7.多賀城 その1

多賀城は、古代日本の朝廷が、当時蝦夷と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方の支配を進めるために設置した、城柵の一つです。またこの城には、陸奥国の国府や、蝦夷に対する軍事を担当する鎮守府も置かれていました。つまり多賀城は、古代東北を統治するための一大拠点だったのです。

立地と歴史

Introduction

多賀城は、古代日本の朝廷が、当時蝦夷(えみし)と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方の支配を進めるために設置した、城柵(じょうさく)の一つです。またこの城には、陸奥国の国府や、蝦夷に対する軍事を担当する鎮守府も置かれていました。更に陸奥国守は、陸奥・出羽国を広域に管轄する行政官・按察使(あぜち)を兼任していました。つまり多賀城は、古代東北を統治するための一大拠点だったのです。西日本では、朝廷の出先機関として大宰府が有名ですが、多賀城はその東北版とも言えるような場所だったのです。その機能は、東北地方経営の進展とともに分散し、平安時代には政庁としても衰退するのですが、南北朝時代まで「多賀国府(たがのこう)」として認識されていました。そんな多賀城の歴史をご説明します。

復元された多賀城外郭南門

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

城柵と多賀城の始まり

城柵の設置は、有名な大化の改新(645年、大化元年~)から始まりました。中大兄皇子を中心とする朝廷の中央集権化が進められ、その政策の一つが東北地方の支配領域拡大でした。その前提として、東国諸国や陸奥国が成立していました(出羽国は712年設置)。記録上最初の城柵は、647年(大化3年)越国に設置された渟足柵(ぬたりのさく)です。翌年には磐舟柵(いわふねのさく)も設けられました。太平洋側では、現在の仙台市にある郡山遺跡が初期の城柵ではないかといわれています。

多賀城と8世紀の主な城柵の位置

城柵は、支配領域拡大のための拠点として「饗給、斥候、征討」という蝦夷対策の任務を遂行するための施設でした。「蝦夷」とは東北地方で朝廷の支配に服していない人たちに対する呼び名で、彼らを支配体制に組み込もうとしたのです。
・饗給:服属を前提とした蝦夷への饗応と褒美の給付
・斥候:蝦夷の動静の把握
・征討:反乱した場合の討伐
(「古代東北統治の拠点 多賀城」より)
支配領域が拡大した場合には、新たな郡の母体にもなりました(例:桃生郡・栗原郡)。更には、蝦夷を介した北方世界との交易場所でもあったのです。

復元された他の城柵(払田柵)の門(licensed by 小池隆 via Wikimedia Commons)

東北地方に支配を広げるということは、開拓を行うことにもなるので、関東地方からの移民も行われました。また蝦夷の人たちのうち、朝廷に服属した人たちを「俘囚(ふしゅう」と呼びますが、東北地方に留まり特産物などを貢いだりする集団もあれば、強制的に他地方に移住させられる場合もありました。俘囚のリーダーには朝廷の官位が与えられ、東北地方の支配に協力させるようにしました。また付属の寺院が建てられ、蝦夷に対しても仏教の布教が行われました。同化政策を行おうとしたのでしょう。

多賀城に付属していた観音寺(通称「多賀城廃寺」)模型、東北歴史博物館にて展示

多賀城の建設は、8世紀前半に起きた蝦夷の反乱をきっかけに、陸奥国を再編する過程(岩城・岩背国の分離と再統合)で行われたと考えられます。724年(神亀元年)に按察使・大野東人(おおの の あずまひと)が築城したとされています。位置は、仙台平野と大崎平野の中間にある丘陵地帯が選ばれました。河川による交通の便も考慮されたようです。多賀城は、3つの領域から構成されていました。中心が政庁域で、約100m四方の築地によって区切られていました。その周りが実務を行う役所が立ち並ぶ曹司(そうじ)地域で、こちらも築地や塀で囲まれていました。その外側が国府域で、住居や工房などの都市空間が成立していました。名称は当初は「多賀柵(続日本紀)」でしたが、途中から「多賀城」に改名されています。「柵」も「城」とも同じ「き」と読めるので、字を変えただけかもしれませんが、機能の違いによって区別されていた可能性もあります。

大野東人肖像画、「前賢故実」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀城の政庁と曹司地域を含む模型、国立歴史民俗博物館にて展示

多賀城~4つの時代

多賀城は、当初から国府と鎮守府を兼ねた拠点だったと考えられ、その後8〜11世紀の約300年間にわたって機能しました。その歴史は、大まかに4つの時代に区分できますが、中心にあった政庁の姿から追っていきたいと思います。第1期は、724年に大野東人によって創建されたときの姿です。奈良に都が遷された(710年)後のことです。正殿を中心に、主要建物は瓦葺きでしたが、柱は掘立式でした。大野東人は、陸奥按察使兼鎮守将軍に任命され、733年にできた出羽国・秋田城支援のために出撃し、連絡路を開きました。

第1期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

第2期は、762年(天平宝字6年)に藤原朝狩(ふじわら の あさかり)によって大修築がされたときです。彼の父親は、当時朝廷の実権を握っていた藤原仲麻呂で、朝狩は陸奥守に任じられたのです(いずれかのときに陸奥国按察使兼鎮守府将軍も兼任)。そして、北方に雄勝城・桃生城を完成させるなど功績を上げました。762年には兄弟とともに参議に昇進し、同じ年に多賀城を改修し、記念碑として多賀城碑を建てたのです。政庁の建物全て、瓦葺き・礎石式になり、付属建物も増築され、多賀城が最も豪華になった瞬間でした。しかし764年(天平宝字8年)に仲麻呂による反乱が発覚し、朝狩を含む一族は滅ぼされてしまうのです。そして、華やかな多賀城の建物群も、780年(宝亀11年)に起こった伊治 呰麻呂(これはり の あざまろ)の反乱により、灰燼に帰しました。呰麻呂は、俘囚のリーダーで朝廷から官位ももらっていました。蝦夷出身でない役人との仲違いが原因とされますが、背景には朝廷の東北経営に対する蝦夷の反発もあったのでしょう。

