41.駿府城 その1

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。

立地と歴史(家康が3回住んだ城)

イントロダクション

今回は、現在の静岡市にある、駿府城をご紹介します。大御所・徳川家康の城、それから竹千代だった子ども時代にも人質で過ごしていた場所としても知られています。実は家康はあと一回、豊臣秀吉の配下になったときにも、駿府城に住んでいたのです。つまり3回住んだ城ということです。一回目のときは今川氏の城で、二回目に家康自身の城になったのですが、このときまでの城の姿は謎に満ちているのです。それに大御所時代に築かれた巨大な天守は、短期間で燃えてしまい、日本最大と言われる天守台も明治期に壊されてしまいました。しかし近年発掘調査が行われ、明らかになりつつあります。この記事では、家康が住んでいた3つの時代毎に、駿府城の歴史と謎をご説明したいと思います。家康後の歴史もあります。

駿府城になる徳川家康銅像

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

竹千代がいた今川氏の城

室町時代に駿河国守護だった今川氏が、いつ本拠地を駿府に置いたのかははっきりしません。しかし四代目の範政が、将軍・足利義教を「府中」に迎えているので、これ以降本拠であったことは確実です。駿府は、南を駿河湾、残り三方を山に囲まれていて、鎌倉のような地形になっています。要所には支城が築かれて、防御を固めていました。しかし、本拠にあった今川館(いまがわやかた)は、堀や土塁に囲まれてはいるものの、京都の公方亭のような華やかな建物だったと考えられています。今川氏の全盛期には、駿府は日本有数の平和で繁栄した街だったからです。

駿河国の範囲と駿府城の位置

城周辺の起伏地図

将軍亭「花の御所」、上杉本陶版「洛中洛外圖」より(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その今川館があった場所ははっきりとはわかっていません。現在残る本丸辺りだろうとも思えますが、城は後世かなり改変されてしまっているからです。発掘調査で発見された遺構や、文献資料などから、本丸・二の丸の範囲にあったことは確実なのですが、もっと絞れば、二の丸坤櫓辺りだろうとする意見があります。この辺が城内では標高が高く、富士山を望むような建物の配置になっていたと推定されるからです。この近くには、室町時代以来と思われる「四足御門」という名前の門が江戸時代までありました。

今川館の推定範囲(緑の線内)、駿府城東御門内にて展示

1549年(天文18年)、11代当主・今川義元の下、全盛期だった駿府城に、8歳の竹千代こと家康が、松平氏の人質としてやってきました。これまでこの「人質」時代は、家康の一生のなかで忍耐のときと捉えられてきましたが、実際には制限はあっても充実した生活を送っていたようです。有名な安倍川の石合戦のエピソードのほか、この頃から鷹狩りをしていました。そして今川氏からも配下の中で優遇され、元服後に義元から一字をもらって「元康」と名乗り、妻も義元の姪と言われる築山殿でした。更に「軍師」である太原雪斎から直接教育を受けました。家康は、今川氏の重臣となるよう期待されていたのでしょう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いの前には、今川氏の拠点、大高城に兵糧を運び入れる働きをしました。ところが、大将の義元が織田信長に討ち取られてしまったのです。家康はこれをきっかけに独立大名となります。

復元された「竹千代手習いの間」、駿府城巽櫓内にて展示

義元を失った今川氏は、凋落の道を辿ります。北は武田信玄、西は家康から圧迫を受け、1568年(永禄11年)ついに信玄は駿河侵攻を開始しました。後継ぎの今川氏真はそれに対峙しようとしますが、重臣の離反が相次ぎ、一戦も交えずに、西の掛川城に退去しました。駿府には武田軍が攻め込み、当時の駿府城・今川館も炎上しました。一つの時代が終わったことを象徴する出来事でした。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

豊臣大名・家康の城

織田信長が本能寺の変で倒れた後、家康は5か国を領有する大大名になっていました。当時の本拠地は浜松城でした。1584年(天正12年)には、天下人となる羽柴秀吉に小牧・長久手の戦いで対峙しました。その翌年(1585年、天正13年)、家康は駿府に本拠地を移しました。これは拡大した領国範囲に対応したものと言えますが、秀吉との再度の戦いに備えたものとも考えられます。その範囲は現在の本丸・二の丸程度でした。家臣の松平家忠の日記には、その築城過程が記録されています。築城は天正13年7月に始まり、翌年12月に家康が入城しました(下記補足1)。このときの城の姿は、それまでの浜松城などと同様、土造りの城であったと想定されています。家康は、本格的な石垣を築く技術や職人集団を持っていなかったのです。1587年、天正15年2月に城は一旦完成しました(「家忠日記」「当代記」)。

駿府城の航空写真(国土地理院)、二の丸ライン(赤線)を付加
家康時代の浜松城の想像図、現地説明パネルより

(補足1)「駿河府中普請」のため、家忠が出張(「家忠日記」天正十三年八月十四日付)「御かまへ二のくるわ堀(二の丸の堀)普請候」(同天正十五年二月五日付)「殿様今日駿へ御座候由候」(同天正十五年十二月四日付)

家忠日記(複製)、駿府城東御門内に展示

ところが、それと同時に新たな工事の準備が始まりました。石垣の工事でした(下記補足2)。その直前、1586年、天正14年10月、家康が上洛し秀吉に臣従していました。それを境に始まったのです。「石垣の城」を築かなかった家康に、豊臣政権が関与したことが記録上からも伺えます(下記補足3)。更には、「てんしゅ(天守)の材木を準備したという記録も見られます(下記補足4)。しかし記録からでは、石垣や天守の規模はわかりません。

(補足2)「城普請出来候、石とり候(「家忠日記」天正十七年二月付)」「来一日より駿河御城御普請候由、酒左衛門督(酒井忠次)より申来候」(同天正十五年九月十七日付)
(補足3)「てんしゅの才木てつたい普請あたり候」(「家忠日記」天正十六年五月十二日付)
(補足4)「駿河府中の石垣の普請あり、去る去る年より、事始めあると雖も、上方不快の間、指て事行ず。いま、秀吉公入魂せしめたまい、普請宜々、出来の間、浜松より北の方をも引越し給う。」(「当代記」天正十五年丁亥二月付)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

