ニ覚候、乍去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻ニ四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在陣の者とも令談合、よく候ハん所相定、さ様ニ候ハヽ大西脇城かいふ牛木かゝせてよく候ハん哉、小六身ニ替者可入置候、但善所ハ立置悪所ハわり、新儀にも其近所ニこしらへ尤候事、(天正十三年八月四日付羽柴秀吉朱印状写(毛利博物館蔵文書))

城周辺の起伏地図、猪山(城山)がデルタ地帯の中で目立っています

次は、現在の航空写真ですが、城のある中州が残っているのがわかります。当時、この周辺は「渭津(いのつ)」と呼ばれていました。現在でもこの中洲は「ひょうたん島」として親しまれています。

城周辺の航空写真

江戸時代の城の絵図を見ると、当時の地形がもっとよくわかります。中州のど真ん中にお城があります。木曽三川もそうですが、昔の大河流域はこんな感じだったのでしょう。

「阿波国徳島城之図」、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

秀吉はこの地を選んだ理由としては、阿波の新たな中心地にしようとしただけでなく、秀吉の城郭ネットワーク戦略との関連が指摘されています。秀吉の本拠地は、ご存じの通り大坂城だったので、その周りに家臣たちを大名として配置し、城を築かせたり、強化させたりして防御を固めました。蜂須賀もそのうちの一つでした。その城の多くは海や川に面した、水運の便利なところに築かれ、経済の発展や、水軍の運用にも適した立地だったのです。特に徳島は、大坂湾への入口に面した重要な場所でした。家政も、地元出身の重臣に、水軍を編成させています。そして、小田原合戦や、朝鮮侵攻に利用されることになりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳島城と大坂城の位置関係

築城の経緯から、工事には他の豊臣大名も動員され、阿波入国翌年の1586年に完成しました。下の図は初期の姿を残す、江戸時代初期の絵図です。この頃の規模は小さく、山の上の防御を固めることが中心でした。最も高いところの本丸には、御殿の他、天守が築かれたと考えられています。当初天守台だったと思われる石垣が残っています。山麓には、家臣の屋敷地や城下町がありましたが、範囲は限られています。多くの家臣が阿波九城に分散していたからです。

「讃岐伊予土佐阿波探索書添付阿波国徳島城図」、出展:徳島大付属図書館 貴重資料高精細デジタルアーカイブ
初期天守台と考えられる弓櫓跡の石垣

それでも、川から攻めてくる敵を想定して、城を、屏風折れの塀で囲み、敵船を、いろんな方向から攻撃できるようにしました。、

屏風折れ塀の現地説明パネル

城と城下の発展

家政は、豊臣大名として小田原合戦、朝鮮侵攻などに参陣しました。しかし秀吉没後は、その進路選択に悩むことになります。関ヶ原の戦いのときには領地返上、大坂の陣のときには豊臣方につこうとしたとも言われます。一方、後継ぎの至鎮(よししげ)は、徳川家康の養女を妻にしていて、関ヶ原では東軍、大坂の陣では幕府方につき、戦功をあげました。結果的に、阿波国が安堵され、淡路国が加増になったのです。家政は、秀吉の恩は忘れがたく、秀吉を祀った豊国神社を維持したそうです。以後、その領地と徳島城は、徳島藩として、蜂須賀氏の下、ずっと続いていきました。

蜂須賀至鎮肖像画、徳島城博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

徳島城の方も、平和な時代の訪れとともに変化がありました。本丸にあった天守が、城下や海を臨む、東二の丸に移りました。山麓には、藩政の中心となる表御殿、奥御殿が建てられました。その手前にも、三重櫓(太鼓櫓)がありました。更にその手前の「鷲の門」が城の正門になります。

「阿波国徳島城之図」の山上部分
「阿波国徳島城之図」の山麓部分

現在、徳島城の建物は残っていませんが、御殿の跡には、徳島城博物館があり、鷲の門も復元されています。そしてなにより、表御殿の庭園はまだ残っているのです。「阿波の青石」と呼ばれる地元で採れる緑泥片岩をふんだんに使った石組みと、海水を取り入れていたという「潮入り庭園」としても知られています。

徳島市立徳島城博物館
復元された鷲の門
旧徳島城表御殿庭園

御殿の周りも、同じ種類の石を使った石垣に囲まれています。他の御殿があるような城の精密な石垣とは違いますが、この城にしかない味わいがあります。

御殿周りの石垣

いわゆる一国一城令が幕府から出されると、支城である阿波九城は廃城になり、分散していた家臣が徳島に集中するようになりました。下の絵図は、ちょうどその頃のものです。初期の頃の絵図より、城下が広くなっています。ひょうたん島の外に新しい町ができていきました。