第2期の政庁模型、東北歴史博物館にて展示
第2期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

第3期は、焼き討ち後に再建された姿です。仮復旧を経て、基本的には以前の様式が引き継がれました。時代は、奈良時代から平安時代に移っていきます。桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷との対決姿勢を強めます。田村麻呂は蝦夷の征討を進め、鎮守府を多賀城から、現在の岩手県にあった胆沢城に移しました。蝦夷に対する前線が移ったということです。以後、多賀城は主に陸奥国府としての機能を果たしていくことになりました。城外に街並みが整備されたのはこの頃でした。しかし、今後は869年(貞観11年)に発生した貞観地震により被害を受けてしまうのです。東日本大震災とも比べられるような大地震でした(下記補足1)。

(補足1)5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・牆壁[† 2]などが数も知れず崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、原野も道路も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。(日本三代実録、wikipedia訳)

第3期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

地震後の政庁については、元の構成に復旧されるとともに、瓦の葺き替えが頻繁に行われた形跡があります(第4期)。他に、北方建物が追加されました。平安時代中頃になってくると、東北の中心地は平泉に移り、国司も現地に行かなくなったことで、古代多賀城は11世紀中頃に衰退したと考えられます。

第4期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

しかし、ちょうどその頃、前九年の役で有名な武将・源頼義が陸奥国守として着任しています(1052年、永承7年)。その4年後に、彼が鎮守府(胆沢城)から国府(多賀城)に帰ったと記載された史料があります(「陸奥話記」、下記補足2)。その国府とは、この建物群のことだったのではないかと思ってしまいます。

(補足2)
任終わる年、府務を行わんが為に鎮守府に入る。数十日経廻する間、頼時首を傾けて給仕 し、駿馬、金寶の類、悉く幕下に献ず。兼ねて士卒に給わる。しかるに国府に帰る道、阿久利河の辺に、夜人有り、竊(せつ=ひそか)に語る。「権守藤原朝臣 説貞の子光貞、元貞等、野宿して人馬を殺傷せらる」と。将軍、光貞を召して、嫌疑人を問うに、答えて曰く、「頼時が長男貞任、先年光貞が妹を娉(へい)ら んと欲す。しかるにその家族、賤むるよりこれを許さず。貞任深く恥と為す。これを推すに貞任の為す所ならん。この外に他の仇は無し」と。

さて頼義の陸奥の守の任期も終わろうとしていた天喜4年(1056)の事。最後の仕事を片づけようと鎮守府に入り、数十日間過ぎる間も、安倍頼時は、頭を低くして、太守のお世話に務めて、駿馬や金の宝などを、この将軍に献上し、また兵士の者にまで気を遣うことを忘れなかった。いよいよ頼義が、国府のある多賀城に帰る道すがら、阿久利河(あくとがわ)の辺に野営をして一夜を明かそうとしていると、ひそかに頼義の許に現れて、このように進言する者がいた。「権の守様、藤原の朝臣説貞(ときさだ)様のお子光貞様、並びに元貞様、野宿にて、その人馬を殺傷されました」(現代語訳、陸奥デジタル文庫)

前九年合戦絵巻、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今も謎が残る多賀城碑

ところで第2期の多賀城の完成を記念した「多賀城碑」は、今も原位置と思われる場所に立ち、2024年(令和6年)には国宝に指定されました。碑文には、多賀城の位置と、724年に創建され、762年に藤原朝狩によって修造されたことが記されています(下記補足3)。ここの遺跡が多賀城だったことを示す決定的証拠となる重要な石碑なのですが(他にも発掘された木簡などによって国府・鎮守府だったことが推定できる)、ずっとここにあったわけではなく、一旦失われ、江戸時代になって発見・再設置されたために(万治・寛文の頃か)、謎と議論を呼んだのです。

(補足3:碑文)
西
多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

多賀城碑レプリカ、東北歴史博物館にて展示

古来、「つぼのいしぶみ(壺の碑)」という石碑が東北地方にあるという伝説があって、和歌の歌枕にもなって「遠くにあること」「どこにあるのかわからない」というテーマとして使われてきました。例えば、源頼朝が詠んだ歌に「みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬかき尽してよ壺のいしぶみ」(新古今和歌集)というものがあります。江戸時代前期に多賀城碑が発見されたとき、多くの人はこれが「つぼのいしぶみ」だと思ったのです。1689年(元禄2年)この碑を訪れた松尾芭蕉は「つぼの石ぶみ」に出会った感動を「おくのほそ道」に記しています(下記補足3)。徳川光圀は「大日本史」編纂の関連で家臣を派遣して碑を調査し、当時の領主だった伊達綱村に、覆屋で保護することを勧めています。覆屋はその後、仙台藩によって建てられたようです。

(補足3)壺碑 市川村多賀城に有。つぼの石ぶみは、高さ六尺餘、幅三尺計欤(か)、苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。(略)むかしよりよみ置る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。(おくのほそ道)

覆堂に囲われている現在の多賀城碑

伝説的な石碑かどうかはともかく、多賀城にとって決定的なのは、主に近代になって、この石碑が本物か偽物か論争が起こったことです。偽物となった場合、この遺跡が多賀城であるという最有力の証拠が失われてしまうからです。

(本物とする根拠)
・文字は、飛鳥・奈良・平安時代に用いられた六朝的書風である。(教養ある政府関係者が原典の文字を使って書いたのではないか)
・文字を刻む際に使われた方眼は、天平尺(奈良時代のもの)を使って作られている。
・各地点への距離は、それぞれ違う基準を使って記された可能性がある。
・碑は朝狩を顕彰するために建てられたので、わざと彼の官位を、創建者の大野東人と同等にして記した。
・碑の地下部分を発掘した結果、古代に据え付けた跡が発見された。また人為的とみられる削平により倒されたと考えられる。