2016年、大御所時代の天守台の発掘調査が行われましたが、その下から天正時代の当時としては巨大な天守台と、大量の廃棄された金箔瓦が発見されました。天守台の大きさは秀吉の大坂城をもしのぎ、天下人クラスのものでした。そのため、当初は家康が築いたものとはされず、家康が関東に移った後駿府に来た、中村一氏のときに築かれたのではないかとされました。一氏は秀吉の家臣(当時は秀次家老)だったので、秀吉の肩入れで築かれたということです。関東周辺には、秀吉の家臣による総石垣・金箔瓦の天守がいくつも築かれ、家康包囲網ともいうべき城郭ネットワークが構成されました。駿府城もその一つと考えられたのです。見つかった金箔瓦は一か所に廃棄されていて、家康が再度城を築くときに意図的に壊されたとも言えるのです。

発掘された天正期の天守台
出土した金箔瓦、駿府城東御門内にて展示
中村一氏像、東京大学史料編纂所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところがまた事態は一変します。2019年に天守台に付随する小天守台が発見されたのです。これは家康家臣の記録の一つ「小傳主(小天守)を築く」と一致するということになったのです(下記補足5)。にわかにこの巨大天守は家康が築いたという可能性が出てきたのです。学者の中には、この時期に家康が独力で石垣・天守を築く能力を身に着けたと考える人もいます。しかし一方で、一連の石垣・天守工事は小田原合戦準備のため短期間で終わっていて、その間にこれだけのものを築けたのかという疑問もあります。また、家康が関東に移った当初の江戸城はとても質素で、豪華な石垣や天守は関ヶ原合戦の後と考えられているので、それとの整合性はどうなのでしょうか。それから見つかった金箔瓦は、織田系・豊臣系両方の特徴を示していて、独自性が感じられます。このことは家康築城説に有利なのかもしれません。発掘調査は2020年に終了しましたが、今後の研究成果が期待されます。

(補足5)「小傳主てつたい普請當候」(「家忠日記」天正十七年二月十一日付)

駿府城の金箔瓦(複製)、左側が豊臣系、右側が織田系の特徴をもつ、駿府城東御門内にて展示

天下人・大御所の城

関ヶ原合戦の勝利、征夷大将軍就任により天下人となった家康は、1605年(慶長10年)早くも将軍職を後継ぎの秀忠に譲りました。その隠居城となったのが駿府城です。馴染みのある地で余生を楽しむという感じも受けますが、実際には自由な立場で天下の政権運営を行うためでした。家康は将軍時代、ほとんど上方の伏見城にいたので、江戸との中間点で、両方目配せができる場所を選んだのでしょう。また、大坂城の豊臣方が西国大名とともに江戸を攻める場合、防衛線にもなりうる拠点でした。1607年(慶長12年)、天下普請により新たな築城が始まりました。その範囲は、現在の三の丸が追加される形と考えられますが、中身は大改修となりました。三の丸のラインが二の丸以内とずれているのは、城下から見て、富士山と天守が同時に視界に入る仕掛けと言われます。慶長12年中にほぼ完成していましたが、12月22日、本丸・天守が全焼してしまいました。これは奥女中の火の不始末が原因とされますが、火事は度々起きていて、豊臣方の策謀ではないかという説もあります。再建工事が直ちに開始され、翌1608年、慶長13年8月14日に家康が入城しています。

駿府城の航空写真(国土地理院)、三の丸ライン(緑線)を付加
石垣工事のジオラマ、駿府城東御門内にて展示

城の中で際立つのは、まず天守台です。2016年からの発掘調査の結果、一番下の部分(基底部)で東西約63m、南北約69m、という日本最大規模であったことがわかりました。残っている記録(陸軍実測図)によると、最も高い部分(天端)でも東西約48m、南北約50mで、最盛期の江戸城・大坂城をしのぐものでした。また、天守は天守台一杯に築かれたのではなく、周りを櫓と渡櫓が囲み、中心部に天守が立つという珍しいスタイルでした(環立式)。天守の建物は6重7階で、高さは約33mありました。屋根には貴重な銅瓦(+金属瓦)が用いられていました(家康時代の江戸城も銅瓦を使用)。ただしどんな外観だったかは、詳細な設計図がなく、短期間で焼失したため(1610年完成、1635年焼失)、よくわかっていません。いくつか絵図が残されていますが、異なった描き方をされています。今後の研究の進展が待たれます。

発掘された慶長期の天守台
天守台模型、駿府城東御門内にて展示
駿府城天守の模型、発掘情報館「きゃっしる」にて展示

城全体ですが、平城であっても三重の堀で囲まれ、戦いに備えていました。西側の方が標高が高く攻められやすいため、防御が厳重でした。三の丸西側には門がなく、二の丸西側の清水御門は上げ下ろしができる跳ね橋だったようです。坤櫓のような櫓も厳重に守りを固めていました。他の方角にある門も、大鉄砲等も破壊されにくい、内枡形構造となっていました。そのうちの一つ、東御門が現在復元されています。その他、城内を仕切るための仕切石垣も採用されていました。駿府城独特のものとしては、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路が作られ、堀の水位を保てるようになっていました。また、天守台には、全国的に珍しい井戸が設けられ、籠城にも備えていました。

駿府城模型、駿府城東御門内にて展示
復元された坤櫓
復元された東御門
二の丸水路

一方で大御所・家康がいた駿府城は、日本の政治の中心地の一つになりました。家康が生活し、政務を執ったのは本丸御殿です。本田正純などが側近として仕え、江戸の秀忠と分担して二元政治を行っていました。そのうち軍事・外交に関しては家康が取り仕切っていたため、駿府には、諸大名だけでなく、外国使節も訪れ、日本の首都機能の一翼を担うような都市になりました。1609年(慶長14年)からは、家康十男・頼宜が駿府城主になり、家康と一緒に過ごしました。1614年(慶長19年)、大坂の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件が起こり、家康が、弁明のために駿府城に来た片桐且元には面会せず、後から来た大蔵卿には面会することで、豊臣方の分断を図ったというエピソードは有名です。家康は、大坂冬・夏の陣とも駿府城から出陣し、豊臣氏を滅ぼした翌年(1616年、元和2年)に亡くなった場所も駿府城でした。

