172.三原城 173.新高山城 その1

小早川隆景といえば、毛利元就の三男で、次男の吉川元春とともに、毛利本家を支えた「毛利両川」として有名です。また、豊臣秀吉の天下統一後には「五大老」の一人にもなり、豊臣政権の中枢も担いました。今回の記事では、小早川隆景の武将人生と、彼が築いた2つの城の歴史をリンクさせてご紹介します。

小早川隆景の城

小早川隆景といえば、毛利元就の三男で、次男の吉川元春とともに、毛利本家を支えた「毛利両川」として有名です。また、豊臣秀吉の天下統一後には「五大老」の一人にもなり、豊臣政権の中枢も担いました。つまり、戦国時代から安土桃山時代にかけて、重要な地位を占めた人物です。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景はその過程の中で、2つの重要な城を築きました。新高山城と三原城です。新高山城は山城で、隆景が小早川家を継いでから築城し、本拠として毛利が織田信長に対峙したときまで使いました。一方、三原城は海城で、豊臣政権下で天下統一が進み、朝鮮侵攻が行われる中で、隆景の本拠となりました。どちらも、当時の状況や、隆景のポジションを反映している城だと思います。

三原市の範囲と城の位置

今回の記事では、小早川隆景の武将人生と、2つの城の歴史をリンクさせてご紹介します。三原城は、隆景の後も存続しますので、その辺りも触れてみます。

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小早川隆景の登場

まず、隆景以前の小早川氏について簡単にご説明します。小早川氏のルーツは、現在のイメージとは異なり、関東地方の相模国(現在の神奈川県)になります。源頼朝に仕えた土肥実平の子、遠平(とおひら)が相模国の地名(早川荘または小早川村)から小早川氏を名乗ったとされています。平家が滅びると、遠平は恩賞として安芸国(現在の広島県)・沼田荘を与えられ、その2代後の茂平(しげひら)は、承久の乱での功績で、竹原荘を与えられました。この2つの領地を基盤に、沼田小早川氏と竹原小早川氏が成立します。相模国の土肥氏宗家は、鎌倉幕府内の争いで衰退してしまったので、小早川家が土肥氏の流れを組む本流になったのです。

両小早川氏は、鎌倉幕府の滅亡、南北朝の対立といった困難を乗り切り、戦国時代まで生き残っていました。沼田小早川氏は高山城、竹原小早川氏は木村城を本拠とし、強力な水軍を擁するようになりました(「小早川水軍」)。しかし戦国時代後半になると、中国地方では大内氏・尼子氏という2大勢力が表われ、両小早川氏は翻弄されるのです。また、両方とも当主の早世が相次ぎ、勢力が弱まり、その家臣たちにも動揺が走っていました。

小早川氏の本拠地の位置

そんな中で登場したのが、毛利元就です。彼自体も、安芸国の国人領主の一人でしたが、そのリーダー格として、大内義隆からも頼られていました。また、隆景以前から、毛利氏と竹原小早川氏は親戚関係になっていました(元就の姪が当主・小早川興景の妻)。1541年(天文10年)奥景が跡継ぎなく亡くなると、義隆は元就の子・隆景を後継として強く推薦しました。元就は渋っていたようですが受け入れ、1544年(天文13年)隆景が12歳で当主となりました。元就としても、有力氏族とその勢力圏を傘下に収めたのです。

毛利元就肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

沼田小早川氏では、当主が病弱で、家臣が大内派と尼子派に分かれて対立していました。そこで、最有力の重臣と、大内義隆・元就が諮り、1551年(天文20年)に隆景が小早川家の統一当主になったのです。このとき元就が、謀略で元の当主を無理やり隠居させ、反対派の家臣を大量粛清したという逸話があります。しかし実際にその通りだったかは判然としません。いずれにせよ、それまでに吉川家にも次男・元春を送り込んでいたので、「小早川隆景」の登場により「毛利両川体制」が確立したのです。

吉川元春肖像画、早稲田大学図書館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新高山城の築城

両小早川氏の当主となった隆景は、沼田小早川氏の本拠・高山城に入りますが(1551年、天文20年)、翌年には新しい本拠・新高山城を築城します。実は、この2つの城は沼田川を挟んだ、2つの山の上にそれぞれあるのです。なぜわざわざ、すぐ近くの似たような場所に新たに本城を築いたのでしょうか。一つには、それぞれの山の別名にヒントがあります。高山城の方は「雌高山(めすたかやま、他には妻高山など)」、新高山城の方は「雄高山(おすたかやま)」とも呼ばれていて、その印象からもわかる通り、新高山城の方が急峻な地形で、岩山の上に築かれ、防御力が高かったからと思われます。次に、当時は海が沼田川まで入り込んでいて、新高山城の辺りが船着場として丁度よかったとも考えられます。また、新当主として人心を一新し、家臣団を再編成するよい機会にもなったでしょう。

左が新高山城跡、右が高山城跡

城周辺の起伏地図

新高山城は岩山の上に築かれました

隆景が小早川氏当主として独自性を発揮し始めていた1555年(弘治元年)、有名な厳島の戦いが起こり、毛利氏が中国地方の覇権を握りました。隆景も小早川水軍を率いて活躍しました。一方でこの頃、毛利本家を継いだ毛利隆元、弟の吉川元春、小早川隆景との間は必ずしもしっくりいっていなかったようです。それを受けて父親の元就から出されたのが「三子教訓状」です(1557年、弘治3年、下記補足1)。これが、もっと有名な「三本の矢」のエピソードの元になったと言われています。

(補足1)
・毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。(第一条)
・元春と隆景はそれぞれ他家を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬ。(第二条)
・三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。(第三条)
・隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。(第四条)
・隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。(第五条)
・この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う(第六条)。