(偽物とする根拠)
・文字に統一性がなく、多くのモデル、典拠から集められている。(それを写し取って石に貼り、偽造したのではないか)
・碑に記す常陸国、下野国への距離はほぼ同じはずなのに、倍半分のような距離が記されている。
・碑に「靺鞨國」とあるのは「渤海国」の誤りである。
・碑にある藤原朝狩の官位『從四位上」が史書(「続日本紀」など)にある從四位下と異なっている。
・古代に作られたにしては、碑面の損傷が少ない。

偽物だとする場合、江戸時代に仙台藩が偽造したという説があります。現在では、多賀城全体の発掘調査の結果と、碑の内容が一致しているため、本物説が有力になっています。なぜ碑が途中で倒されたということについても、藤原仲麻呂一族が碑の建設間もない頃に失脚したため、意図的に倒され、人目に触れないように隠されたということも考えられます。

「多賀国府」の時代

多賀城は、中世になっても「多賀国府(たがのこう)」として、度々記録に現れます。ただしその場所は、いまだにはっきりしていません。古代の多賀城跡にはその痕跡がなく、近くに移転していたかもしれません。1189年(文治5年)、その奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、その帰路、多賀国府に立ち寄り、現地の地頭たちを招集し、奥州統治の基本方針を示しました(「吾妻鏡」、下記補足4)。やはり、やはりそれなりのステイタスがあった場所だったのです。

(補足4)
文治五年(1189)十月大一日丁亥。多賀國府に於て、郡郷庄園所務の事、條々を 地頭等へ仰せ含め被る。就中に、國郡を費し土民を煩す 不可之由、御旨 再三に及ぶ。之に加へ一紙の張文於府廳に置被ると云々。其の状に云はく。庄号之威勢を以て、不當之道理を押しつける不可。國中の事に於て者、秀衡、泰衡之先例に任せ、其の沙汰を致す可し者り。

多賀城の陸奥国府で、郡や郷、荘園の管理の事を箇条書きにして地頭達に命令を出されました。中でも特に、国や郡の年貢を無駄遣いして、民百姓を困らせる事のないように、その旨を何度も伝えました。しかしそればかりでなく、一枚のお触書を国府に張り出されました。その紙面には、荘園の地頭の名を使って、でたらめな理屈を押し付けてはいけない。陸奥の国内の支配の仕方は、藤原秀衡や泰衡の時代の先例の通りに、指示するようにおっしゃられております。
(現代語訳、鎌倉歴史散策 吾妻鏡入門)

伝・源頼朝肖像画、神護寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして特筆すべきは、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、建武の新政の下、北畠顕家を陸奥守として、多賀国府に派遣したことです。顕家は、後醍醐天皇の側近の貴族・北畠親房の長男で、わずか14歳(当時最年少記録)で参議になっていました。1333年(元弘3年)16歳のとき、わずか6歳の義良(のりよし)親王を報じて、国府に赴きました。当初は、東北地方の統治と旧幕府方(北条氏)の鎮圧が目的でした。この組織は、天皇から東北地方の政治・軍事の広範な権限を与えられていたので「陸奥将軍府」「奥州小幕府」などと称されています。時代環境はちがえど、大化の改新以来の古代多賀城が復活したようです。残念ながらこれも詳細な場所は特定されず、古代政庁跡付近に「後村上天皇(義良親王が後に即位)御坐之處」の石碑が立っています。

「後村上天皇御坐之處」の碑

陸奥下向には、北畠親房も同行したのですが、顕家は旧幕府残党を一掃する武功を上げます。1335年(建武2年)、今度は足利尊氏が天皇に反旗を翻し、顕家は鎮守府将軍を兼ね、尊氏を追討することになるのです。東北の諸将を率いた顕家は、破竹の進撃で足利軍を破り、尊氏を九州に追いやりました。そのときが彼の絶頂のときであったでしょう。

北畠顕家肖像画、霊山神社蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、尊氏は東北に布石を打っていて、多賀国府が危ない状況になっていました。
そこで翌年、顕家は権中納言・鎮守府大将軍となって、義良親王(陸奥太守、顕家は陸奥大介)とともに再び陸奥に下向します。1337年(建武4年)ついに顕家は国府を、要害堅固な霊山に移しました。これ多賀国府の最後のときとされます。北朝の天皇を掲げて再起した尊氏と戦うため、顕家は再度上方へ出撃し、21歳の若さで討たれてしまうのですが、多賀城は、顕家とともに最後の輝きを放ったのではないでしょうか。

霊山城(国府)の想像図、現地説明パネルより

「多賀城 その2」に続きます。

8.仙台城 その1

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものもなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

立地と歴史

Introduction

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものはなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

伊達政宗騎馬像

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最後の戦国大名・伊達政宗

政宗は、東北の戦国大名・伊達輝宗の嫡男として、1567年(永禄10年)に生まれました。その当時、他の有名な戦国大名(織田・豊臣・徳川など)は既に活躍していたので、「最後の戦国大名」「遅れてきた戦国大名」と言われています。生まれた時期がハンディキャップになっていたのです。政宗といえば「独眼竜」ですが、下の肖像画ではそうなっていません。これは、政宗の遺言によるものです。ただ本人は「独眼竜」を前向きにも意識していたらしく、中国で「独眼竜」と称された名将、李克用にあやかって、黒い甲冑を身に着けたと言われています。同じ境遇の元祖「独眼竜」になぞらえようとしていたのでしょう。