家康の洋時計(複製)、発掘情報館「きゃっしる」にて展示
徳川頼宜肖像画、和歌山県立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

徳川頼宜は、1619年(元和5年)に和歌山に移っていきました。その後、秀忠の三男・忠長が駿府城主になりますが(1624年、寛永元年)、兄の3代将軍・家光により改易されました(1632年、寛永9年)。以降は幕府直轄になり、城代が置かれました。城外には城を警備する加番も置かれました。幕府の「聖地」を守るお役目です。1634年(寛永11年)には家光の宿泊所として使われましたが、翌年の火災で天守・御殿・櫓などが全焼、天守は再建されませんでした。その後も地震などで度々被害があり、将軍の上洛もなくなったことで、本丸御殿などの規模は縮小していきました。

加番の一つ、三加番の屋敷跡

そして幕末の動乱を迎えたとき、駿府城は再び注目を浴びました。鳥羽・伏見の戦いの後、新政府の東征軍が組織され、江戸に向かって行軍してきたのです。そのときは江戸の「最後の将軍」徳川慶喜は恭順の方針であり、名古屋城を擁する尾張藩も新政府に付いていました。最期の駿府城代・本多正納(まさもり)は城を開け渡ざるをえませんでした。1868年、慶応4年3月、新政府の拠点となった駿府に、慶喜・勝海舟の使者として山岡鉄舟がやってきました。彼は、新政府参謀の西郷隆盛と面会し、江戸開城の条件交渉を行いました。それが有名な勝・西郷会見につながったのです。江戸開城が成ると、慶喜を継いだ徳川家達(いえさと)が駿府藩主として駿府城に入城しました。家康の子孫がまた戻ってきたのです(廃藩置県後は東京に移住)。慶喜も水戸謹慎後は、駿府改め静岡に移住し、1897年(明治30年)まで暮らしました。

西郷・山岡会見の史跡碑
明治初期の徳川家達

明治時代になると、城は陸軍が管轄していましたが、建物は売却され、城内は荒れ果てていきました。三の丸の部分は市街地化しました。1889年(明治22年)になってようやく「廃城」扱いになり静岡市に払下げされましたが、その使い道は陸軍の誘致でした。1896年(明治29年)にはついに天守台が崩され、本丸堀が埋められました。二の丸以内が歩兵第34連隊の敷地になったのです。戦後は都市公園「駿府公園」として再出発しますが、堀の埋め立てや石垣の破壊が続いていました。1975年(昭和50年)から発掘調査が行われ、それから史跡として注目されるようになります。その到達点として、1996年(平成8年)東御門・巽櫓復元、2014年(平成26年)の坤櫓の復元があります。公園の名前も2012年(平成24年)に「駿府城公園」に変更されています。

駿府城の復元された巽櫓

「駿府城 その2」に続きます。

98.今帰仁城 その1

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

Introduction

今回からまた沖縄シリーズの始まりです。最大級のグスクの一つ、今帰仁城(なきじんじょう)をご紹介します。以前、琉球王国につながる浦添城や、琉球統一を果たした尚巴志のことをご紹介しましたが、今帰仁城は、そのころ並び立っていた北山王国の本拠地だったのです。北山王国は、浦添城の中山王国や、南山王国とともに、貿易によって栄えたのですが、尚巴志によって滅ぼされてしまったために、その歴史ははっきりとはわからないのです。今回は、今帰仁城について、定説とされるもの以外にも、情報を集めましたので、その歴史ストーリーを考えてみたいと思います。

今帰仁城跡

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史

三山時代と北山王国

グスクが築かれる前、沖縄の多くの人たちは、漁労・狩猟・採集を中心とした生活を送っていたと考えられています。沖縄の時代区分では「貝塚時代」と呼ばれています。日本本土では、この地域から輸入した貝製品や、貝を加工した螺鈿細工が重宝されました。

螺鈿細工を使った中尊寺金色堂の柱、東北歴史博物館にて展示

11世紀ころからは、貿易の恩恵が沖縄全体に及んできました。中国との貿易もさかんになり、高価な中国製陶磁器が輸入される一方、沖縄からは夜光貝や硫黄が輸出されました。その結果「按司(あじ」)」と呼ばれるたくさんの有力領主たちが現れ、グスクを築きます。琉球王国が成立するまでの時代は「グスク時代」と呼ばれています。

14世紀になると、沖縄本島では有力な按司のもと、3つの王国が成立しました。今帰仁城を本拠地とした北山王国、浦添城の中山王国、島添大里城の南山王国です。王国の本拠地になった大型グスクの建設も、その動きに沿ったものと考えられます。

グスクの位置

浦添城跡
島添大里城跡

同じ頃、中国では明が建国されました。創立者の洪武帝は、反対勢力や倭寇を取り締まるために「海禁」政策(私的な海外貿易や海外渡航の禁止)を実行しました。また、漢民族が再建した王朝の正当性(以前の「元」は異民族国家)を示すため、日本を含む周りの国々に、宗主国(明)への朝貢を求めたのです(招撫使)。1372年には中山王国に使節が送られました。当時の王、察度は直ちにその弟を進貢使として明に派遣しています。続いて、南山王や北山王も明への朝貢を始めました。この時代はグスク時代の中でも、特に「三山時代」と呼ばれています。

洪武帝肖像画、国立故宮博物院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここから北山王国と今帰仁城を、外部の記録から追ってみます。中国の史書(「明実録」)によると、北山王は1383年から1415年の間に、19回明と交易を行っています。その間の王は、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3代です。公的な場では、馬や硫黄などを献上し、冠帯衣服や貨幣などを賜っていました。きっと、他の場所でも色々なものを交易していたのでしょう。ただ、中山王国と比べると、回数はだいぶ劣りますので、それが国力の差になっていったとも考えられます。