毛利本家を継いだ毛利隆元肖像画、常栄寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

隆景は終生、この教えに沿って生きていったと言えるでしょう。

新高山城は山城でしたが、中世とその後の時代の過渡期のような性格を持っていました。中世以来の山城としては、川を背にし、山の地形を利用し、曲輪・空堀・切岸などを組み合わせ、敵の侵入を防ぐようになっていました。また、山頂近くに6つもの大井戸があって、日常生活、更には籠城戦にも耐えられるようになっていました。新しい要素としては、石積み・石垣を多用し、曲輪の補強とともに、城主の権威をも表しました。曲輪の入口も枡形を導入し、防御力を高めていました。重臣の屋敷地も、城下に集めていたことがわかっています。

新高山城の縄張り図、現地説明パネルより
山上の大井戸跡
本丸の石垣跡

1561年(永禄4年)、隆景は、毛利宗家の元就・隆元父子の官位任官を祝い、新高山城に招待しました。その滞在は永禄4年3月26日から10日間に及び、様々な儀式や祝宴が行われました。元就は山麓の重臣屋敷、隆元は中腹にある寺に宿泊したとの記録があります。また、中腹には「御会所」「清所(きよどころ)」能舞台といった儀式を行う建物群がありました。頂上部の本丸には「高之間」と呼ばれる金閣・銀閣風の建物があったようです。更に「茶湯之間」で太平記の講読会も行われたので、茶室や図書施設まであったのです。新高山城は、戦うための場だけでなく、政治・文化の中心とした役割も担っていたのです。

中腹にある匡真寺(きょうしんじ)跡

隆景の本拠地は、その後徐々に三原城に移っていきますが、1596年(慶長元年)までは維持されたとされています。

三原城の築城

三原城といえば、別名「浮城」とあるように、海に浮かんでいるような華麗な姿を思い浮かべます。しかし当初からそうではなかったようです。戦国時代は、現在の城跡の背後にある桜山に城があり、その麓までが海で、島(大島・小島)が連なっていたそうです。

「絹本著色登覧画図(複製)」に描かれた三原城(三原駅壁面)
かつては島だった三原城天守台と背後の桜山

小早川氏は水軍を持っていたので、隆景の当主就任早々「三原要害」に家臣が派遣されていますが、その場所は桜山のことだと想定されています。その後、1567年(永禄10年)に三原城の築城が始まりますが、城の姿としては、桜山と海岸に設けた船着場が連携した程度だったのかもしれません。その頃、毛利氏は中国地方の雄として、近畿地方の織田信長と交渉、対決する立場になっていました。隆景は毛利方の交渉窓口として、この頃から織田方の木下秀吉(後の豊臣秀吉)と連絡を取っていたのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

時が経つと、毛利水軍の基地として、三原城は重要視されるようになりました。毛利元就・隆元の後を継いだ輝元は、織田との戦いで、三原城を本営とし、隆景も徐々に本拠としました。1580年(天正8年)に修築されたという記録があるので、おそらく拡張されたのでしょう。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして運命の本能寺の変、中国大返しを経て、豊臣秀吉が天下統一を進めるようになると、隆景と三原城の役割も変わってきます。隆景は慎重で熟慮に基づく判断で、輝元を全面的に補佐し、毛利家の生き残りに成功し、秀吉の信任も得ていました。加えて、秀吉には天下統一後の「唐入り」の野望があったため、毛利・小早川水軍を利用しようとしたのです。1585年(天正13年)の四国攻め後、秀吉は隆景を単独の大名に取り立て(伊予国主)、翌年の九州攻め後には、九州北部(筑前・筑後)に移しました。1589年(天正17年)隆景は筑前に名島城を築きますが、三原城を中心とする領地もそのままでした。秀吉も三原城を2回、宿泊所として使用しています(九州攻めと朝鮮侵攻時)。ということは、埋め立てが進み、御殿なども整備されていたのでしょう。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1592年(文禄元年)朝鮮侵攻が始まると、隆景も朝鮮に出陣します。隆景の城、最前線の城・名島城と、後衛の城・三原城は、水軍のネットワークとして機能したのです。1594年(文禄3年)には、秀吉の養子・秀秋(当時は秀俊)を、隆景の養子に迎えることになりました。秀秋と、輝元の養女の婚儀が、三原城で盛大に行われたのです。秀秋を迎えた理由は諸説ありますが、隆景が九州の領地を秀秋に引き継がせ、豊臣家との関係を盤石にしようとしたとも考えられます。隆景自身も、ついに豊臣政権の「五大老」の一人に登り詰めました。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1596年(文禄5年)隆景は三原城に「隠居」しました。とはいっても九州の領地を秀秋に譲っただけで、「三原中納言」として「五大老」、毛利後見、小早川本領の領主の立場は継続していたと見られます。隆景は、三原城の本格的な改修を始め、その資材として新高山城から石材を運んだと言われます。新高山城はこのとき廃城となりました。現在残る天守台も、このときまでに築かれたのでしょう(一部は福島時代の改修または拡張)。ところが、その翌年(1597年、慶長2年)隆景は突然亡くなりました。特に毛利関係者にとっては衝撃だったようです。その懸念の通り、関ケ原のとき、毛利本家・吉川・小早川は結束した行動を取ることができませんでした。隆景が長生きしていれば、国政レベルでも史実と違った展開になったかもしれません。

三原城天守台

隆景の治政を表すエピソードとして、隆景のわずか2年足らずの伊予国滞在中、国内は大変平穏であったと評されています(下記補足2)。

(補足2)
隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国には騒動も叛乱も無い(ルイス・フロイス「日本史」)

三原城完成とサバイバル

三原城は、三原浦の埋め立てにより築かれた海城です。天守台・本丸周辺と、舟入櫓の辺りが元は島だったそうで、隆景時代に島(大島・小島)の間を埋め立てて築城されました。隆景没後には毛利本家に、関ヶ原後は福島正則に属し、福島時代は、正則の養子・正之が城主でした。福島時代に海に面した10基の櫓を築いて完成したと言われています。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