「阿波国徳島城之図」、江戸時代(出展:国立公文書館)、町がが中州の外に広がっていることがわかります

藩政が安定すると、現在につながる地場産業が発展します。いくつかの要因が重なって、藍産業が栄えました。それから、交通面では駅路寺制度というのが定められました。蜂須賀家政が、八つのお寺を指定して、旅人の便宜を図ったのです。その中には、八十八か所巡礼の札所になったものもあります。お遍路もその頃からありました(下記補足5)。

(補足5)定 駅路山何寺
一  当寺之義往還旅人為一宿令建立候之条専慈悲可為肝要或辺路之輩或不寄出家侍百姓等行暮ー宿於相望者可有似合之馳走事(慶弔3年 6月 12日 各駅路寺宛定め書き)

藍染のハンカチ

そして、お待ちかねの阿波踊りの起源です。家政が、徳島城完成祝いに、無礼講の踊りを許してからという言い伝えがありますが、記録上は、2代藩主の忠英が、町人を招いて盆踊りを見たというのがあります。最近の研究によると、江戸時代後期の盆踊りの一種「ぞめき踊り」が直接のルーツとのことです。

街なかにある阿波踊りのフィギア

「徳島城 その2」に続きます。

172.三原城 173.新高山城 その1

小早川隆景といえば、毛利元就の三男で、次男の吉川元春とともに、毛利本家を支えた「毛利両川」として有名です。また、豊臣秀吉の天下統一後には「五大老」の一人にもなり、豊臣政権の中枢も担いました。今回の記事では、小早川隆景の武将人生と、彼が築いた2つの城の歴史をリンクさせてご紹介します。

小早川隆景の城

小早川隆景といえば、毛利元就の三男で、次男の吉川元春とともに、毛利本家を支えた「毛利両川」として有名です。また、豊臣秀吉の天下統一後には「五大老」の一人にもなり、豊臣政権の中枢も担いました。つまり、戦国時代から安土桃山時代にかけて、重要な地位を占めた人物です。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景はその過程の中で、2つの重要な城を築きました。新高山城と三原城です。新高山城は山城で、隆景が小早川家を継いでから築城し、本拠として毛利が織田信長に対峙したときまで使いました。一方、三原城は海城で、豊臣政権下で天下統一が進み、朝鮮侵攻が行われる中で、隆景の本拠となりました。どちらも、当時の状況や、隆景のポジションを反映している城だと思います。

三原市の範囲と城の位置

今回の記事では、小早川隆景の武将人生と、2つの城の歴史をリンクさせてご紹介します。三原城は、隆景の後も存続しますので、その辺りも触れてみます。

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小早川隆景の登場

まず、隆景以前の小早川氏について簡単にご説明します。小早川氏のルーツは、現在のイメージとは異なり、関東地方の相模国(現在の神奈川県)になります。源頼朝に仕えた土肥実平の子、遠平(とおひら)が相模国の地名(早川荘または小早川村)から小早川氏を名乗ったとされています。平家が滅びると、遠平は恩賞として安芸国(現在の広島県)・沼田荘を与えられ、その2代後の茂平(しげひら)は、承久の乱での功績で、竹原荘を与えられました。この2つの領地を基盤に、沼田小早川氏と竹原小早川氏が成立します。相模国の土肥氏宗家は、鎌倉幕府内の争いで衰退してしまったので、小早川家が土肥氏の流れを組む本流になったのです。

両小早川氏は、鎌倉幕府の滅亡、南北朝の対立といった困難を乗り切り、戦国時代まで生き残っていました。沼田小早川氏は高山城、竹原小早川氏は木村城を本拠とし、強力な水軍を擁するようになりました(「小早川水軍」)。しかし戦国時代後半になると、中国地方では大内氏・尼子氏という2大勢力が表われ、両小早川氏は翻弄されるのです。また、両方とも当主の早世が相次ぎ、勢力が弱まり、その家臣たちにも動揺が走っていました。

小早川氏の本拠地の位置

そんな中で登場したのが、毛利元就です。彼自体も、安芸国の国人領主の一人でしたが、そのリーダー格として、大内義隆からも頼られていました。また、隆景以前から、毛利氏と竹原小早川氏は親戚関係になっていました(元就の姪が当主・小早川興景の妻)。1541年(天文10年)奥景が跡継ぎなく亡くなると、義隆は元就の子・隆景を後継として強く推薦しました。元就は渋っていたようですが受け入れ、1544年(天文13年)隆景が12歳で当主となりました。元就としても、有力氏族とその勢力圏を傘下に収めたのです。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