「進貢船図」、沖縄県立博物館・美術館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

次に、琉球国最古の現存地図を見てみます。真ん中には初期の首里城の姿が描かれていて、15世紀中ごろの状況と考えられています。この頃は、北山王国はなくなっているのですが、北(上)の方に、今帰仁城が「伊麻奇時利(いまきじり)城」として載っているのです。もう一つ注目は「雲見泊」として現在の運天港も記載されていることです。運天港は那覇港と並ぶ天然の良港だったのです。

「琉球國図」、沖縄県立博物館・美術館蔵

今までのストーリーは、いかがだったでしょうか。客観的なデータのおかげで、北山王国や今帰仁城の存在と繁栄が理解いただけたと思います。ただ、グスクの名前が今と全然ちがっていて、今でも漢字とその読み方が変わっているのが気になります。「新参者の統治」という意味の「いまきじり」が、「みやきせん」→「いまきじり」→「なきじん」と変化してきたと言われます。しかし他にも、最初から「みやきせん」と呼んでいたのではないかという説や、語源についても、魚が寄り付く場所という意味の「なきずみ」であるという説もあります。名前だけでも奥が深いものです。

今帰仁城の伝説と実態

次は外部からはわからない、王国とグスクの生い立ちを、沖縄内部の情報から探りましょう。地元の言い伝えや琉球王国の史書によると、はるか昔、天帝の子孫・天孫氏が首里城を築いてから、その流れをくむ者が、今帰仁城主になったとされています。これは、神話ということなのでしょう(前北山時代)。

次に出てくるのは、浦添城のときにもご紹介した源為朝で、なんと彼は運天港に上陸したというのです。ここにも為朝伝説があるのです。そして、その子が琉球王に、孫が今帰仁城主になったそうです。13世紀くらいのことになるでしょうか(中北山時代)。そしてその後、一つの王国が3つに分かれたというストーリーです(後北山時代)。

源為朝を描いた江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

続いて、今帰仁城の発掘成果をご紹介します。これまでに中心部の主郭などが発掘され、グスクには、4つの時代区分があることがわかりました。主郭の様子を時代順にご説明します。まず第1期です(13世紀末~14世紀前期)。時期は、先ほどの伝承では2番目の終わり頃でしょうか。発掘した結果では、その頃にグスクができたことになります。館は掘立柱で、防御のための柵で囲われていて、周りも本格的石垣ではなく、石積や版築による土塁でした。使っていた土器も、地元産が多かったとのことです。

第1期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第1期の出土土器(沖縄産)、現地説明パネルより

次が第2期です(14世紀中期)。時期は、三山時代に入った頃です。大発展した感じです。中にはグスクらしい礎石建ての正殿が建てられ、規模が大きくなって、周りに石垣も築かれました。中国産の陶磁器の使用も増えてきました。

第2期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
第2期出土の青磁環耳瓶(中国産、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして最盛期の第3期です(14世紀後半~15世紀前期)。北山王国が明と交易をおこなっていた時期と一致しています。規模も最大になったのですが、なによりも、出土した当時の交易品が、その繁栄を表しています。

第3期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
主郭で発掘された中国銭、今帰仁村歴史文化センターにて展示

特にびっくりするが、以下の出土品です。これら6つの中国産青磁碗は、土の中からそのまま出てきたのです。意図的に埋められていたようです。重要な祈りの儀式が行われたのかもしれません。

中国産青磁一括出土品、今帰仁村歴史文化センターにて展示

グスク全体の規模としても、このときまでに並行して拡張され、10の曲輪を持つとされる、沖縄屈指の大型グスクになったと考えられます。

今帰仁城模型、今帰仁村歴史文化センターにて展示

そして、優美な石垣も築かれたのです。本土の城と違って、当時はこの石垣の上を直接、兵士が走り回っていたそうです。塀とか櫓はなかったとのことです。

大隅(うーしみ)の石垣

王国と今帰仁城の生い立ちストーリー、いかがだったでしょうか。為朝伝説にも夢があっておもしろいのですが、発掘の成果などから考えると、やはり小さな按司が、貿易などで成長して、王国を築いたと思えます。現在のところ、この見解が定説になっています。

北山王国の滅亡

いよいよ、クライマックスです。実は北山王国滅亡のストーリーも、尚巴志の琉球統一のプロセスとともに、2つの説があるのです。定説の方からご説明します。こちらのプロセスは、琉球国史書のうち、新しい方の記載をもとにしています(「中山世譜」など)。古い史書の記載を、中国の記録などと照合し、改めているとのことです。こちらは、尚巴志が北山王国(1416年)、南山王国(1429年)の順に攻略しています。

定説での北山王・攀安知(はんあんち)は、武勇に優れていましたが、淫逆無道であったとされます。彼は、重臣の本部平原(もとぶていばら)とともに、中山王国を攻めることを計画します。北山配下の按司たちは、そのことを中山王・思昭に告げたのです。思昭の子・尚巴志が、按司たちと今帰仁城を攻めることになりました。尚巴志軍は優勢でしたが、堅固な城を攻めあぐね、計略を用います。重臣の本部平原を買収したのです。平原は、攀安知を城外で戦うように仕向け、城に火を放ちました。異変に気付いた攀安知は、平原を伝家の宝剣「千代金丸」で成敗しますが、時すでに遅し・・・。悲運を嘆き、グスクを守護する霊石を切りつけ、自害しようとしてもなぜか切れなかったので、宝剣を川に投げ捨て、別の刀で自害しました。これが定説による今帰仁落城のストーリーです。悪人は滅ぶべくして滅ぶ、みたいな筋書です。

グスクの守護岩があったといわれる御嶽・テンチジアマチジ

次は「異説」として、古い史書(「中山世鑑」)による統一プロセスをご紹介します。この説では、北山攻略をもって琉球統一(1422年)としていますが、事実としてその後も南山王国が明と交易をしています(1429年まで)。だから定説では修正されたのですが、この時期の南山は、尚巴志の傀儡だったという意見もあるのです。こちらも捨てたものではないように思います。それに城攻めの内容は、中国の史書とは関係ないのに、全然ニュアンスが違うのです。