伊達政宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗所用具足(複製)、仙台市博物館蔵

1584年(天正12年)、政宗は18歳で家督を継ぎますが、東北地方南部は、大名や領主たちがひしめいていました。彼らは、お互いが親戚でもあったので、戦いが始まっても、他の大名が仲裁に入って均衡が保たれたのです。それ自体はいいことですが、統一は進みません。そんな中、血気盛んな政宗は、大内氏の小手森城を攻め、城内の人たちをなで斬りにし、周辺の大名たちを震撼させました(下記補足1)。しかしその反発も大きく、畠山氏は伊達氏に降伏するとみせかけて、政宗の父、照宗を拉致し、政宗は父親もろとも打ち倒すことになってしまったのです。一方、政宗は家臣たちにはかなり気を使っていて(下記補足2)、敵だった武将も役に立つなら受け入れる度量もあったので、家中の結束は固くなりました。

(補足1)これだけの戦果を得たからには、須賀川(二階堂氏本拠)まで出陣し関東までもたやすく手に入るでしょう。(天正13年8月27日付最上義光宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足2)あなたのことは、弓矢八万・摩利支尊天・愛宕山にかけて、特別だと思っている。この手紙は燃やしてくれ。もしここに書いたことが世間に広まったなら皆が怖れを抱くかもしれない。(天正13年閏8月29日 白石宗実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

伊達輝宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1589年(天正17年)、それまでに田村氏などを従属させていた政宗に、大チャンスがめぐってきます。蘆名氏の重臣、猪苗代氏が主君に反旗を翻したのです。主君の蘆名義広は、猪苗代氏を討とうとして出撃、政宗は猪苗代氏とともに決戦に及んだのです(摺上原の戦い)。結果は大勝、義広は逃亡して、政宗はそれまでいた米沢城から、蘆名氏の本拠地・黒川城に入城しました。他の大名も従えて、南奥州をほぼ統一したのです。

伊達照宗の所領の推移、青枠内が南奥州統一時点(仙台市博物館展示)

政宗はさらに関東に進撃するつもりでしたが(下記補足3)、この行為は天下統一を進める豊臣秀吉の怒りを買ったのです。そして翌年、小田原の北条氏を攻めるのに、秀吉は各大名に参陣を求めました。政宗は迷いましたが、意外と早く、合戦前に参陣を決めています。

(補足3)「鬱々トシテ久ク居玉フヘキ所ニアラス」(「治家記録」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、その矢先、大事件が起こります。自分の母親(義姫)に、毒を盛られたというのです。これは有名な事件で、政宗の代わりに弟を立てるためだったとされます。そして政宗は、泣く泣く弟を成敗したというものです。これは、政宗自身が語っていることなので(下記補足4)、事実とされてきましたが、なんと母親とはその後も親密な関係が続いています。また、弟らしい僧がいたという記録(大悲願寺・法印秀雄が「政宗舎弟」)が注目されています。そのため、政宗と母親が芝居を打って、家中の分裂を防ぐために、弟を逃がしたという説があるのです(佐藤憲一氏)。もしそうであれば、大変な役者ぶりですが、どちらを信じていいかわかりません。私たちが政宗に試されているような気もします。

(補足4)政宗に誤りがないのに、一命を奪われそうになった。 いろいろ考えたが   実の親を殺すことはできないので、何の罪もない弟を殺した。(政宗消息、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

ところで、結局小田原行きが遅れて、白装束(死装束)で秀吉と対面した逸話もあります。一回出発したが、北条領国を通れず、引き返して、北陸方面に迂回したので時間がかかったのです。結構単純な理由だったのです。領土についても、蘆名から奪った分(会津地方)は召上げという事前交渉が済んでいました。ただ、本番は何が起こるかわからないので、相当緊張したようです。無事に終わった心境を語った手紙が残っています(下記補足5)。実際には白装束だったという記録はないのですが(、「治家記録」によれば髪を一束に結って謁見、首を刎ねられやすくする武士の姿とされる)、別のエピソードがあります(「伊達日記」)。主君に仕えたことがない政宗が、秀吉の近くに呼ばれたとき、刀(脇差)を持っていることに気づき、慌てて他の人に投げ渡したのです。それはそれできわどい場面でした。いずれにしろ、政宗の戦国大名としての夢は終わったのです(下記補足6)。

(補足5)諸々首尾よく終わった。関白様が直々にいろいろ親しくしてくれたので、言葉がない。とてもこれほど御懇切とは(成実には)想像できないだろう。明明後日には    帰国を許してくれるようだ。奥州五十四郡も大方は調いそうである。皆々の御満足を察すばかりだ。この書状の 写を皆々へ送ってくれ。(天正18年6月9日付伊達成実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足6)「秀吉公にはやく箱根をこされ、小田原落城このかたハ、吹風に草木なびくごとく、東西南北一同に治り、一度天下にはたをあげずしてくちおしき次第なり」(「木村宇右衛門覚書」)

現在の小田原城

仙台城築城へ

小田原合戦後、秀吉は奥州仕置により、政宗や改易大名から取り上げた土地に、配下の大名を入れました(蒲生氏郷、木村吉清など)。彼らには、政宗たちを監視する役割もありました。また、よそから来て厳しい検地を行ったので、大崎・葛西一揆を招き、政宗にも大きな影響を与えました。一揆を裏で扇動していると疑われたのです。そして弁明のために、上洛しなければならなくなりました。このとき、十字架をかついだとか、本物のサインには穴が開いているとか言った逸話がありますが、どちらも本当の話ではないようです。秀吉からは歓待される代わりに、一揆の拠点を含む領地へ移動させられました。飴とムチということです。もう一つの危機は、関白秀次が謀反を疑われ、切腹したときで、秀次と親密だった政宗も疑われました。戦よりも大変だったことでしょう。大量の処分者が出る中。政宗は弁明に努め、徳川家康のとりなしもあって、無事に済んだのです。