海城なので、舟入が設けられ、その両サイドには櫓があり、警戒していました。櫓の総数は34、門の数は14と伝えられています。城の中心部の本丸には、本丸御殿があり、江戸時代中に改築もされましたが、その内の大広間の格式から、隆景が建てたものと推定されています。御殿は現存していませんが、わずかに部材が残っていて、隆景時代の豪華な造りを想像することができます。

三原城模型、三原市歴史民俗資料館にて展示
上記模型の舟入部分
三原城本丸御殿大広間の杉戸、三原市歴史民俗資料館にて展示

そして現在も残る天守台ですが、隆景時代に築かれ、正則時代に改修または拡張されています。その大きさは日本最大級で、江戸城天守台に匹敵します(一辺が4,50メートルくらいか)。完全に独立しているのではなく、本丸から土塁で一段高くなっています。元あった島のサイズからこうなったのかもしれません。ただし、天守が築かれることはなく、隅に3基の二重櫓が築かれ、多聞櫓によって連結されていました。

上記模型の内、天守台部分
江戸城天守台

三原城の最初の危機は、いわゆる一国一城令発布のときでした。福島氏時代に出され、このとき三原城は支城の一つだったからです。1619年に福島氏が改易になり、浅野氏に代わりましたが、そのときも支城の扱いでした。このタイミングが危なかったかもしれません。しかし、三原城には家老の浅野氏が入り、幕末まで維持されたのです。大きな藩では、他にも家老が入った城の例があります(犬山城白石城八代城など)。

改易された福島正則肖像画、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
福島氏の後継、浅野長晟肖像画、広島市立中央図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

二度目の危機は、どの城もそうですが、明治維新の後でした。三原城のほとんどの建物や石垣は撤去され、堀も埋められました。本丸御殿は学校として使われましたが、移転時に取り壊されました。そして1894年(明治27年)、鉄道が本丸を貫いて通されます。天守台はかろうじて残りました。当時は近代化が優先された時代だったのでしょう。戦後になると山陽新幹線の駅も設置されたので、その高架が天守台に密着したような形になったのです。結果として、天守台は駅に直結した見学スポットになりました。

鉄道開通後の三原城跡、三原市ホームページから引用
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示
天守台と新幹線高架
駅内にある案内

「新高山城 その2」に続きます。

7.多賀城 その1

多賀城は、古代日本の朝廷が、当時蝦夷と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方の支配を進めるために設置した、城柵の一つです。またこの城には、陸奥国の国府や、蝦夷に対する軍事を担当する鎮守府も置かれていました。つまり多賀城は、古代東北を統治するための一大拠点だったのです。

立地と歴史

Introduction

多賀城は、古代日本の朝廷が、当時蝦夷(えみし)と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方の支配を進めるために設置した、城柵(じょうさく)の一つです。またこの城には、陸奥国の国府や、蝦夷に対する軍事を担当する鎮守府も置かれていました。更に陸奥国守は、陸奥・出羽国を広域に管轄する行政官・按察使(あぜち)を兼任していました。つまり多賀城は、古代東北を統治するための一大拠点だったのです。西日本では、朝廷の出先機関として大宰府が有名ですが、多賀城はその東北版とも言えるような場所だったのです。その機能は、東北地方経営の進展とともに分散し、平安時代には政庁としても衰退するのですが、南北朝時代まで「多賀国府(たがのこう)」として認識されていました。そんな多賀城の歴史をご説明します。

復元された多賀城外郭南門

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城柵と多賀城の始まり

城柵の設置は、有名な大化の改新(645年、大化元年~)から始まりました。中大兄皇子を中心とする朝廷の中央集権化が進められ、その政策の一つが東北地方の支配領域拡大でした。その前提として、東国諸国や陸奥国が成立していました(出羽国は712年設置)。記録上最初の城柵は、647年(大化3年)越国に設置された渟足柵(ぬたりのさく)です。翌年には磐舟柵(いわふねのさく)も設けられました。太平洋側では、現在の仙台市にある郡山遺跡が初期の城柵ではないかといわれています。

多賀城と8世紀の主な城柵の位置

城柵は、支配領域拡大のための拠点として「饗給、斥候、征討」という蝦夷対策の任務を遂行するための施設でした。「蝦夷」とは東北地方で朝廷の支配に服していない人たちに対する呼び名で、彼らを支配体制に組み込もうとしたのです。
・饗給:服属を前提とした蝦夷への饗応と褒美の給付
・斥候:蝦夷の動静の把握
・征討:反乱した場合の討伐
(「古代東北統治の拠点 多賀城」より)
支配領域が拡大した場合には、新たな郡の母体にもなりました(例:桃生郡・栗原郡)。更には、蝦夷を介した北方世界との交易場所でもあったのです。

復元された他の城柵(払田柵)の門(licensed by 小池隆 via Wikimedia Commons)

東北地方に支配を広げるということは、開拓を行うことにもなるので、関東地方からの移民も行われました。また蝦夷の人たちのうち、朝廷に服属した人たちを「俘囚(ふしゅう」と呼びますが、東北地方に留まり特産物などを貢いだりする集団もあれば、強制的に他地方に移住させられる場合もありました。俘囚のリーダーには朝廷の官位が与えられ、東北地方の支配に協力させるようにしました。また付属の寺院が建てられ、蝦夷に対しても仏教の布教が行われました。同化政策を行おうとしたのでしょう。