異説では、北山王国が存在するうちに琉球統一が進んでいて、配下の按司も中山王国に服属していきました。劣勢となった攀安知は、一族郎党を集め、彼らを鼓舞し、中山と最後の決戦をすべく、城の防備を固めました(下記補足1)。それを周りの按司たちから聞いた尚巴志は、今帰仁城に大軍で攻め寄せます。しかし堅固な城は、いくら攻めてもなかなか落ちません。そこで尚巴志軍は一計を案じます。その地を知る按司が、夜裏側(グスクの南西側)から忍び寄り、グスクに火を放ったのです。それを合図に総攻撃が始まりました。最期を悟った攀安知は、尚巴志軍に突撃、ついには宝剣で切腹し、引き抜いた剣でグスクを守護するイベの岩を切り刻み、剣を川に投げました(下記補足2)。定説と比べると潔い最期と感じます。

(補足1)「今の人々の多くは心変わりして、我が方は小勢となったが、多数を恐れて一戦もせずに降参するのは、如何にも口惜しいことだ。そして、山北国をうち建てた祖先に恥をさらすことにもなる。さあ、中山の軍は攻め寄せて来るがよい。これを一蹴して手柄を見せようではないか。攻め寄せる中山軍がたとえ数万騎あろうと、これを打ち破ることは雑作もないことだ。もし命運尽きて、この戦に敗れることがあれば、そのときは潔く自害して、名を後世に残そうぞ。さあ者共、仕度をせよ。怖気づいて世の笑いものになるな」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

(補足2)「さあ、イベも、そしてイベにおわす神も供に冥土に旅立ちましょう」(山北王(攀安知)のことば、「訳注 中山世鑑」より)

城の裏側(南側)を守っていた志慶真門(しじまじょう)跡

その剣はその後、中山王に献上され、現在国宝になっています。2つのストーリー、いかがだったでしょうか。もちろん定説の重みは感じますが、どちらも沖縄の伝承がもとであれば、古い方が事実を伝えているかもしれないし、異説の方が真に迫っているようにも思えます。皆さんはどうお感じでしょうか。

宝剣「千代金丸(複製)」、今帰仁村歴史文化センターにて展示

その後

北山王国を滅ぼした尚巴志は、次男の尚忠を、北山監守として今帰仁城に置きました。尚忠は、尚巴志が亡くなると、琉球国王を継いだ人物です。今帰仁城は、琉球統一後も、重要な拠点であり続けたのです。この監守制度は、王統が第二尚氏になっても続き、第二監守時代と呼ばれています。一世から十四世まで続き、「山北今帰仁城監守来歴碑記」にその由来が刻まれています。

「山北今帰仁城監守来歴碑記」今帰仁村歴史文化センターにて保管

発掘調査による時代区分だと第4期に当たります。この時代にも監守の住居と思われる建物がありました。面白いのは、この時代のものとして、ベトナム製・タイ製の陶磁器や、本土の備前焼も出土していることです。

第4期主郭の鳥観図、現地説明パネルより
ベトナム製陶磁器
備前焼

ところが、第二監守五世・向克祉(しょうかくし)の時代に大事件が起こるのです。1609年、薩摩藩の島津氏による琉球侵攻があったのです。慶長14年3月7日、約3千名の薩摩軍は、80艘以上の船に乗り出航しました。7日に奄美大島に到着、まず奄美諸島を制圧します。ここは、琉球王国の支配下にありましたが、この侵攻をきっかけに薩摩藩の直轄地になりました。薩摩軍が次に向かったのが、運天港でした。3月25日のことです。そして薩摩軍が滞在した数日間のうちに、今帰仁城や城下が放火されたととれる記録があります(下記補足3)。更にその間に、北山監守の向克祉が謎の最期を遂げるのです。29日、薩摩軍は浦添、那覇方面に向かいました。今帰仁城は廃城になり、北山監守は城下、そして首里に移っていきました。

(補足3)今きじんの城は無人であるらしい。不意に掃討を開始し、方々へ放火などした。(「琉球渡海日々記」、現代語訳は「広報なきじん」より)

現在の運天港
主郭にある火神の祠

グスク跡には火神(ひのかん)の祠が建てられ、祈りの場所になりました。ようやく静かな時を迎えたと言えるでしょう。監守の石碑が建てられたのもこの時代のことです。文化財として注目されるようになったのは、戦後のことでした。1972年には国の史跡に指定され、2000年には世界文化遺産に登録されました。並行して現存する石垣の修復、失われた石垣の復元など、史跡整備も進められました。それで私たちが今、すばらしいグスクを見学できるのです。

「今帰仁城 その2」に続きます。

73.広島城 その1

2026年3月22日に広島城天守が閉城になってしまうということです。最初、「城が閉城」かと勘違いしてどういうことかと思いましたが、天守建物の耐久性の問題で、その日以降、入館ができなくなるという意味でした。その閉城前に是非行ってみたいと思い、まず城の歴史を調べてみることにします。今の天守の建物がどうなってしまうのかも併せてチェックしました。

立地と歴史

Introduction

2026年3月22日に広島城天守が閉城になってしまうということです。最初、「城が閉城」かと勘違いしてどういうことかと思いましたが、天守建物の耐久性の問題で、その日以降、入館ができなくなるという意味でした。その閉城前に是非行ってみたいと思い、まず城の歴史を調べてみることにしました。今の天守の建物がどうなってしまうのかも併せてチェックしました。

広島城天守

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

毛利輝元による築城

戦国時代、有名な毛利元就によって、中国地方の覇者となった毛利氏は、天下人・豊臣秀吉の傘下に入り、大大名の地位を維持していました。その本拠地は、元就の孫・輝元の時代になっても、山城の吉田郡山城のままで、輝元もその改修を続けていました。

「郡山全図」、山口県文書館蔵、現地説明板より


1588年(天正16年)、その方針が覆される出来事が起こりました。輝元自身が初めて上洛し、秀吉に臣下の礼をとることになったのです。これは毛利家にとって一大決心で、その是非について異論もあったそうです。輝元本人も相当緊張し、秀吉を知る小早川隆景・吉川広家に伴われた旅でした。一行は、船200艘・総勢3千人に及びました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