沼田小早川氏では、当主が病弱で、家臣が大内派と尼子派に分かれて対立していました。そこで、最有力の重臣と、大内義隆・元就が諮り、1551年(天文20年)に隆景が小早川家の統一当主になったのです。このとき元就が、謀略で元の当主を無理やり隠居させ、反対派の家臣を大量粛清したという逸話があります。しかし実際にその通りだったかは判然としません。いずれにせよ、それまでに吉川家にも次男・元春を送り込んでいたので、「小早川隆景」の登場により「毛利両川体制」が確立したのです。

吉川元春肖像画、早稲田大学図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新高山城の築城

両小早川氏の当主となった隆景は、沼田小早川氏の本拠・高山城に入りますが(1551年、天文20年)、翌年には新しい本拠・新高山城を築城します。実は、この2つの城は沼田川を挟んだ、2つの山の上にそれぞれあるのです。なぜわざわざ、すぐ近くの似たような場所に新たに本城を築いたのでしょうか。一つには、それぞれの山の別名にヒントがあります。高山城の方は「雌高山(めすたかやま、他には妻高山など)」、新高山城の方は「雄高山(おすたかやま)」とも呼ばれていて、その印象からもわかる通り、新高山城の方が急峻な地形で、岩山の上に築かれ、防御力が高かったからと思われます。次に、当時は海が沼田川まで入り込んでいて、新高山城の辺りが船着場として丁度よかったとも考えられます。また、新当主として人心を一新し、家臣団を再編成するよい機会にもなったでしょう。

左が新高山城跡、右が高山城跡

城周辺の起伏地図

新高山城は岩山の上に築かれました

隆景が小早川氏当主として独自性を発揮し始めていた1555年(弘治元年)、有名な厳島の戦いが起こり、毛利氏が中国地方の覇権を握りました。隆景も小早川水軍を率いて活躍しました。一方でこの頃、毛利本家を継いだ毛利隆元、弟の吉川元春、小早川隆景との間は必ずしもしっくりいっていなかったようです。それを受けて父親の元就から出されたのが「三子教訓状」です(1557年、弘治3年、下記補足1)。これが、もっと有名な「三本の矢」のエピソードの元になったと言われています。

(補足1)
・毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。(第一条)
・元春と隆景はそれぞれ他家を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬ。(第二条)
・三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。(第三条)
・隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。(第四条)
・隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。(第五条)
・この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う(第六条)。

毛利本家を継いだ毛利隆元肖像画、常栄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景は終生、この教えに沿って生きていったと言えるでしょう。

新高山城は山城でしたが、中世とその後の時代の過渡期のような性格を持っていました。中世以来の山城としては、川を背にし、山の地形を利用し、曲輪・空堀・切岸などを組み合わせ、敵の侵入を防ぐようになっていました。また、山頂近くに6つもの大井戸があって、日常生活、更には籠城戦にも耐えられるようになっていました。新しい要素としては、石積み・石垣を多用し、曲輪の補強とともに、城主の権威をも表しました。曲輪の入口も枡形を導入し、防御力を高めていました。重臣の屋敷地も、城下に集めていたことがわかっています。

新高山城の縄張り図、現地説明パネルより
山上の大井戸跡
本丸の石垣跡

1561年(永禄4年)、隆景は、毛利宗家の元就・隆元父子の官位任官を祝い、新高山城に招待しました。その滞在は永禄4年3月26日から10日間に及び、様々な儀式や祝宴が行われました。元就は山麓の重臣屋敷、隆元は中腹にある寺に宿泊したとの記録があります。また、中腹には「御会所」「清所(きよどころ)」能舞台といった儀式を行う建物群がありました。頂上部の本丸には「高之間」と呼ばれる金閣・銀閣風の建物があったようです。更に「茶湯之間」で太平記の講読会も行われたので、茶室や図書施設まであったのです。新高山城は、戦うための場だけでなく、政治・文化の中心とした役割も担っていたのです。

中腹にある匡真寺(きょうしんじ)跡

隆景の本拠地は、その後徐々に三原城に移っていきますが、1596年(慶長元年)までは維持されたとされています。

三原城の築城

三原城といえば、別名「浮城」とあるように、海に浮かんでいるような華麗な姿を思い浮かべます。しかし当初からそうではなかったようです。戦国時代は、現在の城跡の背後にある桜山に城があり、その麓までが海で、島(大島・小島)が連なっていたそうです。