多賀城に付属していた観音寺(通称「多賀城廃寺」)模型、東北歴史博物館にて展示

多賀城の建設は、8世紀前半に起きた蝦夷の反乱をきっかけに、陸奥国を再編する過程(岩城・岩背国の分離と再統合)で行われたと考えられます。724年(神亀元年)に按察使・大野東人(おおの の あずまひと)が築城したとされています。位置は、仙台平野と大崎平野の中間にある丘陵地帯が選ばれました。河川による交通の便も考慮されたようです。多賀城は、3つの領域から構成されていました。中心が政庁域で、約100m四方の築地によって区切られていました。その周りが実務を行う役所が立ち並ぶ曹司(そうじ)地域で、こちらも築地や塀で囲まれていました。その外側が国府域で、住居や工房などの都市空間が成立していました。名称は当初は「多賀柵(続日本紀)」でしたが、途中から「多賀城」に改名されています。「柵」も「城」とも同じ「き」と読めるので、字を変えただけかもしれませんが、機能の違いによって区別されていた可能性もあります。

大野東人肖像画、「前賢故実」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
多賀城の政庁と曹司地域を含む模型、国立歴史民俗博物館にて展示

多賀城~4つの時代

多賀城は、当初から国府と鎮守府を兼ねた拠点だったと考えられ、その後8〜11世紀の約300年間にわたって機能しました。その歴史は、大まかに4つの時代に区分できますが、中心にあった政庁の姿から追っていきたいと思います。第1期は、724年に大野東人によって創建されたときの姿です。奈良に都が遷された(710年)後のことです。正殿を中心に、主要建物は瓦葺きでしたが、柱は掘立式でした。大野東人は、陸奥按察使兼鎮守将軍に任命され、733年にできた出羽国・秋田城支援のために出撃し、連絡路を開きました。

第1期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

第2期は、762年(天平宝字6年)に藤原朝狩(ふじわら の あさかり)によって大修築がされたときです。彼の父親は、当時朝廷の実権を握っていた藤原仲麻呂で、朝狩は陸奥守に任じられたのです(いずれかのときに陸奥国按察使兼鎮守府将軍も兼任)。そして、北方に雄勝城・桃生城を完成させるなど功績を上げました。762年には兄弟とともに参議に昇進し、同じ年に多賀城を改修し、記念碑として多賀城碑を建てたのです。政庁の建物全て、瓦葺き・礎石式になり、付属建物も増築され、多賀城が最も豪華になった瞬間でした。しかし764年(天平宝字8年)に仲麻呂による反乱が発覚し、朝狩を含む一族は滅ぼされてしまうのです。そして、華やかな多賀城の建物群も、780年(宝亀11年)に起こった伊治 呰麻呂(これはり の あざまろ)の反乱により、灰燼に帰しました。呰麻呂は、俘囚のリーダーで朝廷から官位ももらっていました。蝦夷出身でない役人との仲違いが原因とされますが、背景には朝廷の東北経営に対する蝦夷の反発もあったのでしょう。

第2期の政庁模型、東北歴史博物館にて展示
第2期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

第3期は、焼き討ち後に再建された姿です。仮復旧を経て、基本的には以前の様式が引き継がれました。時代は、奈良時代から平安時代に移っていきます。桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷との対決姿勢を強めます。田村麻呂は蝦夷の征討を進め、鎮守府を多賀城から、現在の岩手県にあった胆沢城に移しました。蝦夷に対する前線が移ったということです。以後、多賀城は主に陸奥国府としての機能を果たしていくことになりました。城外に街並みが整備されたのはこの頃でした。しかし、今後は869年(貞観11年)に発生した貞観地震により被害を受けてしまうのです。東日本大震災とも比べられるような大地震でした(下記補足1)。

(補足1)5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・牆壁[† 2]などが数も知れず崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、原野も道路も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。(日本三代実録、wikipedia訳)

第3期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

地震後の政庁については、元の構成に復旧されるとともに、瓦の葺き替えが頻繁に行われた形跡があります(第4期)。他に、北方建物が追加されました。平安時代中頃になってくると、東北の中心地は平泉に移り、国司も現地に行かなくなったことで、古代多賀城は11世紀中頃に衰退したと考えられます。

第4期の政庁レイアウト、多賀城跡ガイダンス施設にて展示

しかし、ちょうどその頃、前九年の役で有名な武将・源頼義が陸奥国守として着任しています(1052年、永承7年)。その4年後に、彼が鎮守府(胆沢城)から国府(多賀城)に帰ったと記載された史料があります(「陸奥話記」、下記補足2)。その国府とは、この建物群のことだったのではないかと思ってしまいます。

(補足2)
任終わる年、府務を行わんが為に鎮守府に入る。数十日経廻する間、頼時首を傾けて給仕 し、駿馬、金寶の類、悉く幕下に献ず。兼ねて士卒に給わる。しかるに国府に帰る道、阿久利河の辺に、夜人有り、竊(せつ=ひそか)に語る。「権守藤原朝臣 説貞の子光貞、元貞等、野宿して人馬を殺傷せらる」と。将軍、光貞を召して、嫌疑人を問うに、答えて曰く、「頼時が長男貞任、先年光貞が妹を娉(へい)ら んと欲す。しかるにその家族、賤むるよりこれを許さず。貞任深く恥と為す。これを推すに貞任の為す所ならん。この外に他の仇は無し」と。

さて頼義の陸奥の守の任期も終わろうとしていた天喜4年(1056)の事。最後の仕事を片づけようと鎮守府に入り、数十日間過ぎる間も、安倍頼時は、頭を低くして、太守のお世話に務めて、駿馬や金の宝などを、この将軍に献上し、また兵士の者にまで気を遣うことを忘れなかった。いよいよ頼義が、国府のある多賀城に帰る道すがら、阿久利河(あくとがわ)の辺に野営をして一夜を明かそうとしていると、ひそかに頼義の許に現れて、このように進言する者がいた。「権の守様、藤原の朝臣説貞(ときさだ)様のお子光貞様、並びに元貞様、野宿にて、その人馬を殺傷されました」(現代語訳、陸奥デジタル文庫)