ところが、畿内に入ると、秀吉配下の黒田官兵衛、弟の豊臣秀長などから、予想外の丁重なもてなしを受け、京都の聚楽第で秀吉に謁見後は、いきなり参議に任じられ、貴族身分になったのです(下記補足1)。一方、同じ時期に関東の北条氏も上洛しましたが、当主の氏政ではなく、弟の氏規でした。氏規は、自分だけ無位無官の姿で秀吉に謁見し、嘲りを受ける結果になりました。輝元の上洛は大成功に終わったのです。その中でも、秀吉の名代という立場の、後の小早川秀秋、豊臣秀俊(金吾)と対面する場面もあり、後の毛利氏の運命をも暗示するものでした。輝元は名所旧跡も訪ね、帰りには秀吉の案内で大坂城も見学しました(下記補足2)。これらの経験が、新たな城・新たな城下町建設の直接の動機になったと考えられます。

(補足1)上卿 勧修寺大納言
天正十六年七月二十五日 宣旨
 従四位下豊臣輝元
  宜しく参議に任ずべし
   蔵人頭左近衛権中将藤原慶親奉ず(「毛利家文書」)

(補足2)此の時天守を見せ参らせられ候。関白様が御案内なされ候。小女房達三人召連れられ候。此の内一人は御腰物を御持たせ候。(略)金の間、銀の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重なり。御供の衆にまで、悉く見せ候。(「輝元公上洛日記」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その新たな地として選ばれたのが、太田川下流域のデルタ地帯で、当時は「五ヶ村」と呼ばれていました。元就時代から干拓が進められていました。翌年(1589年)、輝元は現地に赴き、築城を開始したとされますが、帰国直後から指示を出していました(下記補足3)。その頃に「広島」の地名も初めて現れますが、輝元が名付けたとも言われています(下記補足4)。

(補足3)
「佐東御普請、改候ハゝ定而可被仰付候」
(天正16年12月18日 井原元尚宛二宮就辰書状、井原家文書145)

(補足4)
「佐東広嶋之堀普請申付候条、頓上国候て一廉馳走肝要候、不可有緩候、元清普請奉行ニ申付候条、可申談候也」(毛利輝元が井原元尚に、「佐東広島」の「堀普請」のため速やかに安芸に移動し、普請奉行の毛利(穂井田)元清と相談して工事を進めるよう命じている)
(天正17年7月17日 井原元尚宛毛利輝元書状、井原家文書85)

築城当時の推定海岸線(赤線)、OpenStreetMapに加筆

広島の地名の由来にはいくつか説があります。
・人名説:毛利氏の祖・大江広元の「広」+在地の領主・福島元長の「島」
・地形説:デルタ地帯で最も広い島に築城したため
・元来説:元々そういう地名があった
はっきりと確定することはできないかもしれませんが、築城時から当主がそう呼んでいたということです。

工事は段階的に進み、1591年(天正19年)輝元が入城し、本拠地として機能し始めました。ただ、毛利時代にどこまて城ができたかは、はっきりしていません。完成したのは、現在も残る、本丸と二の丸の範囲くらいだろうとも言われています。特に馬出しの形をした、特徴的な二の丸がこの当時からあったかどうかが議論になっています。(発掘の結果からは当時からあった可能性あり、当時の情報を使ったとされる絵図にはなし)あったとすれば、このレイアウトは聚楽第をお手本にしたとも考えられます。ただし、聚楽第自体、伝えられる絵図の通りか確証がないので、まとめて謎になっています。

城周辺の航空写真

『聚楽古城之図』に描かれた聚楽第(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

広島城のシンボル、五重の天守は毛利時代に建てられたことが確実です。但し、これも細かいことを言うと、初期(1592年頃)に建てられたか、それとも後期(1598年頃)なのか議論があります。初期説の根拠は、佐竹氏の部将(平塚瀧俊)が、この頃広島を通り「石垣や天守が見事である」と書き残していることです(下記補足5)。秀吉もほぼ同じ頃に広島城を訪れ、「御殿」に上がって「内外」を全て見て感心したそうです(下記補足6)。輝元に似合いであるとも評しています(下記補足7)。一方、天守の様式から、それより遅い時期の建築との意見もあります。その天守は、大坂城天守を模したとも言われ、金箔瓦・千鳥破風などの装飾がなされました。

(補足5)
ひろ嶋と申所にも城御座候、森(毛利)殿の御在城にて候、これも五・三年の新地に候由申し候えども、更に更に見事なる地にて候、城中の普請等は聚楽にも劣らさる由申し候、石垣・天守等見事なる事申すに及ばず候、町中はいまた半途にて候、
(「名護屋陣ヨリ書翰」)

(補足6)
御堀きハより一御門を御入候て、甲丸両所 御覧候て、城取之様躰、思召候より 御仰天候、左候て、御殿へ御あがり、内外共にことごとく御覧候て、御感斜ならず候、
(「安国寺恵瓊外二名起請文」毛利家文書1041号)
(補足7)
殊更広島普請作事様子被御覧候、見事ニ出来、輝元ニ似相たる模様、被感思召候
(毛利家文書875)

広島城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


大坂城と対照的なのは内装で、古写真によると非常に質素で、普段は倉庫として使われました。戦いになった場合は、最期の場になると考えられていたようで、厳重に守られていました。天守そのものに石落とし・狭間などがある他、天守の両側には小天守が2つ連結していて、そこからしか入れないようになっていました。

天守3階の古写真、広島城広報誌「しろうや!広島城 No.70」より引用
「安芸国広島城所絵図」に描かれた天守・南小天守(下)・東小天守(右)、出展:国立公文書館

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった輝元は、減封となり、広島城を去ることになりました。その後に安芸・備後の領主となった福島正則が広島城に入城しました。

実は重要、福島正則時代

正則は秀吉の縁者で、若年より奉公したと言われています。なんといっても、賤ケ岳の七本槍の中で、一番の恩賞をもらっているのが目立ちます(下記補足8)。その後は、ひたすら武の道で、秀吉の天下統一に貢献しました。