「絹本著色登覧画図(複製)」に描かれた三原城(三原駅壁面)
かつては島だった三原城天守台と背後の桜山

小早川氏は水軍を持っていたので、隆景の当主就任早々「三原要害」に家臣が派遣されていますが、その場所は桜山のことだと想定されています。その後、1567年(永禄10年)に三原城の築城が始まりますが、城の姿としては、桜山と海岸に設けた船着場が連携した程度だったのかもしれません。その頃、毛利氏は中国地方の雄として、近畿地方の織田信長と交渉、対決する立場になっていました。隆景は毛利方の交渉窓口として、この頃から織田方の木下秀吉(後の豊臣秀吉)と連絡を取っていたのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

時が経つと、毛利水軍の基地として、三原城は重要視されるようになりました。毛利元就・隆元の後を継いだ輝元は、織田との戦いで、三原城を本営とし、隆景も徐々に本拠としました。1580年(天正8年)に修築されたという記録があるので、おそらく拡張されたのでしょう。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして運命の本能寺の変、中国大返しを経て、豊臣秀吉が天下統一を進めるようになると、隆景と三原城の役割も変わってきます。隆景は慎重で熟慮に基づく判断で、輝元を全面的に補佐し、毛利家の生き残りに成功し、秀吉の信任も得ていました。加えて、秀吉には天下統一後の「唐入り」の野望があったため、毛利・小早川水軍を利用しようとしたのです。1585年(天正13年)の四国攻め後、秀吉は隆景を単独の大名に取り立て(伊予国主)、翌年の九州攻め後には、九州北部(筑前・筑後)に移しました。1589年(天正17年)隆景は筑前に名島城を築きますが、三原城を中心とする領地もそのままでした。秀吉も三原城を2回、宿泊所として使用しています(九州攻めと朝鮮侵攻時)。ということは、埋め立てが進み、御殿なども整備されていたのでしょう。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1592年(文禄元年)朝鮮侵攻が始まると、隆景も朝鮮に出陣します。隆景の城、最前線の城・名島城と、後衛の城・三原城は、水軍のネットワークとして機能したのです。1594年(文禄3年)には、秀吉の養子・秀秋(当時は秀俊)を、隆景の養子に迎えることになりました。秀秋と、輝元の養女の婚儀が、三原城で盛大に行われたのです。秀秋を迎えた理由は諸説ありますが、隆景が九州の領地を秀秋に引き継がせ、豊臣家との関係を盤石にしようとしたとも考えられます。隆景自身も、ついに豊臣政権の「五大老」の一人に登り詰めました。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1596年(文禄5年)隆景は三原城に「隠居」しました。とはいっても九州の領地を秀秋に譲っただけで、「三原中納言」として「五大老」、毛利後見、小早川本領の領主の立場は継続していたと見られます。隆景は、三原城の本格的な改修を始め、その資材として新高山城から石材を運んだと言われます。新高山城はこのとき廃城となりました。現在残る天守台も、このときまでに築かれたのでしょう(一部は福島時代の改修または拡張)。ところが、その翌年(1597年、慶長2年)隆景は突然亡くなりました。特に毛利関係者にとっては衝撃だったようです。その懸念の通り、関ケ原のとき、毛利本家・吉川・小早川は結束した行動を取ることができませんでした。隆景が長生きしていれば、国政レベルでも史実と違った展開になったかもしれません。

三原城天守台

隆景の治政を表すエピソードとして、隆景のわずか2年足らずの伊予国滞在中、国内は大変平穏であったと評されています(下記補足2)。

(補足2)
隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国には騒動も叛乱も無い(ルイス・フロイス「日本史」)

三原城完成とサバイバル

三原城は、三原浦の埋め立てにより築かれた海城です。天守台・本丸周辺と、舟入櫓の辺りが元は島だったそうで、隆景時代に島(大島・小島)の間を埋め立てて築城されました。隆景没後には毛利本家に、関ヶ原後は福島正則に属し、福島時代は、正則の養子・正之が城主でした。福島時代に海に面した10基の櫓を築いて完成したと言われています。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

海城なので、舟入が設けられ、その両サイドには櫓があり、警戒していました。櫓の総数は34、門の数は14と伝えられています。城の中心部の本丸には、本丸御殿があり、江戸時代中に改築もされましたが、その内の大広間の格式から、隆景が建てたものと推定されています。御殿は現存していませんが、わずかに部材が残っていて、隆景時代の豪華な造りを想像することができます。