政宗に替って会津に入った蒲生氏郷の肖像画、会津若松市立会津図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀次肖像画、瑞泉寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

移動後の政宗の領土には、元いた米沢城も、伊達の発祥地(伊達郡)も入っていませんでした。会津の若松城に入った、上杉景勝の領地になっていたのです。政宗は、豊臣大名たちがお膳立てした、岩出山城に入っていました。ところが、秀吉が亡くなると、政宗に再び大チャンスが訪れます。徳川家康の登場です。政宗は家康に接近し、娘の五郎八姫を、家康の子・忠輝に嫁がせました。戦国大名らしい処し方です。やがて、会津征伐が起こると、さっそく景勝の領土に攻め入り、白石城がある地域(苅田郡)を占領しました。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の白石城

そして関ヶ原の前、家康の味方になる条件として、重要な約束を獲得するのです。景勝の領土のうち、49万石分が手に入るというものでした。その中には、米沢や伊達発祥の地も含まれていました。政宗としては、張り切らざるを得ません(下記補足7)。伊達のそのときの領土と併せて「百万石のお墨付き」と言われています(下記補足8)。しかし、最上の応援や、関ヶ原が1日で決着したことで、それ以上の占領はできなかったのでした。政宗も、それが実力次第とわかっていたと思いますが、関ヶ原後も領土の拡大を、政治的に実現すべく活動するのです。その「100万石」の領土が実現したときのために築いたのが、仙台城だったのです。

(補足7)そのうち 必ず世の中がおもしろくなる(慶長5年8月上旬頃 伊達政景宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足8)覚
 一苅田 一伊達 一信夫 一二本松 一塩松 一田村 一長井
 右七ヶ所御本領のことに候間、御家老衆中へ 宛行わるべきため、これを進せ候。
 仍って件の如し。 
  慶長五年八月廿二日 家康(花押)
  大崎少将(政宗)殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵

「百万石」の城

もう一回政宗の領地の範囲を見ていただくと(下記所領図)北側のエンジとピンクの部分が関ケ原の戦い前の所領です。以前所領だった黄色の部分と緑の部分のうちの一部が「百万石のお墨付き」の分になります。仙台は、政宗がほしがった領地の中心くらいに位置します。政宗はそういうことを考えて新城の場所を決めたと思うのです。それに、昔の国府が近くにあり、街道も通っていて、仙台平野に面し、海にも近く、交通や産業を発展させられる場所だったのです。「百万石」の都に相応しい場所です。

伊達照宗の所領の推移(仙台市博物館展示)

政宗は、関ヶ原と同じ年に、家康の許可を取って、以前千代城いう山城があった青葉山に築城を始めました。この時期に、山に本拠地としての城を築くのは珍しいことでした。政宗は、まだ事が起こると考え、要害堅固な場所を選んだのだと思います。こういうところも戦国武将らしいです。特に本丸のあるところは、東は広瀬川と断崖、南は峡谷、西は山林に囲まれて、:大手口のある北側も、門や石垣を組み合わせて厳重に守られていました。城は2年ほどで一旦完成し、中国の古典から「仙人が住む高台」いう意味の「仙台」と名付けられたと言われています。きっと、永遠に栄えてほしいという願いがあったのでしょう。政宗の屋敷は、山麓にあって、そこから山上の城に通勤していたそうです。そこも、体力がある戦国大名らしいです。

仙台城模型。南側からの視点(仙台市博物館にて展示)

「城っぽくない」ことに通じるかもしれませんが、本丸には家康をはばかって天守は建てませんでした(下記補足9)。天守は最初からなかったのです。しかs、当初は本丸に三重櫓が4つもありました。それから、本丸の中心には、豪華な大広間が建てられました。秀吉が建てた京都の聚楽第を手本にしたと言われていて、儀式や対面に使われました。政宗が座った「上段の間」のほか、、天皇や将軍を迎える「上々段の間」までありました。ここまで迎えるつもりだったのか、それとも自分が将軍になるつもりだったかのかと思ってしまいますが、建物の格式を示す意味があったようです。あと面白いのが、広瀬川に向かった崖に面して、懸け造りの建物がありました。仙台城を訪問したスペイン人が、その感想を書き残しています(下記補足10)。もしかしたら、懸け造りからの景色を楽しんだかもしれません。

(補足9)合戦が終わらない中で、なかなか普請しようと思ってもうまくできません。内府様(家康)が今のように栄えているので、居城などの普請は今さらいらないと思うので、一切していません。(慶長6年4月18日付 今井宗薫宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足10)城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし(セバスティアン・ビスカイノ「金銀島探検報告」、訳は「奥州の竜 伊達政宗」などより)

仙台城本丸の想像図(青葉城本丸会館にて展示)
大広間模型(仙台城見聞館にて展示)
再現上々段の間、床の間部分(仙台城見聞館にて展示)
懸造がせり出した本丸崖部分の想像図(青葉城本丸会館にて展示)

その城の眼下には、現在の仙台市街地につながる城下町が建設されました。広瀬川には、城と城下町をつなぐ大橋がかけられたました。橋の擬宝珠には、政宗の名前で、仙台の繁栄を願う漢詩が刻まれます。橋から伸びる通りが、奥州街道と交わっていて「芭蕉の辻」と呼ばれました。ここには、人々が集まり、高札場や繁華街になっていました。現在の仙台につながっていったことがわかります。

仙台城模型のうち、手前が広瀬川にかかる大橋(仙台市博物館にて展示)
政宗名で漢詩が刻まれた擬宝珠(仙台市博物館にて展示)
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)