(補足8)今度三七殿御謀反に依って、濃州大柿居陣せしむるの処、柴田修理亮は柳瀬表に罷り出で候条、一戦に及ぶべきため、一騎懸け馳せ向い候の処に、心掛深きに付て、早懸着候て秀吉眼前において一番鑓を合せ、其の働き比類なく候条、褒美として五千石宛行い畢んぬ。弥々向後奉公の忠勤に依って、領知を遣わすべきもの也、仍て件の如し、
天正十一 八月四日 秀吉御居判
                福島市松殿
(「福島文書」、京都大学国史研究所蔵)

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

荒くれ者のイメージがありますが、粗暴な面があったことは確かなようです。一方で、素朴で信心深く、キリスト教の宣教師の話に聞き入ったというエピソードもあります(下記補足9、正則の清州城主時代)。

(補足9)尾張の国では、信徒の仇敵であった関白殿の甥(豊臣秀次)が、神の正義の裁きで追放されてから、太閤の縁者で福島殿と呼ばれる大名がその後任になった。この人は日本中で最も残酷な一人という評判である。しかし彼はいつか大坂で、修道士ヴィセンテの説教を聞いたことがある。そのときヴィセンテが、正しい理由もなく人間を責苦して殺す行為の、如何に非難されるべきことであり、道理に反することであるかを述べたところ、彼は突然、ヴィセンテの言は全く正しいといった。それから彼は自分の残酷さを抑えるばかりでなく、キリシタンに対して非常に親切な態度をとるようになった。(「日本年報(1595年)」)

正則は、関ヶ原の戦い(1600年)において、豊臣恩顧の大名でありがなら、黒田長政などとともに徳川の東軍に味方しました。そしてその勝利の勲功第一として、毛利の後釜として、広島城に入ったのです。当然、長門・周防(現在の山口県)のみに減封となった毛利氏への押さえも期待されたでしょう。しかし、彼の統治は、1619年の「改易」までの20年足らずでした。

正則は、領国の防衛体制を固めるため、本城・広島城を中心として、6つの強力な支城を整備しました。(亀居城・三原城・鞆城・神辺城・尾関山城・五品嶽城)例えば三原城では、海岸に10基もの櫓を建設し、養子の正之を城主としました。山城の神辺城にも多くの櫓を築き、家老の福島正澄を入れています。

三原譲模型、三原市歴史民俗資料館にて展示
神辺城想像図、現地説明パネルより

そして、広島城についても、後の絵図に見られる姿は、正則の時代に完成されたと考えられます。城は、内堀に加え、中堀・外堀によって三重に囲まれました。更に、西側の太田川などを城の外郭としました。城内には88基もの櫓が建てられていたと言います。絵図の太田川の部分を見ても、櫓がずらりと並んでいるのがわかります。

「安芸国広島城所絵図」、出展:国立公文書館
「安芸国広島城所絵図」の太田川周辺

従来のイメージとは異なり、正則は内政にも力を注ぎました。毛利時代は、伝統的な地元領主層の力が強く実施できなかった、本格的な検地を行い(一部例外あり)、大名が領民や収穫高を直接把握し、家臣に給米を支給するスタイルに改めました。領地の村々が再編成され、それが現在の行政区分にもつながっていきます。これだと年貢が重くなるのではと思いますが、他の大名との比較では逆に年貢率は低かったとのことです。(領地が拡大したため、余裕があった模様)また、正則の性格もあって、寺社も保護されました。正則は、広島城と広島藩の基盤を立派に整備したのです。

そんな正則がなぜ改易になったのかというと、個人的には、徳川秀忠など幕府トップとの意思疎通に齟齬が生じたからだと思うのです。1611年(慶長16年)加藤清正などとともに徳川家康・豊臣秀頼の会見を実現させた正則は、将軍・秀忠から帰国を許されますが、感激のあまり辞退したというのです。そして、その後豊臣氏滅亡まで、帰国が許されることはありませんでした。後に幕閣の重鎮・本多正純も秀忠によって改易されますが、その理由の一つが「(一旦)宇都宮藩拝領を断った」ことだとされます。正則も、このときから「意に沿わない者」と認識されたのではないでしょうか。(もちろん幕府側の豊臣恩顧大名に対する警戒心もあったでしょう。)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正則の広島藩は、毎年のように天下普請に動員されるようになります。名古屋城で正則が不平を言ったところ、加藤清正にたしなめられたエピソードはこの頃のことです。正則は江戸に留め置かれ、豊臣氏滅亡に際して、ほとんど何もできませんでした。

名古屋城

そして、1617年(元和3年)大洪水により広島城が損傷します。久々に帰国していた正則は、翌年から城の修繕を始めますが、かなり大規模なものだったようです(新規の普請も含む可能性)。豊臣氏滅亡後に出された武家諸法度により、その場合は幕府の許可が必要になっていましたが、その届け出が事後か、または手続きが滞留していました。(本多正純がわざと遅らせたという説は事実でないようです。)それが1619年(元和5年)になって秀忠の知るところとなり、一時は正純の取り成しによって、城の相当部分を破却することでゆるされることになりました(元和5年4月)。(本丸以外は全て破却、または新規普請分を破却という条件だった模様)しかし破却されたのは本丸の一部であり(人手不足という面もあり)、ついに元和5年6月、秀忠は正則を「改易」したのです。正則は一部破却でゆるされると思ったのか、もしくは開き直ったのでしょうか。

正則が崩したとされる本丸石垣

正則は、粛々とその決定を受け(そのときも江戸にいた)家臣は一糸乱れぬ行動で城を引き渡したそうです。そのため、「改易」後の行先が、遠方の津軽から、信濃川中島(4万5千石)に変更になりました(下記補足10)。ついでながら、後に宇都宮を改易された本多正純は、大幅に減らされた所領(由利本荘)も断ったため、流罪(横手にて幽閉)になってしまいました。

(補足10)「挙動厳正なりと世もって称嘆しければ、かの家人どもは、みな諸家より旧禄を加倍して召抱られしに、(福島)丹波一人はかたく辞して任をもとめず。入道して世を終りしとぞ(「徳川実紀」)