三原城模型、三原市歴史民俗資料館にて展示
上記模型の舟入部分
三原城本丸御殿大広間の杉戸、三原市歴史民俗資料館にて展示

そして現在も残る天守台ですが、隆景時代に築かれ、正則時代に改修または拡張されています。その大きさは日本最大級で、江戸城天守台に匹敵します(一辺が4,50メートルくらいか)。完全に独立しているのではなく、本丸から土塁で一段高くなっています。元あった島のサイズからこうなったのかもしれません。ただし、天守が築かれることはなく、隅に3基の二重櫓が築かれ、多聞櫓によって連結されていました。

上記模型の内、天守台部分
江戸城天守台

三原城の最初の危機は、いわゆる一国一城令発布のときでした。福島氏時代に出され、このとき三原城は支城の一つだったからです。1619年に福島氏が改易になり、浅野氏に代わりましたが、そのときも支城の扱いでした。このタイミングが危なかったかもしれません。しかし、三原城には家老の浅野氏が入り、幕末まで維持されたのです。大きな藩では、他にも家老が入った城の例があります(犬山城白石城八代城など)。

改易された福島正則肖像画、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福島氏の後継、浅野長晟肖像画、広島市立中央図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

二度目の危機は、どの城もそうですが、明治維新の後でした。三原城のほとんどの建物や石垣は撤去され、堀も埋められました。本丸御殿は学校として使われましたが、移転時に取り壊されました。そして1894年(明治27年)、鉄道が本丸を貫いて通されます。天守台はかろうじて残りました。当時は近代化が優先された時代だったのでしょう。戦後になると山陽新幹線の駅も設置されたので、その高架が天守台に密着したような形になったのです。結果として、天守台は駅に直結した見学スポットになりました。

鉄道開通後の三原城跡、三原市ホームページから引用
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示
天守台と新幹線高架
駅内にある案内

「新高山城 その2」に続きます。

7.多賀城 その1

多賀城は、古代日本の朝廷が、当時蝦夷と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方の支配を進めるために設置した、城柵の一つです。またこの城には、陸奥国の国府や、蝦夷に対する軍事を担当する鎮守府も置かれていました。つまり多賀城は、古代東北を統治するための一大拠点だったのです。

立地と歴史

Introduction

多賀城は、古代日本の朝廷が、当時蝦夷(えみし)と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方の支配を進めるために設置した、城柵(じょうさく)の一つです。またこの城には、陸奥国の国府や、蝦夷に対する軍事を担当する鎮守府も置かれていました。更に陸奥国守は、陸奥・出羽国を広域に管轄する行政官・按察使(あぜち)を兼任していました。つまり多賀城は、古代東北を統治するための一大拠点だったのです。西日本では、朝廷の出先機関として大宰府が有名ですが、多賀城はその東北版とも言えるような場所だったのです。その機能は、東北地方経営の進展とともに分散し、平安時代には政庁としても衰退するのですが、南北朝時代まで「多賀国府(たがのこう)」として認識されていました。そんな多賀城の歴史をご説明します。

復元された多賀城外郭南門

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

城柵と多賀城の始まり

城柵の設置は、有名な大化の改新(645年、大化元年~)から始まりました。中大兄皇子を中心とする朝廷の中央集権化が進められ、その政策の一つが東北地方の支配領域拡大でした。その前提として、東国諸国や陸奥国が成立していました(出羽国は712年設置)。記録上最初の城柵は、647年(大化3年)越国に設置された渟足柵(ぬたりのさく)です。翌年には磐舟柵(いわふねのさく)も設けられました。太平洋側では、現在の仙台市にある郡山遺跡が初期の城柵ではないかといわれています。

多賀城と8世紀の主な城柵の位置

城柵は、支配領域拡大のための拠点として「饗給、斥候、征討」という蝦夷対策の任務を遂行するための施設でした。「蝦夷」とは東北地方で朝廷の支配に服していない人たちに対する呼び名で、彼らを支配体制に組み込もうとしたのです。
・饗給:服属を前提とした蝦夷への饗応と褒美の給付
・斥候:蝦夷の動静の把握
・征討:反乱した場合の討伐
(「古代東北統治の拠点 多賀城」より)
支配領域が拡大した場合には、新たな郡の母体にもなりました(例:桃生郡・栗原郡)。更には、蝦夷を介した北方世界との交易場所でもあったのです。

復元された他の城柵(払田柵)の門(licensed by 小池隆 via Wikimedia Commons)