政宗と仙台城のその後

ところで、お墨付きの方はどうなったかというと、うまくいかなかったのです。政宗は、本多正信などの幕閣とコネを作り、上杉氏や相馬氏の、関ヶ原処分のときに働きかけたのですが、だめだったのです。極めつけは、最上氏の改易のときに、正信の子・正純に働きかけますが、なんと正純まで改易になってしまったのでした。ただ、政宗の長男(庶子)・秀宗は宇和島藩主になっているので、幕府は、借りは返したと思ったのではないのでしょうか。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それと、疑われるのは相変わらずで、一揆の扇動(和賀・岩崎一揆)や、謀反の噂には事欠かなかったのです。謀反の噂は、婿の松平忠輝からの讒言が元ネタだったのですが、その度に弁明に走り、かえって将軍家との絆を深めていきます。その辺は海千山千でしたし、将軍としても、もっとも敵に回したくない大名ということだったのでしょう。

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それから、晩年の業績としては、慶長の遣欧使節がありますし、隠居用の屋敷にしては強力そうな、若林城の築城もありました。なにをやっても目立ってしまうのです。地道な方では、寺社の再建や、江戸城普請も行っています。その普請の最中、1636年(寛永13年)、70歳で江戸で亡くなりました。

復元された遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ」号(4分の1スケール)、宮城県慶長使節船ミュージアムにて展示
若林城跡
政宗が再興した陸奥国分寺

仙台城の方ですが、政宗の跡継ぎ・忠宗は、政務の場所として山麓に二の丸御殿を築きました。山の上への通勤が、大変だったということもありますが、ワンマン経営だった政宗時代から、藩の組織を整備したという意味もありました。政宗・忠宗2代で幕府との良好な関係が確立し、次の時代に起こる藩内抗争「伊達騒動」を乗り切れたという評価もあるのです。政宗の後で目立たちませんが、隠れた功労者だっだのです。

伊達忠宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
二の丸の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本丸は、儀式のための場所になって、度重なる地震により、三重櫓は崩れて再建されませんでしたが、石垣は修復されて、大広間とともに幕末まで残りました。戊辰戦争でも戦場になることはありませんでした。

本丸北壁の石垣

明治維新後、仙台城には陸軍が置かれましたが、大広間などが解体され、二の丸御殿も火災で焼失してしまいます。そして戦前まで残っていた大手門なども空襲で焼失してしまったため、現在ではお城の建物はほとんど残っていません。それで政宗像がシンボルになっているのでしょう。現在でも地震はあるので、石垣だけでも維持するのが大変なのですが、城の建物としては、1967年に大手門脇櫓が再建されました。今後は、大手門そのものが復元される計画があるそうです。

大手門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗騎馬像
再建された大手門脇櫓

「仙台城 その2」に続きます。

21.江戸城 その2

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

立地と歴史(君臨の歴史編)

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

江戸城の防衛システム

江戸城は、徳川将軍家の本拠地として完成しました。どの大名の城とも別格であり、将軍の権威を誇示し、反逆心など起こさせないようにする存在となりました。そのため、日本一広いだけでなく、独特の意匠や構造を持つ城になったのです。城と一体であった江戸の町は、当時から世界有数の都市でした。各大名は参勤交代により、江戸と居城を往復するたびに、莫大な費用をかけながら、江戸の城と町を見せつけられたのです。まさに、戦わずして勝つ仕掛けでした。

「江戸図屏風」国立歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城は、江戸幕府の本拠地でもあるため、中央政庁としての役割もありました。敵を撃退するというより、不審者を簡単に侵入させないセキュリティ維持の仕組みも求められました。特徴として、城の敷地面積のわりには櫓が少なかったそうです。それでも、天守のほかに、三重櫓が最盛期には本丸に5棟(富士見三重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、菱櫓、数寄屋櫓)、二の丸に3棟もありました。(蓮池巽三重櫓・巽奥三重櫓・東三重櫓)天守がなくなってからは、富士見三重櫓が、天守の代用になったと言われています。全体(本丸・二の丸・三の丸)では、約30基の櫓があったようです(多聞櫓除く)。

富士見三重櫓(現存)
蓮池巽三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
(左から)巽奥三重櫓、東三重櫓(古写真)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


一方、城門が数多く設置されていて、その数は約90に達しました(諸説あり)。入口をしっかり警護し、不審者をここでロックアウトするのです。そのうち、主要なものが「三十六見附」と称されて、江戸の名所のようになっていました。「赤坂見附」「四谷見附」がそのまま地名として残っています。「見附」とは見張りの番兵を置いた場所のことですが、外郭と中心部ではその対象が違っていました。例えば、外郭に設置された「浅草見附(浅草橋御門)」は、日光・奥州街道の通り道に当たりました。よって、一般の通行人や物品の出入りを監視していました。「見附」の外側、街道上の町の出入口には「大木戸」というのも設置され、同じような役割を果たしていました。

浅草見附の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
広重の浮世絵に描かれた高輪大木戸(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

中心部においては、城の正門、大手門は、大名たちが登城するための門です。大手門の前の「下馬所」で大名以外の従者は馬や駕籠から降り、ここから先は人数制限もありました。次の大手三の門(下乗門)では、御三家以外の大名も乗物から降りなければなりませんでした。この門の内側にある同心番所が現存しています。そして、圧倒的な規模の中の門が現れます。更に、本丸への最後の城門、中雀門は豪華絢爛を誇っていました。これらの城門は、幕府・将軍の権威を具現化する役割を担っていたのです。

大手門(戦後の再建)
大手三の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所(現存)
中の門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中雀門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