正則の同僚というべき黒田長政は、正則の改易後、大坂城普請を命じられ、その工事の遅れに関して、
・本拠の福岡城の天守・石垣を崩してでも間に合わせる
・(遅れているのに)追加の工事を承りたい
と将軍・秀忠に言上しています。「大名もつらいよ」といったところでしょう。(もちろん秀忠及び幕閣の側にも、家康なき後も絶対権力を確立するという事情があったでしょう。)

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最も長かった浅野時代

正則が改易となった後は、和歌山から、浅野長晟(ながあきら)が、安芸と備後の一部42万石の領主として、広島城に入城しました。浅野氏はこの後、ほとんどが直系の藩主によって、江戸時代末まで比較的安定的な統治を行いました。浅野といえば、赤穂の内匠頭を連想してしまいますが、赤穂藩は長晟の弟の家系で、広島藩は本家だったのです。

浅野長晟肖像画、広島市立中央図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長晟は、家老を要所に配置し、境目を守らせる体制を取りました。その中には、浅野の縁者でもあった桃山時代の大名茶人、上田宗箇がいました。彼は、和歌山時代の浅野家に来る前には徳島藩にいて、徳島城表御殿の庭園を造っています。広島藩では、浅野家の別邸・縮景園を作庭しました。

旧徳島城表御殿庭園
縮景園

城の方ですが、長晟が入城早々に洪水が起こり、二の丸太鼓櫓が崩れて、再建されました。もちろん、改易事件のことがあったので、手続きは慎重に、建物も以前のままということでした。この後も、このようなことが繰り返しありました。デルタ地帯のお城の宿命でしょうか。

二の丸太鼓櫓(復元)

一方で、城の中心は、本丸御殿に移り、天守や櫓は普段は鍵がかけられていたそうで、藩主が天守に登りたいと言うと、大騒ぎになりました。本丸御殿は、儀式を行う表御殿、藩主公邸の中奥、私邸の奥などに分かれていました。5代藩主・浅野吉長は、世襲の家老が私邸で政務を執っていたのを改め、人材本位で抜擢した年寄が、御殿の役所で政務を行うようにしました。今でいう県庁のような場所になったのです。

本丸御殿の内部模型、広島城天守内で展示

広島城下は、ずっと整備が続けられていて、西国街道沿いに、城下町が発展しました。一方、農地を増やすための干拓も進んで、江戸時代のうちにかなり陸地が広がりました。

時は過ぎ、幕末になると広島藩は動乱の時を迎えました。幕府に反抗した長州藩に対して、幕府は征討を命じ、広島が最前線になりました。家康の想定が現実になったのです。広島には各藩の将兵が集まっていました。広島藩の実権は、改革派年寄の辻将曹が握っていましたが、戦いを避けることに努め、第二次征討ではなんと、幕府に対して出兵を断ったのです。こちらは、家康の時代とは様変わりです。

幕府は長州に敗れ、政局は京都に移っていき、広島藩は、薩長や土佐と盟約を結びました。新政権では広島藩から辻などが参与に登用されたのですが、なぜか明治維新後には、彼らの名前は外されてしまいました。改革が遅れ、十分な財政・軍備がなかったからとも言われます。なお、彼らに関する人事評定の記録も残っています(下記補足11)。

(補足11)重職中遊冶(ゆうや)二溺レ失役不少(明治2年1月人事稟議書記録より、「大久保利通文書」)

そして近現代、天守はどうなる?

明治維新後、広島城には日本陸軍の広島鎮台が置かれました。度重なる洪水対策の結果、城の辺りは安全とみなされたようです。そのため、天守など一部の建物以外は取り壊されていきました。全国の城が試練を迎えたときです。そして、南部に宇品港、中心部に広島駅が開業すると、城と広島に新たな役割が与えられました。大陸侵攻への前線基地です。日清戦争が起こると、兵士は鉄道で広島まで来て、港から船で輸送されたのです。なんと大本営まで、東京から広島城内に移されて、明治天皇が御座所に入りました。広島が臨時首都のようになったのです。以降、広島は軍都として栄えていきます。

後に大本営になった広島鎮台司令部(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太平洋戦争当時の広島城周辺は、軍関係の建物でぎっしりでした。この戦争では動員数も増えたので、一時天守も兵舎として使われたそうです。

1945年7月の城周辺の航空写真、現地説明パネルより

戦争末期、城内には防空作戦室というのがあって、女学生が動員されていました。そのうちの一人が、8月6日、午前8時13分に空襲警戒警報が出たという情報を受け取り、すぐ連絡をしようとした午前8時15分・・・

中国軍管区指令部 防空作戦室跡

原子爆弾がさく裂し、何十万人もの人とともに、城も被災、天守は爆風で倒壊しました。火災のためではなかったのです。散乱した部材は、人々の生活再建の資材として使われたそうです。城の再建に使うどころではなかったのです、どんなに大変な状況だったのか、わかるような気がします。

倒壊した天守、広島城天守内展示より
天守のものとされる木材、広島城天守内で展示

戦後、広島は平和記念都市として生まれ変わりますが、被災して6年後には、城跡で行われた博覧会のシンボルとして、臨時に天守が建てられました。これがきっかけで、天守復元の運動が盛り上がり、被災後13年目に、現在私たちが見る天守が建てられました。火災に強いということでコンクリート造りになりましたが、当時は長く持つとも考えられていたそうです。今度は広島復興のシンボルになったのです。

現在の外観復元天守

1994年には、二の丸の建物も復元されました。こちらは、江戸時代以前の形の復元を目指し、木造で建てられています。

二の丸の復元建物群

こうやって見てくると、この城に天守がなかった期間はほとんどなかったのです。ところで、これからもこの天守を眺めることができるのかというと、できるのです。現在広島市は、有識者会議を開いて、天守、小天守を含めた天守群の木造復元の検討を進めています。ただ、具体的な方針はまだ決まっていません。少なくともそれまでは今の天守を外から見学することになります。ただ、小天守も一緒に復元されることになれば、これはすごいと思います。

内堀から見た天主

「広島城 その2」に続きます。

error: Content is protected !!