東北地方に支配を広げるということは、開拓を行うことにもなるので、関東地方からの移民も行われました。また蝦夷の人たちのうち、朝廷に服属した人たちを「俘囚(ふしゅう」と呼びますが、東北地方に留まり特産物などを貢いだりする集団もあれば、強制的に他地方に移住させられる場合もありました。俘囚のリーダーには朝廷の官位が与えられ、東北地方の支配に協力させるようにしました。また付属の寺院が建てられ、蝦夷に対しても仏教の布教が行われました。同化政策を行おうとしたのでしょう。

多賀城に付属していた観音寺(通称「多賀城廃寺」)模型、東北歴史博物館にて展示

多賀城の建設は、8世紀前半に起きた蝦夷の反乱をきっかけに、陸奥国を再編する過程(岩城・岩背国の分離と再統合)で行われたと考えられます。724年(神亀元年)に按察使・大野東人(おおの の あずまひと)が築城したとされています。位置は、仙台平野と大崎平野の中間にある丘陵地帯が選ばれました。河川による交通の便も考慮されたようです。多賀城は、3つの領域から構成されていました。中心が政庁域で、約100m四方の築地によって区切られていました。その周りが実務を行う役所が立ち並ぶ曹司(そうじ)地域で、こちらも築地や塀で囲まれていました。その外側が国府域で、住居や工房などの都市空間が成立していました。名称は当初は「多賀柵(続日本紀)」でしたが、途中から「多賀城」に改名されています。「柵」も「城」とも同じ「き」と読めるので、字を変えただけかもしれませんが、機能の違いによって区別されていた可能性もあります。

大野東人肖像画、「前賢故実」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀城の政庁と曹司地域を含む模型、国立歴史民俗博物館にて展示

多賀城~4つの時代

多賀城は、当初から国府と鎮守府を兼ねた拠点だったと考えられ、その後8〜11世紀の約300年間にわたって機能しました。その歴史は、大まかに4つの時代に区分できますが、中心にあった政庁の姿から追っていきたいと思います。第1期は、724年に大野東人によって創建されたときの姿です。奈良に都が遷された(710年)後のことです。正殿を中心に、主要建物は瓦葺きでしたが、柱は掘立式でした。大野東人は、陸奥按察使兼鎮守将軍に任命され、733年にできた出羽国・秋田城支援のために出撃し、連絡路を開きました。

第1期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

第2期は、762年(天平宝字6年)に藤原朝狩(ふじわら の あさかり)によって大修築がされたときです。彼の父親は、当時朝廷の実権を握っていた藤原仲麻呂で、朝狩は陸奥守に任じられたのです(いずれかのときに陸奥国按察使兼鎮守府将軍も兼任)。そして、北方に雄勝城・桃生城を完成させるなど功績を上げました。762年には兄弟とともに参議に昇進し、同じ年に多賀城を改修し、記念碑として多賀城碑を建てたのです。政庁の建物全て、瓦葺き・礎石式になり、付属建物も増築され、多賀城が最も豪華になった瞬間でした。しかし764年(天平宝字8年)に仲麻呂による反乱が発覚し、朝狩を含む一族は滅ぼされてしまうのです。そして、華やかな多賀城の建物群も、780年(宝亀11年)に起こった伊治 呰麻呂(これはり の あざまろ)の反乱により、灰燼に帰しました。呰麻呂は、俘囚のリーダーで朝廷から官位ももらっていました。蝦夷出身でない役人との仲違いが原因とされますが、背景には朝廷の東北経営に対する蝦夷の反発もあったのでしょう。

第2期の政庁模型、東北歴史博物館にて展示
第2期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

第3期は、焼き討ち後に再建された姿です。仮復旧を経て、基本的には以前の様式が引き継がれました。時代は、奈良時代から平安時代に移っていきます。桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷との対決姿勢を強めます。田村麻呂は蝦夷の征討を進め、鎮守府を多賀城から、現在の岩手県にあった胆沢城に移しました。蝦夷に対する前線が移ったということです。以後、多賀城は主に陸奥国府としての機能を果たしていくことになりました。城外に街並みが整備されたのはこの頃でした。しかし、今後は869年(貞観11年)に発生した貞観地震により被害を受けてしまうのです。東日本大震災とも比べられるような大地震でした(下記補足1)。

(補足1)5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・牆壁[† 2]などが数も知れず崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、原野も道路も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。(日本三代実録、wikipedia訳)

第3期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

地震後の政庁については、元の構成に復旧されるとともに、瓦の葺き替えが頻繁に行われた形跡があります(第4期)。他に、北方建物が追加されました。平安時代中頃になってくると、東北の中心地は平泉に移り、国司も現地に行かなくなったことで、古代多賀城は11世紀中頃に衰退したと考えられます。