前九年合戦絵巻、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今も謎が残る多賀城碑

ところで第2期の多賀城の完成を記念した「多賀城碑」は、今も原位置と思われる場所に立ち、2024年(令和6年)には国宝に指定されました。碑文には、多賀城の位置と、724年に創建され、762年に藤原朝狩によって修造されたことが記されています(下記補足3)。ここの遺跡が多賀城だったことを示す決定的証拠となる重要な石碑なのですが(他にも発掘された木簡などによって国府・鎮守府だったことが推定できる)、ずっとここにあったわけではなく、一旦失われ、江戸時代になって発見・再設置されたために(万治・寛文の頃か)、謎と議論を呼んだのです。

(補足3:碑文)
西
多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

多賀城碑レプリカ、東北歴史博物館にて展示

古来、「つぼのいしぶみ(壺の碑)」という石碑が東北地方にあるという伝説があって、和歌の歌枕にもなって「遠くにあること」「どこにあるのかわからない」というテーマとして使われてきました。例えば、源頼朝が詠んだ歌に「みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬかき尽してよ壺のいしぶみ」(新古今和歌集)というものがあります。江戸時代前期に多賀城碑が発見されたとき、多くの人はこれが「つぼのいしぶみ」だと思ったのです。1689年(元禄2年)この碑を訪れた松尾芭蕉は「つぼの石ぶみ」に出会った感動を「おくのほそ道」に記しています(下記補足3)。徳川光圀は「大日本史」編纂の関連で家臣を派遣して碑を調査し、当時の領主だった伊達綱村に、覆屋で保護することを勧めています。覆屋はその後、仙台藩によって建てられたようです。

(補足3)壺碑 市川村多賀城に有。つぼの石ぶみは、高さ六尺餘、幅三尺計欤(か)、苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。(略)むかしよりよみ置る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。(おくのほそ道)

覆堂に囲われている現在の多賀城碑

伝説的な石碑かどうかはともかく、多賀城にとって決定的なのは、主に近代になって、この石碑が本物か偽物か論争が起こったことです。偽物となった場合、この遺跡が多賀城であるという最有力の証拠が失われてしまうからです。

(本物とする根拠)
・文字は、飛鳥・奈良・平安時代に用いられた六朝的書風である。(教養ある政府関係者が原典の文字を使って書いたのではないか)
・文字を刻む際に使われた方眼は、天平尺(奈良時代のもの)を使って作られている。
・各地点への距離は、それぞれ違う基準を使って記された可能性がある。
・碑は朝狩を顕彰するために建てられたので、わざと彼の官位を、創建者の大野東人と同等にして記した。
・碑の地下部分を発掘した結果、古代に据え付けた跡が発見された。また人為的とみられる削平により倒されたと考えられる。

(偽物とする根拠)
・文字に統一性がなく、多くのモデル、典拠から集められている。(それを写し取って石に貼り、偽造したのではないか)
・碑に記す常陸国、下野国への距離はほぼ同じはずなのに、倍半分のような距離が記されている。
・碑に「靺鞨國」とあるのは「渤海国」の誤りである。
・碑にある藤原朝狩の官位『從四位上」が史書(「続日本紀」など)にある從四位下と異なっている。
・古代に作られたにしては、碑面の損傷が少ない。

偽物だとする場合、江戸時代に仙台藩が偽造したという説があります。現在では、多賀城全体の発掘調査の結果と、碑の内容が一致しているため、本物説が有力になっています。なぜ碑が途中で倒されたということについても、藤原仲麻呂一族が碑の建設間もない頃に失脚したため、意図的に倒され、人目に触れないように隠されたということも考えられます。

「多賀国府」の時代

多賀城は、中世になっても「多賀国府(たがのこう)」として、度々記録に現れます。ただしその場所は、いまだにはっきりしていません。古代の多賀城跡にはその痕跡がなく、近くに移転していたかもしれません。1189年(文治5年)、その奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、その帰路、多賀国府に立ち寄り、現地の地頭たちを招集し、奥州統治の基本方針を示しました(「吾妻鏡」、下記補足4)。やはり、やはりそれなりのステイタスがあった場所だったのです。

(補足4)
文治五年(1189)十月大一日丁亥。多賀國府に於て、郡郷庄園所務の事、條々を 地頭等へ仰せ含め被る。就中に、國郡を費し土民を煩す 不可之由、御旨 再三に及ぶ。之に加へ一紙の張文於府廳に置被ると云々。其の状に云はく。庄号之威勢を以て、不當之道理を押しつける不可。國中の事に於て者、秀衡、泰衡之先例に任せ、其の沙汰を致す可し者り。

多賀城の陸奥国府で、郡や郷、荘園の管理の事を箇条書きにして地頭達に命令を出されました。中でも特に、国や郡の年貢を無駄遣いして、民百姓を困らせる事のないように、その旨を何度も伝えました。しかしそればかりでなく、一枚のお触書を国府に張り出されました。その紙面には、荘園の地頭の名を使って、でたらめな理屈を押し付けてはいけない。陸奥の国内の支配の仕方は、藤原秀衡や泰衡の時代の先例の通りに、指示するようにおっしゃられております。
(現代語訳、鎌倉歴史散策 吾妻鏡入門)