江戸城天守比べ

江戸城には、家康・秀忠・家光の時代ごとに、3代の天守がありました。なぜわざわざ一代ごとに建て替えるのかとも思いますが、それぞれの治世を象徴しているようにも思います。家康の天守は、建てた時期から「慶長天守」とも呼ばれます。家康が天下を取った後、初めて行った天下普請のときに建てられました(1607年、慶長12年)。
詳細は不明ですが、そのとき健在だった豊臣大坂城天守をしのぐ大きさだったと推定されています。(5重5階で、石垣を含めた高さが約55mという説あり)位置は、現在残る天守台よりも、南側、本丸中心に近いところだったようです。外観は、漆喰が塗られた白壁と、屋根は銀色に輝く鉛瓦で、白亜の天守だったという記録があります。最近発見され絵図(「江戸始図」)によると、連立式天守だった可能性があり、イメージは姫路城天守に近かったかもしれません。

姫路城天守

2代将軍・秀忠は、家康逝去後、これも天下普請のとき(3次、1622年・元和8年~)天守を改築しました。これも時期から、元和天守とも呼ばれます。その理由は定かではありませんが、家康との確執があったとか、慶長天守が破損したためとも言われます。本丸御殿の拡張に伴って、位置を現在の天守台付近に移しているので、単に移築しただけなのかもしれません。ちょうど江戸幕府の体制を盤石にする段階でしたので、政治の場所としての江戸城を意識したのではないでしょうか。

元和天守のものとされる「江戸御殿守絵図」(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、3代将軍・家光が「寛永天守」として、日本史上最大の天守を築くのです(1638年、寛永15年完成)。今度は同様の場所で建て替えたので、天守そのものに意図を込めたと考えられます。祖父・家康を尊敬していた家光が、家康の天守を壊した秀忠に、意趣返しをしたとの見解もありますが、江戸城の総構えが完成したところで、将軍の権威を改めて示そうとしたこともあったでしょう。残っている資料や各種研究から、寛永天守は5重5階地下一階で、高さは約45m、石垣を含めると訳59mあったとされます。

徳川家光肖像画、金山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


天守の高さ・史上ランキングを示します(現存・再建・消失したが推定できるもの、カッコ内は石垣含む、同じ城の重複は除く)。
① 寛永期江戸城:45m(59m)
② 徳川期大坂城:44m(57m)、現在のものは42m(55m)
③ 名古屋城:36m(48m)
④ 駿府城:34m(53m)
⑤ 島原城:33m(39m)
⑥ 安土城:32m(41m)
⑦ 姫路城:32m(47m)
⑧ 熊本城:31m(37m)
4位までを天下普請で作った徳川の城が占めています。再建された現在の大坂城・名古屋城では、その大きさを実感することができます。寛永天守は、それをも上回っていたのです。

再建された大阪城天守
外観復元された名古屋城天守


外観は、前代までと異なり、壁は、上部は漆喰、下部は銅板を張って黒で塗装していました。瓦も銅瓦葺きで、当時の銅は高価で、耐久性・防火性を兼ね備えていました。また、特筆すべきこととして、壁には狭間・石落としはありませんでした。つまり、この天守は、権威・平和のシンボルとして建てられたのです。ところが、完成からわずか19年後の1657年(明暦3年)の明暦の大火で、焼失してしまうのです。江戸の町の過半、江戸城も本丸が全焼した火事で、火炎に吹き上げられた窓から引火したそうです。

寛永天守模型、皇居東御苑本丸休憩所にて展示

時は4代将軍・家綱のことで、天守台は前田綱紀により迅速に再建されましたが、天守が再建されることはありませんでした。後見役の保科正之の進言により、市中の復興を優先したのです。それ以降、江戸城には天守はありませんでした。3代通じて天守があったのは、わずか50年ちょっとだったのです。

4代目天守台(現存)

政治の中心、本丸御殿

天守がなくなった江戸城の中心は、御殿でした。江戸城に限らず、平和な江戸時代には、政治の場・大名の居住地として、御殿が城の中枢だったのです。江戸城には御殿がいくつもありましたが、代表的なものは、本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿でした。
西の丸御殿は、主に隠居した将軍や将軍の跡継ぎが暮らしていました。二の丸御殿は、様々な用途で使われたようです。そして本丸御殿が、将軍が暮らし政務を行った、まさに時代の中心地でしたので、これについてご説明します。

「江戸御城之絵図」、東京都立図書館蔵、黄色と桃色で塗分けられている部分が御殿

よく知られている通り「表」「中奥」「大奥」の三つに区分されていました。「表」は、儀式が行われ、幕府の役人が職務を行う、公邸に当たる場所でした。例えば、大名が将軍に謁見する場合、玄関(式台)から入って、遠侍という建物の「虎の間」で待ちます。そして大広間で謁見となるのですが、大身の大名でも、上段の間の将軍から相当離れた下座で平伏したそうです。

万治造営本丸御殿平面図、皇居東御苑現地説明パネルより
「虎の間」のイメージ、名古屋城本丸御殿障壁画より

その奥の方が、諸大名などと対面も行ったのが白書院です。大広間と白書院をつなぐのが、「赤穂事件」で有名な松の大廊下です。白書院から竹の廊下を経た奥が、幕閣などとの対面などに使われた黒書院です。

松の大廊下の襖絵図、現地説明パネルより
松の大廊下での刃傷事件(赤穂事件)を扱った歌舞伎の浮世絵、実際の松の大廊下は閉じられた空間で暗かったそうです(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこから先が将軍の公邸の「中奥」です。対面所として使われる「御座の間」、寝室や居間として使われた「御休息の間」などがありました。ところで、老中などの幕閣はどこにいたかというと表と中奥の中間にある「御用部屋」でした。初期は中奥にあったそうですが、刃傷事件が起きたことで、少し遠くに移されました。それが、取次ぎを行う側用人が台頭する一因になったそうです。それから、各大名が登城したときの居場所ですが、これも大名のランクで細かく分けられていました。例えば、大身の外様大名は大広間席、御三家は大廊下席に詰めていました。意外と将軍の居場所とは離れていて、中央の政治にはなるべく関与させないという意図があったのかもしれません。譜代大名は、白書院にある「帝鑑の間」にいました。段々、将軍に近づいていきます。そして黒書院にあった「溜の間」詰めが最も格が高く、重要事項は幕閣の諮問を受ける立場にありました。会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家は常にこの場を占め(定溜)、功績によって認められる大名家もありました(飛溜)。これも、大名の忠節を奨励し、将軍・幕府の下にコントロールするシステムの一つだったのでしょう。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 、彼は対応になる前から溜の間詰めでした(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
堀田正睦、一旦老中を退いた後、溜の間詰めになりました (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして「大奥」ですが、奥女中には、大奥のことを口外しないという厳しい法度あったため、その関心の高さの割に実態は知られていません。この制度は春日局が確立したと言われ、ここにも厳しい身分制度がありました。