第4期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

しかし、ちょうどその頃、前九年の役で有名な武将・源頼義が陸奥国守として着任しています(1052年、永承7年)。その4年後に、彼が鎮守府(胆沢城)から国府(多賀城)に帰ったと記載された史料があります(「陸奥話記」、下記補足2)。その国府とは、この建物群のことだったのではないかと思ってしまいます。

(補足2)
任終わる年、府務を行わんが為に鎮守府に入る。数十日経廻する間、頼時首を傾けて給仕 し、駿馬、金寶の類、悉く幕下に献ず。兼ねて士卒に給わる。しかるに国府に帰る道、阿久利河の辺に、夜人有り、竊(せつ=ひそか)に語る。「権守藤原朝臣 説貞の子光貞、元貞等、野宿して人馬を殺傷せらる」と。将軍、光貞を召して、嫌疑人を問うに、答えて曰く、「頼時が長男貞任、先年光貞が妹を娉(へい)ら んと欲す。しかるにその家族、賤むるよりこれを許さず。貞任深く恥と為す。これを推すに貞任の為す所ならん。この外に他の仇は無し」と。

さて頼義の陸奥の守の任期も終わろうとしていた天喜4年(1056)の事。最後の仕事を片づけようと鎮守府に入り、数十日間過ぎる間も、安倍頼時は、頭を低くして、太守のお世話に務めて、駿馬や金の宝などを、この将軍に献上し、また兵士の者にまで気を遣うことを忘れなかった。いよいよ頼義が、国府のある多賀城に帰る道すがら、阿久利河(あくとがわ)の辺に野営をして一夜を明かそうとしていると、ひそかに頼義の許に現れて、このように進言する者がいた。「権の守様、藤原の朝臣説貞(ときさだ)様のお子光貞様、並びに元貞様、野宿にて、その人馬を殺傷されました」(現代語訳、陸奥デジタル文庫)

前九年合戦絵巻、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今も謎が残る多賀城碑

ところで第2期の多賀城の完成を記念した「多賀城碑」は、今も原位置と思われる場所に立ち、2024年(令和6年)には国宝に指定されました。碑文には、多賀城の位置と、724年に創建され、762年に藤原朝狩によって修造されたことが記されています(下記補足3)。ここの遺跡が多賀城だったことを示す決定的証拠となる重要な石碑なのですが(他にも発掘された木簡などによって国府・鎮守府だったことが推定できる)、ずっとここにあったわけではなく、一旦失われ、江戸時代になって発見・再設置されたために(万治・寛文の頃か)、謎と議論を呼んだのです。

(補足3:碑文)
西
多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

多賀城碑レプリカ、東北歴史博物館にて展示

古来、「つぼのいしぶみ(壺の碑)」という石碑が東北地方にあるという伝説があって、和歌の歌枕にもなって「遠くにあること」「どこにあるのかわからない」というテーマとして使われてきました。例えば、源頼朝が詠んだ歌に「みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬかき尽してよ壺のいしぶみ」(新古今和歌集)というものがあります。江戸時代前期に多賀城碑が発見されたとき、多くの人はこれが「つぼのいしぶみ」だと思ったのです。1689年(元禄2年)この碑を訪れた松尾芭蕉は「つぼの石ぶみ」に出会った感動を「おくのほそ道」に記しています(下記補足3)。徳川光圀は「大日本史」編纂の関連で家臣を派遣して碑を調査し、当時の領主だった伊達綱村に、覆屋で保護することを勧めています。覆屋はその後、仙台藩によって建てられたようです。

(補足3)壺碑 市川村多賀城に有。つぼの石ぶみは、高さ六尺餘、幅三尺計欤(か)、苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。(略)むかしよりよみ置る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。(おくのほそ道)

覆堂に囲われている現在の多賀城碑

伝説的な石碑かどうかはともかく、多賀城にとって決定的なのは、主に近代になって、この石碑が本物か偽物か論争が起こったことです。偽物となった場合、この遺跡が多賀城であるという最有力の証拠が失われてしまうからです。

(本物とする根拠)
・文字は、飛鳥・奈良・平安時代に用いられた六朝的書風である。(教養ある政府関係者が原典の文字を使って書いたのではないか)
・文字を刻む際に使われた方眼は、天平尺(奈良時代のもの)を使って作られている。
・各地点への距離は、それぞれ違う基準を使って記された可能性がある。
・碑は朝狩を顕彰するために建てられたので、わざと彼の官位を、創建者の大野東人と同等にして記した。
・碑の地下部分を発掘した結果、古代に据え付けた跡が発見された。また人為的とみられる削平により倒されたと考えられる。