伝・源頼朝肖像画、神護寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして特筆すべきは、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、建武の新政の下、北畠顕家を陸奥守として、多賀国府に派遣したことです。顕家は、後醍醐天皇の側近の貴族・北畠親房の長男で、わずか14歳(当時最年少記録)で参議になっていました。1333年(元弘3年)16歳のとき、わずか6歳の義良(のりよし)親王を報じて、国府に赴きました。当初は、東北地方の統治と旧幕府方(北条氏)の鎮圧が目的でした。この組織は、天皇から東北地方の政治・軍事の広範な権限を与えられていたので「陸奥将軍府」「奥州小幕府」などと称されています。時代環境はちがえど、大化の改新以来の古代多賀城が復活したようです。残念ながらこれも詳細な場所は特定されず、古代政庁跡付近に「後村上天皇(義良親王が後に即位)御坐之處」の石碑が立っています。

「後村上天皇御坐之處」の碑

陸奥下向には、北畠親房も同行したのですが、顕家は旧幕府残党を一掃する武功を上げます。1335年(建武2年)、今度は足利尊氏が天皇に反旗を翻し、顕家は鎮守府将軍を兼ね、尊氏を追討することになるのです。東北の諸将を率いた顕家は、破竹の進撃で足利軍を破り、尊氏を九州に追いやりました。そのときが彼の絶頂のときであったでしょう。

北畠顕家肖像画、霊山神社蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、尊氏は東北に布石を打っていて、多賀国府が危ない状況になっていました。
そこで翌年、顕家は権中納言・鎮守府大将軍となって、義良親王(陸奥太守、顕家は陸奥大介)とともに再び陸奥に下向します。1337年(建武4年)ついに顕家は国府を、要害堅固な霊山に移しました。これ多賀国府の最後のときとされます。北朝の天皇を掲げて再起した尊氏と戦うため、顕家は再度上方へ出撃し、21歳の若さで討たれてしまうのですが、多賀城は、顕家とともに最後の輝きを放ったのではないでしょうか。

霊山城(国府)の想像図、現地説明パネルより

「多賀城 その2」に続きます。

8.仙台城 その1

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものもなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

立地と歴史

Introduction

最初に仙台城に行った時には、仙台駅からバスに乗って、青葉山に登り、伊達政宗の像を見たり、景色も楽しみました。ただ、天守跡のようなものはなかったし、あれがお城だったのかと正直思いました。しかし、城っぽくないところは、政宗の深謀遠慮によるもので、実際は要害堅固で、現在までの仙台の礎となる城だったのです。今回は私なりに、伊達政宗のことや、仙台城の歴史を調べてみたので、ご紹介します。

伊達政宗騎馬像

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

最後の戦国大名・伊達政宗

政宗は、東北の戦国大名・伊達輝宗の嫡男として、1567年(永禄10年)に生まれました。その当時、他の有名な戦国大名(織田・豊臣・徳川など)は既に活躍していたので、「最後の戦国大名」「遅れてきた戦国大名」と言われています。生まれた時期がハンディキャップになっていたのです。政宗といえば「独眼竜」ですが、下の肖像画ではそうなっていません。これは、政宗の遺言によるものです。ただ本人は「独眼竜」を前向きにも意識していたらしく、中国で「独眼竜」と称された名将、李克用にあやかって、黒い甲冑を身に着けたと言われています。同じ境遇の元祖「独眼竜」になぞらえようとしていたのでしょう。

伊達政宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗所用具足(複製)、仙台市博物館蔵

1584年(天正12年)、政宗は18歳で家督を継ぎますが、東北地方南部は、大名や領主たちがひしめいていました。彼らは、お互いが親戚でもあったので、戦いが始まっても、他の大名が仲裁に入って均衡が保たれたのです。それ自体はいいことですが、統一は進みません。そんな中、血気盛んな政宗は、大内氏の小手森城を攻め、城内の人たちをなで斬りにし、周辺の大名たちを震撼させました(下記補足1)。しかしその反発も大きく、畠山氏は伊達氏に降伏するとみせかけて、政宗の父、照宗を拉致し、政宗は父親もろとも打ち倒すことになってしまったのです。一方、政宗は家臣たちにはかなり気を使っていて(下記補足2)、敵だった武将も役に立つなら受け入れる度量もあったので、家中の結束は固くなりました。

(補足1)これだけの戦果を得たからには、須賀川(二階堂氏本拠)まで出陣し関東までもたやすく手に入るでしょう。(天正13年8月27日付最上義光宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足2)あなたのことは、弓矢八万・摩利支尊天・愛宕山にかけて、特別だと思っている。この手紙は燃やしてくれ。もしここに書いたことが世間に広まったなら皆が怖れを抱くかもしれない。(天正13年閏8月29日 白石宗実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

伊達輝宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1589年(天正17年)、それまでに田村氏などを従属させていた政宗に、大チャンスがめぐってきます。蘆名氏の重臣、猪苗代氏が主君に反旗を翻したのです。主君の蘆名義広は、猪苗代氏を討とうとして出撃、政宗は猪苗代氏とともに決戦に及んだのです(摺上原の戦い)。結果は大勝、義広は逃亡して、政宗はそれまでいた米沢城から、蘆名氏の本拠地・黒川城に入城しました。他の大名も従えて、南奥州をほぼ統一したのです。

伊達照宗の所領の推移、青枠内が南奥州統一時点(仙台市博物館展示)

政宗はさらに関東に進撃するつもりでしたが(下記補足3)、この行為は天下統一を進める豊臣秀吉の怒りを買ったのです。そして翌年、小田原の北条氏を攻めるのに、秀吉は各大名に参陣を求めました。政宗は迷いましたが、意外と早く、合戦前に参陣を決めています。

(補足3)「鬱々トシテ久ク居玉フヘキ所ニアラス」(「治家記録」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、その矢先、大事件が起こります。自分の母親(義姫)に、毒を盛られたというのです。これは有名な事件で、政宗の代わりに弟を立てるためだったとされます。そして政宗は、泣く泣く弟を成敗したというものです。これは、政宗自身が語っていることなので(下記補足4)、事実とされてきましたが、なんと母親とはその後も親密な関係が続いています。また、弟らしい僧がいたという記録(大悲願寺・法印秀雄が「政宗舎弟」)が注目されています。そのため、政宗と母親が芝居を打って、家中の分裂を防ぐために、弟を逃がしたという説があるのです(佐藤憲一氏)。もしそうであれば、大変な役者ぶりですが、どちらを信じていいかわかりません。私たちが政宗に試されているような気もします。