大奥と中奥をつなぐ御鈴廊下のセット、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示
春日局肖像画、麟祥院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

高位になると、城から外に出ることは、ほとんどできませんでした。将軍や御台所の代理で寺社に参詣することはありましたが、門限に遅れ「絵島事件」のようなことも起こっています。将軍にしても、よりどりみどりではなく、予め吟味され選ばれた将軍のお世話係(御中臈)から側室が出たのです。男子禁制と相まって、筋目正しい将軍の世継ぎを得るという、これも権威・体制を維持するための仕組みの一つでした。

江島事件を扱った浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それでも、生涯をかけて務めたり、奉公務めのキャリアとして応募する女性もいたので、当時はステイタスの一つだったのでしょう。大奥の女中の限られた娯楽の中に、大奥内で行われた歌舞伎鑑賞がありました。大奥なので、演じたのも女性の役者でした。そのときの衣装が残されていて、大奥の華やかな一面を伝えています。

大奥で行われた歌舞伎で使われた衣装、東京国立博物館特別展「江戸大奥」にて展示

江戸城激動の歴史

盤石に見えた幕府と江戸城でしたが、その最大の敵は火事でした。天守のところで出てきた明暦の大火の他にも、多くの火災に見舞われます。しかし、中枢の本丸御殿に限れば、明暦の大火後、1659年(万治2年)に建てられた御殿が、その後180年以上健在でした。江戸の町では大火が度々ありましたが、江戸城の中心部は延焼を逃れていたのです。この状況が変わったのが幕末です。町の火災は減ったのに、御殿の火災が頻発するようになるのです。水野忠邦による天保の改革が挫折した後くらいからです。1844年(天保15年)長らく保った本丸御殿が焼けましたが、翌年再建されました。ところが、次に本丸御殿が焼けたのは、ペリー来航後の1859年(安政6年)で、15年も持たなかったのです。ときの将軍・徳川家茂は、西の丸に移りました(本丸御殿はまた翌年再建)。大老・井伊直弼の彦根藩救援隊が活躍したそうです。

徳川家茂肖像画、徳川記念財団蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして翌年、安政7年3月3日、桃の節句の総登城の日に、桜田門外の変が起こります。彦根藩は事前に襲撃情報をつかんでいましたが、お供の人数は決まっているので、警護を強化させなかったそうです。幕府を守るためのルールが、時代に合わなくなった象徴的な例だったのかもしれません。その年の11月に本丸御殿が再建されますが、その3年後(1863年、文久3年)またも焼失しました。同時に二の丸御殿も焼け、6月に西の丸御殿も焼けていたので、家茂と妻の和宮は、行くところがなくなり、御三卿の清水邸、田安邸を転々とする有様でした。この前後で、家茂は2度の上洛をしています。幕末の混乱で幕府の財政事情はきびしく、これらの御殿を全て建て直す余力はありませんでした。再建中の西の丸御殿の規模を縮小して完成させ、これが最後の御殿となったのです(1864年、元治元年)。1865年(慶応元年)家茂は、西の丸御殿から第二次長州征討のために出陣し、二度と戻ってくることはありませんでした(翌年大坂城で病没)。

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

政局の中心は、朝廷がある京都に移りました。「最後の将軍」徳川慶喜が将軍になったのも、大政奉還により辞めたのも二条城です。その慶喜が江戸城(西の丸)に帰ってきたのは、1868年、慶応4年1月13日、鳥羽伏見の戦いに敗れ、朝廷に恭順の意思を固めていました。主戦派の小栗忠順をクビにし、恭順派の勝海舟をトップに据えて、2月12日は寛永寺で謹慎に入ります。そして3月13・14日の勝海舟・西郷隆盛の会見を経て、4月11日の江戸城引き渡しとなるのです。官軍が入ったのは御殿のある西の丸でした。明治元年と改称された10月13日、「東京城」と改められた江戸城に明治天皇が行幸しました。その場所も西の丸御殿だったので、それ以来、その場所が皇居になったのです。

二条城
将軍時代の徳川慶喜 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「江戸開城談判」、結城素明作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「東京御着輦」、小堀鞆音作、聖徳記念絵画館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
皇居となった西の丸

リンク、参考情報

江戸城に迫る、東京都立図書館
特別展「江戸 大奥」、東京国立博物館
・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「日本の都市 誕生の謎/竹村公太郎著」ビジネス社
・「江戸城の土木工事 石垣・堀・曲輪/後藤宏樹」吉川弘文館
・「江戸城 将軍家の生活/村井益男著」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研
・「江戸城大奥をめざす村の娘: 生麦村関口千恵の生涯/大口勇次郎著」山川出版社
・「徳川氏の関東入国に関する一考察/村上直氏論文」法政大学学術機関リポジトリ
・「江戸城の火災被害に関する研究/伊藤渉氏論文」東京理科大学工学部第一部建築学科辻本研究室
・NHK「ザ・プレミアム よみがえる江戸城」2014年放送
・NHK日曜美術館「大奥 美の世界」2025年放送

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その3」に続きます。

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