(偽物とする根拠)
・文字に統一性がなく、多くのモデル、典拠から集められている。(それを写し取って石に貼り、偽造したのではないか)
・碑に記す常陸国、下野国への距離はほぼ同じはずなのに、倍半分のような距離が記されている。
・碑に「靺鞨國」とあるのは「渤海国」の誤りである。
・碑にある藤原朝狩の官位『從四位上」が史書(「続日本紀」など)にある從四位下と異なっている。
・古代に作られたにしては、碑面の損傷が少ない。

偽物だとする場合、江戸時代に仙台藩が偽造したという説があります。現在では、多賀城全体の発掘調査の結果と、碑の内容が一致しているため、本物説が有力になっています。なぜ碑が途中で倒されたということについても、藤原仲麻呂一族が碑の建設間もない頃に失脚したため、意図的に倒され、人目に触れないように隠されたということも考えられます。

「多賀国府」の時代

多賀城は、中世になっても「多賀国府(たがのこう)」として、度々記録に現れます。ただしその場所は、いまだにはっきりしていません。古代の多賀城跡にはその痕跡がなく、近くに移転していたかもしれません。1189年(文治5年)、その奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、その帰路、多賀国府に立ち寄り、現地の地頭たちを招集し、奥州統治の基本方針を示しました(「吾妻鏡」、下記補足4)。やはり、やはりそれなりのステイタスがあった場所だったのです。

(補足4)
文治五年(1189)十月大一日丁亥。多賀國府に於て、郡郷庄園所務の事、條々を 地頭等へ仰せ含め被る。就中に、國郡を費し土民を煩す 不可之由、御旨 再三に及ぶ。之に加へ一紙の張文於府廳に置被ると云々。其の状に云はく。庄号之威勢を以て、不當之道理を押しつける不可。國中の事に於て者、秀衡、泰衡之先例に任せ、其の沙汰を致す可し者り。

多賀城の陸奥国府で、郡や郷、荘園の管理の事を箇条書きにして地頭達に命令を出されました。中でも特に、国や郡の年貢を無駄遣いして、民百姓を困らせる事のないように、その旨を何度も伝えました。しかしそればかりでなく、一枚のお触書を国府に張り出されました。その紙面には、荘園の地頭の名を使って、でたらめな理屈を押し付けてはいけない。陸奥の国内の支配の仕方は、藤原秀衡や泰衡の時代の先例の通りに、指示するようにおっしゃられております。
(現代語訳、鎌倉歴史散策 吾妻鏡入門)

伝・源頼朝肖像画、神護寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして特筆すべきは、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、建武の新政の下、北畠顕家を陸奥守として、多賀国府に派遣したことです。顕家は、後醍醐天皇の側近の貴族・北畠親房の長男で、わずか14歳(当時最年少記録)で参議になっていました。1333年(元弘3年)16歳のとき、わずか6歳の義良(のりよし)親王を報じて、国府に赴きました。当初は、東北地方の統治と旧幕府方(北条氏)の鎮圧が目的でした。この組織は、天皇から東北地方の政治・軍事の広範な権限を与えられていたので「陸奥将軍府」「奥州小幕府」などと称されています。時代環境はちがえど、大化の改新以来の古代多賀城が復活したようです。残念ながらこれも詳細な場所は特定されず、古代政庁跡付近に「後村上天皇(義良親王が後に即位)御坐之處」の石碑が立っています。

「後村上天皇御坐之處」の碑

陸奥下向には、北畠親房も同行したのですが、顕家は旧幕府残党を一掃する武功を上げます。1335年(建武2年)、今度は足利尊氏が天皇に反旗を翻し、顕家は鎮守府将軍を兼ね、尊氏を追討することになるのです。東北の諸将を率いた顕家は、破竹の進撃で足利軍を破り、尊氏を九州に追いやりました。そのときが彼の絶頂のときであったでしょう。

北畠顕家肖像画、霊山神社蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、尊氏は東北に布石を打っていて、多賀国府が危ない状況になっていました。
そこで翌年、顕家は権中納言・鎮守府大将軍となって、義良親王(陸奥太守、顕家は陸奥大介)とともに再び陸奥に下向します。1337年(建武4年)ついに顕家は国府を、要害堅固な霊山に移しました。これ多賀国府の最後のときとされます。北朝の天皇を掲げて再起した尊氏と戦うため、顕家は再度上方へ出撃し、21歳の若さで討たれてしまうのですが、多賀城は、顕家とともに最後の輝きを放ったのではないでしょうか。

霊山城(国府)の想像図、現地説明パネルより

「多賀城 その2」に続きます。

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