(補足4)政宗に誤りがないのに、一命を奪われそうになった。 いろいろ考えたが   実の親を殺すことはできないので、何の罪もない弟を殺した。(政宗消息、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

ところで、結局小田原行きが遅れて、白装束(死装束)で秀吉と対面した逸話もあります。一回出発したが、北条領国を通れず、引き返して、北陸方面に迂回したので時間がかかったのです。結構単純な理由だったのです。領土についても、蘆名から奪った分(会津地方)は召上げという事前交渉が済んでいました。ただ、本番は何が起こるかわからないので、相当緊張したようです。無事に終わった心境を語った手紙が残っています(下記補足5)。実際には白装束だったという記録はないのですが(、「治家記録」によれば髪を一束に結って謁見、首を刎ねられやすくする武士の姿とされる)、別のエピソードがあります(「伊達日記」)。主君に仕えたことがない政宗が、秀吉の近くに呼ばれたとき、刀(脇差)を持っていることに気づき、慌てて他の人に投げ渡したのです。それはそれできわどい場面でした。いずれにしろ、政宗の戦国大名としての夢は終わったのです(下記補足6)。

(補足5)諸々首尾よく終わった。関白様が直々にいろいろ親しくしてくれたので、言葉がない。とてもこれほど御懇切とは(成実には)想像できないだろう。明明後日には    帰国を許してくれるようだ。奥州五十四郡も大方は調いそうである。皆々の御満足を察すばかりだ。この書状の 写を皆々へ送ってくれ。(天正18年6月9日付伊達成実宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足6)「秀吉公にはやく箱根をこされ、小田原落城このかたハ、吹風に草木なびくごとく、東西南北一同に治り、一度天下にはたをあげずしてくちおしき次第なり」(「木村宇右衛門覚書」)

現在の小田原城

仙台城築城へ

小田原合戦後、秀吉は奥州仕置により、政宗や改易大名から取り上げた土地に、配下の大名を入れました(蒲生氏郷、木村吉清など)。彼らには、政宗たちを監視する役割もありました。また、よそから来て厳しい検地を行ったので、大崎・葛西一揆を招き、政宗にも大きな影響を与えました。一揆を裏で扇動していると疑われたのです。そして弁明のために、上洛しなければならなくなりました。このとき、十字架をかついだとか、本物のサインには穴が開いているとか言った逸話がありますが、どちらも本当の話ではないようです。秀吉からは歓待される代わりに、一揆の拠点を含む領地へ移動させられました。飴とムチということです。もう一つの危機は、関白秀次が謀反を疑われ、切腹したときで、秀次と親密だった政宗も疑われました。戦よりも大変だったことでしょう。大量の処分者が出る中。政宗は弁明に努め、徳川家康のとりなしもあって、無事に済んだのです。

政宗に替って会津に入った蒲生氏郷の肖像画、会津若松市立会津図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀次肖像画、瑞泉寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

移動後の政宗の領土には、元いた米沢城も、伊達の発祥地(伊達郡)も入っていませんでした。会津の若松城に入った、上杉景勝の領地になっていたのです。政宗は、豊臣大名たちがお膳立てした、岩出山城に入っていました。ところが、秀吉が亡くなると、政宗に再び大チャンスが訪れます。徳川家康の登場です。政宗は家康に接近し、娘の五郎八姫を、家康の子・忠輝に嫁がせました。戦国大名らしい処し方です。やがて、会津征伐が起こると、さっそく景勝の領土に攻め入り、白石城がある地域(苅田郡)を占領しました。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の白石城

そして関ヶ原の前、家康の味方になる条件として、重要な約束を獲得するのです。景勝の領土のうち、49万石分が手に入るというものでした。その中には、米沢や伊達発祥の地も含まれていました。政宗としては、張り切らざるを得ません(下記補足7)。伊達のそのときの領土と併せて「百万石のお墨付き」と言われています(下記補足8)。しかし、最上の応援や、関ヶ原が1日で決着したことで、それ以上の占領はできなかったのでした。政宗も、それが実力次第とわかっていたと思いますが、関ヶ原後も領土の拡大を、政治的に実現すべく活動するのです。その「100万石」の領土が実現したときのために築いたのが、仙台城だったのです。

(補足7)そのうち 必ず世の中がおもしろくなる(慶長5年8月上旬頃 伊達政景宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足8)覚
 一苅田 一伊達 一信夫 一二本松 一塩松 一田村 一長井
 右七ヶ所御本領のことに候間、御家老衆中へ 宛行わるべきため、これを進せ候。
 仍って件の如し。 
  慶長五年八月廿二日 家康(花押)
  大崎少将(政宗)殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵

「百万石」の城

もう一回政宗の領地の範囲を見ていただくと(下記所領図)北側のエンジとピンクの部分が関ケ原の戦い前の所領です。以前所領だった黄色の部分と緑の部分のうちの一部が「百万石のお墨付き」の分になります。仙台は、政宗がほしがった領地の中心くらいに位置します。政宗はそういうことを考えて新城の場所を決めたと思うのです。それに、昔の国府が近くにあり、街道も通っていて、仙台平野に面し、海にも近く、交通や産業を発展させられる場所だったのです。「百万石」の都に相応しい場所です。

伊達照宗の所領の推移(仙台市博物館展示)

政宗は、関ヶ原と同じ年に、家康の許可を取って、以前千代城いう山城があった青葉山に築城を始めました。この時期に、山に本拠地としての城を築くのは珍しいことでした。政宗は、まだ事が起こると考え、要害堅固な場所を選んだのだと思います。こういうところも戦国武将らしいです。特に本丸のあるところは、東は広瀬川と断崖、南は峡谷、西は山林に囲まれて、:大手口のある北側も、門や石垣を組み合わせて厳重に守られていました。城は2年ほどで一旦完成し、中国の古典から「仙人が住む高台」いう意味の「仙台」と名付けられたと言われています。きっと、永遠に栄えてほしいという願いがあったのでしょう。政宗の屋敷は、山麓にあって、そこから山上の城に通勤していたそうです。そこも、体力がある戦国大名らしいです。

仙台城模型。南側からの視点(仙台市博物館にて展示)

「城っぽくない」ことに通じるかもしれませんが、本丸には家康をはばかって天守は建てませんでした(下記補足9)。天守は最初からなかったのです。しかs、当初は本丸に三重櫓が4つもありました。それから、本丸の中心には、豪華な大広間が建てられました。秀吉が建てた京都の聚楽第を手本にしたと言われていて、儀式や対面に使われました。政宗が座った「上段の間」のほか、、天皇や将軍を迎える「上々段の間」までありました。ここまで迎えるつもりだったのか、それとも自分が将軍になるつもりだったかのかと思ってしまいますが、建物の格式を示す意味があったようです。あと面白いのが、広瀬川に向かった崖に面して、懸け造りの建物がありました。仙台城を訪問したスペイン人が、その感想を書き残しています(下記補足10)。もしかしたら、懸け造りからの景色を楽しんだかもしれません。

(補足9)合戦が終わらない中で、なかなか普請しようと思ってもうまくできません。内府様(家康)が今のように栄えているので、居城などの普請は今さらいらないと思うので、一切していません。(慶長6年4月18日付 今井宗薫宛政宗書状、訳は「奥州の竜 伊達政宗」より)

(補足10)城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし(セバスティアン・ビスカイノ「金銀島探検報告」、訳は「奥州の竜 伊達政宗」などより)

仙台城本丸の想像図(青葉城本丸会館にて展示)
大広間模型(仙台城見聞館にて展示)
再現上々段の間、床の間部分(仙台城見聞館にて展示)
懸造がせり出した本丸崖部分の想像図(青葉城本丸会館にて展示)

その城の眼下には、現在の仙台市街地につながる城下町が建設されました。広瀬川には、城と城下町をつなぐ大橋がかけられたました。橋の擬宝珠には、政宗の名前で、仙台の繁栄を願う漢詩が刻まれます。橋から伸びる通りが、奥州街道と交わっていて「芭蕉の辻」と呼ばれました。ここには、人々が集まり、高札場や繁華街になっていました。現在の仙台につながっていったことがわかります。

仙台城模型のうち、手前が広瀬川にかかる大橋(仙台市博物館にて展示)
政宗名で漢詩が刻まれた擬宝珠(仙台市博物館にて展示)
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)

政宗と仙台城のその後

ところで、お墨付きの方はどうなったかというと、うまくいかなかったのです。政宗は、本多正信などの幕閣とコネを作り、上杉氏や相馬氏の、関ヶ原処分のときに働きかけたのですが、だめだったのです。極めつけは、最上氏の改易のときに、正信の子・正純に働きかけますが、なんと正純まで改易になってしまったのでした。ただ、政宗の長男(庶子)・秀宗は宇和島藩主になっているので、幕府は、借りは返したと思ったのではないのでしょうか。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それと、疑われるのは相変わらずで、一揆の扇動(和賀・岩崎一揆)や、謀反の噂には事欠かなかったのです。謀反の噂は、婿の松平忠輝からの讒言が元ネタだったのですが、その度に弁明に走り、かえって将軍家との絆を深めていきます。その辺は海千山千でしたし、将軍としても、もっとも敵に回したくない大名ということだったのでしょう。

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それから、晩年の業績としては、慶長の遣欧使節がありますし、隠居用の屋敷にしては強力そうな、若林城の築城もありました。なにをやっても目立ってしまうのです。地道な方では、寺社の再建や、江戸城普請も行っています。その普請の最中、1636年(寛永13年)、70歳で江戸で亡くなりました。

復元された遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ」号(4分の1スケール)、宮城県慶長使節船ミュージアムにて展示
若林城跡
政宗が再興した陸奥国分寺

仙台城の方ですが、政宗の跡継ぎ・忠宗は、政務の場所として山麓に二の丸御殿を築きました。山の上への通勤が、大変だったということもありますが、ワンマン経営だった政宗時代から、藩の組織を整備したという意味もありました。政宗・忠宗2代で幕府との良好な関係が確立し、次の時代に起こる藩内抗争「伊達騒動」を乗り切れたという評価もあるのです。政宗の後で目立たちませんが、隠れた功労者だっだのです。

伊達忠宗肖像画、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
二の丸の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本丸は、儀式のための場所になって、度重なる地震により、三重櫓は崩れて再建されませんでしたが、石垣は修復されて、大広間とともに幕末まで残りました。戊辰戦争でも戦場になることはありませんでした。

本丸北壁の石垣

明治維新後、仙台城には陸軍が置かれましたが、大広間などが解体され、二の丸御殿も火災で焼失してしまいます。そして戦前まで残っていた大手門なども空襲で焼失してしまったため、現在ではお城の建物はほとんど残っていません。それで政宗像がシンボルになっているのでしょう。現在でも地震はあるので、石垣だけでも維持するのが大変なのですが、城の建物としては、1967年に大手門脇櫓が再建されました。今後は、大手門そのものが復元される計画があるそうです。

大手門の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊達政宗騎馬像
再建された大手門脇櫓

「仙台城 その2」に続きます。

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